>>457-458及び
>>459 回答はこれじゃ。
742 :白馬青牛 ◆8mr41B7alChB :2011/11/20(日) 00:23:39.92 ID:sGRf5kDD
>>719-722 >>736の続き。下の九州の例は、海音寺潮五郎氏も「ひえもんどり」で
処刑された罪人の胆を取り合い薬として使うんじゃが「陰干しにして、
家に所蔵し、アサヤマ丸と称し、重病にかかった時、少しずつ削って
服用した。ぼくの家にもそれがあった。ぼくは飲まされた記憶はないが、
弟や妹がのまされていたのをおぼえている。」と。
海音寺潮五郎氏のおじさんの話でも、官軍の密偵を処刑した最期が見事で
客が「そがん胆太か男、あやかりとうごわす」と処刑の場所を海音寺氏の
おじさんに案内させ、処刑された死骸の胴体を探し「ホウ、もう誰か来て
取って行ったな」と、残念ながら胆は先に取られたらしい。
考古学者の佐原眞氏は、対談でも考古学的には「日本には食人習慣が
ない」と断言しとられるけど(考古学的、他分野の多面的考察を排除し、
しかも食人が無かった前提を始めから作り、わたしが調べた限り云う
個人的主観の言い訳)、民族学的な話題になると、親族や英雄の死者の
勇気を受け継ぎたい「族内食人」よその地域で殺害した「ざまあみろ」
とののしり捕虜を憎しみ食べる「族外食人」と分けて、日本の「骨こぶり」
は「族内食人の思想と弁解しておられたが、単純に区分出来るもんじゃ
無あわ。
日本の南方戦線は飢えから食人が行われたが、日華事変じゃ
第二次長沙作戦で中国軍に敗北した九州の熊本第六師団の兵士がはらいせに
妊婦の腹を裂いたて赤児を取り出し殺したり、殺害した捕虜の太股の肉を
(なぜか食人は太股の肉が多いけど)食べたりしとる。
まあ、日本の内戦争の戊辰戦争でも
>>736の下のように、
「会津の兵が,田島町へ入りこんだ薩長方の残兵を殺して,すぐさま腹を
さき,生き肝を取り,肉をそいで,火で焙って醤油をつけて食べる様子を
記した資料が残っている(星1990,p.74)。その目的は不明であり,
食料として食べたというよりは,むしろ憎悪とみるべきであろう。戦時の
食人は,後述のように,明治10年(1877)の西南戦争のときにも
見られる。」と、憎悪で食人した例もかなり日本人にみられるんじゃに、
佐原氏の「族内食人」に限定したい願望レトリックはわざとらしいわ。