田中れいなこと田中れいにゃを応援しょぅと II

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111名無し草
の巨石文明を経て紀元前1800年頃までに青銅器文明に移行している。
紀元前1000年頃にはケルト系民族によってドナウ川流域にハルシュタ
ット文明と呼ばれる鉄器文明が栄えた。紀元前58年から51年までのガイウス・
ユリウス・カエサルのガリア遠征などを経てゲルマン人は傭兵や農民として
ローマ帝国に溶け込んで行き、紀元後375年には西ゴート族の移動を初めとす
る大移動によって現在のヨーロッパに定着する。西ローマ帝国の滅亡後、ケ
ルト系民族を北方に追いやったゲルマン人は各地に王国を建てたが、フラン
ク王国が統一した。843年のヴェルダン条約によって三分割されたうちの1つ:
である東フランク王国が現在のドイツの原型となった東フランク王国の国王
オットー1世は962年アウグストゥス(古代ローマ帝国皇帝の称号)を得て、
いわゆる神聖ローマ帝国と呼ばれるゆるやかな連合体を形成した。しかし中
世におけるドイツには国家としての統一や民族意識はほとんどなく、各地に
領邦国家が分立した歴史は現在に続く連邦主義の基盤となっている。各領邦
は近隣諸国に比べて弱体で、また宗教改革では新旧両教に分かれて互いに争
ったため三十年戦争ではドイツのほとんど全土が徹底的に破壊された。1600
万人いたドイツの人口が戦火によって600万人に減少したと言われる。北部の
領邦君主ホーエンツォレルン家は17世紀半ばから勢力を拡大し、1701年には
プロイセン王国を形成した。ドイツ人はナポレオンによる侵略を経て民族意
識と統一国家への志向を強め、19世紀前半にはプロイセンに主導的な役割を
期待する機運が高まった。1806年まで神聖ローマ皇帝位を世襲していた「大
ドイツ主義」派のオーストリアのハプスブルク家は、「小ドイツ主義」派の
ホーエンツォレルン家とドイツ統一の役割を争ったが、1871年、プロイセン
国王ヴィルヘルム1世の戴冠によってドイツは、ドイツ系オーストリアを除く
、小ドイツとしてのドイツ国(ドイツ帝国)として統一され、ベルリンを首
都とした。