来日した最初のドイツ人の一人に、江戸時代に来日し徳川綱吉とも会見した
博物学者エンゲルベルト・ケンペルがいる。ケンペルが著した浩瀚(こうか
ん)な『日本誌』は詳細な紀行文にして博物誌でありゲーテも愛読した。そ
の後来日して西洋医学を伝えたフィリップ・フランツ・フォン・シーボル
トもドイツ人であり、明治以降も日本は盛んにドイツから医学を学んだ。
明治時代初期の日本ではドイツ文化全般が非常に熱心に学ばれ、近代化の
過程に特に深い影響を与え、日本の近代化は、「ドイツ的近代化」である
ともいわれる。伊藤博文は大日本帝国憲法の作成にあたってベルリン大学
の憲法学者グナイストとウィーン大学のシュタインに師事し、歴史法学を
研究している。 当時の東京帝國大学がヨーロッパから招聘した教員にはド
イツ人が多く、明治9年エルヴィン・フォン・ベルツが来日したのをはじめ
、哲学では夏目漱石もその教えを受けてケーベル博士と親しまれたラファ
エル・フォン・ケーベル、化学ではゴットフリート・ヴァグナーなどがい
る工学においては、大久保利通の命を受けた井上省三がザガン市のカール
・ウルブリヒト工場で紡績の生産技術を学び、日本に伝えている。その知
識は現代の日本の製造業の礎となった。軍事においても陸軍はプロイセンを
範とし、その制度と理論による近代化に努めた。その後、日本は連合国側に
組したためドイツは第一次世界大戦で遼東半島や地中海などで戦火を交える
に至った。また日中戦争ではドイツの軍事顧問団が蒋介石政権の軍事顧問と
なり日本軍を苦しめた。第二次世界大戦では同盟国として日本はゴムなどの
資源との交換でドイツからロケットやジェットなどの技術供与を受けている
。同大戦において日本は最後までドイツの同盟国としての立場を貫いたこと
や、超大国アメリカにも最後まで頑強に抵抗し、原子爆弾によって初めて屈
服した国、頼りになる同盟国(戦友の国)として、当時の少年期以上だった世
代のドイツ人に記憶された。