>>460-463 >実際に完全に「独立」といったらチベットが人民解放軍に対抗出来る軍隊を持たないと不可能なわけで
>ダライ・ラマは政治家としてもその辺を熟知しているから今の路線を取って、結果的にノーベル賞まで取ったからこそ、
>ここまで国際的な発言力があるわけであって
おいおい、チャンコロ軍は「殺す気で向かってる奴には弱い、戦意をなくして逃げる奴にはめっぽう強い」のが基本だ。
中国の侵略行為に不満を持つチベット人らは、テンスン・ランタン・マガル(国民防衛義勇軍)などを作って熾烈な反抗をした。
レジスタンスのうち、有力なレジスタンスのひとつである「チュシ・ガンドゥク」は、アメリカのCIAや台湾から金銭的な物質的な援助を受けていた。
メンバーは、米軍の嘉手納基地などで、
アメリカ軍人から厳しい山岳戦軍事教練を受け、かれらは空てい部隊として輸送機でチベットへ送り込まれた。
アメリカと台湾に支援されたチベットレジスタンスの反撃は、熾烈を極める。
チベット各地で多くの人民解放軍兵士がチベットレジタンスに殺害された。
ある統計によると、1956年から58年の間に人民解放軍は4万もの兵を失ったとされる
1950年代末から1960年代半ばにかけて、チベットにおいて、人民解放軍が支配しているのは、都市拠点や鉄道ぞいぐらいであり、
都市間を繋ぐ道は、人民解放軍にとって、チベットレジスタンス勢力が支配する「死の道」となった。
>>703続き
1950年代末から1960年代半ば、当時のチベットには、
バータン、リータン、カンゼ、デゲに人民解放軍の駐屯地が設置され、
約4万名の人民解放軍正規軍、さらに入植した漢人民兵を加えれば6万もの大戦力が配備されていた。
しかしながらチベットレジスタンスのカンブー族部隊は駐屯地を接続する交通路に対して継続的な激しい攻撃を加え、
兵站路を破壊した。
まずリータンが最初に陥落し、守備部隊は撃破された。
続いてバータン、チャムド、デゲにも攻撃を加えてこれらを占領した。
最終的に、人民解放軍が把握できているのは、
中国西部からアクサイチン砂漠を越える一本の道路だけになった。
1957年初頭は、国民志願防衛軍が攻勢をしかけ、人民解放軍の前哨地点を襲撃を繰り返して圧倒していた。