【夜の夢こそまこと】江戸川乱歩第四夜

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219名無しのオプ
乱歩のネジレ趣味が徹底していたことは、自らを「現世のリアルを愛せず、架空幻想のリアルを愛する(探偵小説四十年)」人間だと言い、
色紙を依頼されると「うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと」と書いていたことにも明らかである。
「押絵と旅する男」を浅草的に読んでいくにあたって、この<ネジレ趣味>は有効だと思われるが、その際特に注意したいのは<感覚>のネジレである。

 既に多くの指摘があるように「押絵と旅する男」は視覚を扱った物語であり、ここには多くの<視界を歪める装置> 
……蜃気楼、遠目がね、のぞきからくり、十二階の眺望…… が登場する。
しかし話を視覚のネジレだけに限定してしまうと、乱歩の世界の広がりもかなり制限されてしまうように思う。
ここで「浅草趣味」の中にある「いやみたっぷりなものを見ると、こう身体がネジレて来る」
という言葉に注意してみたい。
これも例によっておおげさな誇張表現だととられるかもしれない。しかしここにはいわゆるリアリズムとは別のリアリティの追究がある。

 我々はガラスを爪で引っ掻いた時、ゾッと寒気を感じる。これは本来耳で感じるはずの音に対して触覚が反応している例で、共感覚と呼ばれる現象である。
乱歩の言葉も、いやみたっぷりなものを<見て>、ネジレという<触覚>を感じている。乱歩は体質的に共感覚を感じやすかったらしく、
一つの感覚器が感じたネジレに全身で反応し、ある時はそれを怖がったり、又楽しんだりしていたということになる。

220名無しのオプ:04/10/05 17:36:51 ID:mbEBZR4k
さて、私は風呂敷の中にあった押絵を見るのだが、そこで直観的に「奇妙さ」を感じる。十七八の美少女と白髪の老人とが濡れ場を演じているという構図の奇妙さもさることながら、
私を驚かせたのは「押絵の人物が二つとも生きていたこと」である。

 木村敏氏によれば、共通感覚不全の病である離人症の患者は、人間的なあらゆる情感を失い、例えば「絵を見ていても、いろいろの色や形が眼の中へはいり込んでくるだけ、
何の内容もないし、何の意味も感じない」という(14)。
そうした症状と対比すると、ここで私が押絵の中の人物に生命を感じとっているのは、共通感覚不全ではなく、逆に鋭敏すぎることを示している。

 老人は私の反応を見て「ああ、あなたはわかってくださるかもしれません」と叫ぶように言うが、これは同好の士を見つけた喜びであり、二人の距離はこの後ますます近づくことが予想できる。

 ここで老人はおもむろに遠目がねを取り出し、それで押絵を覗くことを薦める。

娘は動いていたわけではないが、その全身の感じが、肉眼で見た時とはガラリと変わって、生気に満ち、
青白い顔がやや桃色に上気し、胸は脈打ち(実際私は心臓の鼓動をさえ聞いた)肉体からは縮緬の衣装を通して、
むしむしと若い女の生気が蒸発しているように思われた。

遠目がねは<視覚を補強する装置>としてではなく、ここでは絵の中の娘に生気を与えるものとして、
言い換えれば<共通感覚を補強する装置>として登場している。