ここのフーガの開始を予告するやり方は、
モーツァルトがずいぶん前に、ピアノ協奏曲のカデンツァの前のオーケストラの
止め方において何回もやった手口なんですよね。
それをまあ、同じ頃ショパンがバルカローレや幻想ポロネーズのように未来を予告するような
作品を書いてた頃になって、まだ、のこのこ、先人の二番煎じの手口で、
作曲していたとは、本当にシューマンはどーしようもない凡人ですね。
でも、このモーツァルトが発明して何回も使ったピアノ協奏曲のカデンツァ
の前のオーケストラの止め方は、ケッサクな意見なんだけど、当会のM君に
よると、「水戸黄門」なのです。以下、M君の言い分。
「モーツァルトのピアノ協奏曲がどうして日本人にウケるかって?
それは水戸黄門なんだよ。
あのカデンツァの前のオーケストラの
ジャーン、ジャーン、ジャーン、っていう、カデンツァの開始を予告する
終わり方。
あれがいつも、『この紋所が目に入らぬか、
こちらにおはすお方をどなたと心得る。恐れ多くも・・・・・・ご老公の御前である。頭が高―い。ひかえおろう。・・・・・』
といった雰囲気で響くことが最初から決まっているので、日本人は皆安心して聴いてられるんだ。」この意見が当会で流布して以来、
しばらくみんな吹き出しそうになって、モーツァルトのピアノコンチェルト二台でやれませんでしたね。ぼくなんか27番でさえも
笑って笑ってしばらく聴けませんでした。でも、納得できる意見です。
ともかく、ドビュッシーはこのような「メヌエット」の再現パッセージを
ショパンのように頭も使わず即興でいとも簡単に書けてたわけですから、
彼が自分の『映像第一集』について「ショパンの左、シューマンの右」
なんて評したのも、シューマンの部分は、半分冗談の謙遜であることは言う
までもありませんが、ショパンほどの知性がなくても出来てしまうという自信
から、自分はショパン以上の作曲家だと思っていたに違いないとぼくは思います。
いや、それどころか、この男は、バッハについて、そのフーガなどの対位法については
一切興味を示さずに「バッハの平均率クラヴィア曲集のフーガの和音は美しい。
だから、あの時代の作曲家が一番強いんだ」などと自著「クロッシュ氏」で論評しているのです。
自分が世界で一番エライ作曲家だと思っていたに違いないのです。
サン=サーンスに「この無政府主義者め。」と言われ、サン=サーンスが学長の間、
パリ音楽院に出入り禁止にされたことも、ドビュッシーをかばってくれたフォーレを
毒舌でズタズタにして喧嘩になったことも、カフェでサティーと親しくしていたこと
も、ですから、彼にとっては、大した出来事でもなかったのです。
でも、この「メヌエット」は中世へのノスタルジーが原点にあります。
ぼくは、この「メヌエット」の中で既に使われている左手の平行五度と
三度で形成される響きと雰囲気を味わう度に、
若き日のドビュッシーが訪れた頃のイタリアの「ベルガマ地方」って
どんなところだったんだろうな、というノスタルジックな気分になってしまいます。
そして、この「メヌエット」をピアノで弾く度に、やっぱり、
ぼくはドビュッシーが大好きなことを再確認するのです。
「ベルガマスク組曲」のパスピエの開始左手の音型と対位
……「ベルガマスク組曲」は、前奏曲・メヌエット・月の光・パスピエの
4曲から成ります。月の光は美しい曲であまりに有名ですが、
ドビュッシーの将来を予告するようなすごい技法が潜んでいるのは、
先に述べたメヌエットとこのパスピエです。ドビュッシーの作品には
いろいろ接してきましたが、特にパスピエは、全作品でも5本指に入る
傑作だと思います。
が、この曲、開始左手の10度の音型は、嬰へ短調と
いう調整ゆえに、根音が黒鍵にあり、ピアニストを不安に陥れる効果が
あります。そのうえ、再現部では、対旋律が中に出てくるのですが、
ノンペダル、スタカートという指示では、12度から13度届くような
大きな手でないと弾けなくなっています。確実に言えることは、
ショパンなら絶対こんな弾きにくい曲は書かなかったと思うのです。
が、ピアニストが不安になるというのがこの曲の表現にあたっては非常に
重要なことで、実際、不安な曲想です。
別の観点で見るならば、この頃、既にドビュッシーはピアノから離れた
立場で曲を書けていたのです。彼の想像力はピアノに既に納まらなくなって
いました。彼は生涯にわたってピアノでなくては表現できない曲もたくさん
残していますが、パスピエに関しては、以前エレピアンで弾く機会が
あったのですが、アコースティックでない響きの方がよい作品でした。
こうした中に、彼が「ペレアスとメリザンド」「牧神の午後への前奏曲」
「海」などを書く準備が整っていることが伺える傑作です。
弦楽四重奏曲第1楽章と第2楽章の統一テーマの音列
……第1楽章の第1主題、第2楽章の第1主題、このひねくれた音列の
2つの主題は誰が聴いても別の主題にしか聴こえないんですが、実は、
リズムが全く変形されているために全く別の主題にしか聴こえないだけで、
ひねくれた音列は意地でも1音たりとも変えていないドビュッシーの命がけの
心意気とも言うべきこだわりが感じられます。
219 :
名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:02/12/17 18:05 ID:0mVE2yLT
ボダ荒らしで一部で有名な山辺裕一(みけまる)といい、
早稲田出身の奴ってなんでこう・・・。
が、この音列が、実は、
修道院で若き日のドビュッシーが発見したグレゴリオ聖歌をもとにした、
教会旋法を初めてリバイバルさせて使った音列で、ワグナーを脱却した
新しいサンボリスム(象徴主義)の音楽の起点になっているだけでなく、
カペー四重奏団が見事に演奏しているところの、第3楽章の人懐っこい
メロディーとの対比においても、これがないと曲全体も崩壊してしまうのです。
連弾のための小組曲より、『バレエ』のテーマ
……いったいこれはテーマなんでしょうか?
ピアノに触って遊んでいるうちに出来たとぼくは思うのですが、この「ピアノに触って遊んでいる」
ドビュッシーの姿に匹敵するものといったら、それこそ、あなた、1日中
ドミソの和音をチェンバロで響かせて、1日中、ドミソの和音に浸っていた
、幼い頃のモーツァルト位しか、ぼくは浮かばないのです。
最後に楽しいウィンナワルツから
ジャズワルツにまで発展してゆくこのテーマは、それ程、天才のひらめき以外の何物でもありません。
『海』と同時期に書かれた、
「クラリネットとピアノのためのプレミエラプソディー」の終結の
コーダに向かう最重要なテーマに発展する音列のモチーフ
……「クラリネットとピアノのためのプレミエラプソディー」は、
若き日のドビュッシーの作品ではありません。
「パリ音楽院」の学長に就任したフォーレの招聘でドビュッシーはパリ音楽院の
管楽器担当教授に就任します。当時の「パリ音楽院」は、今の日本の音楽大学では
不可能でしょうが、試験課題曲は教授の新作に決まっていました。
ですから、作曲の出来ない人は教授にならなかったので、素晴らしい音楽環境だったわけです。
この作品は、期末試験用にドビュッシーが作曲したのですが、大変に評判を呼び、
スコア化されました。
今日でもクラリネットとピアノのデュオ作品としては、
右に出る作品はありません。ちなみに、当時のパリ音楽院の学長だったフォーレは
弦楽器担当教授でしたので、試験課題曲としての弦楽器の傑作をたくさん残しています。
いずれにせよ、当時の「パリ音楽院」の学生は素晴らしい環境で音楽を習得していました。
ラヴェルは、フォーレの教室の生徒でした。いい音楽にはいい環境が必須なのです。
このモチーフが、ドビュッシーの全作品中、音列のひねくれ度No.1
なのでご紹介します。このモチーフが最初にピアノパートで登場した時、
これが、この曲を終結に導く大事な大事なモチーフだなんて、
誰一人として感じられないでしょう。…それくらい変な音列です。
作品の書かれた背景や状況を一切無視して作曲技法の観点にのみ立って、
冷た〜い観察をしても、こんなどーしようもなくひねくれた音列のモチーフ
やテーマで曲を書けた人は、古今東西見渡しても、ドビュッシーをおいて
他には考えられないのです。しかも、これらのモチーフやテーマは、
既に述べたように、曲の構成と不可分で、重要な根底をなしているのです。
この、モチーフやテーマが、曲の構成と不可分であるということ、これが、
ぼくが作曲をやるにあたって、『若き日のドビュッシー』から学んだ第一点
です。
それにしても、これらのひねくれたモチーフの採用は、彼の変わった性格から来ているものにほかなりません。
相当な変人ですよ、これは。そして、食中毒でポックリ死ぬ最後までそれを貫いたということは、実に立派なことです。
穏やかな人格者のフォーレや、スタイリストのラヴェルにはこんなこと、ちょっとできなかったと思います。ドビュッシーは彼らと違って、
羞恥心のほとんどない、想像力と誇大妄想だけの人でした。だからこそ、
一曲一曲、違う手段で曲を残しています。同じ手口は二度と使っていません。
230 :
名無しさん@ゴーゴーゴーゴー!:02/12/17 18:08 ID:rvBWrOrJ
ぼくが作曲をやるにあたって、『若き日のドビュッシー』から学んだ、
もう一つの大事なこと。それは、「同じ手口で曲を書かない」
ということです。
作曲を続けていると、曲想の浮かぶ深い驚きに満ちた瞬間を体験すると
同時に、作曲技法というものが一方で蓄積されてきます。が、
作曲技法は感受性ではなく知識の領域にありますから、作曲技法という
知識の既得権の上ににあぐらを書いて曲を書き続けると、
メンデルスゾーンやサン=サーンスのように駄作がいっぱい出来ます。