1 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
13世紀、世界最強だったのはモンゴル騎兵ではなく鎌倉武士。
直接対決でも勝ってるしな。
素朴な疑問だが、蒙古は九州に馬持ち込んだの?
3 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 16:44:12
>>2 八幡愚童訓
「其中に、大宰少弐三郎左衛門尉景資殿を、日大将軍として待かけたるところ、
十月廿日未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬にのり、旗をあけて攻かかる」
高麗人と蛮子に勝ったことがそんなに嬉しいか?
7 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 05:10:57
>>5 マムルーク朝やハルジー朝が勝ったモンゴル軍は、所詮はフレグ・ウルスや
チャガタイ・ウルス。
日本が勝った大元ウルスとは、国力が比較にならない。
マムルーク軍がアイン・ジャールートで戦ったモンゴル軍が1万2000程度だった
のに対し、文永の役の元軍は4万。
それに、ハルジー朝がインダス川を遥かに越えデリー近郊まで侵攻したモンゴル軍に
ようやく勝利したのに対し、日本は元軍が九州に橋頭堡を築くことすら許さないという
完封勝利。
大越の陳朝が勝ったのは確かに大元ウルスだが、日本の場合とは勝利の内容が
大きく異なる。
陳朝はモンゴル軍襲来の度に首都を占領され、国王がデルタ地帯に逃げ込まなければ
ならなかった。
1257年にハノイの大羅城を攻略したウリャンカダイ率いるモンゴル軍は僅か3000だったのにだ。
そのため、日本が最後まで元からの独立を貫いたのに対して、陳朝は元への入貢を約束し、
王族を人質に出し、国内にダルガチを配属しなければならなかった。
8 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 05:21:41
素人考えなんだが、相手が渡海して攻めてきたのと、
陸路で来たのとを単純に比較は出来ないんじゃないの?
10 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 11:52:18
>>9 例えば十字軍とかは、ヨーロッパから中東まで侵攻するのに、渡海と陸路という2つの
選択肢がある場合は、ほぼ渡海の方を選んでいる。
船を使った方が、遥かに大量の物資を、迅速に運搬できるというメリットがあるからね。
現実に、日本へは文永の役4万、弘安の役14万という大軍が投入されているだろ。
大元ウルスは、元寇と前後して東南アジアへも陸路侵攻しているけど、そちらは大半が
万に満たない兵力の小規模な作戦だった。
以前から疑問に思ってたんだが、この時の日本軍の指揮系統どうなってたんだ?
12 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/28(水) 18:44:40
13 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 00:35:57
>>11 文永の役では、鎮西奉行の少弐氏が日本軍の指揮を執っていた。
あと幕府は中国地方でも動員をかけているが、そちらでは御家人たちは守護の指揮の
もとで戦うことになっていた。
文永の役の結果、モンゴル軍が大して強くないことが解ると、幕府は元に攻め込むことも
視野に入れて、西国の守護を北条一門で固めるようになる。
弘安の役では、関東御使の合田五郎や安東左衛門次郎が派遣され、鎌倉と九州の調整を
おこなっていた。
14 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 07:20:03
とは言え。
基本的に戦略・戦術面では個別対応というのが実態。
「君たちの判断で動いてくれ・・・現場の君たちを信じる」
室井警視正のような鎌倉幕府。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 07:27:15
>>8 文永の役の時は高麗、元、北宋かな。
民族分布もさることながら、蒙古騎兵は皆無。当然ながら。
16 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 10:34:53
>>15 モンゴルについての先入観が皆無の当時の日本人が「蒙古人は馬に乗って攻めて来た」って
書いてるのに、騎兵が皆無なわけ無いだろ。
文永の役の元軍は、蒙古騎兵が主力。当然ながら。
あの頃の辺境の元軍は、殆ど漢人やチョンの歩兵ばかりで、蒙古人は殆ど指揮官クラスしか居ないんじゃね?
元寇の時は指揮官にも漢人が多く居た気がするし・・・
18 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 14:02:11
>>17 歩兵ばかりだったのは8000人の高麗部隊。
その他の蒙漢軍が2万5000なんだから、どう考えてもそっちの方が主力だろ。
日本側の文献には、文永の役の元軍の特徴として「馬によく乗る」って書いて
あるのに、どこから「歩兵ばかり」なんて話が出て来るんだよ。
19 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 14:47:40
>>18 蒙漢軍二万五千人全部が騎兵だったの?人間の何倍も食う馬秣の輸送がもの凄く大変だったろうなぁ。さすが大モンゴル。
そう言えば、蒙古襲来絵詞には馬だけでなく歩兵も一緒に描かれているけど、あいつ等が高麗人?
>>16 しかし文永の役の頃っていえば、元の対南宋戦の途中だよな
北アジア〜中央アジアも安定してないし、日本に主力と言える位のモンゴル人騎兵連れてこれるのか?
それに元の騎兵=モンゴル人騎兵というのも変だろ
その頃にはキプチャク系の騎兵も元には居たはずだし(まあ日本には連れてきていないと思うけど)
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 15:19:41
>>19 騎兵部隊の海上輸送なんか、ウィリアム征服王や十字軍だって普通にやっている。
大モンゴル帝国にできなかったとしたら、そっちの方が問題だろ。
それから、蒙古襲来絵詞に描かれているのが高麗部隊だっていうのは、ほぼ定説。
23 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 17:17:39
>>20 モンゴル帝国が多方面の軍事作戦を同時進行でおこなうことは珍しくない。
あと、厳密にモンゴル人騎兵と呼べるような部隊は、モンゴル高原の外に出た段階から存在しないよ。
モンゴル軍は通常どこでも他民族部隊。
だから、元の騎兵は立派にモンゴル騎兵だよ。
>>23 じゃあわざわざ高麗とか漢人とか言う必要すら無いじゃないか
みんなモンゴル歩兵とモンゴル騎兵で良いよ
>>23 じゃあわざわざ高麗とか漢人とかいったり、主力云々を語る必要すら無いじゃないか
みんなモンゴル歩兵とモンゴル騎兵で良いよ
26 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 10:08:12
元軍の民族構成云々は元々、日本軍のモンゴル軍に対する勝利を認めたくない連中が
言い掛かりとして持ち出した話じゃん。
モンゴル軍の他の戦いでは、そんなこと気にしないくせに。
チンギス・ハン死亡時(1227年)のモンゴル軍左翼の民族構成
モンゴル同盟部族 39%
契丹人 16%
バリアン氏族 16%
女真人 16%
オイラート族 6.5%
オングト族 6.5%
元寇で日本に攻めて来たモンゴル軍が他民族軍なのなんて当然だろ。
>>26 スレタイを実証したいならモンゴル帝国系国家の国力と共に分析対象だろ
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 15:36:45
日本に来たのはモンゴル帝国内で最強の大元ウルスのモンゴル軍。
大元ウルスに対しては、他のモンゴル内の有力者も度々反乱を起こしているが、
クビライは連戦連勝。
ナヤン・カダアンの乱で、カダアンとその息子ラオディ率いるモンゴル反乱軍は、
朝鮮半島で大元ウルス・高麗連合軍によって壊滅させられたんだ。
ねえ教えて
ウルスって何じゃろ?
30 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 16:21:52
>>29 ウルスってのはモンゴル帝国内で成立した帝国内国家。
その中で最大なのがクビライの大元ウルスで、クビライはモンゴル帝国全体の大ハーンでもある。
バトゥのロシア・東欧遠征によって成立したのがジョチ・ウルス。
フレグの中東遠征によって成立したのがフレグ・ウルスで通称イル・ハーン国。
大元ウルスと対立していたカイドゥが死んだ後、中央アジアに成立したのがチャガタイ・ウルス。
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 17:19:55
長弓騎馬なんて使ってたの日本だけ?
32 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 16:41:24
長弓は馬上では扱いづらいからね。
日本の場合は、弓の形を上下非対称にすることでその問題をクリアしたんだけど、
この非対称形ってのは、世界の他の弓とは異なる日本の弓の大きな特徴。
日本人の得意とするところ
34 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 21:17:15
バイバルスのマムルーク軍の方が強いんじゃね?
35 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 17:42:08
アイン・ジャールートの戦いでマムルーク軍が勝ったのは、単にマムルーク軍の方が
モンゴル軍よりも数が多かったから。
マムルークたちは、カスピ海の東北方草原のトルコマンやカフカズのシルヤッス、
南ロシアのキプチャックなどの出身で、その戦術は遊牧民のもの。
基本的にモンゴルとマムルークは、似た物同士なんだよ。
寡兵でモンゴル軍を撃破した鎌倉武士なら、マムルーク軍にだって楽勝だよ。
渡海侵攻の不利を無視して鎌倉武士最強とか言われてもねえ。
上陸直後は機動の余地が無いし、消耗した兵や武器の補充は出来ないし
船酔いもあるし、何よりたった2万5千の軍を輸送するのに国が傾く
ほどの船舶を建造しなければならないほど金がかかる
37 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 20:18:13
>>36 対馬海峡の渡海侵攻なんて大したことないぞ。
文永の役のモンゴル軍よりも少ない1万9千という兵力で朝鮮に渡った小西行長は、
上陸したその日に釜山城を攻略し、3週間で首都・漢城を征服してる。
それに文永の役で日本軍は、上陸直後にモンゴル軍を叩いたわけではない。
騎兵主体の日本軍は、機動戦術を取りやすい場所にモンゴル軍が進軍して来るのを
待ってから、戦いを挑んでいるのだ。
その結果、わずか一日でモンゴル軍が敗退したのだから、言い訳無用で武士の方が
強かったんだよ。
あと、2万5千の軍を輸送するための船舶を建造も、当時の高麗の造船能力なら特に
問題なし。
高麗は1268年にもクビライの命令で大型戦艦千艘を建造している。
この時は、クビライから視察のために派遣された役人が戦艦の出来に満足し、更に
100艘を追加注文した程だった。
ちなみに文永の役の際の造船では、900艘の内で大型船は300艘のみで、大多数は上陸
などに使う小舟。
よかったなw
>>37 文禄の役の時の朝鮮はろくな軍隊もなく、日本が攻めてくるとも思っていなかった
のだから参考にはならない
元軍主力と日本軍が戦った博多から筥崎にかけては海から1キロも離れておらず
背後に海のある元軍が自由に機動できる余地はあまりない
それと一日目の夕方には日本軍は博多・筥崎を放棄しており、戦闘そのものは
元軍が勝利している。ただし最終的には元軍は撤退しているので、戦争全体では
日本軍の勝利で間違いない。
高麗の造船能力、というか国力はかなり疲弊していたはずだが。建造できた
からといって余裕があったということにはならないと思う。詳しく知っているわけでは
ないのでこれ以上言うつもりはないが、言いたかったのはたった2万5千の兵を
運ぶのにいちいち国を挙げて船舶を建造しなければならないほど渡海侵攻は
手間とコストがかかるということ
40 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 13:07:49
元軍の上陸地点は博多や筥崎の正面の息の浜ではなく、もっと西側の百道原や生の松原の
付近だから、海を背後に日本軍と戦ったわけではないよ。
それから元寇の時代、博多や筥崎に戦略的な価値なんか皆無。
戦後の歴史研究者たちは、元軍が大宰府への進軍を完璧に阻止されたことを誤魔化すため、
元や高麗が全く争点にしていない博多や筥崎を持ち出して、日本軍が負けたかのような
印象操作をしている。
コンパスとか無いこの時代、元の艦隊は山や岬などの地形を利用して、船を運航させる
「沿岸航法」。
文永の役当夜は雨が降っていたから、月明かりは無いし星も見えない。
博多湾や周辺海域の土地勘も無い。
元軍は夜の内に日本から撤退しているけど、戦闘そのもので日本軍にボロ負けし、それ以外に
生き残る術がないという状況でもない限り、900艘もの艦隊を夜中に出港させるはずが無いじゃん。
案の定、元の艦隊はその夜に岩に触れて大惨事に陥るわけだが、その時日本軍は馬蹄飼場良く
兵糧潤沢な水城で、「蒙古の一方の総大将の劉復享をやっつけた」と言って大喜びしていた。
文永の役は、日本軍のワンサイドゲームだよ。
41 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 05:58:05
博多が鎮西探題が置かれるまで戦略的にそんなに重要ではない、てことか?
ウリャンハタイが何だかんだいってハノイでしばらく過ごしてたのを見ると頷けないこともないが、それだと、どうして博多は守らなかったんでしょ?
42 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 10:05:42
>>41 もともとこの頃の日本の村落は、守れるような造りにはなっていないから。
さすがに無防備のまま放置して置くのはまずいと思ったのか、文永の役の後
防塁を作ったんだけど、これってあくまでも市民を守るための物なんだよね。
弘安の役で、河野通有とかは防塁の前に布陣していたし。
>>40 元軍は百地原・生の松原とは別に博多にも上陸している
博多に戦略的価値があろうがなかろうが、日本軍がそこで戦って退却した
ことに変わりはないんだが
夜の闇に紛れて退却するというのは敵の追撃を避けるための常套手段で、
ボロ負けの根拠にはならない。というか、敵の目前で白昼堂々と退却しようと
する指揮官はあまりいないと思うが。
44 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 02:20:42
>>43 金剛仏子叡尊感身学正記
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多(博多)、即退散畢」
同時代の人間の日記に「即退散」などと書かれている以上、文永の役が元軍のボロ負け
だったのは史実。
問題なのは、どのようにボロ負けしたかだけだから。
元軍は日本から撤退する際、志賀島に座礁した兵士220人を見捨てて、逃げ去ってるだろ。
同じ撤退でも、例えば慶長の役の日本軍は露梁海戦の後、南海島に取り残された横山久高
率いる兵士500余人の救出作戦を行なった上で、撤退してるんだよね。
その辺が、ボロ負けした軍と、そうでない軍との差だ。
あと、元軍が博多正面から上陸した事を裏付ける史料ある?
第一回目の攻撃は日本と南宋の連携を断ち切るための示威行動だったという説があるね
食糧武器の不足から撤退したというが、たった数日でそうなるということは最初からロクな準備もしてなかった傍証
元が完璧に負けたことを認めたくないあまり、元の装備が貧弱だったから負けたと言いだすのか
あわれ蒙古厨w
47 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 03:50:29
>>45 まず、元軍が余りにもあっさりと敗退したため、文永の役は示威行動としては、まったく
機能していない。
日本の貿易船は何事も無かったかのように南宋へ向っているし、鎌倉幕府はあきらかに以前より
元に対して強気になっている。
「異国征伐」と称して元に攻め込む計画すら立てていたのだ。
あと、元軍の撤退理由が食糧不足などという記録は無い。
武器にかんしては、元史に一応撤退理由として「また矢尽き」と記されてはいる。
だが、それを言うなら、1257年にタガチャルが南宋侵攻から撤退した理由について元史には、
「秋の長雨のため」と記されているし、1260年にフレグがシリアから撤退した理由については、
ルイ9世宛ての書簡で「馬匹に与える飼料と牧草が尽きたため」と記されているんだよね。
こういった言い訳は、モンゴル軍が撤退する際のお約束だから、通常なら真に受けたりはしない。
戦後の日本史研究者たちは、「日本軍が強かった」以外の説なら、どんなに根拠が貧弱でも、
平気で採用するけどね。
フビライが日本征服の意図を明確にし、高麗に準備の開始を命じたのは1268年。
それから、1274年の文永の役まで、準備期間は十分過ぎるほどあったからな。
48 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 12:25:02
日本の荒い海は数個師団に相当する、と近代でも言われていたな
実際、元軍に勝ったベトナムとかジャワとかもそうだけど騎兵が活用できない地形を利用して迎撃ないし伏撃・追撃は対モンゴル戦勝利のセオリー
バイバルスのように、蒙古騎兵とよく似た弓騎兵を養成して叩く手もあるけどね、文化とかの理由で普遍化は困難
個人的には少弐景資が文永の役の元軍副将・劉復亨を射倒したのが大きいと思う
船を焼いての徹底攻撃を主張したのは高麗軍の金方慶だが作戦会議で全く賛同を得られなかったようだ
司令部からの損害が心理的に影響を与えたんだろう
元の大軍を2度にわたり撤退させたのが、日本ではなく
ヨーロッパ辺りの国だったら、条件がどうであろうと
もっと高く評価されていた気はする。
51 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/16(金) 11:12:31
宗助国らの奮戦こそ鎌倉武士の華
圧倒的大軍相手の命尽きるまで抵抗した
一方残虐な元・高麗軍は民衆を虐殺し、数珠繋ぎで船べりに並べるという非道まで行った
これが戦後に旧南宋人は助けられたが元人と高麗人は容赦なく処刑される伏線になった
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/21(水) 12:00:14
元軍は長門(山口県)にまで上陸したの?
言われある土地は残ってるのに史実的には否定されてるっぽいけど
日本の地形はモンゴル軍苦手じゃね?
54 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 18:08:35
文永の役、モンゴル騎馬軍団は5分の1の兵力に過ぎない武士に歯が立たず、たった1日で敗退。
弘安の役、更に江南から10万もの大軍を送り込んだが、日本軍によって皆殺しにされ、僅か3名しか
生還できず。
この2つの戦いが、その後の日中関係に与えた影響は大きい。
実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。
しかし、それに対する日本からの返答は、
「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。我が国には、水沢の地や山海の洲にも
備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません」
という挑発的なものであった。
当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国ですら完敗した日本に、自分が攻め込んでも
勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。
>あの強大なモンゴル帝国ですら完敗した日本に、自分が攻め込んでも
>勝算は無いと考え
朱元璋がそう漏らしたの?
56 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 15:46:14
万単位の蒙古騎兵による釣り出し・伏兵戦術なんかが活用されたヨーロッパの戦いでは西欧騎士軍団は壊滅(リーグニッツの戦い)
相手が戦力投入するだけでも苦労する日本海の賜物
57 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 05:04:18
>>55 明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」
58 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 05:24:34
>>56 対馬海峡を超えて戦力投入することなんか、大昔から誰も苦労なんかしていないぞ。
391年に日本から朝鮮半島に渡った軍勢は、新羅・百済を征服。
663年の白村江の戦いでも、日本から2万7千もの大軍が朝鮮半島に渡っているし。
現実に文永の役でも弘安の役でも、普通に万単位の元軍が渡航してるじゃん。
その結果、ヨーロッパで西欧騎士軍団を壊滅させた蒙古騎兵は、鎌倉武士に完敗したんだから、
鎌倉武士>蒙古騎兵>西欧騎士軍団。
>>58 苦労してないって……
もしかして兵士も必要な物資も泳いで渡れると思ってるの?w
61 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 22:34:47
>>59 兵士や必要な物資の輸送なんか、古代の日本軍ですら余裕で行なってるだろ。
13世紀の元軍は、古代日本以下なの?
橋頭堡があるかないかで随分違うんだけどね
63 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 04:55:48
>>62 例えば文禄の役の日本も、朝鮮半島に全く橋頭堡を持たない状態で渡航侵攻したが、
上陸するや破竹の進撃で2ヶ月後には首都・漢城を征服していた。
それと比較して元寇の元軍は、あまりにも情けなさ過ぎると思わないか?
同じ対馬海峡なのに、日本側から朝鮮を攻めるのと、朝鮮側から日本を攻めるのとでは、
何でこんなに歴然とした差があるの?
元寇でモンゴル軍が九州に橋頭堡を築くことすらできなかったのは、単に日本軍よりも
弱かったからじゃん。
>>10 当時の十字軍に可能だったチョイスというのは、スローな陸路か海のハイウェイかという暢気なものではなく
バルカンやアナトリアの勢力と小競り合いを繰り返しながらパレスチナまでの道を切り開くか、
それともヴェネチア人やジェノヴァ人などの船主に大金を払い、難破やとんでもない所へ流されるリスクを負って
地中海を横断するかというものだった。
艦隊の4分の1しかエジプトへ渡れなかった第7次十字軍や、船が難破して捕虜になった獅子心王の例はいうまでもなく
チュニス侵攻なんて北アフリカとシチリアの比較的短い距離で嵐にあって大損害を受けてる。
陸路がオープンだったらどうだったか、というのは後世のオスマン朝の例を考えると参考になる。
65 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 13:13:27
日本軍の指揮系統はぐちゃぐちゃ
「その日の大将」を決めて戦っていた。つまり1日ごとに責任者すら違う
手柄欲しさに抜け駆け・逆に勝手な撤退当たり前
博多を焼かれ古代の水城跡まで退却を余儀なくされている
文永の役で金方慶の積極策を元軍が却下してくれたお陰で助かった
66 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 14:12:06
>>64 オスマン朝の例は確かに参考になるな。
地図でオスマン帝国の版図を見れば、あきらかに地中海、紅海、ペルシャ湾に
沿って勢力を伸ばしているからね。
海運がいかに軍事侵攻を容易にするかが一目でわかる。
>>66 オスマン朝の版図の主要部であるバルカン、アナトリア、パレスチナ、イラク、エジプトが
どういうルートを使って征服されたのか調べてみるといいよ。
というか「ペルシャ湾に沿って」というのはちょっと地図を見直したほうがいいと思う。
68 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 15:20:51
>>67 アラビア半島のヒジャース地方については?
陸路では飛び地になっているんだけど。
オスマン軍が陸路北アフリカまでエジプト経由して侵攻したと思ってる?
69 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/30(金) 17:19:31
>>65 「日大将軍」が「その日の大将」という意味だなんて、アホな説明を鵜呑みにしちゃ駄目だ。
「その日」以外の1272年4月17日から1ヶ月間に異国警固に就いた「薩摩国御家人」の成岡氏に
対しても、鎮西奉行の少弐氏が勤務終了証明書を交付している。
つまり、最初からずっと少弐氏が日本軍の大将として九州防衛を指揮していたわけ。
あと、金方慶が引用している「孟明の焚船」や「淮陰の背水」は、あきらかに劣勢な側の軍が
持ち出す兵法だから。
金方慶は、20日の戦闘で日本軍にボロ負けした元軍が、翌日も生き延びられるかについて議論
しているんだよ。
>>69 日本の後進性を証明されたくないからって、軍政・行政官と戦闘指揮の最高責任職をごっちゃにするのは酷いw
71 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/31(土) 12:09:25
>>69 その少弐氏は明らかに三男の景資じゃないだろ
長男の経資じゃないとおかしい
補任されていない人間が発給したとするのなら偽文書ってことに……
>>68 ヒジャースがオスマン朝の版図に加わったのは、セリム1世が「両聖都の守護者」であった
マムルーク朝に侵攻しカイロを陥落させたので、メッカとメディナの支配者が使者を送り
オスマン朝の庇護下に入ったことによる。
アルジェやチュニス、トリポリなどを占領したのはバルバロッサなどスルタンに帰服した海賊衆で、
当時オスマン朝が欧州や中東の戦役に投入していたような圧倒的なリソースを海運により
上陸させることによって征服したわけではない。
当時のオスマン朝の軍事侵攻で海運によるものはクリミア、ロドス、クレタ、南イタリア、マルタ
などが有名だが、島など陸路で到達できない場所や、陸路を用いた場合侵攻ルートの側背から
攻撃を受ける危険があるなどやむを得ない事情による場合が大半で、可能な場合はほとんど
陸運が尊重されていた。
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 17:15:06
>>70 あのねぇ、そもそも大宰府ってのは、大昔から西日本の防衛を主要な任務としてきた機関だから。
1019年の刀伊の入寇でも、当然のように大宰権師の藤原隆家が日本軍を指揮している。
少弐氏ってのは、もともとは武藤だったのが、大宰少弐に任じられて代々その職を世襲したことから、
「少弐」を名乗るようになった一族。
九州有事の際は少弐氏が日本軍の指揮を執るなんてことは、当時の人間には常識レベルの話で、
指揮系統に混乱が生じる余地など全く無いの。
現実に元寇で日本軍は圧勝し、軍組織においてモンゴル軍よりも優れていた事を証明しているだろ。
>>71 成岡氏に覆勘状を交付したのは少弐資能。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 11:57:39
>>73 話の筋をまったく理解いてないんじゃないの?
実戦指揮官が日替わり体制だったということを言っているわけ
職責にあったのが長男にもかかわらず、大将は三男だった史実を指しているわけ
だいたい混乱が生じないのなら「味方は勝手に戦っていてどうにもならないから一旦水城に退こう」なんてことにはならないよ
弘安の役では執権の名代が下向するなど改善されているが文永の役では明らかにおかしい
75 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 12:32:33
>>74 実戦指揮官が日替わり体制だったということを証明する史料は存在しないし、
「味方は勝手に戦っていてどうにもならないから一旦水城に退こう」なんて
ことにもなっていない。
実際、モンゴル軍に勝ってるじゃん。
上陸阻止すらできずに箱崎八幡宮や博多まで焼き討ちされ、水城まで退却させられているのに勝ち?
だいたいなんで親父やその親父から職を継いだ長男が同陣しているのに三男が大将なんだよ
普通におかしいことだらけじゃん
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 13:12:24
箱崎八幡宮や博多なんて最初から争点でもなんでもないから。
元や高麗が問題にしているのは大宰府のみ。
更に、大宰府を目指して侵攻する敵を水城で撃退するってのは、白村江以来、
日本の基本的な防衛ドクトリン。
それにもかかわらず、元軍は水城にすら指1本触れることが出来なかったんだから、
文永の役は日本軍の圧勝以外の何物でもないだろ。
>>77 なら最初に海岸で迎撃した日本軍は馬鹿ってこと?>防衛ドクトリン
やっぱり無茶苦茶じゃん
都合の良い解釈をするのは勝手だけど、チラシの裏じゃないんだから客観性を少しは考えてね
79 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 13:31:42
>>78 客観的な事実は日本軍勝利だよ。
当時の文献には、そう書いてあるだろ。
鎌倉年代記裏書
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」
帝王編年記
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」
おまけに敵側の高麗史にも戦って負けたと書いてあるしな。
高麗史表
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本、至壱岐戦敗、軍不還者萬三千五百餘人」
>>79 「倭兵大敗伏屍如麻」(「高麗史節要」)
日本側の『八幡大菩薩愚童訓・筑紫本』にだって「懸出ル程ノ者漏テ返ルハ無カリケリ(向っていったもので帰還できるものは無かった)」と苦戦を明記している
要するに、相手が帰ってくれたから「酷く叩かれたが防衛目的は達した、結果的には勝ちだ」としただけ
日本側が強かったから、なんてそれこそどこにも書いてないよ
81 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 13:45:56
だいたい文永の役がそんなに楽勝だったら
・異国警護番設置、北条一門及び幕府直臣層の派遣による指揮系統・軍事体制整備
・民衆を動員しての今津から宗像にまで及ぶ防塁作り
・安達一族に率いられた、主に関東衆から成る他地方からの増援
などの諸改革を進めて防備を固めた理由がそもそもなくなるよ
82 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:03:05
>>80 高麗史節要には「至一岐島、撃殺千餘級」などと書かれているが、この時壱岐を守っていた
武士は平景隆率いる100騎だけ。
あきらかにあり得ない戦果が書いてあるんだが・・・
「蒙古襲来絵詞」に描かれた高麗軍は、赤坂で菊池武房に蹴散らされて敗走している。
武士にまったく歯が立たなかったのを隠すため、民間人でも殺して戦果を水増ししたんだろ。
元史日本伝には、日本を敗ることが出来なかったから、その埋め合わせに四境を虜掠した
と書いてあるしな。
八幡大菩薩愚童訓は八幡神の霊験を示すために書かれた文献だから、武士が苦戦したと
書くのは当たり前。
鎌倉年代記や帝王編年記のような史書とは、同列に扱えない。
なんで一方を恣意的編纂と決め付けるくせに、もう片方は無条件で信じられるんだ?
1回目は初体験の異国からの大規模侵攻(厳密には半島からの攻撃は最初じゃないんだが)に苦戦したが、相手の事情もあって助かった
第2回目はしっかり学習して防備固めて勝利
これで何か不都合でも?
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:21:20
>>81 異国警護番設置は文永の役以前。
北条一門及び幕府直臣層の派遣による指揮系統・軍事体制整備は、文永の役の
圧勝で強気になった幕府が、元に攻め込むことを想定しておこなったこと。
今津から宗像にまで及ぶ防塁作りは、あくまで非戦闘員に対する虜掠を防ぐため。
弘安の役で、河野通有などは防塁の前に布陣していたし、志賀島や壱岐の元軍に
対しても日本軍の方から積極的に攻勢を仕掛け、防塁に篭って戦おうなんて姿勢は
皆無だった。
>>84 長門警護番の間違いだな(設置1275年)
そして長門探題設置(1276年)
幕府は九州の防備だけでは不足として、本州の警護も強化していた
いかに危機感が強烈だったかわかる
防塁に頼らなかったのなら、河野通有の『後築地』が評判になるかぁ?
だいたい当時の日本の武士団は緩やかな封建制で、動員から武装・指揮系統や情報伝達システムあらゆる点において内戦レベルで止っていた
有効に戦える条件自体が防御戦という一点しかない
>>84 明らかに間違い
異国征伐の命令を受けたのは安芸守護の武田氏と鎮西奉行少弐氏
任命(命令)文書発給の年次が同じだからって嘘はいけない
88 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:38:32
>>86 実際に弘安の役において、防塁では戦闘が行なわれなかったから。
それに弘安の役は、日本軍が配備されていない志賀島・壱岐・鷹島などに上陸し、
野戦築城をして迎撃態勢を整えた元軍を、日本軍が攻撃するという展開。
>>88 日本側の配置は有力御家人がそれぞれ自分達が労役で築いた防塁に拠るもの
防塁を避けて上陸した元軍を迎撃にいった武士はともかく、そういった連中が遊んでたとでも?
防塁の役目は何も篭るだけじゃない
弘安の役の戦地図を見れば分かるとおり、文永では好き勝手に上陸できた元軍がより大規模でありながら攻撃位置を限定させられている
文永と違って大動員により総兵力で元軍を上回っていた鎌倉幕府軍は、元軍が不自由な上陸点で戸惑っている隙に大軍を投入できた
だから戦況が全く以前とは違った
91 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 15:10:00
>>90 戦地図を見たんなら分かると思うが、元軍の上陸した志賀島に大軍を投入する
ことなんか出来ないよ。
日本軍は志賀島で迎撃態勢を整えたた元軍に対し、圧倒的に少ない兵力で攻撃
しながら連勝し、博多湾からの撤退に追い込んでいる。
武士の戦闘力が元軍を遥かに凌駕していた証拠。
>>87 どの部分が嘘よ?
そんなに武士の個別戦闘力が圧倒していたのなら、四百対百(騎、という表記だから他に従者・島民の臨時徴収兵等もいた可能性があるが)程度の差で平景隆勢が全滅にまでおいこまれないんじゃ?
志賀島戦(海戦含む)だって、少弐氏や大友氏といった幕府役職もちの有力御家人部隊が集中投入されてたし
93 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 15:49:36
>>92 平景隆勢は丸1日持ちこたえているんだから、壱岐は普通に大善戦だと思うがな。
400というのは、最初に船から下りて東方と敵方を三度ずつ拝んだ元兵の数で、
戦闘中に増員があったという可能性もあるし。
実際、高麗史では高麗軍の朴之亮や金方慶の婿の他に、後から副元帥の洪茶丘が
追加投入されている。
志賀島の戦闘は元軍は上陸したものの先へ進めず結局撤退、でいいんだっけ?
95 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 07:59:38
なんか武士が負けた戦も強引な推測交じりで大善戦とか無茶苦茶だな
弘安の役はともかく、文永ではズタボロ。武士達は本陣である箱崎八幡宮だって陥落している
しかも自分たちが有利な戦場として選んだ赤坂から追い落とされて、だ
父や兄らを何故か無視して少弐景資が指揮を取っているあたり、「武士は指導者を推戴する」慣習で大将を決めてたんだろう。組織的にまともに戦ったかも疑問
だいたい武士達にはおおよその一般慣習以外、統一された軍法や軍制すら存在しない寄せ集め
武装も軍制も劣っている側が、どうして個別単位で優位に立てる?そんな理由は「地元だから」以外無いよ
日本軍が大陸の軍隊に勝てそうな点って無い
統一された指揮系統どころか軍法すら無い。補給はほぼ自弁で、兵力を常駐させるだけで御家人が貧乏になっていく状況
強引にでも見つけるとすれば、弓矢の装備率ぐらいか?
戦闘員ほぼ全てが弓を持っていた日本に対して、槍兵なんかは投射武器がない大陸軍
一人当たりの弓矢の投射量だけは勝っていた可能性がある
だから元軍は矢の備蓄が思ったより早く尽きて文永では早期撤退
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/03(火) 23:31:35
>>95-96 お前らの書いていることは、全部史料に反しているんだが・・・
>しかも自分たちが有利な戦場として選んだ赤坂から追い落とされて、だ
赤坂から追い落とされたのは元軍の方。
「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く」
(蒙古襲来絵詞)
>だいたい武士達にはおおよその一般慣習以外、統一された軍法や軍制すら存在しない寄せ集め
日本軍は少弐景資の指揮のもと組織的に戦っていた。
「少弐入道か子息、大将三郎左衛門尉景資、并、平四郎入道子、小太郎左衛門等を始として、大矢野、竹崎、
白石等、更により合て、さんさんに戦ふ」(八幡ノ蒙古記)
>補給はほぼ自弁で、兵力を常駐させるだけで御家人が貧乏になっていく状況
文永の役の当時、兵站は水城に大量に貯蔵されていた。
「さて水城城と申すは、前は深田にて、路一すちあるのみ、うしろは野原ひろくつつきて、水木おほく、
ゆたかなり、飼場よく、兵粮潤澤なり」(八幡ノ蒙古記)
文永の役で軍法や軍制に問題があったのは、むしろ元軍の側だったな。
元史日本伝も、元軍の敗因として、「官軍整わず」と指揮系統の混乱を挙げている。
組織力に勝る日本軍が、元軍を圧倒したのは当然の結果。
98 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 08:07:07
なんで「それは八幡様の霊験のために書かれた本だから武士の苦戦は信用できない」と理不尽に一蹴した記録からでも都合の良いものだけは信じるんだ?
現実に本陣である箱崎八幡宮まで焼かれてるじゃん
もし苦戦が嘘なら、そもそも水城まで退却したことと矛盾する
だいたい統率が取れてたら「所領のある武士は勝手に戦ってただけだから恩賞無しね」なんて無茶苦茶な幕府裁定が下るわけない
「大将軍の船は、風の以前に、青龍、海より頭を、さし出し硫黄の香、虚空にみち、異形の者とも、眼に
さへきるに、おちおそれて、追はれて、にけさりぬ、此ふねも、長門の浦に吹つけられたりと」
(八幡ノ蒙古記)
八幡ノ蒙古記によれば、7月(いわゆる「神風」台風の前に)青竜が出てきて元の大将の船を追いかけていたそうですw
100 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 22:39:29
だったら元寇については、蒙古襲来絵詞のみを史料とするって事で良いじゃん。
元軍は菊池勢に蹴散らされて敗走。
文永の役は日本軍の一方的な勝利。