1 :
番組の途中ですが名無しです:
大相撲の新大関・白鵬関らモンゴル出身力士十二人が七日夕、藤沢市片瀬の常立寺にある
「元使五人塚」に墓参し、およそ七百年前に非業の死を遂げた祖国の使節に”大関昇進”を報告した。
八日の巡業藤沢場所に先立つ行事で、昨年に続き二度目。一二七五年、蒙古が鎌倉幕府に
杜世忠ら使節五人を送ったが、執権北条時宗は降伏を拒否。五人は龍ノ口刑場で処刑され、
埋葬されたのが、元使五人塚だ。
白鵬関らは順に一人ずつ焼香したあと、墓石の五輪の塔に、祖国の象徴の青い布を巻き敬意を
表した。感想を尋ねられた白鵬関は「こうして皆で来て(五人も)喜んでいると思う」と話した。
境内にはファンも大勢詰め掛け「旭天鵬」「安馬」などと歓声が上がった。力士たちも写真撮影に
応じるなどして触れ合った。
http://www.kanalog.jp/news/local/index.html
2 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:32:46.65 ID:2ULmIBxu0
3 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:33:01.84 ID:98KWxH1E0
∧_∧
(´Д` ;) マチルダさーーーーん!!!
(=====)
(⌒(⌒ )@
/\ ̄し' ̄\
/ \___\
\ / /
4 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:33:04.37 ID:sPodfo6q0
相撲取りは特例で見逃してやる
5 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:33:24.27 ID:V3ROmWg20
八百長だろ
別に直接元寇の被害にあったわけでもないし。
とりあえず日本は周辺国に誠意を見せないといけない。
7 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:33:35.14 ID:xpoK5oqS0
別にいいんじゃね?
8 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:33:48.01 ID:Ykr14Jp40
花田兄弟は結局どうなったんだ
9 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:34:01.56 ID:fz8vJE/O0
日本人はどこかの民族と違い寛容だね
10 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:34:02.31 ID:TrDQqok50
日本とモンゴルって近いのに両国の接点ってこれくらいしかないよな。
11 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:34:12.64 ID:jn0Yu4eq0
まあ、どっかの国のテロリストとは違って
真っ当な外交使節だからな。
12 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:34:15.71 ID:L+3ZFvT10 BE:64288883-
13 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:34:22.50 ID:l0/fptey0
先人たちを敬う
ええ話や
14 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:35:05.23 ID:Q4rtyfgH0
おいおいあんまり昔のことばっかネチネチ言うとキムチ臭くなるぞ
1000年前には良くあること
元寇は支那畜とチョンによる侵略だろ
モンゴル人は極少数だ
17 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:36:11.63 ID:3lszhofi0
今のモンゴル人が今田にそのことを怨んでたらゾッとするわ
チョンなら怨み続けるんだろうけど
18 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:36:52.57 ID:xABzZioz0
モンゴル人なら許してやる
19 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:37:29.65 ID:dOrOpccb0
死者を殺すなんて常識のない野蛮国の証拠。侵略されて当然。
お墓参りへ行くなんてモンゴルの人たちには感心しますね
21 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:38:31.32 ID:fbDrNAJb0
モンゴル人が嫌がったのに朝鮮人が推進したと聞いたが。
22 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:38:32.27 ID:D55jGIdQ0 BE:73757344-
ほー
23 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:40:13.57 ID:fXgJ3nqe0
まあ日本が勝ってるから
交渉に来た外交官を殺すのは駄目なんじゃないの?
高見盛今場所負け越したから来場所は十両なんじゃね?
27 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:54:50.32 ID:8k51j4ukO
いきなり攻めてきたかと思っていたが違うのね
28 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 00:57:48.46 ID:9LIh7HjC0 BE:198443039-#
>>25 未だと全然ダメ。
国際法上マズい。
が、当時じゃ全然アリ。
>>28 当時でも十分すぎる程のバーバリアンぶりだがなw
30 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:03:32.18 ID:qmcjWG1T0
攻める口実を与えちゃったらダメだよ時宗
31 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:05:31.06 ID:xpoK5oqS0
>>29 だよなw
この事実は知らんかったよw
時宗って外交無能じゃね?
32 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:07:18.67 ID:90ynvIuC0
めでたしめでたし
33 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:07:54.83 ID:sHIEXulE0
つーかその5人て中国人だったんじゃね?
34 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:09:08.42 ID:SsA5RtJh0
つーかその5人て朝鮮人じゃね?
殺される覚悟で殺されに来たお使いが
案の定殺されたという
36 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:10:21.00 ID:O3oj1nxC0
あれ、スパイ行為働いたから殺されたんじゃなかったけ?
37 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:10:20.60 ID:I5/93YdKO
>31
中国では良くあること
って戦争しようと決意したんじゃないの
38 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:10:31.82 ID:B8qw+mgp0
使者を殺したのは1回目の侵攻の後だったっけ?
元寇が攻めてきたときに、日本の武将が一騎打ちを申し出ても多勢になぶり殺されたとか言っているけど
使者を殺す土人っぷりの方が数百倍野蛮w
40 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:14:15.78 ID:jn0Yu4eq0
つーか、全般的に屈辱的でみっともない朝鮮の歴史の中でも
モンゴル(元)あたりって最も惨めなトコだよね。
しかも大嫌いな日本が独力で勝っちゃうし。
そもそも、下朝鮮人は「朝鮮は歴史上、一度たりとも他国に降ったコトの無い永久独立国家」って
臆面も無く言ってるけど、あの国ではホントの歴史をちゃんと教えてるのか?
41 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:14:16.66 ID:e/oJakvv0
三国志でも使者は殺されまくり。
44 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:17:30.76 ID:RHVw/vSQ0
敵の美しい立派な墓があるのは、日本のすばらしいところだ。
塚があって、こうして今に継がれてるのはいいことじゃん
チンギスカンには墓は無いのにね
47 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:22:02.99 ID:B8qw+mgp0
嵐にあって被害を受けたから撤退したんじゃなく、撤退しているときに嵐にあったって話を聞いたんだけど本当?
48 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:22:59.59 ID:sIip89hN0
この舞台が朝鮮だったらwwww
49 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:24:26.28 ID:zZKo1G590
50 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:24:34.29 ID:Q1wG7vzy0
6 番組の途中ですが名無しです sage New! 2006/04/09(日) 00:33:26.59 ID:yldT1naS0
別に直接元寇の被害にあったわけでもないし。
とりあえず日本は周辺国に誠意を見せないといけない。
39 番組の途中ですが名無しです sage New! 2006/04/09(日) 01:12:19.41 ID:yldT1naS0
元寇が攻めてきたときに、日本の武将が一騎打ちを申し出ても多勢になぶり殺されたとか言っているけど
使者を殺す土人っぷりの方が数百倍野蛮w
ベトナム人に謝罪しなさいゴミ虫チョン。
HNKのドラマを見る限り、中央は九州をあきらめてたよね。
52 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:37:38.20 ID:fbDrNAJb0
53 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:41:51.93 ID:Uxk3H0qH0
54 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 01:42:15.56 ID:oD/4BaKS0
使者の人たちカワイソス。
今の平和ボケ外務官僚と違って当時の使者は命がけだった
使者を殺しても墓作るあたりは日本クオリティーだな
56 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 02:03:15.84 ID:90ynvIuC0
57 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 02:09:32.70 ID:8DNbgmhy0
交渉を受け入れられない場合、
特に臣従を求めてきた無礼外交の場合は、
交渉決裂の際、使者の首を斬るのは当たり前のマナー。
向こうもその覚悟で来ている。
58 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 02:11:15.53 ID:1EWo6R0I0
59 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 02:11:58.68 ID:fSpW1CmC0
最初から戦争覚悟してるから使者を切り捨てたんだろ?
元の使者をそのまま帰せば侵略を避けられたとでも思ってんだろうか。
戦後の左翼史観と同じじゃん。
60 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 02:13:10.34 ID:9LIh7HjC0 BE:308687876-#
61 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 02:14:24.76 ID:QWlzwpjy0
>>54 つ奥
AK47にでも撃たれていろ低級釣り師
チョンがSHIT
64 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 02:16:44.90 ID:NFrOAvau0
「龍ノ口で斬れ」
65 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 02:16:55.85 ID:I5/93YdKO
>62
寧ろ大陸式礼儀作法だよ
66 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 02:18:04.38 ID:QWlzwpjy0
封建時代ではコレが普通
数百年後の基準で語ってる香具師哀れw
67 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 02:18:09.32 ID:xIF591Qi0
この使節を切るのには和泉元彌も断腸の思いだったんだよ。
でも節子がどうしても切れと言うから切った。
テレビでやってた。
68 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 02:18:37.76 ID:TGUqaMyKO
>>57 しかし、使者はまさか死ぬほどの目に会うとはまでは思ってなかったみたい
辞世の漢詩が涙を誘うから一度読んでみると良い
69 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 02:19:59.64 ID:NFrOAvau0
まぁ日本舐めてたってことだろ
70 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 02:22:05.18 ID:gtXAGxVx0
勝てると思ったから殺したんだろ
実際、神風が吹かなくても勝てただろ
元が強かったのは馬の機動部隊の奇襲であって
朝鮮主力の水軍相手だったら余裕だろ
71 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 02:22:41.07 ID:UOIzMobc0
実際に日本に攻めてきたのはモンゴル支配下にあったチョン民族中心だったとか。
倭攻めを進言したのもチョンどもらしい。
ていうか日本て死んだら敵だろうが大事にするのな
元の死者が殺されたって話は知ってたけど
墓があるのは知らなかったよ
その当時 残虐野蛮の極みだったモンゴル人に同情する気にはならない
自業自得だな
蒙古からきた使者
それから7年後の1268年(文永5年)1月、日蓮の予言にあった外国が攻めてくる
難の前触れかとおもえるできごとがおきた。
高麗人藩阜(はんぷ)という者が蒙古皇帝フビライの国書を持って九州の大宰府(福岡県)に来たのである。
その国書には「わが国の領土はたいへん広く、その勢いを畏れ、優れた力を慕って従う民族はかぞえきれないほどである。
高麗国も、私が皇帝となった頃は国内の戦いで人々が苦しんでいたので、いくさをやめさせてやった。その為、今では感謝してわが国と交際している。
日本は高麗や中国と古くから行き来しているのにわたしが皇帝となってからは一度も使いをよこしていない。
これは、日本がわが国のことをよく知らないからではないかと考える。そこで、使者に国書を持たせて、わたしの考えを伝えることにした。
これからは互いに行き来して一家のように仲良くしたい。武力を用いるようなことはしたくないから、よく考えてほしい」とあった。
その書き方は、目上の者が目下の者に与えるようなもので、簡単に言えば「蒙古に従え、さもなければ攻める」という意味が込められた国書だった。
当時、幕府は北条時頼が5年前に37歳の若さで死に、執権は北条政村、連署(執権を助ける役)には18歳になった時頼の子時宗が就いていた。
国書は日本国王宛になっていたので、幕府はこれを京都の朝廷に送った。
朝廷では毎日会議を開いて、返事を出すかどうか話し合ったが、「わが国は遣唐使廃止以来、外国とは交際しないことにしているから」という理由で、返事は出さないことにした。
藩阜は半年も待たされたあげく、なんの返事も与えられず、仕方なく国へ帰ると、「努力したのですが、日本側の態度はさっぱりわかりませんでした」と報告した。
*高麗国 10世紀のはじめ、新羅に替わって朝鮮にできた国家。しかし、13世紀に中国の元に支配され、元が日本を攻めたとき兵を出すことを強制されて国の力がおとろえ、1392年にほろびた。
*国書 1つの国の元首(国を代表する人)が、その国の名の元に外国に向かって出す文書。それに対してよい返事をしなかったり、反対をすれば、戦争がおこることもある。
フビライの野望
蒙古は1189年、すなわち頼朝が征夷大将軍になる3年前にモンゴル諸部族の長であるジンギス汗がつくった国で、
1227年にジンギス汗が死んだときには、東は朝鮮半島、西はカスピ海におよぶ広大な領地を支配する大帝国になっていた。
フビライはジンギス汗の孫で、1260年に5代目の汗(カン・蒙古の王の位)になったが、
それ以前から兄である4代目のムンゲ汗の命令で中国の宋の国をせめていた。
しかし、なかなか攻めきれなかったので、まず周りの国々を従わせて宋を孤立させてしまおうと考えた。
日本に国書を送って従わせようとしたのも、初めはその計画の一部だった。
フビライは藩阜のわけのわからない報告をきくと、腹をたてて、また使者を送ってきた。
翌年9月のことである。朝廷は今度は返事を書いたが、政村にかわって執権の地位に就いた北条時宗は
「蒙古の国書はたいへん無礼だから、返事など出す必要はない。」と言って、握りつぶしてしまった。
2度にわたって使者をおいかえした幕府は、蒙古が攻めてきたときに備えて九州の御家人(幕府に仕える武士)達に
「海辺の守りを堅め、領地を離れている者は、早くもどって守護の指揮にしたがえ」と命じたり、
異国警固番役という役目をつくって、九州の御家人達が大番役として京都や鎌倉に出るかわりに、北九州の海岸警備に就くようにしたりした。
しかし、その間にも蒙古の使者は何度もやってきた。とくに1271年(文永8年)9月にやってきた趙良弼(ちょうりょうひつ)という者は、
「ぜひ天皇と将軍に会わせてほしい。11月中に返事をくれなければせめる」と強い調子で言い張ったが、朝廷はこのときも返事を出さなかった。
*北九州の海岸警備 蒙古襲来にそなえて、鎌倉幕府は九州の御家人を筑前(福岡県)と肥前(佐賀県と長崎県)の守りにつかせた。
これは、御家人には重い負担であった。
「文永の役」がおこる
「どうやら穏やかな方法では日本は従いそうもないな。
高麗に大船300艘、早船300艘、給水用の小船300艘をつくらせろ」
しびれを切らしたフビライがこう命令を下したのは、1274年(文永11年)1月のことだった。
高麗は蒙古のきびしい支配と内乱で国力がすっかりおとろえていたが、3万5000人もの人夫をあつめて船造りにかかった。
6月なかばに船ができると、蒙古から総司令官の忻都(きんと)、副司令官の洪茶丘(こうさきゅう)、
劉復亨(りゅうふくこう)が来て、遠征軍を組織した。
兵の主力は蒙古人と中国人2万人だったが、高麗6000人の兵とおよそ6000人の梶とり、こぎ手を出さなければならなかった。
蒙古はこの2年前に国の名前を元と改めていたので、二度にわたる蒙古の来襲を元寇の役という。
元寇の役では、日本はもちろん大きな被害をこうむったが、属国であった高麗はさらに大きな被害をこうむったのである。
写真・蒙古軍と戦う武士 中央に、鉄炮の火がとんでいる。「蒙古襲来絵詞」模本より。
忻都がひきいる900艘の船団はこの年11月3日に高麗の合浦(がっぽ)港を出、途中、
対馬・壱岐に立ち寄って島の武士達を討ち、11月19日の朝、博多湾に入ってきた。
すでに対馬・壱岐からのしらせで敵が襲ってくることを知っていた日本側は、
大宰府の役人武藤景資(むとうかげすけ)を大将として、九州の武士達が博多の近くに集まっていた。
武士達は、蒙古軍が遠くヨーロッパまで攻めて行った勇敢で残酷な相手だということを知らなかったので
「いい機会だ。手柄をたてて、たっぷり褒美をもらってやろう」と、いさみたっていた。
*博多 今の福岡市の東部。ふるくから朝鮮や中国への出入り港だった。蒙古軍も博多へ入り、日本軍と戦った。
いまも防塁跡が残り、蒙古襲来の跡をしのばせる。
戦いは翌20日の朝、はじまったが、日本がたはたちまち苦戦におちいった。
戦いの仕方の違い、武器の違いのせいである。
日本の武士は、戦いは一騎討ちでするものとばかり思っていたから、自分こそ一番乗りとばかり
馬を走らせて近付くと、「やあやあ、われこそは・・・・・・」と名乗りを上げて、敵の一人が出てくるのを待った。
だが、敵はどっとその武士を取り囲んで撃ち殺してしまったのである。
それに、蒙古軍の矢は日本の矢の二倍も飛び、先に毒が塗ってあったので、たいした傷でなくても死んだり、
戦えなくなったりした。
だが、武士達が一番おどろいたのは、鉄炮という武器だった。
これは鉄の玉に火薬をつめ、導火線に火を着けて飛ばすもので、頭の上で爆発すると、
すごい音がとどろくとともに、一瞬、光がひらめく。馬はおどろいて跳ね回り、
武士達はぼうぜんとして戦う意思をうしなった。
*鉄炮 大きな鉄の玉に火薬をつめ、火縄に点火して飛ばすもの。のちの大砲のようなものだったらしい。
目に見える速さだったが、大きな音と光とともに、火薬を知らない日本人はおどろいた。
戦いは夕方まで続いたが、日本軍はしだいにおされ、ついには土塁(土手)をめぐらした
水城(みずき)に立て籠もって、防備を固めた。
しかし、蒙古軍は夜になると戦いをやめて、いったん船にもどった。
その夜、思いがけない出来事がおきた。はげしい風雨があたりをおそい、
蒙古軍の軍船は大半が沈没したり、岩に乗り上げたりしてしまい、残った船は嵐の合間を見て
高麗に引き上げていったのである。
不安な一夜を過ごした武士達は、翌朝、海を見ておどろいた。
「敵の船がいない。嵐で沈んでしまったのだ」「嵐のおかげとはいえ、なんとか敵を食い止めることができたのだ。
ああ、よかった」武士達はなきわらいをして、よろこびあった。
1274年(文永11年)におこった蒙古(元)軍との戦いを年号にちなんで、「文永の役」という。
時宗、元の使いをきる
フビライは、遠征が失敗したことをきくとおどろいたが、いくさに負けたわけではなかったので、
また使者を送ることにした。
使者に選ばれた杜世忠(とせいちゅう)・何文著(かぶんちょ)が日本についたのは翌年の1275年(建治元年)4月のことだった。
北条時宗は「敵がたびたび使者をよこすのは、地形を調べて戦術を考えるためだろう。今度はどんな使者でもただちにきるべきだ」
と言って、使者達を鎌倉の竜ノ口(たつのくち)できりころさせた。そして、さらに
絵・きられる元の使者 矢田一嘯(やだいっしょう)画。時宗は、文永の役後にきた使者をきらせた。
*鎌倉の竜ノ口(たつのくち) 北条時宗の命令で元の使いはきりころされた。いまの神奈川県藤沢市片瀬にある
常立寺に、竜ノ口できられた元の使者達の供養の墓がたっている。これを元使塚という。
「せめられるのを待つよりは、こちらから日本攻めの根拠地である高麗をせめて、いっきにわざわいのもとをたとう」
とかんがえて、この年の12月に九州や中国地方の御家人達に「来年3月に高麗をせめるから、遠征に参加する武士や梶とりや水夫をだせ」とめいじた。
それと同時に、博多湾の海岸に高さ2メートル防塁(石の塀)をつくり、河口に杭を打って守りを固めろ、という命令もだした。
しかし、高麗ぜめの準備と北九州の防備は、御家人達にとって、
あまりにも荷がおもすぎたので、不満の声がおきた。幕府は遠征は取りやめにして、
守りに力を注ぐことにした。
このころ、元では宋との戦いが最後の段階に入っていたので、フビライはしばらく日本遠征に気がまわらなかった。
そして、1279年(弘安2年)2月に、とうとう宋をほろぼして、中国全土を手に入れると、その翌日さっそく揚子江(長江)の南の、
海沿いにある4つの州に「日本に遠征するための船600艘をつくれ」とめいじ、さらに6月には高麗にも900艘の船をつくれと命令した。
しかも、杜世忠一行を日本に送っていった水夫達がこの8月に高麗にもどって「使者達はみなころされてしまいました」と報告したので
元の将軍達はひどくいかり、「すぐに日本を征伐しましょう」と、フビライに進言した。
しかし、フビライはあわてることなく、ちゃくちゃくと計画をすすめていった。
「弘安の役」がおこる
蒙古(元)の二度目の日本遠征軍は前回よりずっと大規模だった。
司令官忻都、副司令官洪茶丘は、蒙古、中国、高麗の連合軍(東路軍という)
4万をひきいて高麗の合浦から船出し、
司令官阿刺罕(あらかん)、副司令官范文虎(はんぶんこ)は、
降伏した宋兵10万(江南軍という)をひきいて江南の港から船出して、
6月中ごろに壱岐(長崎県)で合流し、日本全土をせめるというのである。
*壱岐 長崎県壱岐島(いきのしま)。かつては壱岐の国とよばれ、
蒙古襲来のときには全島が元軍に占領された。
むかしから、朝鮮半島とのあいだを往来する船が立ち寄る場所でもあった。
中国の商船からこの情報をえた幕府は、1280年(弘安3年)12月、九州の武士達に
「蒙古軍は来年4月にせめてくるという。厳重に守りを固めよ」と、命令をくだした。
しかし、元の船団が博多沖に姿を見せたのは、予定よりも早く6月6日のことだった。
しかも、東路軍だけである。
どうやら、忻都や洪茶丘は、江南軍より先にせめて、手柄を立てようと考えたらしい。
日本側はすぐに防塁(石の塀)の上に楯をならべて、近付く船に矢を射かけた。
その為、元の船団は上陸できず、博多沖の志賀島あたりに移動して、いかり(碇?錨?)をおろした。
絵・弘安の役 矢田一嘯画。戦いははげしい。
写真・防塁 元寇を防ぐための土手。
写真・元寇防塁の石碑。 福岡市の沿岸。
写真・志賀島(しかのしま)と海の中道(なかみち) 主要戦場の一つだった。福岡市
その夜、はやくも小競り合いがおきた。筑後(福岡県)の草野経永(くさのつねなが)という武士が
二艘の小船に家来達をのせ、闇にまぎれて敵船に乗り移ると、手当たりしだいに敵をきりまくり、船に火をかけてもどってきたのである。
草野のたたかいぶりび刺激された武士達は、われもわれもとそのまねをしたが、敵は石弓で近付く小船を沈めたので、日本側もかなりの被害を出したのだった。
元軍は志賀島に上陸した。この島は海ノ中道という、隠れそうなほどの細い砂州で本土と繋がっていたので、日本側はこの砂州で元軍と戦い、敵を船に追い返した。
戦いは6日から13日まで続いたが、いずれも小競り合い程度のものだった。
そして、13日には東路軍はいったん肥前(佐賀県と長崎県)の鷹島あたりにうつった。
*石弓 ふるい本には「弩」とかいてある。石をとばす大型の弓のことで、日本でも合戦のときにはつかわれた。
もともとは中国から入ったもので、蒙古襲来のときも元軍がつかった。
(俺は弩は連射も2つ一遍にも矢を射れるタイプもあるボウガンだと思ってた)
ふたたびあらしがふいた!
6月中ごろに壱岐で合流するはずだった江南軍は、期日が来ても現れなかった。
江南の慶元(寧波・ニンポー)を船出する間際に司令官阿刺罕が病気にたおれ、
司令官がかわるという出来事がおきた為、出発が遅れたのである。
東路・江南の両軍は予定より一月ほど遅れて平戸島のちかくで合流すると、7月下旬に博多湾に向かった。
その兵の数は14万、船の数は4400艘。海岸から沖を行く船を見た者は、おそらくどぎもをぬかれて
「これでは勝てるわけがない」とおもったことだろう。
7月27日、元軍の主力は肥前の鷹島にいかりをおろした。
だが、7月30日の夜、またしてもはげしいあらしが吹き荒れた。
あらしは次の日も夜までやまなかった。
元の船団はつぎつぎと沈み、数万の兵が波にのまれておぼれ死んだ。
しかし、すべての船が沈んだわけではない。
あらしが去ると、将軍達はこれからどうするか、相談をした。
「助かった者をあつめて、あくまで戦おう」と主張する者もいたが、
おおかたの者は戦意をうしなっていた。そこを日本側がせめたてた。
范文虎ら上級の指揮官はあわてて丈夫な船に乗り移り、家来達をすててにげ去った。
絵・しずむ元の船 矢田一嘯画。船は綱で結びあっていた為、つぎつぎとしずんだ。
写真・蒙古塚 戦死した元軍をとむらった。福岡市志賀島
日本側は2万から3万の敵兵を捕虜にしたが、少数の宋兵をのぞいて全員博多の海岸できりころしてしまった。
元軍は14万のうち、11万の者がおぼれ死んだり戦死したりして、わずか3万の兵が高麗や中国にもどっただけだった。
この1281年(弘安4年)におこった蒙古(元)軍との戦いを、年号にちなんで「弘安の役」と呼んでいる。
フビライは前回を上回る損害におどろいたが、こうなるとかえって、日本遠征に執念をもやした。しかし、遠征の準備にかかると、
そのたびに重大な国内問題がおきた。
そして、ついに野望をはたせないまま、1294年に死に、日本遠征計画はフビライの死とともに終わったのだった。
この二度の元寇に際して、貴族は神や仏にいのるばかりだった。しかし、たまたま二度ともあらしがふいたので、
人びとは、これは神がふかせた神風であるとかんがえた。
それいらい、日本は神に守られた国だという神国思想がうまれたのである。
*はげしいあらし 蒙古襲来は2度ともあらしのために失敗し、日本は救われた。
いまでいう台風が九州をおそったのである。その後、この2度のあらしを「神風」とよぶようになった。
鎌倉幕府のおとろえ
一度ならず二度までもあらしのおかげで国難(国の災難)をのりきった幕府は、
ほっとしたものの、「手柄をたてた武士達の褒美をどうしよう」と、なやまなければならなかった。
国内での戦いの場合は、ほろぼした敵の領地を恩賞にすることができるが、今回の場合は、領地が増えたわけではなかった。
執権の北条時宗は、元の侵略に対しては積極的に対応してきたが、恩賞の問題に対してはなんの手もうてなかった。
そして、3年後の1284年(弘安7年)4月、34歳の若さで病死してしまった。
比企氏をはじめとしてつぎつぎとライバルをたおし、御家人達をしっかりと支配して、北条泰時・北条時頼のときに黄金時代を迎えた
北条氏の執権政治にも、文永・弘安の役を境にそろそろかげりが見えてきた。
しかし、北条氏がほろびるのはまだ50年ほど先のことである。
*恩賞 武士が戦いにいさんでいくのは、手柄を立てて褒美の土地などをもらいたいからである。
しかし、元軍を退却させても新しい土地がなく、恩賞を与えることができなかった。
俺の本「カラー版学習よみもの 人物日本の歴史 5.源頼朝と源平の戦い」ここで終わり
歴史好きな少年諸君のために参考として元の使者が斬り殺された事情部分アップしたお
韓国人北条時宗嫌いそうだな。逆襲考えてたなんて初めて知った
秀吉も明との講和の際、朝鮮半島の南部をよこせば許してやるとか言ったらしいから
嫌われてそうだな。そういうことばっか知ってるんじゃね
94 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 11:15:49.34 ID:5DH7T/no0
age
何このスレ
>>52 そこやたら高麗を擁護してる気がするのは気のせいか?
>このモンゴルの恐るべき残忍さに恐れをなした高麗(こうらい)は、
>戦意を喪失して、武器を捨て、いち早く服属 を願い出た。
>今にして思えば、朝鮮半島にあって属国としての活路を見い出した
>高麗の生き方は賢明だったともいえるだろう。
>>96 全部読んだが前言撤回しとく
進言したのが南宋の将軍か高麗人かは知らんけれど
>>56
98 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 11:55:19.20 ID:HpwJM6sR0
糞チョンはつくづく虫けら。チャンコロの奴隷か日本の奴隷しか
道がないんだからな。ははははは。
99 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 11:56:42.76 ID:x9BII+SV0
半島だったら墓すらないんだろうな…
100
伸びが悪いなあ・・
>>74-93まとめると
使者をきったのは第一回元寇の後で、スパイされる可能性もあったから
北条時宗は悪くないでOK
102 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/09(日) 21:49:57.65 ID:paoaSYh00
日蓮の予言ってあたりで層化臭がしたので読まなかった
103 :
番組の途中ですが名無しです:2006/04/10(月) 01:56:08.18 ID:hMTXz2nn0
そうか、使者を斬ったのは、第一次遠征の後のことか。
一度攻め込んでおきながら、しょうこりもなく高飛車な態度で使者を送ってくるとは、
日本も舐められたものだ。
使者は斬られて当然。使者というよりも脅迫者だ。
時宗GJ。
>>102 この時代に活躍した人物を絡めて書いてるだけだと思うが
日蓮って嫌われてるんだな
前にこれのシリーズの昭和史の本をアップしたが
(カラー版学習よみもの 人物日本の歴史 14.山本五十六と太平洋戦争)
石原莞爾結構出てきてて石原も強烈な日蓮宗信者でメチャメチャ嫌ってるサイトとかもあったから
作者の背後関係とかまでは知らんな、内容外してないし面白かったし
105 :
番組の途中ですが名無しです:
どうでもいいよネ