(゚д゚)………。
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珍満腹 ◆LpB0apFrxs :03/01/11 03:35 ID:cjKmeDD1
やれやれ、本物かどうか知らんが・・・。
だいたいおれ、ベートーヴェンが美しいなんていつ言ったんだい?
ついに幻聴・幻覚が始まったか・・・。
『栄養マヨネーズの思い出』
岡田克彦
(1990.4.執筆、『ピアノと遊ぶ会会報(1990年5月号)』に掲載)
<「栄養マヨネーズ」は、ショパン作曲『英雄ポロネーズ』のピアニスト仲間
でのニックネームです。マヨネーズをたくさん摂取してから演奏に取り組ま
なくてはならない程、大変にパワーを必要とする作品であることと、ゴロ
合わせから、このニックネームで親しまれています。>
夏の終わりのまっ赤な夕焼け雲の影 が幾重にもなって、波間をキラキラと
ゆらめいている。それが目の前いっぱいにひろがっているのだ。ほんとうに
うっとりとする美しさに、ぼくもまっ赤になってその中に吸い込まれてしまい
そうなので、思わず、プールサイドの手すりにもたれかかり、ルートビアを
飲みながら彼女としゃべっていた。
彼女、ハイスクールでチアリーダーをやっているというベッキーは、つい
さっきのパーティーで知り合ったばかりだけど、随分ぼくのピアノに興味を
持ったみたいで、熱心に話しかけているようだった。
「クライバーンよりも素敵だったわ。いや、もしかしたら、ルービンシュタインよりも
すごいかもしれない。…ねえ、どうしてピアニストにならないの?」
彼女は、自分の国に住んでいるクライバーンとルービンシュタイン以外の
ピアニストは知らないみたいだったから、大変な絶賛である。が、これ以上
音楽の話も出来そうもなかったから、ぼくは「ありがとう。」ってうわの空で
うなづいたりしながら、プールの水面の美しい夕焼け雲のまっ赤な影に
すっかりひきこまれてしまっていた。
ここ、シアトルの夏は、もう夜の9時だというのに、まだ日没前なのである。
16才の夏(1973年8月)、当時、高校2年生だったぼくは、
交換学生として、アメリカ、ワシントン州にいた。
その日、ぼくの、生まれて初めてのピアノソロリサイタルがシアトル市長宅
で行なわれたあとのこと。
市長宅といっても、門をくぐってから玄関に着くまで車で10分近くかかる
ような、ほとんど森のような豪邸で、幾棟かの家の他、ホールやスポーツジム
のようなものまであり、プールも大小3つ、その間をぬって、広い芝生や、
ヨーロピアンスタイルの池のある庭園、茶室のある日本庭園などが、
配置されていた。
その日、ライオンズクラブの交換学生(Youth Exchange Student)として、ワシントン州ほか、
アイダホ、オレゴン、カリフォルニア等、ウェストコーストの各州にホームステイしていた
日本人学生10数名が、シアトルライオンズクラブ会長のシアトル市長宅に招かれ、
イェップ(YEP・Youth Exchange Program of LION'S CLUB)ショウという、
いかにもアメリカらしい企画のパーティーが開催され、いろいろなアトラクションの
行なわれた一日だった。
朝に、日本人女子大生達による琴の演奏と野点、午後に、日体大学生による空手の
プレイがあった。
[当時世界中で大ヒットしていた「燃えよドラゴン」シリーズの主演の、ブルース・リー
は、シアトルにある「University of Washington〔ワシントン州立ワシントン大学〕」
の卒業生だったので、シアトルのDown Townには、空手教室が一杯あった。
そして、
中国人と日本人の区別のわからないシアトル在住のアメリカ人は、私も含めて、東洋人と
街で出会う度に、「空手をやるのですか?」と質問され、しかも、「空手」がうまく発音
出来ないので「空手」が「Cloudy」と聞こえたので、「どうして、今日は晴れている
のに、曇っている、って言うのかな。」と、ぼくが面食らったことも懐かしい思い出だ。]
そして、最後に、夕方から、交換学生中最年少だった、ぼくのピアノソロリサイタルと、
市長主催の盛大なホームパーティーが開催された。
その日のぼくのプログラムは、約2時間のオールショパンの最後に、その頃
アメリカで大流行していて、ぼくも大好きだったカーペンターズをメドレーに
したものと、ミシェル・ルグラン作曲の映画「思い出の夏」(Summer of '42)
のテーマをアレンジしたものを加えておいた。
プログラム(オールショパン)
ワルツOP.69-1,OP.64-1,2
エチュードOP.10-5(黒鍵)OP.25-12(太洋)
マズルカOP.7-1,OP.63-3
スケルツォ1番
・・・休憩・・・
幻想即興曲
ノクターンOP.9-2,OP.48-1
バラード1番
エチュード遺作3番
英雄ポロネーズOP.53
カーペンターズ・メドレー
summer of '42
まあ、今思い出すと顔の赤らむようなプログラムだけれども、当時としては、
ベストを尽くしたものだった。ほとんどの曲は暗譜していたので楽譜も日本
から持って行ってなかったが、スケルツォの1番だけは、アメリカに行って
から、ホロヴィッツのレコードを聴いて気に入り、楽譜を買って急いでやった
ものだった。
それだけに、この曲だけが心配だった。が、市長宅の100人ほどで満席に
なった2階まで吹き抜けの小さなサロンホールの抜群の音響と、素晴らしい、
ホロヴィッツも使っているという、ニューヨーク・スタインウェイのピアノに
助けられたようだ。
幻想即興曲の中間部 は、カーメン・キャバレロ(あの有名な映画「愛情物語」
のテーマにショパンの作品9の2のノクターンをアレンジして弾いた人)が、
流行歌にしたものが、1950年代にはやったそうで、これが始まるやいなや、
中年のオバサン方が歌い出した のにはまいったけど。(後で聞くと、「あそこは
私達にとって懐かしいポップスです。」のこと。)