第二次世界大戦で日本はアジアを侵略した〜というけど

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10番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 12:55:17 ID:qo+ezy+60
他人の奴隷を奪おうとした、が正解
11番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 12:55:26 ID:Msk2LmW10 BE:158352948-#
ザコ以外してたんだよ。
日本は背伸びしすぎてた感否めないけどな
12番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 12:57:04 ID:3s6/w03N0
そもそもペルリがニホンを開国させなければこんなことにはならなかったのだ。
13番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 12:59:11 ID:vQMahtIG0
まあ日帝が存在しなければ、植民地支配が続いてるか、
独立してもアジアはアフリカ並の貧困国なのは間違いないよ。
韓国なんてロシア領土だろうしな。
14番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:01:34 ID:ZYOVOI5E0
隣の女子高生の寮に押し込み強盗が入ったから
「助けてやる」の名目で押しって財布とカードとブランドものを強奪し
「就職を世話してやる」と言ってソープに売り飛ばし
「良いこともした。」といいつつ、自分たち好みの内装を変えて
名前も萌えエロゲーのヒロインにかえさせた。

結局警察につかまり刑期を終えたが、
時はたち50数年、生き残った本人たちとその孫子に謝罪と賠償をもともられている
15番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:02:25 ID:cpRZr65p0 BE:373145478-
日本人は多くの中国人を殺した
16番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:02:46 ID:DtJ2vTN/0
試合に負けて勝負に勝ったって感じだな
17番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:03:39 ID:TREbnf+U0
もっと上手い解決法があったかも分からんな。 
もちろん脱亜入欧で。
18番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:04:25 ID:fwy0Yd4b0 BE:140605766-###
>>14-15
昼間からキムチくさいレスですね
19番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:06:25 ID:n6Kf+mxo0
>>6
マジレスすると
イギリスはアジアじゃないから

中国にとって日本はアジアの覇権を握る上で邪魔なんだよ
だから、謝罪させるのが目的じゃなく、日本は悪い国というイメージを
世界的に認識させたいだけ
20番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:07:00 ID:jeVLxAIj0
21番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:07:09 ID:p/3vavyr0
第三次SRWか
22番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:07:45 ID:8tscIZfB0
中国人は多くの日本人を殺した
23番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:09:28 ID:3GqBkP+MO
>>15
それは事実だが、戦争だからな。
「戦闘行為で」という言葉が欠けてる
24番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:14:39 ID:NNIq9N0l0
他の東南アジアがヘタレすぎる
てか、本当日本は頑張ったな
25番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:18:48 ID:qOKXMMHZ0
日本にとっては自衛戦争 中国にとっては侵略戦争
26番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:21:18 ID:PlU56TPx0 BE:31932724-#
>>14
エロゲーにたとえられても分からんのだが
キモ過ぎ
27番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:22:23 ID:rap7woyr0
欧米に負けじとアジア侵略
28番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:22:49 ID:DzWxRrL30 BE:45491227-##
日本は中朝韓以外のアジア諸国と連合すればいいんじゃないの?
なんで中朝韓ばっかり相手にしてやってるの?
29番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:29:15 ID:8LqeE4F90
『侵略』と言う言葉には納得出来ないが、被害者意識の強い方から見れば、そう取れるのかもしれない。

ただ、俺の祖父はシナ事変〜WW2まで従軍したいた。
祖父の兄弟は東南アジアで皆、戦死し祖母側も同じ様なものだった。
戦死した祖父母の兄弟は遠い異国の地で どんな事を考え死んで行ったんだろう・・
国と家族を思っていた事は間違いないだろうと思う。

祖父は戦争から帰ってきてからは戦時の事は話さなかった。
国の為に戦ったのに 世論が正反対(侵略)の方に向かって行っていたせいも多分にあったと思う。

俺は、『侵略』ではなく、『進出』と考えている。
30番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:47:54 ID:rblS90mD0
疫病まみれの禿げ山の麓に住んでる乞食が、命乞いをしてきた。
ちょうど、台湾の援助が一息ついた所だったので。
「では、自立できるようにお手伝いましょう」という事で、禿げ山に草木を茂らせ、田畑を耕し、上下水道のインフラを自腹を切って整備してあげた。
「自立するには教育が必要ですよ」と、教育制度を整備した。
「自立するには、自国の歴史・文化を大切にするべきですよ」と、ハングル文字の普及に尽力した。
コレで充分だろうと考えていると、乞食はこういった。
「まだ足りないニダ」
そこで私はこういった。
「これ以上いったい何が足りないというのでしょう?」
乞食はこう言った。
「日本の国籍をまだ貰ってないニダ」
31番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 13:50:20 ID:rblS90mD0 BE:313778669-
私は驚いてこう言った。
「朝鮮人は朝鮮人の国と国籍を持つべきです。台湾人にも日本国籍は与えていませんよ」
すると、乞食は怒りに身を震わせてこういいました。
「ウリ達はチャンコロのクソ共とは違うニダ!さっさと日本国籍よこすニダ!日韓併合ニダ!」
そこで私はこう言った。
「日韓併合は、総督府が認めませんよ」
乞食は歯を軋らせた。
「伊藤博文ニダか・・・」
頭のおかしな乞食に総督が殺害されて数日後、日韓は併合されました。
朝鮮半島が潤い、乞食の数も2倍になった頃、日本は戦争に破れ、その運命は連合国のてに委ねられました。
するとどうでしょう、かつて援助の手を差し伸べてあげたはずの乞食達が連合国側に席を連ねているではありませんか。
「アイゴー!ウリ達の国は、ジョパーリに侵略を受けたニダ!」

結局、侵略者の汚名をきせられ、自衛権を剥奪された。
時はたち50数年、不法入国し、日本人の土地を不法占拠した乞食たちとその孫子に、
「謝罪と賠償ををするニダ!」と、強請られ続けている 。
32番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 14:06:39 ID:S4Esm9Pc0
>>6
イギリスが怒って戦争になったら大変だろ、
日本なら絶対に戦争にならないから安心して文句言えるんだよ
33番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 14:11:53 ID:A0CVVgh+0
近代、特に欧米において、この上なく日本てのは厄介な存在だな。
あいつらは南米、アフリカ、インド、東南アジア、中国を侵略、
植民地、半植民地にしたんだぞ。日本は良くやった。
まあ、日本は満州あたりまの進出にしておけばよかったな。
34番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 14:28:33 ID:ROE75AJj0
>>8
戦後中国が英国から来た使節だかに
アヘン戦争がーとか言ったら
せっかく未来の話をしに来たのに
そんな過去の事とやかく言うならもう帰るぞゴルァ、
とか言ったら
もう2度と言われなかったていう話をどっかで見たな


香港も結局契約終わるまで返さんかったしな
35番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 14:50:34 ID:dTpMmhMe0
>>6
イギリス:怒って戦争になったら大変
          たたいても大してカネにならない
日本:絶対戦争ない
      大金になる。
36番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 15:11:04 ID:jT5VMETMO
>28
近いから輸送料が安く済む、賃金が安いという理由で大企業が利用してる
その結果日本の中小企業の持つ神がかり的な部品を使った高性能な物は市場にでなくなり
中華の粗悪品が増えまくった。そしてその企業は仕事がなくなり倒産
昔はそれが工業だけだったが現在は農業、水産業といった食糧品までおよび
農家や養殖業者の市場価格は最盛期の60〜70%まで下がり純利益は25%あったのが10%以下に下がった
だから日本の農業や漁業は衰退した
37番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 16:22:51 ID:LmOxLFdM0
昭和がわかりやすい俺の本より。スレのスタミナアップに協力。できるとこまで

<つよまる軍部の力>
1926年、年号は「昭和」とかわった。だが世のなかは不景気におおわれている。
この危機をどうやってきりぬけたらよいのか──軍人たちの目は、国家と軍部の改造にむけられていく。

不景気のあらし
1926年(大正15年)12月25日、病気だった大正天皇が亡くなられ、25歳の皇太子である裕仁親王が第124代の天皇となられた。
元号は「昭和」とすると発表された。
「昭和」ということばには、「世界が平和であり、天皇と国民が心をあわせて国づくりをしよう」という願いがこめられている。

写真:馬車で宮城を出発される天皇 昭和3年11月6日、ご大礼式のため京都にむかわれる。
*元号は「昭和」 昭和の元号は、中国の「書経」というふるい本の中の「百姓昭明、協和万邦」から、2文字をとったもの。
大正15年12月25日に改元されたので、昭和元年は1週間だけ。
38番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 16:56:28 ID:LmOxLFdM0
じつはそういう願いがこめられるほどに、世のなかにはおもくるしい気分や不安がたちこめていた。
第一次世界大戦(1914〜1918)がおわったあと、日本の経済は不景気にみまわれていたが、関東大震災(1923年)による被害がさらに景気をわるくした。
昭和になってまもない1927年(昭和2年)3月には、有力な地方銀行のいくつかが休業や倒産においこまれるという「金融恐慌」がおこった。
金融恐慌──それは、銀行などの信用機関が倒産したり経営が悪化して、それらを利用する人や会社までが被害をうけることである。
このため都市や工業地帯では失業者が多くなり、労働者やサラリーマンの生活もくるしくなっていた。
そして、不景気を反映して賃金の引き上げや労働条件の改善をもとめるストライキが各地でおこり、社会主義運動がさかんになっていた。

写真:東京駅 1914年に完成し、鉄道交通網の中心となった。
絵:地下鉄開通ポスター 杉浦非水画。(東洋唯一の地下鐵道 東京地下鐵道株式會社)帝都高速度交通営団蔵
写真:電気洗濯機 1930年の製作。電化製品は当事は一部の上流・中流の家庭でつかわれていた。
39番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 17:04:54 ID:LmOxLFdM0
絵:デパートの女店員 中村岳陵画。デパートガールは当時の女性のあこがれの職業である。
絵:昭和初期の電気ごたつのポスター (二重安全装置付温度調節自在 ナショナル電氣コタツ)松下歴史館蔵
写真:にぎわう浅草六区映画街 東京台東区にある浅草では昭和5・6年ごろから映画館がにぎわいをみせた。

いっぽう農村では、地主から土地をかりて耕作している小作農民の生活がくるしくなって、小作料(土地の借用料)の引き下げを要求する小作争議がひんぱんにおこっていた。
また、家族で自分の土地を耕作する自作農民の中には生活ができなくなって土地を手放す人もいた。
このように「昭和」はくらいふんいきのなかでスタートしたのである。
内閣は「立憲政友会」と「立憲民政党」という二大政党が交代で担当したが、三井・三菱・住友といった財閥(大会社のグループ)とむすびついているといわれ、みにくい政権争いや
汚職にうつつをぬかし、景気をたてなおして世のなかを安定させる力はなかった。

絵:凶作地を救え 奥山儀八郎画。農村への援助をうったえたポスター。
写真:凶作下の東北の農民 凶作、農村恐慌に農民はくるしんだ。
40番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 17:13:13 ID:LmOxLFdM0
中国のうごき
日本の国内が不景気のなかでストライキや小作争議でゆれているとき、となりの国、中国では
歴史的な事件がおこっていた。蒋介石(しょうかいせき)による北伐である。
第一次世界大戦後、戦勝国はそれぞれの民族は他の民族の支配を受けないで独立するのがよいとする「民族自決」を尊重して、領土問題を解決した。
そのかんがえに反して、日本政府は中国に、日本側に都合のよい二十一か条の強圧的な要求をつきつけて実行をせまったから
中国全土に抗日(日本に抵抗すること)や排日(日本の力をのぞくこと)の運動がおこった。
日本人は「東洋鬼(トンヤンキ)」とよばれ、中国の子供たちまでがこんな歌をうたった。

日本製品手にとるな いつまでも手にとるな 日貨(日本製品)を売るやつは売国奴
日貨を買うやつにはつばかけろ 日貨にはいっさいふりむくな 取り引きやめればいたがるぞ
41番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 17:28:16 ID:LmOxLFdM0
こうした中国民衆の抗日・排日の熱をみてとった孫文(中国革命の指導者)の後継者である蒋介石は、国民革命軍をひきいて中国の統一にのりだした。
孫文の国民革命が、孫文の死後に途中で失敗したあと、中国は軍閥とよばれる、それぞれに軍隊を持った地方ボスが各地方を支配していた。
地方ボスらは日本やイギリスなどの外国にだきこまれ、一般の民衆に対してはきびしい政治をおこなっていた。
蒋介石の目的はこれらの軍閥を破って中国を統一することであった。このため蒋介石は、国民党が支配する南京を出発し、遠征軍をひきいて北上した。
これを「北伐」というのである。

*二十一か条の要求 第一次世界大戦中の1915年、大隈重信内閣が中国の袁世凱政府にだした要求。
中国では、要求をうけいれた5月9日を「国恥(こくち・国の恥)記念日」とよぶようになった。
42番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 17:41:04 ID:LmOxLFdM0
陸軍将校たちのあつまり
1928年(昭和3年)11月、東京の九段(千代田区)にある「偕行社(かいこうしゃ)」という陸軍将校クラブに10名前後の陸軍の将校たちがあつまっていた。
将校とは少尉以上の人をいい、軍隊を指導する立場の人たちである。
「これからの戦争は地上という平面の戦争ではなく、空間、つまり空中をふくめた戦争となるだろう。
飛行機などの兵器の発達からそうなるのだ。わたしはそれを立体戦争と名づけている。」将校らを相手に説明しているのは、
わざわざ満州(中国東北部)の関東軍からこの会合のためにやってきた石原莞爾(いしはらかんじ)中佐である。
「陸軍に石原莞爾というすごい戦略家(戦争を大きな目でみて、作戦をたてる人)がいる」
1922年(大正11年)にドイツ留学から帰国し、陸軍大学校で講義をしていた石原の名は、陸軍の内部にしられるようになった。
43番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 17:49:59 ID:LmOxLFdM0
「これからはトーナメント(勝ちぬき)試合のように、強国の間で勝ちぬき戦争がおこるだろう。最後は二つの超大国の決勝戦争となり、
これが世界の最終戦争となるはずである。」石原はこのように予言していた。
「日本が勝ち残るためには、いつでも最大の戦力が発揮できるように国内をととのえるとともに、満州や蒙古(中国の北辺部)を日本の物資供給地帯としなくてはならない」
石原はこうも説いていた。
「石原中佐のいうとおりだ。いまのような状態では日本は自由主義か社会主義国となり、
日清戦争以来きずいてきた満州や蒙古における利権もうしなってしまうだろう」
陸軍の中堅幕僚たちは石原中佐のかんがえにつよく共鳴していた。

*関東軍 日露戦争で得た中国東北部(満州)に駐留していた日本の陸軍部隊。
もとは日露戦争で得た鉄道や、その付属地の守備隊だったが、1919年に独立して関東軍となった。
*石原莞爾 満州事変は、石原と板垣大佐が中心になっておこした。先を見ぬく力があり「天才石原」といわれた。
のち石原は東条英機と対立し、軍の現役からおわれた。
44番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 17:55:26 ID:LmOxLFdM0
軍隊には階級がある。その中で将校というのは、下位から順に少尉、中尉、大尉、少佐、中佐、大佐であり、
さらにそれより上級の少将、中将、大将を将官という。そのなかでも陸軍士官学校、陸軍大学校をすぐれた成績で卒業し、
陸軍の課長級のポストにある大佐や中佐、少佐らを中堅幕僚とふつうよんでいる。
これらの中堅幕僚の一部の人たちは大正時代の後半ごろから団結して「二葉会(ふたばかい)」という会をつくり、
さらに同志をふやして陸軍ぜんたいの実権をにぎろうとしていた。
1928年(昭和3年)11月の「偕行社」における会合は、同志をふやす目的で
「二葉会」のメンバーである鈴木貞一(ていいち)中佐によってあつめられたものである。
そこで石原中佐が立体戦争の理論を説明していると、のっそりと永田鉄山(てつざん)大佐がやってきて隅の方にすわった。
この永田大佐こそ、「二葉会」の指導者だったのである。

写真:本庄中将と中堅幕僚 中央が本庄中将、前列左から2人めが石原中佐。昭和7年9月の撮影。(交差する二本の日本国旗の前に前列に7人、後列に4人いる)
45番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 18:07:25 ID:LmOxLFdM0
永田大佐はひとこともしゃべらず、石原中佐の説明や、出席者たちの議論にききいっていた。
この会合にあつまった中堅幕僚たちのかんがえや決心を観察し、信頼できるかどうかを心の中でおしはかっていたのである。
というのは、永田大佐はひそかに心のなかで、あるかんがえをかためていたからだった。

陸軍と国家を改革しよう!
時間はさかのぼって1921年(大正10年)10月。ドイツ南部にある温泉地のバーデン・バーデンに三人の日本人が宿をとった。
スイス駐在武官(外国にいて軍のしごとにあたる軍人)である永田鉄山少佐、ソ連駐在武官の小畑敏四郎(としろう)少佐、
ヨーロッパ視察旅行中の岡村寧次(やすじ)少佐の三人である。
三人は陸軍士官学校の同期生なので、一軒の宿屋にあつまったのだが、話題はとうぜん外交や戦争の話になった。

写真:バーデン・バーデンの森 西ドイツ南部の有名な温泉保養地で、森林地帯がひろがる。
*永田・小畑・岡村少佐 同期生の三人は、1919年7月にそろって少佐に進級した。
出身は永田少佐が長野県、小畑少佐が高知県、岡村少佐が東京だから、長州閥とは結びつきがなかった。
46番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 18:20:30 ID:LmOxLFdM0
「これからの戦争は軍隊だけの戦争ではない。国民全員がそれに協力し、科学や文化や経済も戦争に利用できるように、
ふだんから準備しておかなくてはいけないだろう」三人の中でもずばぬけて頭の回転がはやい永田少佐がいった。
「そのとおりだ。しかし、いまの日本をみていると、永田、きみがいっていることとはほどとおいではないか、政党は財閥(大会社のグループ)と
むすんで自分たちの利益のことばかりかんがえ、国民は自由主義や社会主義の影響をうけて軍隊を批判している。このありさまでは日本は戦争になっても負けてしまうぞ。」
小畑少佐がまゆをくもらせていう。
「まず陸軍から改革しなくてはいけないな。わが陸軍は兵器をみれば日露戦争(1904〜1905年)のころとあまりかわっていないし、戦いかたもかわっていない。
幹部といえば長州(山口県)出身者の藩閥がのさばっている。藩閥をおいだし、陸軍の近代化をはかることからやろう」永田少佐は提案した。
「それはいいが、どうやってやるのだね」それまで永田少佐と小畑少佐のやりとりをだまって聞いていた岡村少佐が口をはさんだ。
47番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 18:26:32 ID:LmOxLFdM0
「われわれとおなじかんがえの将校をあつめて団結させ、上層部をうごかしていくのだ。クーデター(反乱)のような
力ずくの方法は陸軍を分裂させるからやりたくない。団結して陸軍をかえ、つぎには陸軍が中心となって国家をかえていくのだ」
永田少佐の力づよいことばに二人は大きくうなずいていた。このころすでに陸軍大学校を主席(一番)で卒業した
永田鉄山少佐は頭の回転のはやさ、状況をよみとるふかさ、人を指導する能力などが注目されており、
「将来は陸軍大臣になるだろう」と陸軍のなかでもうわさされていた。
永田の説明をきいて、小畑、岡村の二人は「さすがは永田である」と感心した。
三人が日本の陸軍、そして国家の改革を相談したこの会議を「バーデン・バーデンの会議」とよぶ。
このあとをよめばわかるように、昭和の歴史は三人が相談したような経過をたどった。そのことをかんがえると、
「バーデン・バーデンの会議」の重要さがわかるだろう。
48番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 18:45:22 ID:LmOxLFdM0
満州をねらう軍人たち
帰国した三人はじぶんたちとおなじかんがえをもつとおもわれる将校にはたらきかけ、
「二葉屋」という料亭(料理屋)でひんぱんに会合した。そして、会の名まえを「二葉会」と名づけたのであった。
当時、陸軍は薩摩閥(鹿児島県出身者でかたまっているグループ)の上原勇作元帥をボスとする一派もだいじなポストをしめていた。
上原元帥は宮崎県出身であったが、薩摩閥に属し、山県有朋(やまがたありとも)の死後は陸軍の中心となっていたのである。
このため「二葉会」の永田中佐(少佐から進級)らは、岡山県出身の宇垣一成(うがきかずしげ)中将をかつぎ、これに対抗した。
そして1924年(大正13年)1月に成立した清浦奎吾(きようらけいご)内閣で、ついに宇垣一成を陸軍大臣(陸相)につけることに成功した。
藩閥を追放するという「バーデン・バーデンの会議」の目的のひとつがここにはたされたのである。

*幹部といえば長州出身者 明治維新いらい、軍の組織は「長の陸軍、薩の海軍」とよばれ、
長州(山口県)と薩摩(鹿児島県)出身者がたかい地位についてきた。これを藩閥といった。
49番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 18:59:28 ID:LmOxLFdM0
*元帥 陸軍・海軍の大将のうち、とくに功労のあった人におくられる称号。
明治から終戦の1945年までに日本の元帥になった人は陸軍で17人、海軍で13人だけである。

写真:宇垣一成(うがきかずしげ) 陸軍の近代化を断行。陸軍大臣を四期つとめている。

「さあ、つぎは陸軍の近代化だ。人員をへらして飛行機や戦車や高射砲を配備するのだ」永田中佐らはいきおいづき、宇垣陸相に陸軍の近代化をせまった。
その結果、宇垣陸相は四個師団(師団は、陸軍の部隊の単位の一つ。このころ、一師団には約一万数千人がいた)
を廃止し、かわりにういた予算で飛行機・戦車・高射砲・機関銃を配備することにした。

*陸軍の近代化 当時の日本の軍備は日露戦争のころのままであったので、軍部はあせりを感じていた。しかし軍縮のうごきもあったので、
軍縮でういた費用で軍備の近代化をはかったのである。
図:兵器の近代化 軍縮とあわせて、飛行機などの近代兵器も登場した。
甲式四型戦闘機(大正四年)九一式戦闘機(昭和七年)九三式重爆撃機での訓練(昭和八年)
50番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 19:10:03 ID:LmOxLFdM0
これが「宇垣軍縮(軍備縮小)」といわれるものだが、多くの将校が退役することになった。将校らの中には軍縮に不満をもち、民間の軍備拡大運動にくわわる者がいた。
このように永田中佐をリーダーとする「二葉会」は、宇垣一成陸相をかついで陸軍の中枢ポストをにぎり、
実権をにぎりつつあった。そして、なお陸軍内部でなかまをふやそうとしていたのである。
1928年(昭和3年)11月に東京九段の「偕行社」にあつまった将校のグループは「一夕会(いっせきかい)」と名のり、
「二葉会」のグループとも連絡をとりながら、「二葉会」とおなじようにしばしば会合をかさね、団結をかためることとなった。

*多くの将校が退役 「宇垣軍縮」によって、将校のほか約3万3000人の軍人がへらされた。
これにたいして、上原勇作元帥をはじめとして多くの軍人が反対した。
51番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 19:24:22 ID:LmOxLFdM0
この将校らは陸軍内の人事のことや国内の政治のことを議論していたばかりではない。
蒋介石の国民政府軍が日本の権益(権利と利益)があつまる満州(中国東北部)ちかくにせまり、
それにおうずるように満州で排日(日本の力をのぞく)熱がたかまるのを心配していた。
「政府は国民政府と外交交渉で排日問題をかたづけようとしているが、そんなことでは中国をつけあがらせ、
ますます排日熱をたかめるばかりだ。」口ぐちに将校らは政府の中国政策がなっていないと非難した。
このグループのなかには石原莞爾中佐もいた。石原は隅の方でみんなの話を黙って聞きながら何やら考え込んでいる。
「石原君、きみは満州を占領してしまえという考えをもっていたな」
それに気づいて永田大佐(この時は中佐から進級していた)が声をかけた。
52番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 19:36:22 ID:u6JlSqXJ0
日本はアジアの解放者
53番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 19:37:35 ID:LmOxLFdM0
「そうです。おもいきったことをしないかぎり、満州問題は解決しないでしょうからね」「やるか」
めがね越しに永田大佐は石原の顔をみつめ、その腹のなかをさぐるような目つきをした。
石原はただにやりとわらってみせた。
すると鈴木貞一大佐が石原の決意をうながすように「われわれは国内で国家改造をやる。
君は河本大佐につづけ」とはっぱをかけた。
河本大作(こうもとだいさく)大佐──この会合の五ヶ月前に蒋介石に敗れて満州に逃げ帰る張作霖(ちょうさくりん)
の乗っている列車を爆破してころした軍人である。張作霖は満州の軍閥(地方ボス)で、日本軍にあやつられていたが、
河本大佐は張作霖を生かしておけば満州は混乱するばかりだとかんがえてころしてしまったのである。
「河本大佐につづけか」石原は心のなかでそうつぶやいた。

写真:張作霖爆殺 張作霖一行をのせた特別列車は、関東軍の謀略(はかりごと)により爆破された。
*張作霖の爆殺事件 1928年6月4日午前5時23分、張作霖ののった特別列車を奉天駅の1キロ手前で爆破した事件。
この計画をたてた河本大佐は、翌年の7月に陸軍をやめた。
54番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 19:39:14 ID:Iau6k5vP0
韓国併合の辺りで
「お前ら後で日本に侵略されたって言うから併合してやんね」
って言ってたら実際歴史はどうなってたのかねぇ。

実際併合なんて韓国が栄えただけで日本には何の得もなかったし。
55番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 19:42:12 ID:N4pUpuZY0
調子に乗って勝てない戦いを挑んだ陸軍
結果は無条件降伏('A`)
死んだ人間はたまんねーよ。アジアはどうでも良い。
56番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 19:52:53 ID:LmOxLFdM0
<満州事変と二・二六事件>
関東軍が計画した鉄道爆破事件をきっかけとして、満州事変がはじまった。
力をつよめた軍部の青年将校は、五・一五事件で犬養首相を殺し、さらに二・二六事件で重臣たちをおそった!

満州事変がおこる!
1931年(昭和6年)9月18日の夜、満州(中国東北部)の奉天(いまの瀋陽・シェンヤン)の北方にある柳条溝(柳条湖)
というへんぴな場所で、とつぜん爆発の音とともに火の手があがった。だれかが鉄道の線路を爆破したのである。
ちょうどそのとき、日本軍の守備隊が夜間訓練のために鉄道の線路ぞいに歩いていて、爆発の音に気がついた。
「たいへんだ。線路が爆破された!」守備隊の隊長である川島正(かわしまただし)大尉はおどろいてさけぶと、火があがった方向に
部下たちと走った。にげていく数人の黒いかげがみえる。守備隊が近づくと、畑や建物から銃声とともに弾がとんできた。

写真:関東軍司令部 奉天(瀋陽)にあったころのもの。政府の指示を無視することが多かった。
57番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 20:07:01 ID:LmOxLFdM0
日本は広大な満州のうちの旅順(りょじゅん/リュイシュン)や大連(だいれん/ターリエン)
などがある関東州と南満州鉄道会社(1906年に日本が中国につくった会社)の沿線の付属地を租借(借用)
していた。そして旅順に「関東軍」という陸軍の部隊の司令部をおいて、租借地の防衛にあたっていた。
この夜の線路の爆破は南満州鉄道の付属地でおこったのである。
この事件のときの「関東軍司令部」の高級幹部の名はつぎのとおりだった。
関東軍司令官・・・本庄繁(ほんじょうしげる)大将
関東軍参謀長・・・三宅光治(みやけみつはる)少将
関東軍高級参謀・・・板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐
関東軍作戦参謀・・・石原莞爾中佐

*南満州鉄道の沿線の付属地 大連─長春(ちょうしゅん/チャンチュン)間、
奉天(瀋陽)─安東(あんとう・丹東/タントン)間。とその支線の線路に沿った幅62メートルの地域と、
主要都市にある南満州鉄道株式会社の社有地などをさす。
58番組の途中ですが名無しです:2005/06/07(火) 20:21:03 ID:LmOxLFdM0
事件の第一報をうけると、これらの軍人は関東軍に出撃をめいじ、攻撃させた。
中国軍は、日本軍の陰謀(はかりごと)によって暗殺された張作霖のむすこである
張学良(ちょうがくりょう)東北辺防軍指令の指揮のもとにあった。
関東軍は19日の朝までに北大営(ほくだいえい)と奉天城とを占領し、さらに長春も占領した。
柳条溝で線路が爆破された被害は片側のレールが曲がってめくれ、枕木が二本ばかり傷ついたという軽いものであった。

実はこれは関東軍司令部作戦参謀(参謀は作戦や計画をたてて司令官をたすける役目)の石原莞爾中佐が中心となって仕組んだ陰謀であった。
石原中佐は満州を占領して日本の領土とするために、線路を爆破させ、それを中国軍のしわざに見せかけて軍事行動を起こしたのである。

*線路が爆破された被害 被害は下り線の線路が約70センチ、上り線の線路が約10センチ、枕木2本が傷ついただけ。
爆破のあと現場にさしかかった列車は、無事にここを通過している。
写真:もえる兵営 日本軍の攻撃により炎上する中国軍の兵営。
59番組の途中ですが名無しです
本庄軍司令官らの関東軍司令部の高級幹部は石原中佐の計画を知っていながら黙って見過ごしたのである。
司令部の高級幹部だけではない。東京の陸軍省(内閣のもとにあって軍関係の事務にあたるところ)や陸軍参謀本部
(内閣から独立している軍の作戦などをたてる中央機関)の高級幹部のなかにも同じような考えの人たちがいた。

すすんでいた満州占領計画
なぜ満州(中国東北部)を占領しようとしたのだろうか。北伐に成功した蒋介石の国民政府軍は1928年(昭和3年)6月に北京(ペキン)に入城し、
さらに満州と華北(中国中部、黄河流域の一帯)との境界にある万里の長城にせまった。「国民革命」の波が満州の境界線までに打ち寄せてきたのである。
とうぜん、満州の中国人たちはこれに力を得て、いっそう反日運動に走った。

*満州の中国人たちは・・・ 1923年12月、張学良は国民革命のシンボルである「青天白日旗(蒋介石のひきいる国民党の旗)」を中国東北部にかかげさせ、
国民政府に協力する姿勢をしめした。