田中れいなこと田中れいにゃを応援しょぅと II

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89名無し草
日本では通常、掌編(ショートショート、掌の小説など)、短編小説、
中編小説に対してこの言葉が用いられ、戦前にはだいたい原稿用紙百枚以
上、現在では三百枚以上程度を以て長編の名を用いることが多い。

海外では、短編小説に対する長編小説という区分、対立の意識がつよい。
つまり周到なプロットによって最後に読者を驚かせておしまいにするのが
短編(たとえばO・ヘンリーの『賢者の贈物』の、夫が時計を売ったこと
が最後に明かされる仕掛け)であり、そのためには作者の語り口、つまり
何を語り何を読者に対して秘密にするかがかなりその自由裁量にまかされ
ている。これに対して、そうしたプロットを用いずに叙述を順次すすめて
ゆくのが長編小説であると考えられることが多い。このため、「長い短編
小説」「短い長編小説」(手法的には短編/長編のそれによっているが分
量が手法とは相反する)という呼名さえ存在する。

ただし上記のような区分も、たとえば推理小説であればかならず短編的なプ
ロットに寄る必要があるし、また所謂十九世紀的な時系列を重んじる長編小
説が廃れた現代文学においては長編という言葉が意味するものは多様化して
おり、短編、長編の手法論的分類はある程度以上には不可能であるというの
が実態に近い。