932 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/16(木) 18:01:13.02
南無八幡大菩薩
933 :
月孔雀:2011/06/17(金) 05:55:28.61
頼朝と義経の直接対決が、仮にあったとしたら、
どっちが勝ったでしょうかね?
頼朝(関東・東海)、義経(西日本・東北)
934 :
月孔雀:2011/06/18(土) 17:05:49.57
鎌倉武士団なんか言えよ
935 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 22:09:39.14
やあやあ我こそは!
ずぴゅ!
やあやあ我こそは!
ずぴゅ!
やあやあ我こそは!
ずぴゅ!
元弘はこの無限ループだったらしいな。
神風がふかなかったらやばかったな。
露骨な釣りはつまらん
937 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/29(月) 03:09:54.29
あんなの台風で船が難破したのが殆どだろ
鎌倉騎士団が戦術及び戦闘能力が特別優れていたわけではない
って今更か…
面白いね君
原点回帰だな。
文永の役でも弘安の役でもモンゴル軍が一旦は九州に上陸してる以上、
鎌倉騎士団の戦術及び戦闘能力が優れていて撃退に成功しない限り、
モンゴル軍が再び船に戻って嵐に遭うような状況は発生しないんだけどね。
名乗りは味方に向けてのものだぞ
ただ単に功をあせった奴が突出してやられたに過ぎない
このスレが立った時に比べると今は新しい史料が随分見つかって、例えば文永の役についても
モンゴル軍の九州上陸から撤退までがほぼ解明されてる。
史料によれば、鎌倉武士は最初から最後までモンゴル軍を集団戦法で圧倒し、苦戦と呼べるような局面は
一度も無かった。
日本の武士の死体が麻の如く散らばっていたという高麗史の内容をどう説明するわけ?
944 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/08(土) 00:35:09.37
つ
>>940 一方的にやられたんなら、船に戻ったりしねえよバカ
945 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 23:54:44.91
南無八幡大菩薩
>>920 モンゴルの矢より日本の矢のほうがはるかに重いんだぜ
その重たい矢を少なくとも同じくらいは飛ばす。
鎧もその重たい矢に合わせて作られているんだ
どちらの戦闘力が高かったなど自明の理
947 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/28(金) 18:01:58.93
日本側は八幡愚童訓とかの後世の宗教書以外の史料は、文永の役は武士の戦術的勝利としてるけど、
元側は、元の戦術的勝利としてるのはなぜだろう?
『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「至元十一年冬十月、入其国敗之、而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」
『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶伝「分道而進、所殺過當。倭兵突至衝中軍、長劍交左右。方慶如植不少却、拔一嗃矢、
弱゚大喝、倭辟易而走。之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻。」
日本に勝ったと言ってる癖に、このまま戦い続ければ、捕虜になるとか意味不明な軍議をしてるしマジ意味不明。
元側が勝利したというなら、なぜ博多すら手をつけなかったのかも疑問だし、慌てて撤退する意味もわからん
948 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 17:24:56.14
だって対馬と壱岐で大虐殺やって調子こいてたら武士達にボコられただなんて恥ずかしすぎるやんか
949 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 21:09:17.58
>>948 それはおかしい。『高麗史』は弘安の役ではちゃんと戦うごとに連敗している
事実を書いている。
950 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/30(日) 15:08:25.31
南無八幡大菩薩
>>947 負けは許されなかったんでは?スターリン的な意味で。
戦術的にも負けですよね。結局橋頭堡すらつくれなかったんだから。
>>947 あくまで想像だが、水際では日本軍は少数だったから撃退して上陸した=勝ったが
菊池たちの増援が来るに及んで激戦、さらに劣勢となったという時間経過じゃないかな
953 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/06(日) 23:10:07.41
いや、元寇というより、
資料日本史(一般日本史)
教科日本史
は資料的根拠
社会的根拠
物的根拠
に一切基づかないものだからうそばっかだよ。
その上で元寇は明らかに武力でボコボコにした記録しかない。
で、その上で
最初の一撃は明らかに、奇襲というより、かなり一般的な国際的な協約(当時代的な常識にしても)無視した侵略がくる。
で、当時
1〜2万の大群襲来〜ってのは、あきらかに、威嚇の数でもなく、本格侵攻の数。
そもそもそんな数での威嚇行為なんてのは、軍事、政治常識(事例)でほぼありえないし、
かつそれまで1〜2万での方面の本格侵攻(事実上長期侵攻のためのきょうとうほ作成〜)なんてのは明らかにしばしばやってるので
本格的侵攻とみて間違いない。
もうあきらかに、政治、軍事常識で前線基地確定のための一時軍でそれ以前の判断がない。それを威嚇とするのは完全な空想だね。完全に学術根拠がないよ。
で、このとき有名武士とかも含んで何人か大量虐殺されてるんだけど。
何とか撃退。そして
1万(半分)以下で応戦して、1万人以上は殺害となってる。
また、軍事的に撤退条件として2万の軍でめったに撤退しない(できない軍が)が早期に撤退しまうことがありえないし、おこりえない。
そもそも天候的条件でも、あらゆる条件でも損傷なしで撤退なんてのはありえない。
そしてそれまでもありえなくて、このときだけたかが天候ないし、小さな戦闘だけで撤退する〜なんてのは、
それまでの動きでもありえない。このときだけ撤退〜という判断は奇異。
そしてこのとき、指揮官が帰って虐殺〜死刑になってるから失敗したんだよ。
あきらかにかなり大規模な戦闘があったらしいね。当時資料の1万人以上殺害というのは妥当だし。
撤退を引き出すための優位な情報だろう。そうでもないと撤退ないから。
虐殺→本格戦闘、→メッサツは
資料、当時状況、政治、軍事上ほぼ間違いない。
でそれ以後の動きはこれはさすがに本格的な侵攻じたいたると重く見たらしい。
みんな対応してる。そういう資料もある。
で、それからまたクソ死者がきやがるんだけど、殺害w
でその後いよいよ本格戦争が始まる。
で第二段階は有名な類保を事前に大量策定。かなり大きなもの作ってその資料証拠が残ってる。
で第二段階の戦闘
このとき所詮で対馬、意気など諸島では大量虐殺されたらしい。とかくこのときだと思うけど、有名な武士が虐殺されて
で事実上5月20日から戦闘がはじまりこの間すでに出向はして、でそれから6月30日まで一切制圧できない。
いや、ある意味、対馬、意気では虐殺されたんだ。
で当時の船は小さく隻数からも100人も乗れなかったらしい。で小さいから当然長期航海は無理で洋上待機できない。
だから離陸行動はすでに着陸しないと終了しない。だから上陸できなかったが正しい。
1ヶ月半も水上待機はできない。また連続出向ではなくほぼ同時出向だったらしい。
で1ヶ月半の間、資料すべての根拠で着陸されても追い返される姿しか欠かれていない。
そして当時の船は確かに難破しないが、数千隻がきれいに全部難破することは物理的にありえないんだよね。
数千になると広域だし。何隻かは残る。
で大きな船は難破したけど残ってたと書いてある。
そしてどうも数千の船は最初あきらかに到着した。でその後6月30日に洋上で指揮官含む少数が船で撤退したけど
流されたってかいてあるんだよね。
船舶にのってて台風はおきたがそれで死んだって書いていない。
船舶がながされて逃げられなくなってきて、急いでいかだをきりだして逃げる準備した。しか書いていない。
で5月20日出向
5月30日までいき、対馬侵略、このとき有名武士は虐殺されたが、何人か討ち取ったらしい。 (意気、対馬虐殺)
でその意気到着あと九州本格侵攻開始しましたって書いてあるんだよ。900隻 40000万 一時軍
でいきとうちゃく40000の時点ですでにながされえないよね。
でそのあと
5月〜30日前後、博多大規模類保超えれないため、撤退。 (博多るいほの撤退)
6月5日前後までは越えられないからルート変更 (限界だな志賀島の戦闘)
6月8日に総攻撃
6月9日にも総攻撃
あわせて敗北で撤退。
ここまで東路の一時攻撃
でこれ以降6月15日くらいに宋南軍の主力がくる。
ところがその部隊は別ルートで伊万里にルートを変更する。この時東路は合流しようとするが、揚陸できずに失敗。 (伊万里の戦い)
でその後6月30日から〜7月5日前後まで台風が吹き荒れる。
この時全船舶、隊は沿岸10kmも離れない、近海、諸島にいるため全滅することはない。船が事実上全部難破打破したとあって。
明らかに、船で沈んだと書く資料はない。つか、この船舶〜云々はたいした影響なかったみたい。難破〜であって全滅情報はない。
そしてそのあと〜7月5日まで難破部隊合計10万以上。そして重要なのが
《難破部隊10万以上が伊万里の端にて船が軽く流れてしまったため、木を切っていかだを作って逃亡を開始した》
って書いてあるんだよ。物理的に遠洋でだいぶ隊が死ぬわけないし、しかも遠洋じゃないって書いてあるんだか当然流れるわけない。
10万が難破〜ってしか書いてある。だから風ふこうが吹かないが、10万残存。
で台風がやんだから、ついに7月5日〜7月6日の戦闘行動が開始。鷹島に全日本軍合流(つっても数万だぜ)
2日で7万人死亡という快挙でこれソンム会戦でもめったに死ななかった数が一瞬にして死亡。
そして7月7日に全員捕虜 残った2万人捕虜にした。南シナ人以外は全員死刑にした。
とある。これが大まかな戦闘の流れである。
最初の東路軍の戦闘行為で推定ではあるがおそらく5〜7割以上はほぼ2週間の戦闘で死亡してる。
このあと事実上いきに逃亡していた。東路軍をそのあとどうした〜などの経緯明記各種はないため。
おそらく所詮で死亡。あとは大規模戦闘もなく制圧できる数しかいなかったらしい。
そして最後の10万というのはほぼ戦闘少なく7月5日まであそこに閉じ込められてた、シナの軍であろう。
と東路軍、メッサツ〜については詳細飼料がないが、数回以上戦闘したびたび逃げてることからして、おそらくすでに6月15日までにほぼ全滅してると思われる。
ないしすでに拿捕に近い状況だったのだろう。
つまり一時の東路軍は初期数回の戦闘でほぼ7割以上がメッサツといっても過言ではない。
そして南宋10万はたった2日で8万全滅。
台風のときに洋上に事実上いなかった、でれなかったため、台風でながされたことはない。
台風前にも数回の攻撃で全滅してる。
台風でにげられなくなっただけである。
台風で全滅することは事実上ありえないことである。
のため妄想ともいえる。そもそも台風〜説は構成カルト宗教が作った。全くのうそ。
台風吹いたけどにげられなくなっただけである。
そして日蓮が元寇ねらってクーデターおこそうとしたらしいな。
あのゴミは日本に逆らったけど死亡したゴミ。テロリスト
その精神は受け継がれ、今は某宗教に・・
文永の役で『元史』や『高麗史』が日本軍に勝ったような記述がある理由を考えてみたんだけど
戦闘が10月5日の対馬戦から始って、20日の博多での戦闘までが文永の役の戦闘であるとみた場合
確かに、5日から19日までは蒙古軍が対馬・壱岐・松浦党との戦闘で大きな戦果を挙げていた。
結果、蒙古側は文永の役の戦闘では、大半は優勢に事を運んでいたと認識していた可能性が高い。
しかし、博多に上陸して日本軍本隊と衝突すると敗退した。
だからこそ、『元史』で勝利した記述の後で「而官軍不整、又矢尽惟虜掠四境而帰」と口を濁した締めくくりに
なったのではないか?『高麗史』でも同様に、金方慶伝の「倭兵大敗、伏屍如麻。」の記述の後、総司令官の忽敦が
「兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり」と。疲乏の兵を策して、日ごとに滋すの衆に敵するは、 完計に非ざるなり。
軍を回すに若かず」
と急に切羽詰まった様子の記述があるのではないか?こう解釈すれば、日本側の『蒙古襲来絵詞』や『福田兼重申状』に
見られる日本軍本隊の勝利と『元史』・『高麗史』との整合性がとれると思うんだが。
961 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/09(水) 17:36:47.84
あげ
962 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/10(木) 10:38:16.99
で、結局
『元史』巻一百五十二 列伝第三十九 劉通伝
「戰船九百,征日本,與倭兵十萬遇,戰敗之。還,招降淮南諸郡邑。」
はなんて訳すんだよ。
「日本軍に遇って之を破った」か「日本軍に遇って之に破れた」のか。
「招降淮南諸郡邑」これを降格処分とか言ってた奴がいたがどうなんだ?
やっぱり、元軍は対馬・壱岐を占領したことで日本軍に勝ったと認識してたんじゃないか?
『元史』洪福源伝でも対馬・壱岐を攻略したことは書いてるが、その後の戦闘を割愛してるし。
九州で勝ってたら、記述してるはずでしょ。
元史卷一百五十四 列傳第四十一 洪福源俊奇君祥萬
「渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島」
964 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/11(金) 07:55:12.69
南無八幡大菩薩
つか、モンゴルつっても、朝鮮人と支那人だしな
勝って当たり前
>>954-
>>957 言いたいことはわかるし同意だが
なんか酔っ払って書いたような文章だなw
968 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/12(土) 05:18:27.72
>>965 当時のチョンはヘタレちゃうよ。
チョンがヘタレになったのは朝鮮王朝になってから。
あと、元軍の主力部隊は華北の連中な。
>>967 なかなか面白かったので、ノートにコピペしたよ。
清書?するの大変だったけどw
970 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/15(火) 17:25:27.31
971 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/27(日) 17:40:22.41
南無八幡大菩薩
正規軍相手に陸戦で完勝してるのはマムルーク騎兵とアフガン騎兵だな
あとはベトナム軍もか
元寇は海路の遠征だし正規軍と言えないし参考試合と言った程度のもの
またはじまった
何度蒸し返せば済むのか
974 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/14(水) 21:49:36.92
南無八幡大菩薩
975 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/26(日) 00:54:59.29
照覧あれ
976 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/28(月) 03:18:44.89
>>1鎌倉最強とは言いますが、戦も萬の物事も時を経て進化していくものだと思います。
国内を考えても近代に入ってからの、近代兵器が使われ始めた現代までの時代を除いても、
戦術、兵法、何においても効果的で良いものが残るのは世の定めであり、
個人個人のスキルを上げる上でも剣術や古武道や骨法などをの所謂戦国時代を経る事により、洗練、進化されていったのではないでしょうか?
鎌倉→戦国時代を経て→江戸になるに従い、何につけ優れたものが残り。淘汰に淘汰を繰返し、進化されていったのではないですかね?
鎌倉最強とは…どういった根拠を元に言われているのでしょうか?
977 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/03(日) 06:51:48.33
南無八幡大菩薩
>>976 戦国時代や江戸時代、近代と比較して鎌倉時代が最強だと言ってるわけじゃないよ
モンゴル帝国に圧勝したし、ベトナムやマムルークの戦ったモンゴル軍は元寇の元軍よりも雑魚だしで、
13世紀当時の世界では日本が最強だったってこと
979 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/21(木) 06:25:49.55
弓は同じ力で引くのならば、大きい方が威力が大きいことが知られています。
イギリスの弓が大きくなったのは、それが理由です。
モンゴルの主力武器の弓は、馬上で取り扱いやすい小型の弓の中では、威力が大きいのが特徴です。
本来、小型の弓は張力の大きい弓を作れなかったのですが、合成弓にして張力の大きい弓が出来ました。
しかし、威力は同じ張力のロングボウの方が上です。
日本の弓は、イギリスのロングボウの大きさの弓を更に、上下非対称という常識外れの方法で、更に大きくなっています。
しかも、馬上でこの特大の弓を用いるという常識外れなことをしています。
ある意味で、たまたま、モンゴルの一番得意な戦闘方法で、日本が上回っただけです。
しかし、その事実を受け入れて対策を考えることは、案外難しいことです。
980 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/08(日) 12:23:46.63
南無八幡大菩薩
南無八幡大菩薩