42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/04(火) 22:50:30
今谷マンセーでしかない
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/04(火) 22:53:30
打診だけなら小早川秀秋にも関白の打診は来ているぞw
だからといって関白に毛利の分家でもなれると言えるのかw
石田らがほざいているだけのモノと
朝廷から直々にきたものとを同一視するとは
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/05(水) 05:22:21
どちらも空手形w
どちらもスレチ
もし島津を取り潰そうとしたとしても、
西軍の残党だらけだし、第一義広義久が引き下がるはずがない。
合戦になったとしたら、家康は三成の野望から豊臣を守る為に軍を出したというのは嘘になり、
家康の野望が全土に知れ渡って、東軍のほとんどがだませたのに癇癪を起こして西軍に下るだろう。
そんな事してたら家康が危ない。死ぬ可能性すらある。これで島津が勝ったとして、
もし淀殿が三成を迎えなかったら応仁級の戦いが勃発するよ。
豊臣等西軍VS石田等賊軍VS東軍残党のね。
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/08(土) 17:09:28
義弘だろw
第一宇宙戦艦島津を怒らせたら波動砲が火を噴くぞw
215 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/25(土) 17:24:29 ID:fWV+qKu6
こんなカスのコテ名に使われるなんて安東愛季も泣いてるよ
216 名前:安東愛季 ◆f8GKRWCRoQ [age] 投稿日:2008/10/25(土) 17:27:21 ID:eaIe6HR8
俺の先祖五十目秀兼だからなかないよ
220 名前:安東愛季 ◆f8GKRWCRoQ [age] 投稿日:2008/10/25(土) 19:15:06 ID:eaIe6HR8
馬鹿じゃないの?俺の先祖が五十目秀兼って言う愛季の家臣だから、
しかも湊城址が近くにあるしwwww
お前なんか此処のスレにくんなwww
221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/25(土) 20:29:53 ID:k6x+riMk
五十目さん、安東家を裏切りましたけど?
222 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/25(土) 20:55:40 ID:7Y7TjP0h
五城目の近くに土崎城……??
223 名前:安東愛季 ◆f8GKRWCRoQ [age] 投稿日:2008/10/25(土) 21:42:30 ID:eaIe6HR8
>>221 資料くれ
無かったら腐って死ね。
いや、お前はキモくてバクテリアも寄り付かないな。
腐れないな。
じゃあ首釣れ。さっさと死ね。
安東分かんない野郎が安東愛季様を語るんじゃねーよ。
224 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/25(土) 22:03:23 ID:fWV+qKu6
どうせそんな珍名野郎はどこの馬の骨かわからん仮冒師だろうが、
子孫というからにはどう繋がってるかちゃんと言えるんだろうな?
226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/25(土) 22:23:49 ID:k6x+riMk
大光寺左衛門尉は五城目兵庫と語らいて、三戸の北左衛門信愛の館に飛脚を送った。
信愛から書を得た信直はこれを喜び、ただちに陣ぶれをだし、比内攻めを開始。
八戸弾正省弼、北信愛、九戸政実、石亀紀伊守、七戸彦三郎、四戸中務などを率いて
七百余騎をもって天正十六年に三戸を発ち、赤沢大明神(現・秋田県大館市)に陣を取った。
比内周辺の城代の和田内膳は突然の南部軍の来襲に驚きつつも、軍備と評定を行い
大館周辺の勢力を集めて対抗する構えを見せた。
四方より囲まれた和田内膳は、手勢を率いて城中より打って出たところ
かねてよりの合図があったので、五城目兵庫と大光寺左衛門尉は敵を城内に引き入れ裏切りを行った。
比内の秋田方の手勢は奮戦するも、前後から攻められては討ち死にするものが多数であった。
特に和田内膳などは嫡子岩三助、次男小次郎、船水与右衛門、渡辺新左衛門、永井十左衛門、堀内権左衛門
深間内武者之助を始めとする兵七十騎で一丸となて敵の大勢に駆け入り、
六、七度揉み入ったが、次第に討たれ、ついには一人も残らなかった。
大館の城には北信愛が入り、大光寺、五城目もそのままの城に留め置かれた。
直、大館城は秋田の押さえゆえに、与力百騎、足軽百人がさらに北信愛に添えられた。
信直は勝ち鬨を上げて三戸に帰還した
奥羽永慶軍記 巻十六「五城目兵庫心変り 比内落城の事」より概略
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/08(土) 22:52:17
クソコテ潰しはしてるけど?
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/07(土) 04:35:08
わすうれ
sage
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 21:55:51
島津は中国人の子孫で
大内は朝鮮人の子孫と
先生が言ってたけど本当?
自称源氏の藤原君
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 09:15:38
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 08:44:23
>>56 本当
島津は琉球経由の支那人説が有力
大内氏は言わずもがな
参謀の陶が大内乗っ取り後に毛利と戦ってるくらいだから
>>54 当時の朝鮮人と中国人は、今の朝鮮人と中国人とはDNAがまるで違うぞ。
モンゴルやそのほかの騎馬民族に民族浄化される前だからな。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 08:35:30.23
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 14:45:54.63
日本人は愚かで、中国=秦 齊楚燕と趙魏韓 パ蜀 百もっと、9つの国家は合併して、中国を構成して、最初、漢族=漢朝人、多数の民族の融合、漢族になって、古代、馬に乗りませんのでさえすれ(あれ)ば、漢を通って従って、漢族です.
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 14:49:29.10
そのため、朝鮮人はモンゴル人に漢人と称されます.古代、中国は遊牧民族の侵入を被りますが、最終、遊牧民族は中国を溶け込んで、しかし遊牧民族の数量は多くなくて、しかも、東アジアのそれぞれの民族DNAはもともととても似て、さらに加えて、漢族の自身融合の民族.
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 14:51:36.47
だから、中国人は元代を中国の一部分のため見ることができて、ジンギスカンは英雄と見なして、侵略者ではありません.中国の文明はなぜ中断するのか、民族のための純粋な血筋ではありませんて、言語で、文字、儒家などの文化の保留.
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 23:23:13.08
島津が中国人の子孫とかw
脳に障害が…ワロスw
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/16(土) 02:32:42.64
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/12(日) 08:52:13.49
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 02:11:34.16
>>25 おまえは歴史を知らんな
日本を知らん
天皇陛下に矢を向けたものは必ず滅びる
平将門然り
(ちなみに俺は藤原秀郷流の名字、自慢w)
畏れおおくも天皇様の御所の隣に、七重の塔を
建ててそこを見下ろして悦に入り、我がの息子
を天皇にしようと画策しあまつさえシナ皇帝から
汝日本国王の書状を貰い狂喜乱舞した売国野郎
足利義満も欲望実現の一歩手前で熱死した
かの信長も、天皇陛下からの太政大臣就任の
打診を蹴って、第六天魔王などと僭称した途端に
屯死した
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/29(金) 10:30:45.10
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 14:44:51.40
>>59 まだこんなこと言ってる奴がいるのか・・・
人口差などから考えても、騎馬民族が中国や朝鮮の住民と入れ替わるとかできるわけないだろ
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 12:34:37.77
高田みづえの旦那さんは違う四股名になっていたんじゃないかな
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 10:42:15.95
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 09:52:36.63
74 :
七誌:2011/12/08(木) 16:31:18.23
大名は鉢植えにしろ!!
ただし、島津と伊達は別儀じゃ!!!!
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/10(土) 00:45:33.67
書き込めますか?
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/05(土) 06:17:47.48
島津入道は豊後沖にて黒田家兵船の襲撃を受け遁走、自領・佐土原へ上陸。
ここで伊東義祐公遺臣を名乗る土一揆集団の襲撃を受けた。
土一揆側が滅法強く、斬り立てられ、二十余人を殺され、天ヶ城へ逃走。
土一揆側は飫肥伊東家とは無縁の者等で、
その指導者は、平田無二・宮本政名であろう。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/08(火) 08:59:54.13
家康が毛利・島津を取りつぶさずに残したのは徳川家にとって幸せなことだっ
たんです。
あれ以上徳川家の統治が続いたら日本は西欧の植民地になっていたかもしれま
せん。そうなったらもちろん徳川家も無事ではありません。
薩長は徳川家を残したんだから寛大な処置でした。だから家康が毛利・島津を
残したからこそ徳川家も助かったんですよ。
家康が毛利・島津を潰して、数百年後に薩長以外の者が江戸幕府を倒したら
どうなったでしょうか。その場合はあまり徳川家に対して寛大な処置を取らなかった
かもしれません。そう考えるとあれで徳川家にとってはベストな成り行きだったんですね。
徳川家康は、黒田孝高、鍋島勝茂、加藤清正を中心とする三万を、薩摩、大隅の国境に展開させたが、間もなく撤兵。
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/01(金) 22:57:00.99
島津本拠地に三万の勇猛果敢な薩摩隼人がいたから雑魚が逃走しただけだから
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 02:32:46.58
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 22:39:09.97
>>6 >家康の命を最も脅かした一族だろうに
アホすぎる....
島津ファンてマジキモイな
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 05:16:01.14
>>79 関ヶ原に島津兵が数百いてもあの有様なのだから数万いて、しかも完全アウェイ
だったらとか普通考えるよな。最終的に負けることはないにせよ、ある程度の
犠牲は覚悟しなければならない。ましてや高々九州南端の一田舎大名を潰すのに
兵糧その他戦費を考えれば要領悪すぎる。軍勢を派遣するよりじわじわイジメテ
潰すのが得策とか考えたんだろうなたぶん。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/15(木) 09:28:06.56
薩長なんか寛大な方ですよ。大体、いくさの張本人(徳川慶喜)が殺されずに
助命されて、領土も与えられて、華族に列されたというのは戦国時代からは
考えられないほどの戦後処置だった。
徳川家は豊臣家を滅ぼして、幼い秀頼の遺児を殺し、秀吉の墓をあばいて、
遺骨を捨てたりしたんだから。
戊辰戦争で薩長に敵対した藩も後にはほとんど許されている。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/22(火) 22:39:11.80
大きな敵(徳川)には頭が上がらないけど、
その家臣(会津)には難癖レイプ三昧。
普通にかっこ悪くて応援できないんだよな、薩長
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/06(水) 18:25:20.96
>>83 豊臣家は城が落ちるまで戦ったけど徳川家は戦闘が始まる前に恭順した。
この差は大きい。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/19(火) 09:55:11.89
>>84 会津は蛤御門の変で捕虜になった長州兵をすべて虐殺したからな。
それに比べれば薩長なんかやさしい方だよ。
>>84 鹿児島人としては長州と一緒にされるのはいやだわ
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/20(水) 02:02:25.11
徳川本軍が薩摩くんだりまで遠征するのは現実的ではない
西国の大名連合に征伐させるしかないわけだが、西国の有力大名は外様ばかり
島津征伐に成功したとしても莫大な恩賞を出す必要があり、
島津領はそっくりそのまま外様に加増するしかなく、
徳川としてはたとえば豊臣恩顧の外様を太らせるより、島津に恩を売って
取り込んだ方が得策と考えるのは当然だ
関が原後島津が滅ぼされていれば、二次大戦で日本があんなことになならなかった。
旧日本軍の体質は明治維新後薩摩軍人が帝国軍の上層や現場上官に居たせいってのが大きいからなぁ
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/16(月) 03:46:54.50
ひとつ、ひとつ外様を潰していったら総反発で100年戦争に展開しちゃう。
島津征伐は大坂の陣よりも骨がおれそう。大坂なら江戸から遠くはないし、地方の独自性も薄いから与しやすい。大坂当たりなら土地勘もある。