特に、それまで、琴にも野点にも空手にも、バカにしきった横柄で明らさま
に不愉快な態度をとり続けていた、18才になる2メートル近くの大男
だった、市長のドラ息子で、ドラムを叩いていたスティーブ(彼は、
日本人と日本人に表面的に理解を示しているところの、いわゆる知日家の
父親が気に入らないみたいだった。
後で、彼に聞いたところでは、一般に知日家ほど黄色人種を差別する傾向が
強いそうで、彼の父親もその偽善者の典型だ、とのことであった。)や、彼と
一緒にバンドを組んでヘビーメタルなロックをやっていた、ジェフだのビル
だのといった、黒人やその他得体の知れない、交換学生を通しての各国親善
とは無縁の門外漢の連中に大ウケ。
演奏後の拍手の中でも、興奮して指笛を鳴らしたり、足をドタドタと動かして
大声であの「英雄ポロネーズ」のテーマを歌いながら「アンコール」の連続。
ぼくは、あの『栄養マヨネーズ』みたいな曲をアンコールで何とたてつづけに
2回もやらされたのだった。(まだ、ぼくも若かったから出来たんだと思う。)
そのうえ、その後のホームパーティーも終わり、ホッとして、一番親しくして
いたアイダホ州にホームステイしていた浜松市出身の日体大の学生と2人で
久し振りの日本語を楽しみながら庭を散歩している後にまでくっついて来て、
「カツヒコ、あれは何という曲だ。」と聞くのだ。
「今日の曲目は全部ショパンのピースで、あれは、『英雄ポロネーズ』。
ショパンはぼくの一番好きな作曲家なんだ。」と言うと、「ふうん。ショパン
か。でも、ショパンなんてどうでもいい。ともかくあの曲はイカスな。
それから、君の弾くピアノは最高にファンタスティックだったよ!」
ともかく、彼はこれだけのことを言うためだけにぼくのあとをついて来た
ようだったし、自分の感覚に正直でピュアーな感じ方とダイレクトな感想に、
ぼくは思わず笑ってしまっていた。日本ではまずこんなことないだろうな、
クラシックの演奏っていうだけでみんな聴く前からかしこまっちゃうだろうから。
これは、レヴェルが高いとか低いとかじゃなく、ともかく、彼等は回りから
どう見られるだろうか、なんて気にせず、自分の感覚や知識状態に自分なりの
自信を持った完全な個人主義者(現時点の個々人の実力をストレートに
評価する実力主義をベースにした、真のデモクラシーの社会に支えられた
個人主義者)なんだな。
ぼくはこの時初めて、アメリカって日本なんかよりずっと居心地がいいな、
と思った。以来、スティーブとは毎年クリスマスカードのやりとりをする
ほんとに親しい友人になってしまったが、考えてみると、あれからもう17年になる。
でも、早い時期にアメリカで真の個人主義の人達の生活を目に出来たことは、
音楽に国境がない、ということを肌で感じたこと以上に、ぼくの生き方に
おいては重要な刺激になった。
今回、1年ぶりにウィーンから帰国し、東京で再会したピアニストの熊井善之君
から、ウィーンの色々な話を聞いて、欧米と日本の違いとそれが芸術に及ぼす
影響のことを考えさせられ、いずれにせよ、クラシック音楽が日本の基本的
体質においては、決して本当の意味で流布することはないように感じた。
特に印象に残った話は、彼がイタリアのマクニャーガ国際コンクールで優勝
した翌日、マクニャーガの街から電車に乗るために駅に行って靴を磨いて
もらった時、その靴磨きのおじさんが「昨日、君が演奏したシューベルトの
ソナタ、今まで俺が聴いた中では最高だったぜ。」って話しかけて来たこと。
こんな素敵な聴衆、日本には絶対にいない!
ヨーロッパでは、音楽を聴くこと自体が日本よりもはるかに日常的なのだ。
こうした演奏の技術以前の、ヨーロッパの音楽的キャパシティーのことを
聞くと、やっぱり日本はダメだなと思う。…ってぼくが言ったりすると、
「いやいや、クラシック音楽はあちらが本場だから仕方ないですよ。」
何て言い訳が聞こえて来るんだけど、じゃあ、日本は古来の芸術に対して、
そんなに全体の風土が高いのかというと、そうでもない。
ヨーロッパの人達がオペラを愛するように日本の人達が能楽や歌舞伎を愛して
いるとはとても思えないんだけど。そして、日本のほとんどの音楽サークルは、
同じ趣味の人達がディレッタントに集まり、非日常性の上に成り立っている。
確かに、同じ楽器の人達とでないと語り合えないこともある。この演奏家の
切実な思いは、ぼく自身もピアノを弾いているから十分にわかる。でも、
演奏会の企画の段階になると、音楽はまず聴きに来てくれる人達のために
あるのだ、ということが優先されなくてはならないのである。
これまで、サロンコンサートをいろいろ企画した中で、ピアノ、弦、管、
声楽等、それぞれの演奏家の演奏家としてのいろいろなご意見を聞かせて
いただいたが、驚かされたことは、この人、もしかしたら、
音楽よりも楽器のほうが好きなんじゃないかしらという人達が多いことと、
楽譜よりも先にレコードやCDを聴いて、その物真似しか出来ない人の多いこと。
音楽よりも楽器に興味のある人はその中でも一番手に負えない。そういう人達
は、聴衆の反応よりも同じ楽器をやっている人達とお互いの傷をなめあうこと
に興味があるから、ろくな演奏会が企画出来ない。自己満足に浸っている本人
はいいけれども、付き合わせられる聴衆はたまったものじゃない。こういう
演奏会が多いから聴衆はライブから離れて行くんじゃないかと思う。
「ピアノと遊ぶ会」は1977年の結成当初から、以上のような、我慢ならない
日本の音楽界の状況へのささやかな抵抗を試み、ドビュッシーの言う、
『アンチ・ディレッタント』なサロン を目指して来た。どんな演奏会の企画
もそれが成功の秘訣だ。つまり、演奏会は社会の片隅でコッソリとやるもの
じゃなく、幅広い聴衆への広がりが重要なこと。
個々の曲目の完成度はもちろん重要だが、それ以上に、その日の全体の
プログラムがトータルとして美しく整備されているかどうか、その日聴きに
来て下さった聴衆が最初から最後まで飽きずに聴けるかどうかを考えた
プログラミングの方がはるかに大事だということ。
「ねえ、どうしてピアニストにならないの。」
しばらくうっとりとプールを眺めてボーッとしていたぼくの方に、
また彼女が問いかけてきた。
…ああ、質問されてたんだっけな。
「将来のことなんてわからないよ。ただ、ぼくは、ピアノや音楽がとても
好きだから、何年たってもやってるだろうね。ただ、それを仕事にすると
いうのはねえ。音楽作品をプライスで計ること自体に抵抗があるし、第一、
ぼく、あの曲を弾けとかこういう風にやれって命令されるのは大嫌いなんだ。
今日も演奏する日程を決められるのはとても苦痛だったし。
まずは、やりたくもない曲を我慢してやらずに楽しくやること、これが
一番大切なことだと思うよ。」
「でも、あなたのプレイを友達にも聴かせたいわ。クライバーンがシアトル
に来た時の、ショパンより・・・・・・」
…(ああ、また、クライバーンか。あの男はね、大したことないんだよ。・・・・・
などと言ってはいけないのであった。なにしろ、モスクワで開催されたチャイコフスキー
コンクールで第一位をとって、ソ連から優勝カップをかっさらってきたクライバーン
は、弾けていた時も、弾けなくなった今でも、アメリカのヒーローなんだ。)
…と、彼女がうんざりするような、果てしないおしゃべりを続けそうな気配
なので、ルートビアのおかわりでもしに行こうかなんて思ってるところへ、
「ヘーイ、カツヒコ。もう一度聴きたいな、あのピース。」と、大声で叫び
ながら向こうの池の方からスティーブとその仲間達がやって来る。あのロッカー
達、よほど気に入ったと見えて、まだ、「英雄ポロネーズ」を歌っている。
もうその後のことはよく覚えていないのだけど、夜中まで、ベッキーやスティーブ
にせがまれて、3回か4回、確かに弾かされたようだった。いや、その前に、
「やーだよ。もう眠いよ。」とプールサイドを逃げ回るぼくを、巨漢の黒人
ジェフが軽々とつかまえて、「Wake up!」って、プールに放りこんで
しまったのだった・・・・・・
全く何て奴らだ!
ぼくは本当に本当に、まっ赤な夕焼け雲の影の中
に吸い込まれてしまったじゃないか!!
650 :
名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:03/01/11 08:41 ID:MWrQ4gn3
随分と安易なストーリーね。作り話の出来としては小学生並みね。
で、結局「独学おじさん」への愛はどうなったの?
負け犬中年の変わり映えのしない妄想にはもう飽きちまったよ。
こうやって駄文を貼りつけるのが唯一の逆襲か・・・・・
可哀想な中年、&ホモ、&無職・・・・・
音楽の才能がないのに、必死に音楽にしがみついてるのを見るのは痛々しい・・・・・・・・
654 :
鈴木心如斎 ◆qzaFyG/bbg :03/01/11 10:37 ID:F6zkmE4m
それにしても・・・・・、2チャンのネットウォッチャーのようなバカ共は死ななきゃ
直らないようですねぇ。もう21世紀になってしまっているというのに、こんな向上心
のない、文盲に近いバカ共が、自分がバカだということに気づかないばかりか、
いっぱしの人間だと思い上って、凡庸な常識と慣習にのみしがみついて、スレッドでの
噂話という井戸端会議にうつつを抜かすことしか出来ずに、同じ地球上に生息している
のかと思うと、ゾーッとしますねぇ(爆)。
656 :
名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:03/01/11 11:01 ID:DRKdTyuN
岡駄さんおはようございます
オカマさんへ
器楽・作曲板の方が留守になっている間に、凄い書き込みが・・・・・
それにしても・・・・・、2チャンのネットウォッチャーのようなバカ共は死ななきゃ
直らないようですねぇ。もう21世紀になってしまっているというのに、こんな向上心
のない、文盲に近いバカ共が、自分がバカだということに気づかないばかりか、
いっぱしの人間だと思い上って、凡庸な常識と慣習にのみしがみついて、スレッドでの
噂話という井戸端会議にうつつを抜かすことしか出来ずに、同じ地球上に生息している
のかと思うと、ゾーッとしますねぇ(爆)。
659 :
名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:03/01/11 11:07 ID:u7Ew0dLt
ひまだね
お・だ・ま・り、あたしを誰だと思ってるの? おそれ多くも、あ・た・し・よ。
お・だ・ま・り、あたしを誰だと思ってるの? おそれ多くも、あ・た・し・よ。
お・だ・ま・り、あたしを誰だと思ってるの? おそれ多くも、あ・た・し・よ。
お・だ・ま・り、あたしを誰だと思ってるの? おそれ多くも、あ・た・し・よ。
お・だ・ま・り、あたしを誰だと思ってるの? おそれ多くも、あ・た・し・よ。
それにしても…似非芸術家の岡田のようなバカは死んでも直らないようですねぇ。
もう21世紀になってしまっているというのに、
こんな羞恥心のないキチガイそのものの中年が、
自分が社会不適格者だということに気づかないばかりか、
いっぱしの人間だと思い上って、常識と慣習を凡庸だのと否定して、
サイトでのヨタ話という現実逃避に現を抜かすことしかできずに、
同じ空気を呼吸しているのかと思うと、ゲーッと来ますねぇ。
お・だ・ま・り、あたしを誰だと思ってるの? おそれ多くも、あ・た・し・よ。
お・だ・ま・り、あたしを誰だと思ってるの? おそれ多くも、あ・た・し・よ。
お・だ・ま・り、あたしを誰だと思ってるの? おそれ多くも、あ・た・し・よ。
お・だ・ま・り、あたしを誰だと思ってるの? おそれ多くも、あ・た・し・よ。
お・だ・ま・り、あたしを誰だと思ってるの? おそれ多くも、あ・た・し・よ。
岡駄は知能が低いからこんなことしかできないんだろうな。
664 :
名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:03/01/11 11:54 ID:tZRDugOf
もっとピアノ練習しなオカヤソ
演奏技術は今日日の高校生レベル
自作って言ってる曲は全部パクリ
大都市でクラシックを聞いている人なら、誰でも分かる事
見っとも無い。
クラシック=高尚なんて考えは、ヨーロッパじゃ当に捨てられている。
日本でも大都市なら、世界最高レベルのクラシックが5000円のチケットで
聞ける。
CDにいたっては「カラヤン」のCDが100円ショップで買える。
取り合えずあのHPの雑音を何とかしろ
レベル低すぎ
まさに「井の中蛙、大海を知らず」だな。
665 :
名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:03/01/11 11:56 ID:tZRDugOf
aa
667 :
名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:03/01/11 21:41 ID:2SPPDl87
はぁ・・・・・・
対位法を習った事がすごい誇りなんだね、この人(完璧な権威主義者=老害だね)
「独学30年」のおっさんも言ってたろ、習ってもダメって
彼に必死に擦り寄りながら、無視されつづけるのを見るのは、痛々しかったなあ
せっかく習っても、音楽である以上、「家路」の酔っ払いの鼻歌のような旋律じゃあどうしようもないじゃない・・・
神は、あなたには「霊感」を授けなかったのだよ、可哀想だけど・・・
>>566 で、おれがいつ「ベートーヴェンが美しい」と言ったのかな?
おかやんへ
今YAHOO掲示板で「独学おじさん」がピンチだよ
助けてやらないの? 愛を見せるチャンスだよ
『北ドイツの寂しい午後』
・・・晩年のブラームス・・・
岡田克彦
1986.9.10.執筆、『ピアノと遊ぶ会会報(1986年10月号)』に掲載
たぶん、この曲が書かれたのは、冬の昼下がり、午後2:30を少しまわったころ
にちがいない。外は雨が降っていた。ブラームスはピアノの鍵盤に手を留めた
まま、窓の外の静寂を眺めていた。次第に遠景がぼやけて、目の焦点が近づい
てくる。ふと気づくと、窓ガラスに雨の水滴が二つ三つ飛びついている。
何気なく、その水滴をピアノの鍵盤にそっと、とってみる。
ロ短調の主和音の三度下に一滴、さらに、そのまた三度下に一滴、落として
みる。無機的で、それでいて、けだるく寂しい午後の気分が拡がる。次は、
属7の三度下に落としてみる。さらに、Dmajor7の三度下に。冬の昼下がりの
水滴は三度がふさわしい。その粒の中から、和音の上声部に、寂しい静澄な
メロディーが、ロ短調で浮き上がってきて、そのまま寂しく終結する。
そしてニ長調がけだるい吐息をふきかけ、たどたどしく歩みはじめる中間部。
その最後の和音の残響の中から、また、水滴の和音が出てくる。今度は三度に
一つクロマティックな響きを加え、三連符に変形されているため、透明度が
高くなっている。そして曲は静かに、ほんの少し暖かい長調に向かうが、また、
最初の水滴のモチーフの気分がもどってくる。・・・・・
『インテルメッツォ Op.119-1. ロ短調』
この曲を最初に聴いたのはいつごろだったろうか。何の喜怒哀楽とも関係ない
次元で、ただ音に対する感覚だけで強く感動したぼくは、ブラームスの作品
だなんて夢にも思わなかった。実際、この曲をギーゼキングのピアノで聴いた
時、スクリャービンの小品だと思ったものだ。
が、これは、まぎれもなくブラームス。晩年、北ドイツにこもって、一切の
大曲から足を洗ったブラームス。種々の労作を書き終え、ベートーヴェンから
解放されたブラームスは、こんなにすばらしい感性の持ち主だったのである。
この至上の世界から、あのピアノソナタの野蛮なモチーフや、第一シンフォニーのラッパのファンファーレや、
ピアノトリオNo.1の第一楽章を堅苦しくしたモチーフのような雑音は想像だにできない。
いったい彼は、どうしてあれほどベートーヴェンに固執したのだろうか。長い
人生のほとんどを無駄に過ごしたとしか思えない。もちろん、ヴァイオリンソナタNo.1や
シンフォニーNo.1に、こうした美しい感性のブラームスを垣間見ることができる。しかし、
これら若い頃の作品はすべてベートーヴェンを意識して、それに向かって書きつづけられた
ものであり、その点の方がイニシアティブを取っていて、一瞬の美しい感性は、それによって
バラバラに分解されて、台無しにされている。
いや、もう彼の悪い点を指摘するのはよそう。この晩年のピアノ小品は大変なご馳走だ。
一つ一つ味わっておかないと、人生の大変な損失になってしまうだろう。
『Op.118-2』。この曲は絶対、大ホールには向かない。よく音楽のわかった聴衆が多くても
一人か二人。北ドイツのアンニュイな光の差込む、寒々とした一室で弾かれるべきだ。
それにしても、この曲のイ長調の静かな調べのあと、ごく自然に始まる嬰ヘ短調は何と
美しいことだろう。『Op.119-1』のロ短調と並んで、シャープ系短調の最も美しい表情を
見せてくれる。そして、静澄なコラールをはさんで、この嬰ヘ短調は2声になってぼくの
心の一番深いところを優しくたたみかける。終結のイ長調の協和音はしばらくの間、感動を
しずめるように、ぼくの中で鳴りつづける。何のてらいも、大袈裟な振舞いもない。実に傑作だ。
『Op.117』の3曲は、ワンセットにして演奏されるのがよい。1番は、変ホ長調の
暖かいコラール。このフラット系長調の選択も実によい。ともかく、これら晩年の
ピアノ小品は全て、ショパンに匹敵する調性の必然性を持って書かれている。ブラームスの
選択以外の調性にしてしまうと、曲想が崩れてしまうようなギリギリの選択が、ほとんど無意識の
うちになされている。こんな自由なブラームスは、若い頃の大曲には全く見られないものである。