(45)
水を止めて風呂から出る前に、森下は備え付けの鏡で自分の顔を見た。
――そうだ、もうこんなにいい年なのだ。ヒゲが濃くていかつい、娘からも臭いと
敬遠されるようなオヤジ。こんな男がアキラの隣に並ぶのは、親子としてだって
無理がある。アキラに似合うのはもっと華奢で可愛らしい・・・
そうだ、ウチのしげ子のような娘だ、と多少親の欲目も入って森下は考える。
下手をすれば娘の彼氏になるような年頃の少年に振り回されているのだと思うと
苦笑が込みあげた。
「・・・わきまえろ!」
鏡越しの自分に低く呟いて、ビタンビタン!と掌で両頬を打った。
浴室の外で今夜これから何があっても自分の立場を見失わないようにという
気合いを込めたつもりだった。
洗いざらして薄くなったようなゴワつく浴衣の帯を固く締めて、扉を開ける。
部屋は電気が消され、その代わりにカーテンを開け放った窓の向こう、
錆びたビル群の隙間から、満月が皓々と照っていた。
月の光で青く染め上げられたベッドに、少年はこちらに背を向けて座っている。
ほっそりとした肩の形が少し広がって見えるのは、何か羽織っているらしい。
「先生・・・?もう出られたんですか」
柔らかな声。アキラの後ろ姿がゆっくりと立ち上がりながらこちらを向いた。
肩に掛けていたものがするりとベッドの上に落ちると、驚いたことに下は裸だった。
あの暗い薄汚れた路地裏でアキラを見つけた時と同じだ。
青い風景の中、窓から差し込む月の光をいっぱいに浴びて、
少年のしなやかな肢体は幻のように輝いている。
森下はふと、深海に光る真珠か濡れた肌の人魚を連想した。
「・・・カーテンを閉めて服着とけ。電気、点けるぞ」
わざと無感動な声で言ってやると、アキラは一瞬止まってから「は、ハイ」と
言われた通りにした。そういう所は大人の言うことを反射的に聞いてしまう
素直なお坊ちゃんである。勝てる、と森下は思った。
電気が点くと、幻想的な青い光は掻き消され無味乾燥な安ホテルの一室が
蛍光灯の白い光と共に現れた。
(46)
「気分はもういいのか?」
訊きかけて、アキラに目を遣った森下はドクンと胸が高鳴るのを感じた。
眩しそうに蛍光灯を見上げて目を瞬いているアキラが裸体の上に纏っているのは
さっき貸してやった背広ではないか。
森下の視線に気づくとアキラはばつが悪そうに肩を竦めた。
「スミマセン、先生の上着を勝手に着てしまって。今脱ぎますから」
そう言ってまた背広に手をかけようとするのを慌ててとどめる。
「いや、別にいいけどよ。浴衣はどうした。さっき渡したろ」
「浴衣って、一人だと着方がわからなくて・・・すみません」
「そうか。オレも腕通して帯を巻いてるだけで正式な着付けなんざ知らねェが・・・
まァ、今度行洋か明子さんに教えて貰いな」
和服の着付けを知らないのは本当だった。いざとなれば妻に着せてもらえば良い
という甘えもあったが、袴姿がトレードマークの行洋に対する意地も手伝っている。
行洋があの格好を常の姿とするようになったのは、婚約時代の明子夫人に
よく似合うと誉められたのがきっかけだったと何かの記事で読んで以来、
どんな正式の場でも森下は極力洋装で押し通してきた。
・・・結果の見えてる勝負で比べられるのなんて真ッ平御免じゃねェか。
若い頃の森下は、そんな風に店の親父に愚痴りながら飲んだくれたこともある。
しかし昔のことよりも当面の問題はこの一夜をどう乗り切るかだった。
森下は大股でアキラの前を素通りすると備え付けの小さな冷蔵庫を覗いた。
「ビールは・・・やめとくか。子供を補導した大人が酒かっ喰らってちゃ様にならねェ」
子供を補導した大人という単語に力を込めて大きな一人言を言うと、
森下は冷たい氷水をコップに注いでゴクゴクと飲み干した。
アキラは大人しく膝の上に手を揃えてベッドに腰掛け、それを見ている。
プハーと息をついて下を向くと、目の合ったアキラがにっこり微笑んだ。
(47)
「・・・気分はもういいのか。足も」
コップを置くのにかこつけて視線を外し、返答がまだの質問をもう一度した。
「はい、お陰さまでもうすっかりいつもと変わらないみたいです」
鼓膜を優しく擽るような声でアキラは答える。
本当は初めからどこも何ともなかったのではないかと、訊いてみたかったが止めた。
「そりゃあ良かった。足は変に筋でも傷めると・・・」
とアキラの下肢に目を遣ると、そういえばそこは一糸纏わぬ裸なのだった。
目を逸らして、向かい側のもう片方のベッドに腰掛ける。
「・・・オレの背広羽織るのはいいんだけどよ。せめて下にも何か・・・」
男同士とは言え、いや男同士だからこそ他人の前で下肢を晒す時には些か構えてしまう
ものなのに、アキラは自分を前にしても平然としている。さっきの浴室での遣り取りと
いい、美しく生まれついた人間は人に裸を見せることに抵抗が薄いのだろうか。
――それにコイツ、顔に似合わず結構立派なブツを持ってやがる。
そのことも裸体を晒したアキラの堂々たる態度を支えているのかもしれない。
言葉を止めてぼんやりしている森下にアキラは笑って言った。
「下に着る物はないんです。ボクの下着、さっきの場所に置いて来ちゃいましたから」
「・・・あ?あぁ、そういや」
アキラのブリーフは、今森下のズボンのポケットにある。アキラはそれを知らないのだ。
ちゃんと持って来てあるから穿けと言いかけたが、何故か言葉は喉でつかえた。
――わざわざ渡して、嫌な事をもう一度思い出させることもないだろう。
そう自分に言い訳する。だが、それなら何故あんな物を後生大事に拾い上げて
持ち帰って来てしまったのかという疑問が頭をかすめる。・・・何故だ?
アキラは自分より座高の高い森下を見上げながら、抱き締めるような仕草で
彼の体にはだいぶ大きい背広の前を掻き合わせてみせた。
「今日はずっとこの背広のお世話になってしまって・・・これ、明日お預かりして
クリーニングしてからお返ししますね」
「馬鹿、子供がそんなこと気にするな」
「でも、こうして着てたらボクの匂いが移っちゃいますから。今は先生の匂いがします。
大人の男の人のいい匂い・・・それにとってもおっきい・・・」
ごぽり。――またどこかで泉が湧き出ようとする気配がした。