42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
過大評価って戦国大名にはつきものなのか、とも思うね。
「来島扶持を以て隆元、我ら頸をつぎたる事に候」(永禄十一年 元就書状)
厳島の戦い後、十三年経っても、あの戦いは来島水軍の助力がなければ、毛利家滅亡の危機
であったことを元就自身が白状している。現に合戦当時、厳島の宮の城から隆景に「来島が
来てくれなければ万事休す、何としても助力が得られるよう交渉しろ」と、哀れなほど追い
詰められた書状も出している。これらは、毛利家文書、小早川家文書に現存しているよ。
何が起こるか予想のつかない現実の戦場で、講談のごとく、何から何まで計算通りにいく、
なんてあるわけ無いでしょ。
折敷畑合戦はなかった
tp://www.mmjp.or.jp/askanet/rediscoverofhistory-thebattleofoshikibata.htm
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、
この合戦に関して発給されてたとされている感状である。全部で五通あるが、
そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論
43 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/02(月) 17:42:45
有田中井手の戦いもウソ臭い。従来よく言われるのが元繁が討ち死にし武田氏は衰退滅亡したということ。
だが実際には跡を継いだ武田光和は勇猛な英主で、父の死去の影響はまったくない。
1524年、大内義興・義隆親子は3万余の大軍を率いて、武田光和の居城佐東銀山城を包囲したが徹底的に抵抗し
尼子経久の援軍が来るまで持ちこたえたし、厳島神主家の後継者争いにも介入し勢力を拡大し続けた。
父が毛利に敗退し衰退してる姿など微塵も感じられない。
熊谷信直の討伐を進めていた矢先に33歳の若さで嫡子を残すことなく急死した事で事態は急変。
若狭守護武田氏の養子をもらう事で重臣の主導権争いが勃発し内紛により武田信実が若狭に逃亡し衰退したのだ。
それでも安芸における更なる拡大を目指し尼子詮久に毛利攻めを要求し実際に毛利攻めの際の武田氏は佐東銀山城に集まり、
大内の大軍の猛攻を支え続ける勇猛ぶりを発揮し毛利への援軍を阻止し陶の別働隊を組織し毛利援軍へ派遣せざるおえなくなる。
毛利が尼子の軍を相手に籠城したことばかりを過大に宣伝するバカがいるが
実際には大内領に隣接した武田の士気の高さと防衛ぶりの方がすさまじい。結局、尼子の撤退で孤立無援でフルボッコ。
なおも耐えていたが尼子経久の死去に伴い尼子派国人領主が大量に大内氏へ寝返ったため完全に孤立し滅亡した。