父が学会で自宅を留守にしている事を、今日初めて野梨子は喜ばしく思った。町から「白鹿の
病院」 までの数十分の道のりを、魅録が共にしたからである。もしも父が不在でなければ、家ま
で送るという魅録の申し出を辞退しなければならなかっただろう。普段邸内へ出入りしている助
手であろうとも、男性に送られて夜更けに帰宅する事など頑迷な父が許すはずも無かった。
道すがら、魅録は定期的に訪れるという剣菱の令嬢について聞きたがった。野梨子は自分の
知る限りの範囲でそれに答えた。
「何回か、言葉を交わしたことはありますわ。財閥のご令嬢ですのに、ちっとも鼻にかけたところ
のない、気さくな方ですわ」
財閥を身一つで興した剣菱万作は百姓の出であったと云う。それを反映してか、美貌にも関わ
らず娘である悠理に近寄りがたい雰囲気は皆無であった。だがそれも、幼い頃の記憶である。
いつからか、野梨子は悠理に対して距離を置くようになった。それが、清四郎が悠理を見つめる
視線に熱を帯び始めた頃と一致していることに、野梨子自身気付いてはいなかった。
「もともとは活発な方だったそうなのですけれど…幼い頃から心臓がお悪くて、このままだと二十
歳まで持つかどうか分らない、とお医者様は仰っているそうですわ」
「いつから、研究所に来るようになったんだ?」
歩調を緩めないまま、野梨子はしばし考えた。
「わたくしが引き取られて、少ししてからですから…10年くらいになりますかしら」
その言葉に魅録は素早く反応した。
「引き取られて?」
野梨子は思わず立ち止まった。云うべきではない事柄を口にしたことに、ようやく気がついた。
秋の風が、周囲の木立をざわざわと揺らした。
(続きます)