ひぐらしのなく頃にpart3

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714689
>>657でID:juRZhK5D(現ID:rkxFlkc6)の
>問題なのは設定が編によって違っているものがある。
>いくら解答編だからといってもうちっと丁寧につくれと
という発言から口切りにしてこの話題ははじまっている。

それに対して
>>661で ID:teSpBz36(現ID:y2ZZytUl)が
>設定が違ってる所とかあったっけ?どこ?
と返す。
さらにそれに対して>>666でID:Hz3BWUtv(現ID:rkxFlkc6)が
>罪滅し編で魅音が鷹野はdでもな話をみんな一回は聞かされるってやつ
と答える。
それに対して現ID:y2ZZytUlが、>>668(ID:1pwxCnPT)、>>682(ID:Y5g+VBJN)などで
「それは設定変更ではない」「推理の判断材料と言う点には無関係」という主旨の返答をする。
(IDの同定については間違っている可能性もあるので、当人が誤りだと感じたなら指摘頼む。)

ここまで設定の同一性と推理に支障をきたさないことを強調して、
>本来ミステリとして他にフォロー不可能なツッコミどころ満載なひぐらしで、
>なんであえて、フォロー可能なこんな微妙な部分だけを
>あげつらう必要が、とは初めから思ってた。
と繰り出すのって、論点のすり替えじゃないのかな。
「初めから思ってた」のなら、
「そうだな。それが設定変更かどうかは俺は保留しているが、他にもひどいところも多いな」
で済ませばよかったんじゃないの?
いつのまにか、設定変更なのかどうか→その設定変更を論ずる価値があるかどうか にすり替えられているだが。
ゲーム盤を引っくり返されたような感じだ。
715689:2006/02/02(木) 15:05:32 ID:m6c2Fmwb
 また、アナロジー的側面は、作中の部活(ゲーム)というかたちでも現れている。
個々の人物との親密さを高めるエピソードを配することなく集団単位で物語を進行させるためでもあったのだろうが、
出題編特に鬼編ではゲームによって日常性を演出していた。このシーンそのものは、同人・オタク臭いものではあったのだが、
【会話/ゲーム】という二重性によってゲームが会話ややりとりを自動的に進行させる装置となっている側面もあり、
この二重性がアナロジーとして機能し、奇妙なリアリティを獲得していた。
そのリアリティとは、そのゲーム自体やプレイ自体、台詞自体にリアリティがあるというよりも、
関係性が関係性を支えるルールの層と不可分になっているという意味でのものだった。
つまり、前編後編の対比によって人間関係のリアリティが演出されていたとする見方以外にも、
【会話/(会話を自動生成する)ゲーム】というアナロジー的なリアリティがあったとする見方もありえたように思う。

 では、そうしたアナロジー性をはたして活用できているのか。
出題編の特徴とは、証言や証拠の不確かさによる疑心暗鬼や不信だった。これは主人公視点のみならず読者側においてもそうだった。
それに対して解答編が提示した特徴は、仲間・信じる・奇跡を検証可能性や交渉プロセス、リスク意識の上での信頼関係などを度外視して成立させたものだった。
ここでは演出的な軸は、不信→悲劇/ベッタリ「仲間!」→奇跡 というコインの裏表がクルクル回っているにすぎない。
これでは、疑心暗鬼と不信の乗り越えとして提示されたものとしては貧弱すぎる。
むしろ、不信だった自分に決別して不安に蓋をする振る舞いと言ってもよく、成長や進展とは程遠い。
つまり、【会話/ゲーム】という二重性が喚起していたアナロジー性は、活用されないままに終わったのだ。
716689:2006/02/02(木) 15:07:01 ID:m6c2Fmwb

 出題編までの部活に見られるゲームの側面を一旦整理してみよう。
ゲームをするプレイヤーとしてキャラたちは、原則的にはフェアな条件にあった。
条件差のあるキャラは、いわば魅音だったが、【村内での園崎のもつ力】が【ゲーム内での魅音のもつ力(条件差)】というかたちで同型になっていた。
これは梨花と魅音との属性の対比によって際立っているだろう。
世俗的・実務的には無力だが平行世界を横断して生存しようとしている梨花と、
世俗的な力を持ってはいるが各世界において犯人の意図を知る立場にないままに死ぬ魅音。
それぞれ、持っている力の領域が別々のところになっているわけだ。

 このように、それぞれ動作主の置かれている異質な複数のゲーム盤がある。
そこにおいて俯瞰ができないままに、各自は自分の力に限定を受けて行動するほかない。
そのような両立しがたい世界(ゲーム盤)でどのような信頼関係や共同関係を描くことができるのか、
というかたちでアナロジー的な面を掘り起こして展開させる方向をひぐらしは孕むことができた。
717689:2006/02/02(木) 15:11:17 ID:m6c2Fmwb

 だが、関係付けのさまざまなプロセスの局面が描かれることなく、そうしたテーマは潰れてしまう。
よって、会話と会話を支えていた基盤といった二重性ははかなくも消え、ベッタリと一枚岩になってしまう。
そこでは、別々の世界観を持つ人物たちの、それでもなお何らかの関係付けをおこなうといった
意志や選択がはじめからかき消されており、予め用意されたような枠へと凝集しているにすぎない。
こうして、仲間/敵の二分法が強化され、異質な者との交渉や連携などといったリアリティは消失した。
交渉ゲームやそのプロセスとして皆編前半部をより豊穣にしていく手はあっただろうし、後編をその側面で進展させるという道もあっただろう。
部活メンバーは梨花の話をたちどころに信用してしまうのだが、罪編ラストのように(チャンバラはこの際措く)、
「部活メンバーを信じさせるならば、部活で勝利せよ」という条件を持ってきて、信頼過程に二重性を持たせることもできたはずだった。
便宜的な関係付けとしてのゲーム、というありえたモチーフは捨てられ、「根拠無き信じること」が強化されてしまうという後退に陥っている。

 こうして、人間関係のテーマとしての出題編〜解答編は、無残な結果に終わった。
だが、TIPSテキストにおいて模索がありえたように、模索できる余地はあった。残念ながらそれは素通りされてしまったのだが。


このように、
【テーマとしての人間関係におけるアナロジー&ゲームの活用】           >>714-716
【アナロジーでしか辿りようのない世界ルールの解読におけるアナロジーの活用】 >>709-710
【主テキスト/TIPSテキストの二重構成における模索可能性】            >>696のリンク先
という三種の模索がありえたのだが、そのほとんどが流産したという印象をもっている。
ミステリ的な側面がボロボロになることは予測できなかったわけではなかったのだが、
こっちが重点に来ると思っていた俺としては、これらがうまく行ってないことに悲しさを覚えた。