【捏造】兵力や戦果を捏造し過ぎだろ【辺境】

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113名無しさん@お腹いっぱい。

大友との盟約を破り毛利2万が怒留湯主水がわずかな兵で守る門司城を奇襲する。
大友1万5000で出陣し10月13日に開戦。
大友が終始優勢で、ついに15日に至り毛利が総崩れで山口へ敗走。
門司合戦に敗北した毛利は大友の侵攻を恐れ、筑紫や秋月に支援を約束して謀反を唆す。
弘治3年7月、大友軍が謀反した秋月を滅亡させる。驚いた筑紫も毛利の支援が絶望的なので自ら城に火を放ち亡命。
永禄元年、毛利2万が再度、早鞆の瀬を渡河し門司城を奇襲。宗麟が戦略外交で幕府の仲介で時間稼ぎをしつつ、尼子と同盟を結び包囲網を構築。
永禄7年、元就は豊前の要衝松山城などを大友に明け渡すことに同意し撤退。毛利隆元に娘を娶せて毛利との和平が結ばれた。
ちなみにこの宗麟の娘が秀包をキリシタンにした。
大友絶頂期が到来。
永禄9年7月、尼子を滅亡させた元就は、また和平を破り宝満城督の高橋鑑種に謀反を唆し、それに伴い毛利3000とともに秋月や筑紫の復帰を後援。
この動きに麻生、宗像、城井、長野、千寿、後藤ら国人が同調。
大友は肥前や筑後の国人が龍造寺の動きを恐れて動員が進まなかったが、筑紫を降伏させる。
秋月、高橋救援に毛利来るの噂により、宗像が立花城を襲撃しようとしたのを撃退。
永禄10年9月大友の撤退を秋月が1万2000で襲撃するも大友側が反撃し痛撃を与え撃退する。
夜になり風雨となり秋月が再度襲撃し、油断していた臼杵、吉弘が混乱敗走するも道雪が混乱を沈静化させる。
永禄11年4月、立花鑑載が謀反し、これに同調し原田も挙兵。
これを受けて毛利は清水左近将監を将として立花救援に大規模出兵し立花城は1万以上に膨れ上がる。
筑前博多は大内、少弐の争奪争い以来の最重要拠点。ここを巡り毛利と大友の攻防が始まる。
永禄11年7月4日、道雪の調略で立花城落城。立花鑑載討ち死に。高橋城からからくも脱出した原田、衛藤らは清水とともに中国へ大敗走。
8月、原田、衛藤が立花城奪還を図り、再度、やってきた毛利の将たる清水と5000を集めて襲撃するも撃破される。
清水もなんとか新宮の浜から長門へ落ちた。
前回の戦いのダメージから回復していない秋月は毛利の援軍敗北を知り大友に降伏。
秋月に続き、城井、長野、千手、麻生、宗像らも大友に降伏。
宝満城の高橋鑑種が孤立化。
永禄12年2月、大友全軍をあげて龍造寺討伐を開始し隆信を佐賀城へ押し込む。神代、馬場、八戸、横岳、犬塚、小田、姉川、高木が大友に降伏。
3月毛利4万で門司城奇襲し小倉城に着陣し長野氏の三岳城を落城させる(毛利の味方なのにキチガイ毛利に濡れ衣を着せられ血祭りにされた)
佐賀包囲で隆信はもはや風前の灯火だったが、毛利の侵攻を聞き、隆信と和議を結び大友全軍は博多へ急行。
宝満城の高橋と合流に失敗した毛利が立花城攻め開始。
食糧が尽きた立花城は宗麟の命令で開城。
さてその宗麟は密かに豊後府内に帰って吉岡宗歓の秘策を実行に移していた。
それは制海権を握る村上武吉を買収し、9月に大内輝弘を無事に毛利領へ送り込むことと、若林鎮興に軍船を指揮させ毛利の補給路を断つと言う知略。
見事に村上武吉が見て見ぬフリをしたために大成功し、元就は九州からの完全撤退指令。
ちなみに合戦でも5月18日毛利4万と大友3万5000が立花を巡って決戦をし、道雪が小早川隆景隊左翼に突撃をかけて敗走させたために毛利全軍も敗走していた。
永禄12年11月15日雨天にみぞれが混じり降る寒風の夜に吉川元春を殿に撤退開始。
「士卒大いに凍え疲れ、親を捨て主を跡に置きて、我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討。行程十余里が間、死人算を乱せるが如し、今日大友方へ討取る首数3491級」
そして置き去りにされた立花城の毛利軍も降伏。
毛利を待ち続けた高橋鑑種が11月下旬に、ついに大友に降伏し肥前、筑前、豊前の再制圧が完了し立花城には道雪が配置された。