内田康夫ってどうよ?

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124吾輩は名無しである
現在「江戸川乱歩事典」編纂のために講談社から出た「江戸川乱歩文庫」シリーズを読み返している。
「シャーロック・ホームズ事典」とちがって、その量の多さに今さらながら「手をつけるん
じゃなかった!」と呻吟しながらも、けっこう楽しんでいたりしている。ようやく半ばほど
までさしかかり、第21巻「悪魔の紋章」を手にした。これを読み返すのも久しぶりである。
まず本文にと
りかかるまえに、だいたいの雰囲気をつかんでおくために解説から読むことにしている。
中島河太郎氏はいつものごとくあらすじをまとめていてくださるからだ。このシリーズにはさらに現在
の推理作家の手による乱歩に関するエッセイも収められているのだが、私は正直いってこのような
醜悪な文章が収録されているとは思いも寄らなかった。これは内田康夫氏の「乱歩からの
逃走」という。
125吾輩は名無しである:2001/02/04(日) 22:29
彼はいったいどのような意図でこの文章をかいたのだろうか。まず内田氏は
「僕のように賞と名のつくものにまったく無縁のポット出は、乱歩賞作家と
いうだけで、簡単に恐れ入ってしまう」と
か、「小説現代の年中行事のひとつに「乱歩賞作家特集」というのがあって
…疎外感を覚えたりもする」とか江戸川乱歩というよりも「乱歩賞」に対する
コンプレックスを告白する。その後少
年時代に読んだ「人間椅子」などはいちおうまともに紹介をするのだが、
それに次いで「いま考えると、いくら小説の上だからといっても、そういう
異常で邪悪で蠱惑的な世界を体験した僕
が、その後、大した不良にもならず、真人間として成長したのは奇跡といっていい」
と述べているのである。とすると、いい大人になってもいまだに乱歩の研究をしている
私などは大不良でマ
フィアの親分ぐらいになれそうである。さらに乱歩の少年向け作品については
「トリックが幼稚で、つまらなかったことだけは憶えている。十歳のガキがばかに
するくらいだから、乱歩先生は
優れたミステリー作家ではあったかもしれないが、本格推理はたぶん、苦手だったのだろう」
と断じている。どうも内田氏はきちんと乱歩作品のことを憶えていないのに適当なことをいってい
るようだ。子供向きシリーズだけで本格推理失格のらく印をおされてはたまらない。
彼は乱歩の短編を読んだことがあるのだろうか?
126吾輩は名無しである:2001/02/04(日) 22:30
さらに内田氏は「芋虫」を槍玉にあげる。
「僕は身震いがし、反吐が出そうなほどの嫌悪感に襲われた」
「いうまでもなく、「芋虫」のような作品は、差別思想絶滅を目指す現代には、
絶対に登場しえない作品である。…ここまでグロテスクな発想を生み出す頭脳を、
同じ人間が有していたというこ
とは、いまもって信じがたい気がする」
「どうやら、文学とは、芸術とは何かという、もっとも入口に近いところで、
僕は江戸川乱歩に出会い、顔を背けて別の道へ歩きだしていたようだ。
もしかすると、こっちの道のほうが複雑な迷
路だったのかもしれないが、壁をまさぐって行けば出口がある。少なくとも希望がある」
「たかがミステリーに文学だの芸術だのはおこがましいと言われるだろうけれど、
ミステリーだからこそ美学が求められるべきだと僕は思う」
「犯罪は人間や人間社会が垂れ流したウミや排泄物のようなものだ。それを描けば当然、
人間が見えてくる。…しかし、そこにある物が露骨な排泄物であるかぎり、
読者は、その向こう側に
ある人間の尊厳や美しさを忘れてはしないか。乱歩に出会った少年の僕は、
蠱惑は蠱惑として驚き、あるいは惹かれながら、ついに顔を背けたにちがいない。
その選択が現在の僕の小説
作法に投影されていることを、いまは乱歩先生に感謝している」
127吾輩は名無しである:2001/02/04(日) 22:32
なんとまあ、独善的で幼稚な解釈だろうか。このような作家が
日本の推理作家のなかでも有数の売り上げを記録しているとは信じがたい。
作家同様に読者も幼稚な人間がそろっているの
だろう。内田氏はグロテスクである、という「芋虫」の表層しかみていない。
彼の美学としては見目麗しい登場人物が好きなようである。確かに「芋虫」の
須永中尉の姿は醜い。しかしだからと
いって彼の存在すべてが醜いと断罪する内田氏は浅薄な読書しかできていない。
「芋虫」にはさまざまな問題提起と葛藤が折り込んであるのを読み取れないの
だろうか。鷲尾少将を代表と
する世論の無責任な英雄と貞節な妻という伝説、そしてその檻に閉じ込められた
須永夫妻の苦しみを。須永中尉は自分のアイデンティティを勲章という
金属の塊でしか確認できず、あとは
生ける肉塊でしかありえないという苦痛。時子は夫の介護に疲れ、世間の重圧に
押しつぶされて有り余った性欲を異常な形でしか表現できない。現在介護はもっとも
深刻な問題であり、性
欲はべつにしても同様の苦痛を感じている家族は国内に数多くおられることだろう
。そのようなぎりぎりの状態で時子が爆発して須永中尉を傷つけたにもかかわらず、
中尉は動かぬ体で
「ユルス」の一言を残して古井戸に身を投げて自殺するという結末は、彼がただの
肉塊ではなくすべてを理解した優しい夫であったということを意味しないか。
ある意味、「芋虫」は恋愛小説
でもあるのだ。
128吾輩は名無しである:2001/02/04(日) 22:33
まあ内田氏が「盲獣」あたりを出して非難するのならまだわかる。
これは乱歩自身も認めるグロテスクだけの失敗作だからだ。しかし
その場合には私は「芋虫」や「陰獣」がありますよ、とい
ってやることもできる。だがこのように「芋虫」をも読み解けないような
作家は、どうしようもないとため息をつくしかない。なにしろ彼の
「美学」による「小説作法」とは人形のような登場人物が
現代の水戸黄門をやっているようなことなのだから。