(1993.01.12 日刊スポーツ)
昨年春から夏にかけて、雅子さんの動向を取材する過程で、外務省高級官僚の
一部に次のような話がささやかれているのをキャッチした。「(雅子さんは)外に出
るらしい」。「外」とは、在外公館を指す。雅子さんが、在米日本大使館に異動する、
というのだ。(中略)
しかし、それは実現しなかった。別の外務省筋は「渡辺美智雄外相が自分の
在任中の雅子妃実現にずっと執心しており、雅子さんをとりわけ重用した。
次官に対してもその意向は伝えていたようだ。次官も公務員。
ノイローゼになりそうなぐらい悩み抜いたが、大臣の意向に逆らってまで、在外
公館転出もさせられなかったようだ」と説明した。
「消えたお妃候補たち」P38-39
(1992年)
首相をはじめ、中曽根康弘元首相、藤森を宮内庁長官に推したといわれる後藤
田正晴らは皇太子のお妃選びの後押しに懸命だった。
ある全国紙の社会部デスクがこう解説する。
「佐川急便事件捜査の進展や竹下元首相の証人喚問、景気の低迷で自民党の支
持率が落ち込むなか、皇室の慶事で流れを変えたいという声が自民党の中にあっ
たのは確かです。後藤田は親しい人に『お妃選びにかかわっているんだ』と漏
らしていましたし、中曽根は“小和田カード”を政治力復活のテコにしようと
考えたんですよ。(略)
ちなみに十二月の自民党人事で梶山は幹事長に就任、内閣改造では官内庁とか
かわりが深い総務庁長官にという声が上がった後藤田は、一転して法務大臣に
就任した。当初予定されていた鯨岡兵輔の法相は消えてしまった。宮内庁と首
相官邸でもめたといわれる皇室会議の日程を、新しい委員長が決まる社会党大
会にぶつけたのも後藤田の進言といわれる。
それはともかく、皇太子と小和田雅子の再会と交際、小和田家の「ノー」の返
事と再考を迫る動きが政・官界注視の中で進行したのは確かである。