そもそもZが精神に異常をきたしたのは友達といいながら寄ってタカってイジメ始めたこの日記から
ぐれおさんの日記 2005年07月01日18:02
「日記」という言葉の持つ意味
書き手の心の切り口みたいなものをそのまま見てしまった文章に出くわすことがあ
る。
むずむずして座りがよくないというか・・・なんともいえない気持ちになることがある。
もちろん書き手にあれこれ言う気はない。ただ一つ思うのは「読み手を意識して書い
てるのかな?」と言う事。
いわゆる「日記」のように誰にも見られないわけじゃない。
公開制限かけてても友人には見られる。たとえ仲のいい友人であっても自分のドロ
ドロした部分を見せられるものじゃないし、思い切って見せたとしても受け入れてくれ
るかどうか・・・
前にこのような文章を書いた。下世話なたとえ話だけど、わかりやすく書いたつもり。
「日記」って書いてあるからみんな裸でくつろいでるのかなぁ・・・
「ブログ」って書いたらみんな服着てくれるのかな・・・そんなことつらつら考えたウィー
クエンドの夕方。
ぐれおさんの日記 2005年07月02日08:32
「日記」という言葉の持つ意味Part2
これは「日記」という言葉の持つ意味のコメントになります。
1つ1つコメント付けるのも労力がかかるので、別に項を立ててました。マトコメの
上長文になりますがご容赦ください。
まず、えてるなさんのコメントの
>内容がどんなに個人的でも、読み手がどんなに少なくても、他者の目に触れる
ところに出した瞬間に、その文章は批判の対象になるということです。
の指摘は大事だと思います。
「批判」と書くと不備を突く感じになるのですが、「これはいい文章だ」と思うことも
あるので「批評」と言い換えたほうがいいかも知れません。
そして後で修正しようが削除しようが、一度書いてしまったらその事実は消えない
ということです。
もちろん、書いたものに対し指摘をし、その指摘を受けて修正・削除をすることは
有益なことですが、いつもそれがあるとは限りません。他人に意見するのはエネ
ルギーも使うし、指摘を受け入れてくれるとは限りません。「なんだかなぁ・・・」と
思ってもスルーすることは良くある話ですし、読み手がコメントをつける義務もな
いので指摘しなかったという非難はあたらないと思います。
まずは「自分がこの文章を書いて出したら読み手はどう思うか」を常に意識しなが
ら書くことが必要かなと思っています。別にmixiの日記に限った話ではなく、メール
の上でも同じです。「推敲」という言葉がありますが、それはただ単にテニヲハや事
実の間違いを修正するだけでなく、「自分の思いがちゃんと伝わるか」「それが読み
手にどう思われるか」「それが自分の意図するところなのか」まで吟味して推敲と言
えるかもしれません。
たかが日記にシチ面倒くさいことを書いてるのは重々承知なんですが、「他人を意
識して書いている」文章は、たとえ内容がチラシの裏風の極私的なものでも、「オ、
オレ、コレ見てもいいのかなぁ(;´∀`)」みたいな居心地の悪さみたいなものはあま
り感じないです。そういう芸風は人間関係の中で揉まれて自ら獲得していくもので、
人から教えてもらってもなかなか身に付きません。自信がないときは信頼のおける
人に見てもらうのもアリかも知れませんが、そうそういつもできませんしねぇ・・・
こんなこと書いてると「文章書く自信なくしたorz」と思う人もいるかも知れません。
でもそれは私の意図するところではありませんし、個人的な意見なので強制するわ
けでもありません。
最初の話に戻ると、誰彼かまわずスッポンポンの姿を見せなくてもいいかなというこ
とです。ドギマギしてしまう人もいるだろうし、やたら(*´д`*)ハァハァする輩もいるかも
知れません。裸の自分はそのまんま受け入れてくれる(と感じてる)人だけに見せる
のがヨシかなということです。そのうち意識しなくても人前ではぱんつはいたり服を着
れるようになると思います。