安比奈のなないろディップスイッチ晒しスレ14【酋長】
井川タコ寿が読み忘れたみたいなので、もう一回書くよ。
チベットへの侵略と虐殺
■有史以来一貫して独立国であったチベット
チベットには約2100年の歴史がある。とはいえ始めの数百年は神話と史実の境界が曖昧なので、
チベットの歴史はソンツェン・ガンポが仏教に基礎をおく王国を築いた7世紀から語られることが一般的である。
中国では唐王朝が栄えた時代だ。あろうことか中国では唐代よりチベットは中国の一部分であったという、
それこそチベットの全歴史を否定するような歪曲を行っているが、西暦763年にチベットは唐の首都長安を占領し、
一時的に唐はチベットの朝貢国になったこともある。
今日まで続くダライラマ制度は17世紀に始まったもので、それ以来ダライラマは転生を繰り返して現在では14世に至っている。
一般的な歴史観ではチベットは1727年に清朝の支配下に入ったとされる。しかし実際にはラサに駐蔵大臣2人を置いていただけで、
現代で言う大使館を開設していたに過ぎない。チベットは英領インドと国境条約を結ぶなど一貫して独立国家として主権を行使してきた。
20世紀前半当時、チベットは日本、中国、タイと並んで欧米の植民地化を免れたアジアでも数少ない独立国家のひとつであった。
■中国共産党のチベット侵略戦争
1950年10月7日、中共軍がチベット東部へと侵略戦争を開始した。チベット国境警備隊と現地の義勇軍が抵抗したものの、
武器・人員ともに圧倒的な中共軍を相手に退却を余儀なくされた。
そもそも中共軍は100万の軍勢を有している一方で、チベット軍は8500人に過ぎない。始めから軍事力による勝敗は見えていた。
1951年5月、北京でチベットと中国との交渉が行われた。チベットから北京に派遣された代表2人は交渉に赴いただけで、
チベット政府から条約を締結する権利を与えられていなかった。だが中共の脅迫により強引に署名させられてしまった。
こうして1951年5月23日、チベットの平和解放に関する十七か条協定が締結された。