>>596-604の続き
春の雨の日、清四郎の隣で朝を迎えたあたしは、さめざめと泣いていた。
何かが変わると思っていた朝だった。
でも、朝が来ても何も変わっていなかった。
わかった事は、
愛してない男と寝ても、その行為にあたしはのめり込む事が出来ると言う事。
でも、あたしを愛してくれない男と寝ても、ただ空しいだけって事。
野梨子が羨ましかった。
愛する人に純粋に美しい思いを抱き続ける事ができる野梨子が。
あたしはすごく馬鹿で弱い人間だ。
魅録があたしを振り向いてくれなかったから、野梨子を選んでしまったから、清四郎と寝た。
野梨子の大切な存在である清四郎と寝れば、
魅録を奪った野梨子への、あたしを選ばなかった魅録への、復讐になるかもしれない。
馬鹿だから心のどこかでそう思っていた。
何かが変わると思っていた。
でも自分の痛さを思い知っただけだった。
あたしの隣で、清四郎も目覚めた。
涙に気付いたのだろう、ゆっくりと腕をまわしてきた。
そして、黙ってあたしの肩を抱きしめる。
硬い肩、硬い腕。
身じろぎもせずに無表情のまま、清四郎は泣き続けるあたしの肩を抱きしめていた。
*** *** ***
「クビ?!あたしがですか?!」
「君は禁止されている副業をしているそうだね」
あたしはその日、勤めている宝石店の上司に、突然呼び出されていた。
「……副業ってわけじゃないわ!お友達にアドバイスをして、少しお金をもらっているだけで」
「とにかく、それはうちの店では認められない事なんだ。調査した結果、君のやっている事は、
うちの店から見ると立派な副業にあたるとわかった。それに、君はそれほど店に貢献できてない」
「そんな!あたしよりひどい子は他にもいるはずですし……」
確かに、うちの店は、副業を禁止している。それはわかっていた。
でも、そんなに悪い事をしているとは思っていなかった。
あたしは必死になって出来ない英語を駆使して抵抗したけれど、上司は最後に言った。
「……まぁ、君は日本人なんだし、もういいんじゃないかな?」
あたしは、あっという間に無職になってしまった!
言いつけたのは、あたしの大嫌いな同僚だったそうだ。
奴はあたしを張って、あたしがアドバイスした女の子からお金を受け取るところの写真を撮り、
それを上司に報告した。
上司はそれを受けて、改めて調査をし直したそうだ。
そしてブランドイメージから、あたしの行動は相応しくない、とみなされたわけだ。
まぁ、確かに褒められた行動ではなかったと思うけど。
あまりの失態に、同僚に怒る気力もわいてこない。
この先、どうやって生活しよう。貯金は多少あるから次の仕事を見つけるぐらいはできるけど。
でも、次の仕事を見つけられるんだろうか?いや、見つけるの?あたし。
あたしは風の強いN.Y.の5番街に放り出され、しばらく茫然とただ歩いた。
そして、いつの間にか、ブロードウェイを歩いていた。
美童……。
あれから、帰ってきてない。
電話にもメールにも返答がない。
でも、思えばあたしも悪かった。
もっと上手くあしらう事も出来たと思うのに、相手が美童だと言うだけで対応できなかった。
でも美童もおかしかったわ。あんな空気のまま飛び出して行くなんて、美童らしくもない。
あたしたち2人なら、あの程度の事、もっと上手く始末できるはずだったのに。
でも、今はそんな事なんでもいい。
美童に会いたい。
会って、助けてほしい。
助けてくれなくってもいいわ。せめてハグして欲しい。
美童のハグがあれば、きっと、また前に進める。大丈夫。
あたしはこの前美童の舞台を見た劇場に来ていた。
まだあの舞台をやってるハズで、この時間はきっとあの劇場に居るはずだ。
あたしは関係者の顔をして、劇場の中に忍び込んだ。
いちゃいけない場所でも、いて当然、という顔をするのは、高校時代に散々やったから、得意なのだ。
劇場に忍び込むと、客席に役者が集まっていた。
リラックスした様子で舞台を向かって何かチェックをしていた。リハーサルだろうか。
そこに、美童はいた。
ブルネットの美人を隣に従えて。
きっと彼女も役者仲間なんだろう。とてもきれい。2人で楽しげに何かを話している。
美童がブルネットに何かを耳打ちすると、ブルネットがはにかんで笑った。
すると、美童は彼女の肩に手をまわす。
あたしにいつもやっていたように。
美童は勘がいい。
あたしの視線に気づいたのだろう、ふっとこっちへ視線をやった。
そして、一瞬、美童は呆けたような顔をして、それからぎょっとした。
ブルネットの彼女が不審な動きをする美童に向かって、何かを話しかけている。
すると、美童は彼女に思い切りキスをした。
「…………っ!」
たったそれだけで、あたしは思わず逃げ出してしまった。
美童のキスを見て逃げ出すなんて、あたしらしくもない!もう、最悪だ!
でも、怖かった。
あたしにあえて他の女とのディープキスを見せる美童が怖かった。
美童のあたしに対する怒りを感じた。焦りも感じた。
でも、それよりも何よりも―――――
美童のあたしへの執着を感じたのが怖かったのだ。
「……まさか、僕のホテルに押し掛けてくるとは」
「だって、人生最大のピンチなんだもん!話せるの清四郎しかいないんだもん!」
「君の事はまだなんだかんだで家庭の火種なんですよ。うちの馬鹿が喧嘩の時、必ず持ち出す。
ホテルにまで押し掛けられたら、どう言い逃れをしていいのか……」
「言い逃れが必要な事するわけないでしょ!いいから話ぐらい聞いてよぉ〜!」
「話を聞くのはいいんですが……あと2つ、耳がありますがいいですか?」
「へ?」
清四郎の後ろに、大きなお腹の悠理がやってきて、仁王立ちになった。
「うちの清四郎を、いい加減惑わすな!」
「悠理!あんたもN.Y.に来てたの?というか、そのお腹で飛行機に乗って大丈夫なの?」
「おうよっ!バッチリ順調!大丈夫!」
「なにが大丈夫なものか。おかげで医療チーム同行ですよ。こいつの道楽のせいで」
「じゃ、あたい来ない方がよかった?」
きょとんと悠理が言った。
「だって、清四郎が言ったんじゃん。日本だとどうしても仕事漬けになって遊べないから、
海外行く時ぐらいは一緒に行って2人でのんびりしようねって」
「あーら、お熱いです事〜w」
「……悠理、夫婦の会話は、できるだけ人前では話さないように」
清四郎が大真面目にそう言ったのを聞いて、あたしは笑ってしまった。
そう、この夫婦も子供が出来て落ち着いていると言っても、まだまだ結婚したばかり。
あつあつの新婚さんなのだ。
今、清四郎の悠理を見つめるまなざしは穏やかだ。
それで、あたしは安堵していた。
あの朝、無表情であたしの肩をじっと抱いていた男の子は、もういない。
いなくなって、良かった。あの朝が、昔の事になって、良かった。
ふいに清四郎があたしに振り向いて言った。
「それじゃ、話を聞こうか、可憐」
それであたしは、悠理と清四郎を前に絶望的な失業宣言をした。
清四郎は相変わらずのポーカーフェイスで聞いていた。
けれど、悠理はケロリと言った。
「じゃ、日本に帰ればいいじゃん?」
「そんな単純な事じゃないでしょおっ!あたしはこの5年間、必死でここまでやって来たんだから」
「大体、なんで働いてるんだ?あたいみたいにのんびり実家で過ごしてればいいのに」
「あんたはそれでいいかもしれないけどさぁ、あたしはこれでもアメリカで頑張ってきたの!
それをいきなり手放して、日本帰って遊んで暮らす気にはなれないわよ」
「あれ?可憐ってそんなタイプだっけ?玉の輿に乗るために必死になってるのは見た事あるけど」
言われてみればそうだった。
高校時代のあたしはこんなに頑張ろうなんて思ってなかったと思う。
すると、無言で話を聞いていた清四郎がひょいと言った。
「可憐はお前みたいに単純じゃないんですよ」
「そおかぁ?こいつ、金持ってるって理由だけで、金持ち男のケツ追いかけてたやつだぞ?
今、わざわざアメリカで頑張ってるっていうのが、そもそも不思議」
悠理は時々、妙に鋭いところをつく。
あたしと清四郎は何となく黙ってしまった。
2人ともわかってた。きっかけがあるとすれば、あの時。
あたしが高校時代と決別した春。
「…………」
すると、何かを察したのか、悠理が複雑な顔になってしまった。
清四郎はそんな奥さんの頭をぽんぽんと叩いてから、あたしに言った。
「僕は、可憐はバイトを本業にすればいいと思う」
「無理よ。所詮は学生さん相手にお洋服のアドバイスしてるってだけだし、仕事の依頼だって、
リンって女の子の口コミだけだし。広がりようがないもの」
「でも、この間は見てて面白かったですよ。可憐のセンスには根拠と理論があるってわかりました」
「玉の輿に乗るためにおしゃれに全力尽くしていた頃の杵柄よ。なんの実績もないから、
せいぜい素人さんのお手伝いをするのが精いっぱいだと思うわ」
「学校は、服飾系を出たんですよね?」
「一応ね、大したことないカレッジだけど」
「ふむ」
清四郎は少し考え込んで、それから言った。
「可憐、バイトを本業にするチャンスをやろうか?」
「チャンス?」
「問題は実績がない事だけなんだろう?僕がゴリ押ししてやる」
「どういうこと?」
「剣菱自動車がアメリカ向けにイメージガールに使ってる新人女優がいるんだ。その女優が今度、
映画祭でレッドカーペットを歩くらしい。でも、その女優の服装のセンスは悠理並みだ」
「ああ、CMしてるの知ってる。ちょっと悠理に似てて、あんたの悪趣味を押し通したんだと思ってた」
「……それはさておき。その女優のプライベートから、コーディネーターをつけさせようと
思っていた処なんです。それを可憐がやりますか?」
「チャンスって、それ?!」
あたしは話の大きさにびっくりした。
「もちろん、僕が与えられるのはチャンスだけだ。それを生かすも殺すも、可憐次第。
どうです?悪い話ではないし、それぐらいの度胸可憐にはあると思いますが」
「度胸なんて、ないわよぉ〜」
「じゃ、日本に帰れ!」
スパン!と言い切られて、あたしはかっと身体の熱が上がるのを感じた。
大きすぎるチャンスで、何の実績もないあたしが委縮するのは見えてた。
見えていたけれど……
「やるっ」
「ほお、やってくれますか?」
「同じ日本に帰るなら、やるだけの事やってからの方がいいわ。その話、謹んでお受けしますわよ!」
「じゃ、明日、契約書を作らせましょう」
悠理はポテトチップをかじりながら、じっとあたしたちの様子を見ていた。
*** *** ***
それでも、あたしと清四郎は何度か逢瀬を重ねた。
体を重ねたのは初めのうちだけ。
次第に語らう時間が長くなり、最後はただ2人でベッドに横になって朝まで語り合っていた。
「野梨子に会った」
「そう」
「あの馬鹿にもあった」
清四郎は手で目を覆った。
「不思議な事に、野梨子とは今まで通り、何も変わらなかった。でも悠理には……、
あいつ相変わらず猫と全力で遊んでましてね、自分がひどく汚れた人間になった気がした」
「そっか、清四郎はやっぱり悠理だったか」
「…………」
清四郎はあたしの腕枕をやめて、頬杖をついてあたしを見つめた。
「君も魅録に会ったんだろう?」
「あたしは相変わらず」
「…………」
「たぶん、あたしの一番きれいな処にずっと魅録はいると思う。初めっからそうだった。
魅録とはこんな風にベッドで寝たいって思ってたわけじゃないもの」
清四郎が困ったような顔をして、笑った。
「あたしが傷ついたって感じているのは、きっと魅録に対してじゃなくって、自分の薄っぺらさを
思い知ったからだわ。見かけとイメージばっかり気にして、野梨子みたいな芯の強さはおざなりだったし」
「可憐は努力家だと思いますけどね」
「まあね。あたしも本当はそう思ってるんだけどね」
そして、あたしは清四郎に言ったのだった。
「漠然と決めたアメリカ行きだったけど、良い機会だからボロボロになるまで行ってくる。
それで、野梨子を蹴散らすぐらいの良い女になって日本に帰ってくるわ」
愚かな子供の精一杯の強がりだった。
ただ、それは呪文のようにあたしにまとわりついて、あたしをこの場所に縛り付けている。
今も。
そして、清四郎とあたしは、それを最後に二度と寝る事はなかった。
(続きます)