1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
300年後の幕末維新はどのような形になったでしょうか?
2 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/20(土) 16:17:49
いや豊臣が残ってしまう形になるかもしれない
そうすればそれ以前にもっと面倒なことにも
終了
4 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/20(土) 20:23:27
お〜い!!!
お〜い!!! 竜馬 小山ゆう著
6 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/21(日) 08:40:05
なぜ島津家が関が原後も健在だったのかは謎だよな 明らかに西軍だし家康の命を最も脅かした一族だろうに
潰すような余裕もなかったんだろ。
徳川家っても、そんなに体制が固まってたわけでもないんだろうし。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/21(日) 09:59:03
でも政権基盤が固まった家光のあたりからなら、福島みたいに難癖つけて
とりつぶすこともできたかもしれないな。宝暦治水みたいな形で明らかに
島津の弱体化を図ってはいるが。
9 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/21(日) 10:09:40
>>8 いま急いでwikiで宝暦治水事件のことを調べたが、こんな可哀想な事件があるとは今まで知らなかった
幕府の役人ってドラマにでてくる悪代官みたいなやつだったんだな おれは薩摩藩士のようにジッと耐えることができたかどうか
耐えられなかったら潰されるだけだろうな。
戦国時代でもそうだろうけど、難癖にしても大義名分は必要なわけで。
ただ、島津が取りつぶされていてもきっと西方(辺境?)の外様が同じコトをやったような気もする。
なぜ西方かと言えば、江戸から見て辺境であることと外国の影響を受けやすい、更に江戸より京
に近いからと言ってみる。
で、一番潰しておかなきゃいけなかったのは朝廷だったと・・・信長でも出来なかっただろうけど。
しかし、朝廷が続く理由のひとつは「実権」がないから?かとも。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/21(日) 13:31:20
>>9 鹿児島では平田靱負を始めとして、その歴史は高校入試でもよく出されるし学校で習ってみんな知っている。
宝暦治水はそもそも、徳川吉宗と尾張宗春の対立があって、その両者の死後、幕府と尾張藩の関係修復の為に企画されたこと。
それを幕府初期のように「天下普請」方式を採用し、そのとばっちりが薩摩に来たというわけだ。
その経過については調べればわかるだろうから、意見としては薩摩の対応について書いてみようか。
薩摩は「関ヶ原の戦い」が、いわば全国デビュー。それまでは九州情勢以上の対応をしたことがなかった。
関ヶ原の戦いについては、完全に流れが読めていない。いわば「田舎大名」でしかなく、秀吉死後の豊臣内部の対立(武断派・文治派)とも無縁。
その結果、当初上杉征伐に赴く徳川家康から伏見を守って欲しいと言われ、快諾(このままいけば東軍)したが、伏見城で徳川家臣鳥居元忠といさかいをしてしまい、結果西軍に。
ところが大垣城で石田三成とも対立してしまい、関ヶ原の戦いでは完全に浮いた存在だった。
結局戦闘はせず、気がついたら西軍は敗北していて、威力撤退をするはめに。
それで追撃を受け、1600名いた薩摩勢が鹿児島に生還したのは80人。95%を失うという散々な内容だった。
問題はこのあと。
家康が薩摩を潰そうとするという噂(事実ではないだろう)は薩摩にも伝わってきた。
臨戦態勢を取ったが、中央政界にも手を打つべき。しかし薩摩には当時一切中央とのつながりはない。
これで何と薩摩はその関係を700年も遡ってそれを求めた。
それが「近衛家」。島津発祥の地島津荘はかつての摂関家の荘園だったところで、それを寄進したのが島津氏だった。
薩摩は近衛家に対し、その700年も前の関係を持ち出し、進んでそれを復活させることで近衛家に徳川家との関係修復を依頼した。
これはタイミングがドンピシャだった。徳川家康は当時、征夷大将軍就任を目指して朝廷と交渉中だったからだ。
征夷大将軍になるには、いくつかの要件があるが、そのひとつが「源氏長者」であること。
徳川家康はそれを楯に征夷大将軍の「補任」を求めたが、
近衛は「同じ『源氏』の島津との関係がこじれていては徳川家を源氏長者とは認めない」という論法で、島津との関係修復が征夷大将軍補任の条件であるとの状況を作り出した。
島津はこの時から、中央との関係、特に外交交渉の重要性を覚ったのだろう。
宝暦治水の後、薩摩は徳川内部の勢力との関係強化を図っている。
それは「一橋家」。徳川御三卿のひとつであり、かつ当主一橋治済は、ひとつの野望を抱いていた。
それは自分の系統から「将軍」を出すこと。その為に権謀術策を用い、その息子豊千代丸を次期将軍へと画策していた。
そのため、一橋家は各勢力との合従連衡を図っていた。そこに薩摩は入り込んだ。
豊千代丸が十一代将軍徳川家斉となる前後から、一橋家および一橋系将軍家と薩摩との関係は密接になっていく。
一橋家から島津重豪の正室(保姫)が嫁いでいる。また将軍家斉の正室は島津から近衛家経由で近衛寔子(広大院)が入っている。
それにより幕府と薩摩は妥協し、幕末へと推移していく。
現在NHK大河ドラマでやっている「天璋院」もそうした流れの中のひとつだ。
ひとついえるのは、薩摩は度々徳川から狙われたが、その度に妥協を画策し、それが成功してきたということ。
そして、薩摩はそれを実行するたびに、かつての田舎大名から次第に政治的なセンスと行動力が身についてきたということだろう。
危機が人や集団をより強く逞しくしていく一つの例ではないだろうか?
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/21(日) 19:37:46
>>6 謎?
知らないだけなんじゃ・・・・・
徳川家康にとっては田舎大名なんてどうでもよかった
余裕がないというのもあるが、一番の問題は「豊臣恩顧」大名を如何につぶすかだよ。
だから石田三成とか西軍についた者は当然だが、東軍についた者もそうだ。
福島正則、黒田長政、山内一豊など、味方につけたが戦勝後は遠隔地に配置した。
そして強力な大名については加藤清正も含めて徳川政権樹立後潰していった。
薩摩が謎だったら、西軍総大将だった毛利はなぜ残ったんだ?
豊臣恩顧じゃないからだろ。
そして徳川家康が関ヶ原の直前実際に討伐対象にまでした上杉さえ残っているぞw
関ヶ原の戦いからの徳川政権当初は豊臣潰し。
それ以外はそれ以降の問題。幕末まで家康・秀忠が面倒見れるかよ!!
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/21(日) 20:10:16
まあ、島津がいなくても九州には黒田、細川、鍋島と有力な外様大名が
多くいるから、これらが長州と手を結んで幕府に背いていたんだろうな。
でも薩摩の存在なくして倒幕がすんなりうまくいったとは思えない。少なく
とも幕府の寿命が史実よりかなり長いびいたような気がする。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/21(日) 20:19:19
>>13 妄想も大概にしろw
>これらが長州と手を結んで幕府に背いていたんだろうな
って結んでねえよ。
薩摩も長州征伐のころまでは幕府派だよ。
薩長同盟がすべてを変えた。
15 :
13:2008/09/21(日) 20:30:56
バイバイ(^_^)/~
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/21(日) 21:32:41
薩摩を全力で潰しに行くような徳川だったら
すぐに豊臣恩顧大名に反撃されてあぼーん
よって幕末は、ないw
てか、関ヶ原以前の秀吉の九州遠征で滅んでた可能性だってあったんだよな
後の北条氏みたいに
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/23(火) 23:44:59
>>17 そうだよな。島津が滅ぶとした関ヶ原後よりそのタイミングだよな。それでやっと
このスレの仮定が成り立つわけだw
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/28(日) 11:34:38
秀吉が薩摩を潰すはずがない。
秀吉は日本統一だけを考えていた訳ではないからだ。
大陸への進出。
これがあるから、特に「西日本」に対してはかなり妥協的だ。
当然、全国統一後の大陸進出時の「戦力になる」からだ。潰してしまってどうする。
本当はその考えで全国すべてを進めるつもりだっただろう。
しかしそれだと問題が残る。
ひとつは家康の勢力圏が秀吉に近く、その立場が脅かされること。
そして、これが大きいが、そんなやり方だけでは秀吉の直轄領が全く増えず、秀吉配下に十分な加増をしてやれないこと。
だから北条は潰した。
それで家康を関東に。それで空いた場所に福島、山内などを宛がった。
島津は領地が戦国時代に増えた分だけ減らされた。また他の九州大名で潰して良い者は潰した
それは、加藤清正(当初は佐々成政)とか小西行長を宛がった。
なんでも潰せば良いというものではない。
20 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/28(日) 13:28:14
>>1 つまり他のどの大名が薩摩を拝領して江戸時代に納めてたかって話だな
>>20 誰であれ「納めて」しまえば幕府の天領ってところだなw
22 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/28(日) 14:27:55
たぶん島津が秀吉によって潰されてたら、その後は佐々成政が肥後とあわせて
薩摩も支配する。鎌倉以来島津の支配下にあった薩摩は肥後以上に治めにくい、なん癖
つけてとり潰すには絶好の地だな。そのあとのことは知らんが…
まだ加藤清正が生きていた頃は肥後からの侵攻を恐れてるよね。
気まぐれな人なんで小さな切っ掛けさえあれば攻めてくるぞって。
清正も徳川・豊臣そっちのけで戦を起こす様な短慮な人ではないが
恐れ知らずで戦好きの猛将って世間では思われてたからな。
24 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/04(土) 12:03:00
まあ俺が徳川将軍だったら薩摩は討伐して徳川の四家目を創設していただろうなw
25 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/05(日) 01:17:34
俺が徳川将軍だったら薩摩も長州も加賀も仙台も博多も佐賀も熊本も広島も土佐も討伐して
最強将軍となり、天皇も討伐して大日本皇帝として君臨してただろうなw
>>24-25 おまいらみたいな無茶な将軍がいなかったから幕府は続いたんだろ(爆)
四代くらいで骨肉の争いになって滅びそうだね
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/24(金) 17:24:08
薩摩まで家康が出陣できるものならしてたよ。
なぜ出来なかったかというと外様NO1の伊達政宗の存在があったから。
29 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/24(金) 20:40:45
>>11 征夷大将軍は別に源氏長者じゃなくてもなれるぞ
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/24(金) 23:45:49
義満以降は源氏長者
だから何?
33 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/26(日) 10:50:45
>>33 それを知らないおまいがバカってこったな
逝ってよし
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/03(月) 03:09:14
自分で認めたか?ww
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/03(月) 10:30:23
勝w利w宣w言www
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/03(月) 22:30:01
家康が親征などしなくてもよい。
肥後には加藤清正もいるし、九州の諸大名にさせれば済む話。
ただし、島津がこれ見よがしに反乱をおこせばということ。
その状況で島津が乱を起こすとは思えないしな。
マジレスすると平氏である信長に朝廷から征夷大将軍の打診が来ているという現実があるので
源氏長者などは別段大将軍になるのに必要なものではない
三職推任問題を知らないとかモグリにも程があるだろwww
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/04(火) 22:50:30
今谷マンセーでしかない
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/04(火) 22:53:30
打診だけなら小早川秀秋にも関白の打診は来ているぞw
だからといって関白に毛利の分家でもなれると言えるのかw
石田らがほざいているだけのモノと
朝廷から直々にきたものとを同一視するとは
45 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/05(水) 05:22:21
どちらも空手形w
どちらもスレチ
もし島津を取り潰そうとしたとしても、
西軍の残党だらけだし、第一義広義久が引き下がるはずがない。
合戦になったとしたら、家康は三成の野望から豊臣を守る為に軍を出したというのは嘘になり、
家康の野望が全土に知れ渡って、東軍のほとんどがだませたのに癇癪を起こして西軍に下るだろう。
そんな事してたら家康が危ない。死ぬ可能性すらある。これで島津が勝ったとして、
もし淀殿が三成を迎えなかったら応仁級の戦いが勃発するよ。
豊臣等西軍VS石田等賊軍VS東軍残党のね。
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/08(土) 17:09:28
義弘だろw
第一宇宙戦艦島津を怒らせたら波動砲が火を噴くぞw
215 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/25(土) 17:24:29 ID:fWV+qKu6
こんなカスのコテ名に使われるなんて安東愛季も泣いてるよ
216 名前:安東愛季 ◆f8GKRWCRoQ [age] 投稿日:2008/10/25(土) 17:27:21 ID:eaIe6HR8
俺の先祖五十目秀兼だからなかないよ
220 名前:安東愛季 ◆f8GKRWCRoQ [age] 投稿日:2008/10/25(土) 19:15:06 ID:eaIe6HR8
馬鹿じゃないの?俺の先祖が五十目秀兼って言う愛季の家臣だから、
しかも湊城址が近くにあるしwwww
お前なんか此処のスレにくんなwww
221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/25(土) 20:29:53 ID:k6x+riMk
五十目さん、安東家を裏切りましたけど?
222 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/25(土) 20:55:40 ID:7Y7TjP0h
五城目の近くに土崎城……??
223 名前:安東愛季 ◆f8GKRWCRoQ [age] 投稿日:2008/10/25(土) 21:42:30 ID:eaIe6HR8
>>221 資料くれ
無かったら腐って死ね。
いや、お前はキモくてバクテリアも寄り付かないな。
腐れないな。
じゃあ首釣れ。さっさと死ね。
安東分かんない野郎が安東愛季様を語るんじゃねーよ。
224 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/25(土) 22:03:23 ID:fWV+qKu6
どうせそんな珍名野郎はどこの馬の骨かわからん仮冒師だろうが、
子孫というからにはどう繋がってるかちゃんと言えるんだろうな?
226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/25(土) 22:23:49 ID:k6x+riMk
大光寺左衛門尉は五城目兵庫と語らいて、三戸の北左衛門信愛の館に飛脚を送った。
信愛から書を得た信直はこれを喜び、ただちに陣ぶれをだし、比内攻めを開始。
八戸弾正省弼、北信愛、九戸政実、石亀紀伊守、七戸彦三郎、四戸中務などを率いて
七百余騎をもって天正十六年に三戸を発ち、赤沢大明神(現・秋田県大館市)に陣を取った。
比内周辺の城代の和田内膳は突然の南部軍の来襲に驚きつつも、軍備と評定を行い
大館周辺の勢力を集めて対抗する構えを見せた。
四方より囲まれた和田内膳は、手勢を率いて城中より打って出たところ
かねてよりの合図があったので、五城目兵庫と大光寺左衛門尉は敵を城内に引き入れ裏切りを行った。
比内の秋田方の手勢は奮戦するも、前後から攻められては討ち死にするものが多数であった。
特に和田内膳などは嫡子岩三助、次男小次郎、船水与右衛門、渡辺新左衛門、永井十左衛門、堀内権左衛門
深間内武者之助を始めとする兵七十騎で一丸となて敵の大勢に駆け入り、
六、七度揉み入ったが、次第に討たれ、ついには一人も残らなかった。
大館の城には北信愛が入り、大光寺、五城目もそのままの城に留め置かれた。
直、大館城は秋田の押さえゆえに、与力百騎、足軽百人がさらに北信愛に添えられた。
信直は勝ち鬨を上げて三戸に帰還した
奥羽永慶軍記 巻十六「五城目兵庫心変り 比内落城の事」より概略
50 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/08(土) 22:52:17
クソコテ潰しはしてるけど?
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/07(土) 04:35:08
わすうれ
sage
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 21:55:51
島津は中国人の子孫で
大内は朝鮮人の子孫と
先生が言ってたけど本当?
自称源氏の藤原君
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/07(火) 09:15:38
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 08:44:23
>>56 本当
島津は琉球経由の支那人説が有力
大内氏は言わずもがな
参謀の陶が大内乗っ取り後に毛利と戦ってるくらいだから
>>54 当時の朝鮮人と中国人は、今の朝鮮人と中国人とはDNAがまるで違うぞ。
モンゴルやそのほかの騎馬民族に民族浄化される前だからな。
60 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 08:35:30.23
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 14:45:54.63
日本人は愚かで、中国=秦 齊楚燕と趙魏韓 パ蜀 百もっと、9つの国家は合併して、中国を構成して、最初、漢族=漢朝人、多数の民族の融合、漢族になって、古代、馬に乗りませんのでさえすれ(あれ)ば、漢を通って従って、漢族です.
62 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 14:49:29.10
そのため、朝鮮人はモンゴル人に漢人と称されます.古代、中国は遊牧民族の侵入を被りますが、最終、遊牧民族は中国を溶け込んで、しかし遊牧民族の数量は多くなくて、しかも、東アジアのそれぞれの民族DNAはもともととても似て、さらに加えて、漢族の自身融合の民族.
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 14:51:36.47
だから、中国人は元代を中国の一部分のため見ることができて、ジンギスカンは英雄と見なして、侵略者ではありません.中国の文明はなぜ中断するのか、民族のための純粋な血筋ではありませんて、言語で、文字、儒家などの文化の保留.
64 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 23:23:13.08
島津が中国人の子孫とかw
脳に障害が…ワロスw
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/16(土) 02:32:42.64
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/12(日) 08:52:13.49
67 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/18(土) 02:11:34.16
>>25 おまえは歴史を知らんな
日本を知らん
天皇陛下に矢を向けたものは必ず滅びる
平将門然り
(ちなみに俺は藤原秀郷流の名字、自慢w)
畏れおおくも天皇様の御所の隣に、七重の塔を
建ててそこを見下ろして悦に入り、我がの息子
を天皇にしようと画策しあまつさえシナ皇帝から
汝日本国王の書状を貰い狂喜乱舞した売国野郎
足利義満も欲望実現の一歩手前で熱死した
かの信長も、天皇陛下からの太政大臣就任の
打診を蹴って、第六天魔王などと僭称した途端に
屯死した
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/29(金) 10:30:45.10
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/07(日) 14:44:51.40
>>59 まだこんなこと言ってる奴がいるのか・・・
人口差などから考えても、騎馬民族が中国や朝鮮の住民と入れ替わるとかできるわけないだろ
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/30(金) 12:34:37.77
高田みづえの旦那さんは違う四股名になっていたんじゃないかな
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 10:42:15.95
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 09:52:36.63
74 :
七誌:2011/12/08(木) 16:31:18.23
大名は鉢植えにしろ!!
ただし、島津と伊達は別儀じゃ!!!!
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/10(土) 00:45:33.67
書き込めますか?
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/05(土) 06:17:47.48
島津入道は豊後沖にて黒田家兵船の襲撃を受け遁走、自領・佐土原へ上陸。
ここで伊東義祐公遺臣を名乗る土一揆集団の襲撃を受けた。
土一揆側が滅法強く、斬り立てられ、二十余人を殺され、天ヶ城へ逃走。
土一揆側は飫肥伊東家とは無縁の者等で、
その指導者は、平田無二・宮本政名であろう。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/08(火) 08:59:54.13
家康が毛利・島津を取りつぶさずに残したのは徳川家にとって幸せなことだっ
たんです。
あれ以上徳川家の統治が続いたら日本は西欧の植民地になっていたかもしれま
せん。そうなったらもちろん徳川家も無事ではありません。
薩長は徳川家を残したんだから寛大な処置でした。だから家康が毛利・島津を
残したからこそ徳川家も助かったんですよ。
家康が毛利・島津を潰して、数百年後に薩長以外の者が江戸幕府を倒したら
どうなったでしょうか。その場合はあまり徳川家に対して寛大な処置を取らなかった
かもしれません。そう考えるとあれで徳川家にとってはベストな成り行きだったんですね。
徳川家康は、黒田孝高、鍋島勝茂、加藤清正を中心とする三万を、薩摩、大隅の国境に展開させたが、間もなく撤兵。
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/01(金) 22:57:00.99
島津本拠地に三万の勇猛果敢な薩摩隼人がいたから雑魚が逃走しただけだから
80 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 02:32:46.58
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/20(水) 22:39:09.97
>>6 >家康の命を最も脅かした一族だろうに
アホすぎる....
島津ファンてマジキモイな
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/22(金) 05:16:01.14
>>79 関ヶ原に島津兵が数百いてもあの有様なのだから数万いて、しかも完全アウェイ
だったらとか普通考えるよな。最終的に負けることはないにせよ、ある程度の
犠牲は覚悟しなければならない。ましてや高々九州南端の一田舎大名を潰すのに
兵糧その他戦費を考えれば要領悪すぎる。軍勢を派遣するよりじわじわイジメテ
潰すのが得策とか考えたんだろうなたぶん。
83 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/15(木) 09:28:06.56
薩長なんか寛大な方ですよ。大体、いくさの張本人(徳川慶喜)が殺されずに
助命されて、領土も与えられて、華族に列されたというのは戦国時代からは
考えられないほどの戦後処置だった。
徳川家は豊臣家を滅ぼして、幼い秀頼の遺児を殺し、秀吉の墓をあばいて、
遺骨を捨てたりしたんだから。
戊辰戦争で薩長に敵対した藩も後にはほとんど許されている。
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/22(火) 22:39:11.80
大きな敵(徳川)には頭が上がらないけど、
その家臣(会津)には難癖レイプ三昧。
普通にかっこ悪くて応援できないんだよな、薩長
85 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/06(水) 18:25:20.96
>>83 豊臣家は城が落ちるまで戦ったけど徳川家は戦闘が始まる前に恭順した。
この差は大きい。
86 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/02/19(火) 09:55:11.89
>>84 会津は蛤御門の変で捕虜になった長州兵をすべて虐殺したからな。
それに比べれば薩長なんかやさしい方だよ。
>>84 鹿児島人としては長州と一緒にされるのはいやだわ
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/20(水) 02:02:25.11
徳川本軍が薩摩くんだりまで遠征するのは現実的ではない
西国の大名連合に征伐させるしかないわけだが、西国の有力大名は外様ばかり
島津征伐に成功したとしても莫大な恩賞を出す必要があり、
島津領はそっくりそのまま外様に加増するしかなく、
徳川としてはたとえば豊臣恩顧の外様を太らせるより、島津に恩を売って
取り込んだ方が得策と考えるのは当然だ
関が原後島津が滅ぼされていれば、二次大戦で日本があんなことになならなかった。
旧日本軍の体質は明治維新後薩摩軍人が帝国軍の上層や現場上官に居たせいってのが大きいからなぁ
90 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2013/09/16(月) 03:46:54.50
ひとつ、ひとつ外様を潰していったら総反発で100年戦争に展開しちゃう。
島津征伐は大坂の陣よりも骨がおれそう。大坂なら江戸から遠くはないし、地方の独自性も薄いから与しやすい。大坂当たりなら土地勘もある。