室町幕府の存在意義

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1名無しさん@お腹いっぱい。
鎌倉幕府や江戸幕府に比べて、
存在の薄い室町幕府。
マイナーな存在である室町幕府について語りましょう。
2名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 20:12:47
マイナーかな?
3名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 01:11:48
室町幕府は鎌倉幕府の体制に対する反動にしか過ぎなかったから
4名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 11:40:28
地方が好き勝手やってた時代
5名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 14:47:01
室町幕府がボロボロになって、かつそのままで引っ張ってくれなかったら、織田信長始め、近世の新たな担い手が現れなかった。
つまり、ダメダメでもしばらく存在だけがあったのが、日本の近世を開いたといえる。
さっさと滅びていたら、うまく信長・秀吉・家康に繋がらなかった。
6ザビエル(゜ゝ゜)つ†:2007/05/13(日) 22:01:30
義昭の存在は大きいですね
7名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/15(火) 19:32:44
美術品とかよくない?
8名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/16(水) 08:49:56
政治的な諍いが多い割には文化は花開いた時代だよね
9北条弟王 ◆sPqb2l5RHI :2007/05/16(水) 22:18:15
たしか、北条クポッ!の荒らし幕府を次いで、ピキッ!がつくったものであった。

ちなみに、わたしは姉幕府をつくる予定である。
http://ane.bakufu.org/
10名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 05:49:59
文化面ではやっぱり義政が政治に興味失ったのがプラスになったよね
まあ応仁の乱のせいで貴重な文化遺産が灰燼に帰したけど・・・
11名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 10:24:42
>>3
反動というより、得宗専制の事実上の簒奪を企んだ朝廷・足利家双方の企みが共に空中分解して挫折した政治的機能不全と言うべきではなかろうか。
12名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 04:31:57
確かに尊氏はともかく、直義の理想は時頼・時宗時代の得宗専制だからなぁ・・・
でも義満や義教の時代には、持ち直すチャンスはあったんだよね
13中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2007/05/21(月) 22:32:50
室町幕府にはな、国家財政を貯える金蔵が一個もなく直轄地も少なかったくせに
近代以前でもっとも貨幣流通に特化した財政構造と莫大な運用を可能にし
まがりなりにも200年にわたり幕府を維持できたのだがなぜかわかるか?
職能民の存在がキーポイントなんだよ
14大内義隆:2007/06/04(月) 21:31:01
幕府の大黒柱は細川だ!
幕府直轄の兵は8000
細川方は12000

幕府とは細川、畠山、斯波、山名、赤松、京極、一色の物だ!
15名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/04(月) 22:08:54
あー、だから関東地方はいち早く戦国時代に突入した訳か…
16名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/05(火) 04:51:04
古代天皇家とて、決して直轄の兵力は多くなかったはず。
蘇我、物部、有力豪族の専横に悩まされていた。

徳川政権が、例外的に巨大だったために少々矮小に見えるだけだとオモフ
17名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/05(火) 09:09:27
徳川は鎌倉と室町 ついでに秀吉の失敗をみて体制をつくっているわけだから

尊氏だって鎌倉の失敗は教訓にしてるでしょうね
それが執権→管領・四職への権力分化なのかな
18名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/14(木) 18:46:23
関東には鎌倉公方なるものをおいて、
自分の息子を遣わし、
母方の親族上杉氏を関東管領なんかに任じて、
逆に争いの火種になってるな。
将軍争い、管領争い、いろんなのが絡まって、
応仁の乱に発展する。
19名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 21:07:32
知らなかったけど人力鉄道の歴史サイトがあった。
http://www.kk-net.com/~tabuchi/JINSHA.htm
20名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 10:35:45
>>18
特定の一族に官職を任せたのが、結果的には混乱の原因に
それを見て江戸幕府は譜代全体に分散させた

鎌倉 執権・連署・六波羅など=北条
室町 管領・侍所頭人・関東管領など
=細川・斯波・畠山・山名・一色・京極・赤松・上杉など
江戸 老中・京都所司代・若年寄など=譜代各家
21名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/22(金) 01:05:31
義政と義勝の間開いてんのなんで?
22名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/23(土) 09:45:30
開いてないと思うが?
23名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/03(火) 10:53:51
なかなか優秀だった義教が殺されてしまったのが最大の分岐点だったな
そのせいで義勝義政と子供将軍が続いて将軍の権力低下
24名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 16:04:25
1へ
源平や戦国や幕末みたいな大規模な戦乱ではなかったからね
しょぼい戦争で作り上げられた幕府だから
源平や戦国のスーパースターに比べると楠木も新田も地味
25名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 20:21:08
>>24
夏休みの宿題はもう終わったの?
こんな所で遊んでないで早くやらないと、あっという間に夏休み終わっちゃうよ。
26足利ピキッ! ◆bHZlwrA00w :2007/08/16(木) 15:10:13
>>9
お前こんなとこにもカキコしてたのかw

今時幕府系サイトなんてはやんねーよ(プゲラ
27名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/20(月) 17:19:10
金閣と銀閣が出来た
28たん将軍様(ゲラ ◆rcSn9Z64VE :2007/08/28(火) 15:10:05
今日び荒らし幕府とかションベン漏れる
29山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/08/29(水) 01:33:02
1、鎌倉時代には国内で相当な割合を占めていた国衙と検非違使庁の機能を吸収
2、南北朝の合体
30名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/10(月) 23:03:08
村町幕府?
地味だな
31名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 22:21:07
まあ神聖ローマ帝国のようなものだったのだろうね。
32名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 22:26:24
室町幕府って、南朝を監視するために京都に置かれたんとちがうんか?
33名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 14:25:02
鎌倉 江戸 安土桃山は 地名からでしょうが

室町 って 何なの ?
34名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 14:41:26
地名だよ
35名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 20:00:19
>>24
 戦前の反動じゃない? 
 江戸時代からスーパースターなのは楠木正成。
 
36名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/13(木) 21:05:05
>>33
地名だよバカ
37名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/14(金) 17:26:30
>>24
 どう見たら小規模な戦いしか無かった等といえる。
38名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 13:11:26
古今、有名な武将は数多いが
楠木正成は別格だろう
湊川の戦いとかな
国賊尊氏を負けると分かっていて迎え撃つ忠臣正成
皇居内に銅像が建立されたのはこの人だけだし
39ドン・ウーゴ ◆eaYqa3SeLE :2007/09/16(日) 20:19:55
鎌倉時代だったかもしれないけどなんでみんな急に烏帽子取るようになったの?
戦前カンカン帽被ってたのが戦後になって被らなくなった的な力が
当時の日本社会にも働いてたわけ?
40名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/16(日) 23:51:13
初めての切腹とか胸のお守りに命を救われるとか
いろいろあったんだが
41名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/17(月) 12:33:56
>>40
お話してして
42山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/09/18(火) 18:53:44
>>36
御所が室町に置かれたのは義満の時代ですから、語弊がありますね。
とはいえ、ひとまずはこれで通すしかない。

>>38
>国賊尊氏を負けると分かっていて迎え撃つ忠臣正成
こうしたイメージは後世の創作でしょうね。
田舎育ちで利益を考えないと生き残れない立場にいた男に、尊皇云々という
ご立派な概念が存在したとは、考えられません。
銅像が立つまでの間に、理屈が色々とついてきたようですが。
尊皇か否かを考えて陣営を決めていた者など、いなかったでしょう。

>>39
観応2年(1351)の時点で烏帽子を着用しない例が見えていますが、こ
れが広まるのは、15世紀以降ですね。
はっきりこれと言える訳ではありませんが、烏帽子を着用して兜を着用する
場合、兜の上にある天辺穴に烏帽子を差し込んでいました。
これが、時代が下ると縮小するようになっており、烏帽子をつけず、乱髪に
して兜を着用する習慣が広まりました。
『慕帰絵』に描かれている烏帽子を着用していない人々が高位には見えない
こと、下層階級は元々兜を着用する必要がなかったことがひっかかりますが、
上層がハレの場以外で烏帽子をつけなくなり、下層もそれに習って一般化し
たのかもしれませんね。
なお、九州の菊池氏は、鎌倉時代には烏帽子なしで兜をつけていました。

>>40
切腹自体は、『保元物語』の内記平太、『続古事談』の藤原保輔、『平家物語』
の源頼政、『承久記』の伊賀光季などが行っています。
自殺=切腹や、その作法が定着したのは、室町時代でしょうが。
義満の時代に成立したらしい『義経記』に、切腹のやり方を尋ねる場面があり
ますが、この頃はまだ切り方はそれぞれ異なったらしい。
43山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/09/18(火) 18:57:15
>観応2年(1351)の時点で
失礼。『慕帰絵』が成立したのがこの時代です。
44名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/18(火) 20:40:58
オレ江戸時代の服飾・工芸デザインは嫌いだが、なぜか室町時代には惹かれる。
45ドン・ウーゴ ◆eaYqa3SeLE :2007/09/19(水) 01:13:57
>>42
なるほど、高位の人が次第に面倒臭くなったってことなんですね。
勉強になりました。にしてもその後一度廃れてから
またリバイバルされて流行にならなかったんでしょうか?
46山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/09/19(水) 07:48:07
>>45
面倒くさいというか、騎乗者(ということは高位)同士で行われる騎射戦が
よく描かれている『平家物語』でよく言われているように、顔面や大鎧の隙
間と並んで、天辺穴を射られる場合がありました。
烏帽子越しに頭のてっぺんなど射られたら、洒落になりません。

南北朝時代以降、ゲリラ戦や下馬後の集団戦闘が行われ(つまり高位の人物
が下位の人物に混ざるようになった)、鎧も大鎧からそれまでは従者用だっ
た胴丸・腹巻への移行が見られましたが、兜もその中で変化していったので
はないかと。
掟破りの行動が増えたことは、すでに『平家物語』の時点で見え、騎射戦と
いっても、13世紀までには相手の馬を射て落馬させてから射るようなこと
が行われていたようですが、騎射戦自体は16世紀まで続く(戦国期はまず
ない)ものの、南北朝時代以降は減少し、それに伴って個人同士が向き合っ
て天辺穴を狙って射る云々の表現も消えていますね。
しかし、相手の弱点を容赦なく突く傾向はこの後も続き、騎乗者でもない下
位の人物に殺される例も(新田義貞などは好例でしょう)出てきていますか
ら、防御性には気がつかわれたことでしょう。

以上、多分に私の憶測が混じっていますが、兜の天辺穴の変化と、烏帽子を
兜の下に着用しなくなっていったことは、事実です。
47山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/09/19(水) 07:50:03
要するに、烏帽子(体面)に合わせて兜をつくるより、兜(現実)に合わせ
て頭部を改良する必要に迫られた結果、烏帽子は儀礼用にとどまったのでは
ないかということです。儀礼用には明治まで続きましたからね。
48名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/08(木) 04:53:50
楠木って経済力はあったんじゃね?地盤的に考えても無教養ではなく
むしろ教養人であったからこそ、後醍醐と精神的に結びついたんだ


そんな事を神戸人の陳舜臣は言っていた
49名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/29(土) 16:57:09
室町時代は平安末期に似ていると思います。
歴史に中心に公家がいて武家がいて、
鎌倉や江戸の関東中心の単純な歴史じゃないから興味深いです。
この時期の関東は鎌倉府の鎌倉公方が古河に移り、安定していませんね。
武士の中心である関東が、どこにでもある一地方に転落した、
関東人にとっては面白くない時代かもしれません。
50名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/29(土) 18:18:34
室町なんて、室町なんて・・・・・・・・・・・・(泣)
51名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/30(日) 13:59:52
戦乱が多くて暮らしづらい時代だったかもしれないが 文化は花開いたね。
52名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/02(水) 02:48:27
戦国時代はいらない
室町時代後期で十分
戦国時代も室町将軍いるじゃん
53!dama:2008/01/02(水) 04:08:07
54名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/05(土) 15:20:15
いやむしろ室町時代は応仁の乱で終わってくれた方がすっきりした
55中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y :2008/01/05(土) 20:48:05
いやまずは一般と学問における戦国という期間の認識乖離を埋めるべきだろ
56奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2008/01/05(土) 22:23:23
むしろ室町時代を戦国時代に含めるべきだと思うんだ。
57名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 12:29:49
南北朝時代→足利義満時代→戦国時代
でおk?
58山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2008/01/06(日) 15:41:01
戦国時代は応仁・文明の乱以降と言われていましたが、最近では明応の政変
以降とされていますね。
59名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 07:14:17
室町幕府がどれだけ政治的主導権をもっていたかという観点で指導権をなくした時点から戦国時代という見方と
戦国大名がどれだけその立場を強めたかという観点でその台頭の度合いから考えていく場合と、両方の見方があると思われますね。
つまり、室町幕府の実質破綻をもって室町時代の事実上の終焉=戦国時代 とするか、
戦国時代の開始をどこに求めるかということでしょう。
前者なら、明応の政変
後者なら戦国大名の台頭をどこに求めるか。例えば最初の戦国大名を誰とするかとか。
朝倉氏の台頭とするか、北条早雲(伊勢宗瑞)の対応とするか、など。
60名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 18:46:36
室町幕府なんて最初から守護大名の連合だろ。
時代区分的に足利将軍がいた時代を室町時代にしているだけだ。
61名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 23:06:48
>>60
では正長の土一揆が起きた時は室町時代じゃないんだ?
62名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/12(土) 08:33:04
「時代区分的に」ってあるやん
ちっとは考えろヴぉけ!
63名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/13(日) 22:13:46
いつの間にか時代区分の話に
室町幕府の存在意義はどうなった???
64奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2008/01/13(日) 22:50:26
そんなものは幻なのだよ。
65ウーゴ ◆eaYqa3SeLE :2008/01/14(月) 00:53:10
>>46->>47
すいません、しばらく2ちゃんを離れたままレス返すの忘れてました。
勉強になりました。ありがとうございます。
66名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/25(金) 22:55:49
室町幕府がなかったら日本の歴史はどうなったかを考えてみよう。
そうすれば存在意義が明らかになる。
67名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 00:31:43
「室町時代」なら、その後の庶民の生活文化の基となるものが多数生まれた時代として重要だったりするね。
精神文化の面でも鎌倉新仏教がかなり浸透しはじめたし、禅思想による芸術・芸能とか。

けど、「室町幕府」となるとなぁ・・・
あんまり思いつかんな

なんか画期的な政策とかあったっけ?
68名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/26(土) 03:08:58
武家の政権奪還だろう。日本の中世は武家政治が継続したというのは意外に重要。
69名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/02(土) 20:39:21
たとえば
後醍醐天皇が足利尊氏を倒せたとしても
建武政権の支配は続いていただろうか
70名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/11(月) 04:18:22
誰が倒せたかな?

例えば、足利尊氏が九州へ落ち延びた際に、新田義貞ではなく楠木正成が討伐軍として行ったとしようか?
白旗城など目もくれずに行くのは良いとして、九州では苦戦するのでは?
まあそれでも勝ったとしよう。足利尊氏は首を取られた。
そうなると楠木正成は源氏でもないのに武士達の支持を得た事になる。

そうなると後醍醐天皇と楠木正成はいずれ対立しただろう。
正成も後醍醐の戦略には批判的だったし、朝廷内でも千種辺りも後半批判的だった。
それと持明院統もいる。

ここまで展開を妥協して想定したとしても継続する方が不思議な展開。
71名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/10(土) 00:27:10
室町幕府は戦国時代を作り上げた責任を多少なりともとるべきだ
72名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/20(金) 18:31:55
室町時代は平安時代末期と非常によく似てると思う。
武家と公家が共に歴史の主役であるのは、関東に幕府があった鎌倉江戸時代には
考えられないことだ。
足利家は、中期には公家の日野家と、後期には公家の近衛家と姻戚関係があったせいか
ひじょうに公家っぽい武家だ。
武家と公家の絡み合う時代は面白い。
73山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/06/27(金) 22:15:45
鎌倉時代にはまだ朝廷の力が強かったですし、寧ろ武家が躍り出たのは室町
に入ってからだと思います。
鎌倉幕府が武士と文士に運営されていたのが室町になってなくなったのは、
文の面も含めた全てを本格的に武家が管掌するものだと意識するようになっ
たからでしょう。
公家文化の影響を幕府の人間が受けたのは事実ですが、社会的な地位からい
えば公家の方が上な訳で、公家と武家を対等なもの、もしくは武家を上位の
存在として捉える(江戸時代に出来た価値観)よりは、公家文化=上流階級
の文化と見ていいと思います。
74名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/19(土) 18:12:33
室町幕府は地方分権の魁だといえる。
高度な政治体制であったのだ。
75名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/18(月) 23:34:46
鎌倉末期から南北朝〜室町時代の入門書で良い書物があれば教えてください。
やはり「太平記」でしょうか?
76名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/19(火) 15:30:46
将軍の選び方にも色々あるんだって事を教えてくれた貴重な時代
77名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/20(水) 21:46:28
>>75
中央公論新社の日本の歴史9巻目がいいと思う
文庫本もあるし
7875:2008/08/21(木) 06:21:19
>>77
ありがとうございます。
79名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/22(金) 12:49:43
>>73
義満の時代に、公家が家司化していったのが結構大きい
80名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/02(木) 20:21:04
結局、元寇以来の国内の混乱が
織田羽柴徳川が現れるまでダラダラと続いた感じ
81名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/02(木) 21:02:18
ど田舎富山DQN男の家族消えろ ど田舎富山DQN男の親消えろ ど田舎富山DQN男の子供消えろ ど田舎富山DQN男の親戚消えろ
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ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・) ニヤニヤ(・∀・)
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
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死ぬとき このレスの事思い出してから地獄へ行けよ
ニヤ(・∀・)ニヤ(・∀・)
82名無しさん@お腹いっぱい。:2008/10/02(木) 22:26:20
まはんうっぴー
83名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/15(日) 18:59:46
sage
84名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/12(日) 11:46:20
sage
85名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/08(木) 18:10:53
毛利・島津・小早川が本気で家康軍強襲!
徳川軍壊滅!内府家康は明に逃亡!
豊臣秀頼石高462万石太政大臣!関白秀秋 左大臣輝元 内大臣秀家
征夷大将軍上杉景勝! 豊臣摂関の下に
上杉・毛利・宇喜多の将軍御三家体制の幕府
石田・直江・真田・大谷・小西の五管領・五参議体制
島津・長曾我部は大納言 織田信雄は右大臣
上杉家越後を増加
後に上杉親藩に足利武田徳川の御三家と長尾北条ができる。
上杉定勝は帝の皇女を正室に迎えその間に生まれた姫を
足利徳川武田に嫁がせ
その間に生まれた男子を一度定勝の養子にして源氏の三名家を相続
上杉御三家は左右近衛の大将を武田と徳川 足利は中納言指定席を
兼継の孫は管領筆頭を勤めた後に中納言に
老後は日本各地を周り義と愛を説く「米沢黄門」
豊臣は秀頼系統と秀秋系統と織田系統が交互に
関白太政大臣に就任「筆頭は秀頼系統」
三家摂関 三家将軍 五管領・三位制度でバランスを保つ。
やっぱ一つの一族の将軍独占はダメでしょう。
あと大大名は嫡男を帝の皇女との間に生まれた男子にした方がいい
豊臣も上杉も毛利も対等。 皆皇族との血縁あり。
なお足利上杉家は上杉親藩の筆頭で上杉本家の婿養子になる習慣が
「第2次足利幕府」上杉尊信 源氏長者 征夷大将軍
        直江師兼  筆頭管領 征夷副将軍
        石田義成  管領 兵部卿


86名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/21(日) 07:43:43.06
大使公邸人質事件の謎が判明した。

http://s1.shard.jp/rabbit1/0202/2/114_4.html

この事件は、室町幕府の成立を記念すべく起こしていた。

( http://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p033.html )
87名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/18(月) 19:14:51.93
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      |O\
      |   \ キリキリ
    ∧|∧   \ キリキリ
ググゥ>(;⌒ヽ    \
    ∪  |     (~)
     ∪∪   γ´⌒`ヽ
     ) )    {i:i:i:i:i:i:i:i:}
     ( (    ( ´・ω・)、
           (O ⌒ )O
            ⊂_)∪
88名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/19(火) 12:05:44.89
お知らせ

市原警察署の生活安全課の帰化人創価警官の指導の元、
入学式から2週間ほど、在日の創価学会員を主体とした自称防犯パトロールが、
2週間ほど行われることになりました

生活安全課の指導であることと、パトロールであることは、
絶対に公言してはいけないとの指導も、帰化人創価警官より出ています

期間中は2人組の在日の創価学会員が、頻繁に創価批判者の自宅周辺を、
うろつき回ると思われます
日本人の方は、充分に注意してください
89名無しさん@お腹いっぱい。:2013/03/19(火) 21:22:02.95
京都じゃなくてどっか別の土地で幕府やれば違ってたんじゃない?
90数奇者:2013/05/23(木) 15:12:06.77
室町時代だろ、今のオタクのDNA作ったの
91projectドラゴン×おっぱい:2013/05/28(火) 10:59:43.54
室町時代には複数の個体が生息していた記述もあり、
遠距離を高速移動するために珍重され、大きな権力を持った将軍が好物のエサで飼いならしていた、
素早く気性の荒い巨大生物のため手なずけるのは困難で思うようにならなかったようだが、
その個体の好物を見付け、それを与えることが重要だったため、個体ごとの好物情報は、
その時代の権力者の間では機密情報であった、当時の文献には足利義満が龍を最大限に使っていた将軍とあり、
明徳の乱・応永の乱では対抗する大名に対して複数の龍を大車輪のように使って攻め勝った、
この後、1571年(元亀2年)に龍が不在となり権力構造が不安定になったことが戦国時代へ突入した直接の原因、
次に確認されたのが1635年(寛永11年)で手なずけたのは徳川家光。
92よく鯖死ぬな:2013/09/04(水) NY:AN:NY.AN
129 :世界@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN 0
外戚といえば足利家当主は代々日野家から嫁を貰うしきたりがあったらしく、
室町時代は日野家が将軍家の実質的な外戚一族として存在してたけど、
日野富子の悪逆っぷりだけが突出してて、他の悪事が完全に霞んでるなw
93名無しさん@お腹いっぱい。:2014/05/04(日) 10:55:15.55
打出浜合戦は、日本史上初めて
征夷大将軍が陣頭指揮を取った戦いである。
結果は将軍尊氏の大敗であり、
南朝に服属し、京都を占領して
北朝天皇上皇を囲い込み
大義名分で優った直義軍が勝った。
寝返る将、逃亡する兵後絶たずの状況であった。
尊氏は将軍職の軽さを思い知ったわけであり、
打出浜合戦を起点に、以後、
将軍職を重み付けして行くことが
室町幕府の体制的課題となった。
94名無しさん@お腹いっぱい。
武力が下層に移った時代なのかな
惣とか自治都市とか経済的にも地下以外が活発化したイメージ