江戸川乱歩2

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81男色の日本史@
乱歩を理解するうえで必要不可欠な、男色の日本史を、駆け足で行きます。

『古事記』『日本書紀』には、ヤマトタケルが女装してクマソを刺し殺した物語が描かれているが、
彼らが同衾したことはあまり知られていないようである。

奈良の古い寺に残されている仏像には少年の面影を宿したものが多い。
浄土真宗を覗いて、古くは仏教では女人禁制で僧侶の妻帯を禁じていたため、
僧侶の性愛の対象はもっぱら稚児(少年)であった。
江戸時代の儒学者・貝原益軒は「男色の戯れは弘法以来のことなり」と言っているが、
もちろん弘法大師こと空海以前から日本に男色はあった。
だが、男色を文化にまでしたのは空海だと言われている。
空海は唐に留学した際、密教とともに男色文化をも持ち帰った。
当時の唐は男色風俗が流行しており、都の長安には男娼もたくさんいたのである。
空海が開いた高野山は、美しい稚児を愛玩したり崇拝したりするような独自の文化が育った。
空海と同様に唐に留学した最澄もまた稚児文化を取り入れた。
最澄の比叡山には「一稚児、二山王」(山王権現=守護神よりも稚児のほうが崇拝されている)という言葉が残っている。
『後拾遺和歌集』という勅撰和歌集には、
延暦寺の優秀な学僧、僧都偏救や律師慶意らが稚児を想う恋歌が載っている。
82男色の日本史A:2011/10/03(月) 00:17:55.67 ID:aI8+46lk
貴族と男色について。
『万葉集』では大伴家持が藤原久須麻呂に贈った歌の中に、
明らかに男色の求愛を意味する歌があることが知られている。
『伊勢物語』の在原業平も同性と恋をする話があり、
『源氏物語』の光源氏も少年と関係を結ぶくだりがある。
日本の名だたる古典文学のあちらこちらに見られる男色の記述からも、
男同士の恋が当時の貴族の間では異端視されるものではなかったことがうかがわれる。
院政期は宮廷内で特に男色が流行した時代で、
白河院や鳥羽院、後白河院が美少年や美青年を愛したことは有名である。
院政期、美貌と優雅さ・教養によって上皇に愛されて出世を遂げた男が数多くいたのである。
北面の武士も美男子揃いで、
そのなかの藤原盛重や平正盛は低い身分から白河院の寵愛を受けて出世した代表例である。
鳥羽院と男色の関係を結んだ男のひとりには藤原頼長がいる。
頼長は藤原摂関家の氏の長者という超エリートであり、美男だった。
彼は藤原隆季や藤原成親とも愛人関係にあったと、源義賢の日記には書かれている。
武士とも肉体関係を持った頼長は、鳥羽院の崩御をきっかけに彼ら武士の力を借りてクーデタを起こす。
男色は享楽的な戯れではなく、政治的な手段でもあったのだ。
「能もなく、芸もなし」と言われた藤原信頼は、後白河院の愛人であったために出世した男である。
83男色の日本史B:2011/10/03(月) 00:23:50.92 ID:aI8+46lk
武家においても男色は盛んであった。
『平家物語』には、男色文化の化身ともいうべき美青年・平敦盛が登場する。
荒くれ武者の熊谷直実は、敦盛の美しさにハッとして、刀を振るう手が止まってしまうのである。
源義経の家来・佐藤嗣信が主君を守って戦死した様は、
江戸時代の武士道のバイブル『葉隠』で「武士としての理想的な死」と絶賛された。
『葉隠』では、これが武士の美意識であるとする。主のために死ぬことこそが、武士にとっての至上命題になり、
その根底には主従間の恋愛があるのだ。
ちなみに『葉隠』の大半が男色についての記述であることは周知のことである。
それはさておき、公家の男色文化を取り入れ、武士の間にも男色が定着した。
鎌倉幕府の執権・北条高時は美少年を寵愛し、北面の武士出身の足利尊氏もまた男色に通じていた人である。
足利三代将軍義満と世阿弥がそうした関係にあったことは有名である。
足利六代将軍義教の愛人は、美男の赤松貞村であるが、
江戸時代の滝沢馬琴は『近世説美少年禄』で、応仁の乱の原因は男色にあると記しているが、
なるほど、見ようによっては赤松家の美男が歴史を動かしたといえなくもないのである。

戦国時代になると織田信長と若き日の前田利家の関係を引くまでもなく、
武家の間では男色はごく当たり前のことであった。
フランシスコ・ザビエルは、日本のこの状況を見て憤慨し、
恩人である大内義隆にさえ「あなたの行い(=男色行為)は畜生にも劣ります」と箴言した。
その大内義隆の愛人は美男で有名な陶隆房(晴賢)であり、
隆房の兄は、義隆の父・大内義興の愛人だった。
さて、「茶の湯」「茶道」がなぜ、戦国武将の間で大流行したのかというと、
これもまた男色に関係があるとされている。
唇を間接的に触れる茶道の回し飲み(いわゆる間接キスである)は、
「他人ではなくなる」ための儀式だからなのだそうだ。
南方熊楠(1867〜1941)は自著で、
「目のさめるような美少年が目の前にいたが、相手が皇族だったため、茶の湯だけで満足した」
という記述を残している。
つまり、茶の湯とは男同士のセクシャルな行為なわけである。
84男色の日本史C:2011/10/03(月) 00:26:39.43 ID:aI8+46lk
戦国時代末期、「かぶき者」と称する一団が出現する。
彼らは「男伊達」という男同士の義理を重んじ、
茶道と同じようにキセルを共有することで間接的に唇と唇を重ね、男色を好んだ。
江戸時代になると男色は町人にまで拡がった。
江戸時代こそが男色が日常の中に溶け込んでいた時代といっても過言ではない。
売色のシステムが整い、男が男を買う陰間茶屋が京都や大阪、江戸などの都市に盛んに建てられた。
井原西鶴の「好色一代男」を読めば、主人公の恋の相手が女だけではないことに気づく。
西鶴は日本を男色の天国と呼び、美女よりも美男の方が価値が高いと言い切った。
そして松尾芭蕉は杜国という同性の恋人をともなって旅に出る。

徳川幕府を倒した薩摩藩こそは、戦国武将以来の衆道(男色)を頑なに守ってきた集団であった。
薩摩には「郷中教育」という、戦士を育成する特有の教育制度があった。
二才(青年)と稚児が男色の関係を結び、ともに学んで精進するのである。
これが、薩摩の結束力の秘密であり、
宮武外骨が「同性契交の士風は薩南のそれに似たものがある」と述べているように、
維新で活躍した土佐藩にも、同じような男色の風土があった。
西南戦争が起こると、明治政府軍は薩摩藩の士気の高さに驚く。
この戦いを通じて山県有朋は衆道の精神を学び、日本の近代軍にもそれを注入したと言われている。
ドイツの民俗学者フリードリヒ・クラウスも
「日本兵が清やロシアに対して勇敢に戦ったのは、兵士同士の愛の絆だ」と述べている。

余談だが、南方熊楠は、男色には「浄愛」と「不浄愛」があると言う。
不浄愛とは、性的な快楽のみを目的とする男色のことであり、浄愛とはまったく別物だとし、
浄愛の崇高さを力説した。
武士の間に求められ、衆道という「道」にまで高められたのは当然「浄愛」の方であり、
江戸川乱歩が男色に求めたのも、「浄愛」の方であろう。
85男色の日本史D:2011/10/03(月) 00:31:33.56 ID:aI8+46lk
男色を罪悪視する文化は開国とともにやってきた。
明治維新によって日本は西洋文化を積極的に受け入れることになり、
同性愛は罪悪として糾弾するキリスト教の影響によって、男色文化を日陰へと追いやることになった。
何せ西洋の先進国イギリスでは明治維新のわずか7年前まで、
男色者は死刑にするという制度があったのだから、推して知るべしである。
男色や混浴など、西洋人が罪悪だの野蛮だのと見なした習慣は次々と片隅へと追いやられたのである。

それでも明治、大正、昭和初期までの日本では、男色は社会の中で特に迫害を受けることなく息づいていた。
森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』には私立学校の寄宿舎で男色が流行しているさまが描かれている。
永井荷風の『新橋夜話』にも男子学生間の男色の話が出てくる。
福永武彦の『草の花』には少年同士の愛が描かれている。
こうした例は挙げたらキリがない。
江戸川乱歩も『孤島の鬼』で男色を異様なる恋愛と異端視しつつも、
主人公の学校でも遊戯に近い感じでは同じ事柄が行われていたと書いているように、
こうした若い時期の一過性の男色の習慣は、戦前までは脈々と受け継がれていた。
さらにいえば、大正から昭和初期にかけては、男性間の同性愛だけでなく、
それまで黙殺されてきた女性同士の恋愛も脚光を浴びるようになった。
女性同士の恋愛を描いた映画や小説も盛んに描かれるようになり、
女性たちの間で大人気を博したのである。
昭和初期には心中事件がやたらと多かったが、その中には同性心中も多く見られる。
男性同士、女性同士が心中するわけだが、当時の新聞記事等を読むと、
現代よりも同性愛への偏見や嫌悪は激しくなかったようである。

日本の歴史の中で、同性愛者がもっとも住みにくい時代というのは、
実は、西洋の価値観をまともに浴びることになった戦後である。