★★★松浦亜弥(桃)@難民★★★

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582名無し草
祖師聖人の御教えをお伝えするものはこのお言葉をお伝えするのであって
そのままお伝えすればよい。
言い過ぎとか興奮してるとかいうのは全然わかってないからだよ。
「慶ばしきかな」と慶びがある。身の踊る慶びがある。
それと同時にそんな幸せな身にしていただいたのに慶ばない浅ましい
恥ずべき自分が知らされる。どちらも本当。


「法然聖人の御詞にいわく「浄土をねがう行人は、病患をえて、
ひとえにこれをたのしむ」とこそおおせられたり。
しかれども、あながちに病患をよろこぶこころ、さらにもって、おこらず。
あさましき身なり。はずべし、かなしむべきものか。
さりながら予が安心の一途、一念発起平生業成の宗旨においては、
いま一定のあいだ、仏恩報尽の称名は、行住座臥にわすれざること間断なし。」
蓮師も同じ。
「あながちに病患をよろこぶこころ、さらにもって、おこらず。あさましき身なり。は
ずべし、かなしむべきものか。」あさましい身だな、恥ずかしいことだ、と
懺悔されながら
「さりながら予が安心の一途、一念発起平生業成の宗旨においては、
いま一定のあいだ、仏恩報尽の称名は、行住座臥にわすれざること間断なし。」
だけども信心いただいて御恩報謝のお念仏は忘れる事ができない幸せな身だ、と
慶んでおられるでないですか。

これが真実信心なんです。だからこれを聞く。真実信心を聞く。
聞いてお伝えする。雑行雑修自力の心のある間はこういう心には
なれないから、雑行とはどういう意味か聞く、聞いてお伝えするそれは
真実信心を聞いてお伝えするのと同じ。
雑行雑修自力の心も、言葉で教えていただいているでしょ。
指で示していただいたさきの月を見るんです。指さきじゃなくて。