新自由主義の歴史

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147名無しさん@お腹いっぱい。
>>140
選挙の票の受け皿ではない。
国民の側から見ればそう見えるし、マスコミはそう煽る。
また穿った見方をすれば、社会党の残党(支持母体である労組も含む)がソ連崩壊の後そちら(新進党→民主党)へ流れたのでそうした意味での左派保身の受け皿とも取れる。

しかし、政治家の、特に保守層からすれば見方は全く異なる。
これは「衆参両議院で3分の2以上」を議席で確保するためのもの(受け皿)だった。

>>141では失礼な言い方をした。「受け皿」という表現は良いと思う。)

1986年、ソ連崩壊の少し前、世界は「保守本流」と言われた時代。
米英のレーガン、サッチャー政権。それに日本では中曽根首相。
先進国で保守勢力が強力になり、この頃から「新自由主義」が台頭してきた。
アメリカは財政が苦しかった(双子の赤字)が、敢えて高金利政策=ドル高誘導を実施し続けていた。これはソ連にとどめを刺すため。
ソ連は対外債務の累積がかさみ、特に大きな対米債務を抱えていた。ここで金利を上げられたらもう瀕死の状態。
日本はそのおかげで円安となり、1982年以来の円高不況を克服。景気は急速に回復に向かった。その上公共企業体(国鉄や電信電話)民営化を推進。
バブルを生み出す布石になった。

自民は1983年の選挙では大敗したが、1986年いわゆる「死んだふり解散」を実施。そして衆参同日選挙に突入。
結果は自民の圧勝。特に衆議院は300議席を確保し、社会党は40議席以上減らして70台に後退で惨敗。
マスコミは「自民、地滑り的大勝利」と書き立てた。

しかし、責任ある保守層。特に中曽根は「がっかり」したのではないかと思われる。
世界的にも保守が全盛期。これは自民が3分の2以上とれる最大のチャンスではなかったのか? ということだ。
特に中曽根は改憲論者だ。

戦後の保守政治の目的は何かといえば、一言でいえば「戦争によって失ったものを取り戻そう」ということだ。
だから占領から脱し、国防体制を復活させ、そして経済によって日本を再び世界的な国家にした。
その最後の関門が「敗戦後押し付けられた憲法を止め、自主憲法を定める」だ。
しかしこれは非常に難関。保守政党で3分の2以上、しかも両議院で取らなければならない。
その最初で最後のチャンスが1986年だった。ここで取れなかった場合、参議院まで考えれば、今後いつ実現できるか分からない。
しかし、3分の2には届かなかった。

これが「政界再編」のシナリオの契機になった。
最初試みられたのは、崩壊寸前の社会党を抱き込むことだった。それが田辺−金丸の両党幹事長会談。
しかし、これは失敗。というより、両者の話し合いは発展的決裂というもの。
それは「ただ両党が合同して大勢力になるだけでは、国民は疑う。選挙を繰り返すうちに勢力は次第に減る」ということ。
国民だってバカではない。戦前の大政翼賛会みたいな勢力を積極的に支持するはずがない。
またマスコミの集中砲火を浴びるのも見えている。

そこで考え出されたのが、いわゆる「ガラガラポン」で、政党構成を見直し、二大政党へと導くこと。
二大政党なら米英をはじめ、いくつかの先進民主主義国にある。
しかも自民一党独裁に対する批判が多い中、政治家主導で自発的に行うことは「善」に見える。
その上で、二大政党の両方が「憲法改正」に同意すればよい。二大政党の合計なら、両議院の3分の2以上が可能だ。
これは政局次第で出来る。

次の選挙で自民は議席を減らしたが、ソ連崩壊が実際に起こったことで世の中は再び保守優位へ大きく傾いた。
それが憲法改正を目的とする政界再編→二大政党制へと推移していく流れになった。

政界の紆余曲折はいろいろあったが、この基本構造は今も生きている。
これがいいか悪いかはそれぞれが考えればいいと思うが、この基本構造を見逃して考えてはならないと思われる。
後世、「戦後」が過去の歴史になった時、我々はこのような時代を生きていた人間・社会として評価されることになるだろう。

要点だけでも書けば長くなるもんだ。
スマソ