6 :
名無しさん@また挑戦:2007/02/25(日) 03:20:09 ID:qhQx4Wg1
62 :
名無しさん@また挑戦:2007/04/21(土) 23:58:33 ID:jOcdMyIj
♥
124 :
名無しさん@また挑戦:2008/07/18(金) 12:59:06 ID:OTrF4J7H
v
125 :
名無しさん@また挑戦:2008/08/18(月) 22:56:19 ID:Y4/4ZB71
テスト
126 :
名無しさん@また挑戦:2008/09/01(月) 23:47:19 ID:U059Mglk
テスト
ブックマークなんちゃら
あげ
晒し?宣伝?
恋してはいけない!
恋したら怖ろしいことになる!
恋したらだれかが死なねばならぬ!
これが姦通のダイゴ味であつて、みんなに祝福される恋なんか、これに比べたら日向水にすぎません。この怖ろしさが、
また、恋のダイゴ味の絶頂ですから、かくも永いあひだ、文学や演劇で、姦通は恋愛の代表の役目をつとめて
来られたのです。
不貞を働いた女房を愛するもつとも男性的な愛し方は、彼女を殺すこと以外にはありません。
厳粛さ、三つ巴にガッチリ組まれた人間おのおのの純粋さ、これが姦通の真の美しさであります。女は青年を
愛して、夫もこどもも金も平和もすべてを投げ捨て、青年は女を愛して命を投げ出し、夫はそのとき二人を
殺すことしか考へない……。
姦通とは、恋愛対社会のもつとも純粋な公式なのです。世間的に尊敬されてゐる夫も、ひとたびこのドラマに
組み込まれた以上、社会の掟もものかは殺人犯にならなければならない。
三島由紀夫「反貞女大学 第一講 姦通学」より
女性はともすると、自分の力でもないものを楯にして、相手を軽蔑する。
ひよつとすると、夫への軽蔑には、母性愛の別なあらはれがあるのかもしれません。これはもつとも愛すべき、
おだやかな軽蔑といふものです。
私の知つてゐる奥さんで、亭主が脳溢血で倒れて生死の境をさまよつてゐるとき、オリンピックの開会式へ
出かけた人がありますが、これなんか、軽蔑学の最高段階といふものです。
妻の軽蔑病は、ぜいたくと暇と退屈から生まれることが多く、その経済的裏づけは夫のおかげなのですから、
多くの場合、夫は働くことによつて、自分に対する妻の軽蔑を助長してゐることになります。これが夫婦と
いふものの、かなり情ない実態であります。
軽蔑とは、女の男に対する永遠の批評なのであります。
三島由紀夫「反貞女大学 第二講 軽蔑学」より
女性の特徴は、人の作つた夢に忠実に従ふことでせうが、何よりも多数決に弱いので、夫の意見よりも、つねに
世間の大多数の夢のはうを尊重し、しかもその「視聴率の高い夢」は大企業の作つた罠であることを、ほとんど
直視しようとしません。
「だつて私の幸福は私の問題だもの」
たしかにさうです。しかし、あなたの、その半分ノイローゼ的な、幸福への夢へのたえざる飢ゑと渇きは、実は
大企業が、赤の他人が作つてゐるものなのです。
三島由紀夫「反貞女大学 第三講 空想学」より
大昔の男は、女が妊娠と育児のために、平和な静かな場所と栄養を必要とすればするほど、それを確保してやるために、
夫婦愛から戦争をおつぱじめたものである。なぜなら男は何かを得るためには、戦ひ取るほかに方法を知らない
からです。
一から十まで完全に良い趣味の男といふのは、大てい女性的な男ですし、ニヒリズムを持たない男といふのは、
大てい脳天パアです。
三島由紀夫「反貞女大学 第四講 平和学」より
貞女とは、多くのばあひ、世間の評判であり、その世間をカサに着た女の鎧であります。
一夫一婦制が存在し、社会のモラル感覚がそんなに飛躍しないかぎり、「貞女」といふ看板は、表むき、どこでも
役に立ちます。
三島由紀夫「反貞女大学 第五講 嫉妬学」より
芸術および芸術家といふものは、かれら自身にとつては大事な仕事であるものが、女性からは暇つぶしに使はれる
といふ宿命を持つてゐる。モーツァルトがどんなにえらからうと、暇がなければ、誰がモーツァルトをきく気に
なるでせう。トルストイがどんなに天才だらうと、暇がなければ「戦争と平和」なんて読めたものではない。
ところで女性は、自分の暇を、何かきよらかな、美しい、崇高な時間に変へてくれたものに対して感謝を忘れません。
亭主はそれに反して、彼女の暇を、掃除だの、授乳だの、おむつの洗濯だので充たしてくれましたが、何ら
精神的に高めてくれたことがない。
そこで彼女たちの幻の芸術崇拝、芸術家崇拝がはじまります。
三島由紀夫「反貞女大学 第六講 芸術学」より
芸術家といふのは自然の変種です。
角の生えた豚は、一般の豚から見れば、たしかに魅力的かもしれませんが、何も可愛いわが豚娘に、わざわざ
角を生やしてやるには及ばない。
三島由紀夫「反貞女大学 第六講 芸術学」より
ちよつと考へると、「ものを食はせたがる女」は母性型貞女で、「もの食ふ女」は浪費型貞女のやうに思はれますが、
一概にさうともいひきれません。
三島由紀夫「反貞女大学 第七講 食物学」より
方向オンチを特色とする女性が、どこかの地理を意外によく知つてゐたら、あやしいと思つてよろしい。それは
彼女がその土地、その場所に、よほど特殊な思ひ出を持つてゐると考へてよいからです。
恋愛のやうな感覚的高揚状態では、理性的な地理学を超越することがしばしばある。もう一度あの人に会ひたい、
とどちらも思つてゐるばあひ、ひろい東京の中でも、ふしぎと偶然に出あはすことがあるものです。確率から
いつたら、おそらく何億分の一のチャンスでせう。
三島由紀夫「反貞女大学 第八講 地理学」より
夫婦同伴の社交といふのは、本当のところ、ひとの奥さんをただの芸者がはりに使つて、会合に色どりと潤ひを
添へようといふ目的にほかならない。
女の社交能力には、いくばくの娼婦性がひそんで来ることは、当然であつて、この点古代ギリシャや日本のやうに、
女をはつきり娼婦と母性に二分し、芸者的なものと家女房的なもの、くろうととしろうととに分けてしまつて
きた社会とは、そこにおのづから相違がある。多少の精神的娼婦性が美徳とされるやうな社会でなくては、
夫婦同伴システムによる社交は、じゆうぶんに開花するはずがないのです。
愚連隊仲間がそれぞれスケをつれてピクニックに出かけ、イザコザのあげくに、血の雨を降らす、……などと
いふ事件をきくと、みんなは「バカだなァ」と笑つてゐるが、日本の現在の夫婦同伴型社交には、スケ同伴の
愚連隊の社交と、思想的に五十歩百歩なのがずいぶんある。
三島由紀夫「反貞女大学 第九講 社交学」より
同性の讃辞は、大てい「ほめ返し」を暗々裡に要求してをり、また、うつかりしてると、思はぬ皮肉のトゲを
含んでゐることがありがちである。
そこへ行くと、異性の賞讃ほど耳に快いものはない。西洋人の男はその点敏感で、ご婦人の靴までほめるが、
日本の男はたうていそこまで行かないにしても、目で、暗黙のうちに、彼女の全体をほめることを知つてゐる。
大体、男は女の着物などには大した関心はないので、顔や肉体のはうがよほど関心事なのであるが、正直に
それをいへば、失礼だし、Hと思はれる心配があるので、黙つてゐる。さうかといつて外国人の男みたいに、
ネックレスや靴までほめて女を喜ばす技術がないから、仕方なしに黙つてゐる。
日本的ドン・ファンが、高らかなラッパの音と共に登場するのは、まさにこの瞬間です。
(中略)ハタではきいてゐられないやうなキザな言辞を平気で弄し、つひには、足、つひには、胸まで、
言葉による愛撫の手をのばすのです。(中略)日本的ドン・ファンは、本格的日本語の素養なんか、なければ
ないほど成功する。
三島由紀夫「反貞女大学 第九講 社交学」より
表向きこそレディ・ファーストながら、家の中では、アメリカ人の男はさいふのひもをガッチリ握り、支出を
細かくつけ、さいふをとほして女房を支配し監督してゐるのがふつうの例で、そこでは、ベッドの中では
百パーセントの愛が交換されても、経済面では、お互ひに百パーセント信用できない、といふ人間関係が
成り立つてゐる。
相互不信といふことが、西洋の近代社会の原則であつて、それが日本の義理人情の社会とちがふところです。
それは夫婦の間だつて同じことです。
日本の月給袋を預ける亭主が、女性の「母性化」のために全力をあげてゐるとすれば、アメリカの亭主は、
さいふをガッチリ握ることによつて、女性の「娼婦化」に全力をあげてゐるといつても過言ではない。
三島由紀夫「反貞女大学 第十講 経済学」より
同性たちに好かれる女性は年をとるにつれて人間的魅力を増し、いふにいはれぬおもしろいパーソナリティーを
形成します。
彼女たちには必ずどこか抜けたところがある。これは男の魅力にも通じるもので抜けたところのない人間は、
男でも女でも、人気を博することはむづかしい。
三島由紀夫「反貞女大学 第十一講 同性学」より
ある女は心で、ある女は肉体で、ある女は脂肪で夫を裏切るのである。
女性はそもそも、いろんな点でお月さまに似てをり、お月さまの影響を受けてゐるが、男に比して、すぐ肥つたり
すぐやせたりしやすいところもお月さまそつくりである。
三島由紀夫「反貞女大学 第十二講 整形学」より
知性の性質は、ほかのいろんな人間の能力と同様に、抵抗を求める、といふところにあります。
多少とも知的に進歩した女性は、尊敬されることよりも、いつか尊敬することをのぞむやうになる。
知的女性は、やたらむしやうに「先生」をほしがりはじめるのです。有益な「先生」のお話をききたがつたり、
えらい「先生」のお弟子になつたりしたがる。
愛から嫉妬が生まれるやうに、嫉妬から愛が生まれることもある。
三島由紀夫「反貞女大学 第十三講 尊敬学」より
サービス業の女性と結婚して興が褪めるのは、彼女たちの技巧が鼻について来るのと、一方、その技巧と素顔の
ギャップが耐へられなくなるからです。
三島由紀夫「反貞女大学 第十四講 技巧学」より
アメリカ風の夫婦単位、夫婦中心の生活が一般的になつてくると、貞女たるの条件は、だんだんむづかしく
なりました。(中略)結婚してからも、「女」であることをないがしろにできないし、したがつて女の技巧も
忘れてはならない。昔なら、夫への愛はともかくとして、姑と子供に一心に尽くしてゐれば、あつぱれ貞女で
通つたものが、今は、それだけではすまなくなつた。このごろの若い奥さんたちの服装はますます派手になり、
商売女と区別がつきにくくなつた。昼間からチャラチャラ、イヤリングを下げて歩いてゐるのも珍しくない。
さうなると困つたことに、家庭の妻も、サクラの造花を天井からぶら下げたやうなかつかうになり、玄人みたいな
愛の技巧を弄し、……家庭外の女性と変はりばえがしなくなる。貞女であらうとしてはじめたことが、魅力を
失ふ結果に終はりがちです。
三島由紀夫「反貞女大学 第十四講 技巧学」より
ちやうど年寄りの盆栽趣味のやうに、美といふものは洗練されるにつれて、一種の畸型を求めるやうになる。(中略)
そして、さういふ奇妙な流行を作るのは、たいてい男の側からの要求であり、パリのデザイナーもほとんど男ですし、
ほかのことでは何でも男性に楯つくことの好きな女性が、流行についてだけは、素直に男の命令に従ひます。
三島由紀夫「反貞女大学 第十五講 栄養学」より
人間、至りつくところは狂人の姿である、といふのは、あんまり楽しい哲学ではありませんが、一片の真理が
含まれてゐます。
貞女も反貞女も、極致の姿は、狂女の形に象徴されるやうであります。
人がまづまづ安心して「彼女は純真な愛を捧げてくれた」などといへるのは、彼女が死んだか、狂人になつたかの時に
限られてゐます。
反貞女であればこそ、健康で、欲が深くて、不平不満が多くて、突然やさしくなつたりするし、魅力的で、
ピチピチしてゐて、扱ひにくくて、まあまあ我慢できる妻でありうるのです。いくら貞女でも、狂人や死人では
困ります。
三島由紀夫「反貞女大学 第十六講 狂女学」より
離婚なるものには、きれいも汚ないもありはしない。どんな別れ方をしようと、世間体がわるいことには変りが
ないのです。
それが証拠に、結婚式なるものはあつても、離婚式なるものはない。
結婚のをはりを美しくする一番いい方法は、今まで結婚してゐたことをだれにも内緒にしておくことで、十何年も
それをやつてゐた男を私は知つてゐます。
三島由紀夫「をはりの美学 結婚のをはり」より
電話の声といふやつは、それだけで立派に人の感情をかきみだす力があるくせに、姿は見せない忍者的存在である。
電話は一種の心理的凶器になり、その会話の殺人的幕切れは、人間の言葉・声・抑揚などがみごとに総合的な力を
発揮しながら、しかも「顔が見えない」といふ謎を残す。
テレビ電話の時代になつたら、電話のをはりは、テレビ・ドラマのをはりのやうに、「をはり」の字幕と
それにつづくコマーシャルで、お祭りさわぎでをはるやうになり、こんな心理的余韻の怖ろしさはなくなるでせう。
三島由紀夫「をはりの美学 電話のをはり」より
流行の妙な点は、家来のはうが主人に飽きて、次々ととりかへるといふ点です。
主人のはうが家来に飽きて、次々とクビにするなら話はわかるが、流行の場合は、平伏し、あがめ奉り、尊敬し
身も心も捧げてゐる側が、突然気分がかはつてソッポを向いてしまふことです。
清潔なものは必ず汚され、白いシャツは必ず鼠色になる。人々は、残酷にも、この世の中では、新鮮、清潔、真白、
などといふものが永保ちしないことを知つてゐる。だから大いそぎで、熱狂的にこれを愛し、愛するから忽ち
手垢で汚してしまふ。
しかしどんな浅薄な流行でも、それがをはるとき、人々は自分の青春と熱狂の一部分を、その流行と一緒に、
時間の墓穴へ埋めてしまふ。二度とかへらぬのは流行ばかりでなく、それに熱狂した自分も二度とかへらない。
三島由紀夫「をはりの美学 流行のをはり」より
童貞のをはりは、たしかに長いあひだの熱烈な知識欲の満足だが、男の知識欲はそれでをはつてしまふわけではない。
その第二回、第三回、第四回……第百八十七回などの満足は、童貞のをはりほどの大満足ではないかもしれないが、
性質は似たやうなもので、五十歩百歩のちがひしかない。だから、男の性的知識欲と性的満足とのドラマには、
永久に、「童貞のをはり」のくりかへしがあるだけで、性的技巧の上達など、末の問題にすぎないとはいへない
だらうか。
性に熟練した男といふのは、実は同じ芝居、たとへば「父帰る」とか「沓掛時次郎」とかの芝居を何千回くりかへして、
くりかへすうちに巧くなつた、しがない旅芝居の役者みたいなものです。
男にとつては生へぶつかつてゆくのは、死へぶつかつてゆくのと同じことだ。
得意の鼻をうごめかして、童貞を失つた話をしてゐる若者は、生でも死でもないコンニャクにぶつかつただけの
ことであり、彼は一生そのコンニャク演技をくりかへすことでありませう。
三島由紀夫「をはりの美学 童貞のをはり」より
美は、尊敬に値ひするものの一つです。美しければ、バカでも一向かまはないのだが、女性が同性に対するふしぎな
矛盾した心理として、美しさに対する憧れももちろんあるが、嫉妬もあり、自分の尊敬心を十分満足させるだけの、
ほとんど不可能なほどのきびしい条件を相手の美人に課する。
三島由紀夫「をはりの美学 尊敬のをはり」より
はつきりいつてしまふと、学校とは、だれしも少し気のヘンになる思春期の精神病院なのです。(中略)
先生たちも何割か、学生時代のまま頭がヘンな人たちがそろつてゐて、かういふ先生は学生たちとよくウマが合ふ。
本当の卒業とは、
「学校時代の私は頭がヘンだつたんだ」
と気がつくことです。学校をでて十年たつて、その間、テレビと週刊誌しか見たことがないのに、
「大学をでたから私はインテリだ」
と、いまだに思つてゐる人は、いまだに頭がヘンなのであり、したがつて彼または彼女にとつて、学校は一向に
終つてゐないのだ、といふよりほかはありません。
三島由紀夫「をはりの美学 学校のをはり」より
もちろん年齢にしたがつて、いはゆる精神的な美しさは加はつてゆくけれど、身も蓋もない話だが、五十歳の美女は
二十歳の美女には絶対にかなはない。
美女と醜女とのひどい階級差は、美男と醜男との階級差とは比べものにならない。
美女は一生に二度死ななければならない。美貌の死と肉体の死と。一度目の死のはうが恐ろしい本当の死で、
彼女だけがその日付を知つてゐるのです。
「元美貌」といふ女性には、しかし、荒れ果てた名所旧跡のやうな風情がないではありません。
三島由紀夫「をはりの美学 美貌のをはり」より
手紙は遠くからやつてきた一つの小舟です。(中略)私たちは、空間の海をとほつて流れて来た小舟を、読み
をはると間もなく、時間の海の沖のはうへ、すなはち忘却へと、流し去つてやるのです。それは施餓鬼の灯籠の
やうに、ちらちらと水に灯を流しながら、遠ざかつて行きます。
その遠ざかる灯籠の灯影がちらりとまたたいて、岸にゐる私たちに、忘れがたい思ひを残すことがある。それが
手紙の結びの文句です。
三島由紀夫「をはりの美学 手紙のをはり」より
芝居は必ずをはり、幕は必ずしまり、お客は必ずかへつてしまふ、といふ点で、人生のをはりと芝居のをはりは
そんなにちがはないのかもしれません。
三島由紀夫「をはりの美学 芝居のをはり」より
人生は音楽ではない。最上のクライマックスで、巧い具合に終つてくれないのが人生といふものである。
三島由紀夫「をはりの美学 旅行のをはり」より
喧嘩のをはりを、男性相手に、しつこく、心理的に小むづかしく演出してたのしむのも、女性の大きなたのしみの
一つである。
三島由紀夫「をはりの美学 喧嘩のをはり」より
個性とは何か?
弱味を知り、これを強味に転じる居直りです。
私は「私の鼻は大きくて魅力的でしよ」などと頑張つてゐる女の子より、美の規格を外れた鼻に絶望して、
人生を呪つてゐる女の子のはうを愛します。それが「生きてゐる」といふことだからです。だつて、死ねば
ガイコツに鼻の大小高低など問題ではなく、ガイコツはみんな同じで、それこそ個性のをはりですからね。
三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より
正気の世界は、プールのとび板の端のやうな危険な場所で、をはるのではありません。
それは静かな道の半ば、静かな町の四つ角のところで、すつと、かげろふのやうに消えてゐるのです。あなたは
大丈夫ですかね。
三島由紀夫「をはりの美学 正気のをはり」より
秘密はたいてい、おしやべりな見栄坊のお客の口からもれるのです。
三島由紀夫「をはりの美学 礼儀のをはり」より
顔から、体から、物の言ひ方から、すべてを含めて、「好き」か「嫌ひ」かといふ判断を下すことは、人間同士の
関係として、もつとも悽愴苛烈なものです。就職試験の比ではありません。
三島由紀夫「をはりの美学 見合ひのをはり」より
人間が宝石のまま、永遠にをはらない純潔を保つことは不可能でせうか。男の例なら、われわれは即座に、あの
特別攻撃隊の勇士を思ひうかべることができます。人間のダイヤを保つには、純潔な死しかないのです。
三島由紀夫「をはりの美学 宝石のをはり」より
自然は黙つてゐる。自然は事実を示すだけだ。自然は決して「宣言」なんかやらかさない。宣言なんかするのは
人間に決まつてゐます。
三島由紀夫「をはりの美学 梅雨のをはり」より
作品その他の形でちやんと文化的業績ののこつてゐる人に与へる「文化勲章」といふものは、本来の勲章からすると
邪道にちがひない。何も形の残らないもののために、勲章と銅像の存在理由があるのです。なぜなら英雄とは、
本来行動の人物にだけつけられる名称で、文化的英雄などといふものは、言葉の誤用だからです。
三島由紀夫「をはりの美学 英雄のをはり」より
悲しみとは精神的なものであり、笑ひとは知的なものである。
肉体関係があつたあとに、おくればせに、精神的恋愛がやつてくるといふことだつてある。
日本では、恋とは肉の結合のことであり、そのあとに来るものは「もののあはれ」であつた。
日本では「言ひ交はした」といふ言葉は、ただちに肉の結合を意味する。
三島由紀夫「をはりの美学 動物のをはり」より
(谷崎潤一郎)氏はうるさいことが大きらひで、青くさい田舎者の理論家などは寄せつけなかつた。自分を
理解しない人間を寄せつけないのは、芸術家として正しい態度である。芸術家は政治家ぢやないのだから。
私はさういふ生活のモラルを氏から教へられた感じがした。それなら氏が人当りのわるい傲岸な人かといふと、
内心は王者をも挫(ひし)ぐ気位を持つてゐたらうが、終生、下町風の腰の低さを持つてゐた人であつた。
初対面の人には、ずつと後輩でも、自分のはうから進み出て、「谷崎でございます」と深く頭を下げ、又、
自分中心のテレビ番組に人に出てもらふときには、相手がいかに後輩でも、自分から直接電話をかけて丁重に
たのんだ。秘書に電話をかけさせて出演を依頼するやうな失礼な真似は決してしなかつた。
深沢七郎氏の本の出版記念会が日劇ミュージック・ホールでひらかれたとき、私は谷崎氏の隣席でショウを見てゐた。
ショウがをはつて席を立つた私のあとから、谷崎氏が、「お忘れ物」と云ひながら、席に忘れた私のレインコートを
持つて来て下さつたのには恐縮した。
三島由紀夫「谷崎朝時代の終焉」より
ふつうの世界なら、「おい君、忘れてるよ」と、私の肩でも叩いて注意してくれるのが関の山であらう。文士の
世界では、どんなにヒヨッコでも一応、表向きは一国一城の主として扱へ、といふ生活上のモラルも、私が
かうして氏から教はつたものであつた。
そんなに深いお附合はなかつたが、私が氏から無言の裡に受けた教へは、このやうに数多い。
それといふのも氏は大芸術家であると共に大生活人であり、芸術家としての矜持を守るために、あらゆる腰の低さと、
あらゆる冷血の印象を怖れない人だつたからだ。しかも荷風のあまりに正直な冷笑的な生き方に比べて、氏の
生き方は概括的に云つて円い印象を与へ、しかも遠くから見ると、鬱然として巨大に見えた。氏は世俗の目の
遠近法をよく知つてゐたのである。
氏は十九世紀に生れながら、むしろ十八世紀人としての器量を持つてゐたと、つねづね私は考へてゐる。その文学の
本質は、十九世紀の小説の概念だけではつかまへにくいのである。
三島由紀夫「谷崎朝時代の終焉」より
(中略)
身も蓋もない考へといふのが、老荘思想の影響からか、日本では妙にもてはやされるが、氏は一見装飾派様式派で、
琳派の芸術の一種のやうに見えながら、その実、氏ほどその作品を通じて、身も蓋もないことを言ひつづけた人はない、
といふのが私の考へである。
それはいはば周到な礼譲に包まれた無礼な心といふ点で、氏の生活と照応してゐるが、晩年の不気味な傑作
「瘋癲老人日記」にいたるまで、氏は、人間精神が官能に必ず屈服する、といふ一つの定理をしか語つてゐない。
それは自然主義とは又ちがふのであつて、「少将滋幹の母」などにあらはれてゐる母へのあこがれの主題が、
氏の一生をつらぬいた抒情であるとするならば、氏はこのやうな抒情の根源を、幼年時の恐怖、それへの屈服、
敗北、敗北によるあでやかな芸術的開花、といふふうに、分析し、探究する。
初期の「刺青」は、その意味で、実に象徴的な作品である。
三島由紀夫「谷崎朝時代の終焉」より
(中略)
それはまづ美へのあこがれからはじまる。刺青師は氏の抒情を担つてゐる。鋭い刃による制作がはじまる。
氏の苛酷な芸術家精神と批評精神がそこにこもつてゐる。彫り上る。そこで突然、価値の顛倒が起る。芸術品と
化した女体は、おそるべき勝利の女神になり、もう刺青師の意志の操り人形ではなくなつてしまひ、やがて
刺青師を足下に踏みにじるべき怖ろしい存在の予感をひびかせてゐる。そこに彼は、幼年期への恐怖を再び見出す。
彼はひざまづく。ひざまづくことのなかに恍惚がある。安心がある。彼は自分の作つたものの前にしか決して
ひざまづかないことを自分で知つてゐるからである。その敗北、その拝跪によつて、はじめて彼は幼年期の恐怖から
自由になり、性の根源に対して、「母」へのあこがれの抒情を寄せることもできるのである。
いささか図式的だが、この構図は、氏のほとんどの作品にあてはまるやうに思ふ。「痴人の愛」のナオミは、
新しい女の風俗的典型のやうに読み誤られたが、実は純然たる氏の頭脳の所産であつた。
三島由紀夫「谷崎朝時代の終焉」より
作家といふものは、複雑精妙な機械装置を持つ必要はない。石でも木でも刻める、一本の強力なノミを持てばよい。
それは職人芸などといふ考へとは別物で、言葉の芸術では、言葉に一つの強力な統制原理を与へることが何よりも
必要なのである。
谷崎氏ほどそれを徹底的にやつた作家は稀であり、女体を彫ることに集中された言葉や文体は、それ自体次第に、
女体そのもののやうに曲線美や丸みを帯びてゐた。そこまで行つたものだけが作家の「思想」と呼ぶにふさはしく、
谷崎氏は思想的な作家だつたと云つて、少しもまちがひではない。
しかし晩年の「鍵」や「瘋癲老人日記」では、つひに氏の言葉や文体が、肉体をすら脱ぎ捨てて、裸の思想として
露呈して来たやうに思はれ、そこにあらはに示された氏の人間認識の苛酷さも、極点に達してゐた。
氏の死によつて、日本文学は確実に一時代を終つた。氏の二十歳から今日までの六十年間は、後世、「谷崎朝文学」
として概括されても、ふしぎはないと思はれる。
三島由紀夫「谷崎朝時代の終焉」より
少なくとも私の育つてきた時代には、「鴎外がわかる」といふことが、文学上の趣味(グウ)の目安になつてをり、
漱石はもちろん大文豪ではあるが、鴎外よりもずつとわかりやすい、「より通俗な」ものと考へられてゐたのである。
「わかりやすいものは通俗だ」といふ考へが、いかに永い間、日本の知識人の頭を占めて来たかを思ふと、この
固定観念が全く若い世代から払拭された今、かれらが鴎外を捨てて漱石へ赴くのは、自然な勢ひだともいへるのだが、
しかし、鴎外が本当に「わかりにくいか」といふ問題には、前述のやうな鴎外伝説、鴎外の神秘化の力が作用してゐて、
一概には言へない。鴎外は、明治以来今日にいたるまで、明晰派の最高峰なのである。
再び問ふ。
森鴎外とは何か?
あらゆる鴎外伝説が衰亡した今、私にとつては、この問ひかけが、一番の緊急事に思はれる。もちろん、綜合的人格
「全人」としての鴎外を評価することは重要である。しかしすべての伝説が死に、知識の神としての畏怖が
衰へた今こそ、鴎外の文学そのものの美が、(必ずしも多数者によつて迎へられずとも)純粋に鮮明にかがやき
だす筈だと思はれる。
三島由紀夫「解説(『日本の文学2 森鴎外(一)』)」より
(中略)
鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブウルジョアの盲目的崇拝を失つた今、言葉の芸術家として真に復活すべき
人なのだ。言文一致の創生期にかくまで完璧で典雅な現代日本語を創り上げてしまつたその天才を称揚すべきなのだ。
どんな時代にならうと、文学が、気品乃至品格といふ点から評価されるべきなら、鴎外はおそらく近代一の
気品の高い芸術家であり、その作品には、量的には大作はないが、その集積は、純良な檜のみで築かれた建築の
やうに、一つの建築的精華なのだ。現在われわれの身のまはりにある、粗雑な、ゴミゴミした、無神経な、冗長な、
甘い、フニャフニャした、下卑た、不透明な、文章の氾濫に、若い世代もいつかは愛想を尽かし、見るのも
イヤになる時が来るにちがひない。人間の趣味は、どんな人でも、必ず洗練へ向つて進むものだからだ。そのとき
彼らは鴎外の美を再発見し、「カッコいい」とは正しくこのことだと悟るにちがひない。
三島由紀夫「解説(『日本の文学2 森鴎外(一)』)」より
政治問題に関する言論を規制しようとする動きがあるときには、必ず、これをカムフラージュするために、
道徳的偽装がとられ、あはせてエロティシズムや風俗一般に対する規制が行はれるのが通例である。(中略)
どんな保守的思想の持主である芸術家も、この観点から見られるときには、反体制的思想家と、五十歩百歩の目に
会はされることは、戦争中の記憶を想起すればすぐわかることである。
実際、国家が詩人を追放しようとするのは、きはめて賢明な政治判断であつて、プラトンはちやんとそれを知つてゐた。
政治に有効に利用できる芸術のエネルギー量はきはめて微弱であり、政治が効率百パーセント芸術を利用しえたと
考へるときには、もうその芸術は死物になつてゐて、何の効用も及ぼしてゐないといふ皮肉な現象は、ナチスのころも
見られたが、そんな微温的な手段をとるよりも、政治自体が芸術になり、(たとへ似而非芸術であつても、)
政治的行為が芸術的行為を完全に代用してしまへばすむことで、それが左右を問はず全体主義政治の核心である。
三島由紀夫「危険な芸術家」より
ただプラトンが完全に知つてをり、ナチスが不完全にしか知つてゐなかつたことは、次のやうな事実であり、
これはもちろん、日本の政治家が夢にも知らない事実である。
「(プラトンは、)芸術家を断罪する前に、まず彼にメリット勲章か何かのやうなできるだけ高い栄誉を与へ
なければいけないと言つてゐる。すなはちプラトンは、今日ではほとんど誰も理解してゐないやうに思はれること、
つまり真に危険な芸術家とは『世にも稀な快い神聖な』偉大な芸術家であるといふことをはつきりと理解してゐた。
プラトンは、(中略)大きな悪は何らかの欠除に由来するのではなくてむしろ『本性の充実から生じて来る』
ものであり『弱い本性は、はなはだしく偉大な善も、はなはだしく偉大な悪も成し遂げることはほとんどできない』と
信じてゐたのである」(「芸術と狂気」エドガー・ウィント著、高階秀爾訳)
三島由紀夫「危険な芸術家」より
何のことはない、日本の俚諺の「悪に強きは善にも」と変りがない考へだが、ここには政治と芸術との関係において、
非常に基本的な重要な考へが述べられてゐる。たとへばエレキは有害で、青少年に対して危険であり、
ベートーヴェンは有益で、何ら危険がないのみか人間性を高めるといふ考へは、近代的な文化主義の影響を受けた
考へであつて、ベートーヴェンのベの字もわからない俗物でも、かういふ議論は鵜呑みにするし、現代の政府の
文化政策もこの線を基本的に離れえないことは明白である。
しかし毒であり危険なのは音楽自体であつて、高尚なものほど毒も危険度も高いといふ考へは、ほとんど
理解されなくなつてゐる。政治と芸術の真の対立状況は実はそこにしかないのである。してみると日本には、
真の危険な芸術家は一人もゐないといふことになり、政府もそんなに心配する必要はなし、万事めでたしめでたし。
三島由紀夫「危険な芸術家」より
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。共産主義の粛清のほうが
数が多いだけ、始末が悪い。暗殺のほうは少ないから、シーザーの昔から、殺されたのは一人で、六十万人が
一人に暗殺されたなんて話は聞いたことがない。これは虐殺であります。
(中略)
たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも
嘘がつける。やはり身辺が危険だと思うと、人間というものは多少は緊張して、(中略)真面目な話をするのです。
人間というものは刀を突きつけられると、よし、おれは死んでもいってやるのだ、「板垣死すとも自由は死せず」
という文句が残る。しかし口だけでいくらいっていても、別に血が出るわけでもない、痛くもないから、お互いに
遠吠えする。民主主義の中には偽善というものがいつもひたひたと地下水のように身をひそめている。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、相手のあらゆるものを
抹殺するか、あるいは自分が抹殺されるか、人間の決闘の場であります。それが言論を通じて徐々に徐々に
高められてきたのが政治の姿であります。しかしこの言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論は
すぐ偽善と嘘に堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる。
(中略)日本ではこうやって言論が自由自在に生きている。確かに美しい風景ではあるけれども、何か身を
賭けた言論、身体を賭けた言論というものが少ない。自分一人で、一千万人を相手にしても退かないという言論の
力が感じられない。何でも自分一人じゃ弱いと思うから、何万人でデモをやらなければならない。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が入ってきたときに――私はそれを
実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が一ヵ所に集められて、いよいよこれから武装解除という
ような形になってしまって、大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに
日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーッといって斬り込んで行って、たちまち
殴り殺されたという話であります。
私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが言論だと思うのです。
一人の人間を大勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、そういうものを暴力という。つまり一人の
日本刀の言論だ。(中略)そして、日本で言論と称されているものは、あれは暴力。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。例えば戦争をしておっても、誰も
妥協を考えてやるのではないのです。勝つことが目的であって、最終目的に対して、十とれるところが八だとか、
八とれるつもりがまあ五だろうというのが妥協であります。初めから五を考えると、二しかとれません。そして
妥協ということは大人の知恵で、全然妥協しない戦いというものはないわけですが、ものの考え方というものは
私は順序があると思う。
民主主義は妥協が原則だといいますが、相対的な理論の闘争の中で、自分がそれをある程度本当に信じて
邁進する人間がいなければ、いまの自民党と社会党みたいなことになっちゃう。そして国会解散期には、あっちに
流れたり、こっちに流れたりという状態になっちゃう。それが一番妥協の醜い形だと私は思います。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
ところで私は、暗殺者が必ずあとですぐに自殺するという日本の伝統はやはり武士(さむらい)の道だと思っている。
本当はこれをやらなきゃいけない。(中略)
私は人間というものは全部平等だと思う。(中略)
人間が一対一で決闘する場合には、えらい人も、一市民もない。そこに民主主義の原理があるのだと私は考える。
だから、政治というものはいずれにしろ激突だ。そして激突で一人の人間が一人の人間を許すか、許さないか、
ギリギリ決着のところだ。それが暗殺という形をとったのは不幸なことではあるけれども、その政治原理の中に
そういうものが自ずから含まれている。もしそうでなければ、諸君が選挙の投票場へ行って投ずる一票に何の
意味がありますか。諸君が投ずる一票が一ト粒の砂粒だったら、何になりますか。あれは諸君がたとい無名で
あっても、あるいは社会的な地位がなくても、その一票があなたの全身的な政治的行為であって、その集積が
民主主義をなしている。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
(政治家も、)一投票者も、政治的意見において本当に一対一で、人間的に一対一だという考えが含まれなければ、
民主主義は成立しない。だから暗殺というのはアクシデントではあるけれども、民主主義に暗殺はつきものだと
私がいったのは、そこなのです。
ところが、共産主義ないし全体主義というものはそういうことをやらん。彼らは権力を握って、邪魔なやつを
粛清すればいい。全体主義は人を粛清するのに、そんな暗殺のような自分の危ないことはやりません。ニュースを
隠して、秘密警察で守り、その中で一番憎いやつをそっと殺す。犯人もわからなければ、何もわからない。
民主主義というのは非常にペシミスティックな政治思想です。(中略)
民主主義なんて甘いものじゃない。これをどうやって純粋民主主義に近づけるかなんて、いつまでたっても
無駄なんだ。人間は汚れている。汚れている中で相対的にいいものをやろうというのが民主主義なんだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
アメリカの民主主義はフロンティアなんかの自警団的なものが基盤にある、(中略)どんな政治体制でも歴史的な
基盤があって、徐々に形成されたものであるので、その点では日本の天皇制もまったく同じだと思います。
ですから民主主義が悪いとか、天皇制がいいとか悪いとかいう問題じゃなくて、その国その国の歴史的基盤に
立った政治体制ができていくということは当然だと思います。
国家がなくなって世界政府ができるなんという夢は、非常に情けない、哀れな夢なんです。(中略)資本主義国家も
国家が管理している部分が非常に大きくなっておりますから、実際の国家の時代という点では、国家の管理機能は
むしろ史上最高ぐらいまで達しているのではないか。これが極点に達し、崩れて、超国家ができるかどうか、
そんなことは先のことである。我々はまず国家の中に生きているという存在から問題を考えなければならんと
いうように私は思っております。ですから、国家の時代なればこそ戦争も必ずある。であるから、それに対する
防衛の問題も真剣に考えなければならんと、私はそういうように思っております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの社会であります。そして
この階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が戦わなければならんというふうに私は考えるものですが、
日本の例をとってみますと、日本にどういうふうに階級があるのか、まずそれを伺いたい。たとえばアメリカなどは
民主主義社会とはいいながら、ヨーロッパよりさらに古い、さらに深い階級意識がある国です。というのは、
ヨーロッパを真似して成金が階級をつくったのですね。ですからこれはアングロ・サクソンの文化の伝統ですが、
クラブというのがありますね。みんなメンバーシップオンリーのクラブで、下のクラブの人が上のクラブを
ステイタス・シンボルとして、ステイタス・クライマーが上流のクラブへ入るためにあらゆる算段をするわけです。
(中略)そうすると自分の息子に来るお嫁さんが違ってくるのです。(中略)アメリカにはステイタス・シンボル
というものが非常にたくさんあります。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
ところが日本ではステイタス・シンボルに当たるものが私は何があるのかと聞きたい。(中略)一つの社会風俗的
現象としてのステイタス・シンボルがあるのか。キャデラックに乗っていたらブルジョアなのか。みんな会社の金で
キャデラックに乗っている、それがブルジョアなのか。あるいはゴルフクラブに入っていたらそれがブルジョアなのか。
ゴルフクラブに入って、あのキャディに、かよわい女性に重いものを背負わせて歩けばそれがブルジョアなのか。
そして日本では社会主義者も共産主義者もみんな軽井沢に別荘を持っている。(中略)私は階級差というものの
甚だしい例をヨーロッパでたくさん見てきた。(中略)
そして富の分配というのは一応マルクス主義の美名になっておりますが、これは別の方法を使ったってできるのだ。
(中略)権力の分配に至っては、共産主義社会のあのおそろしいビューロクラシーと比べると、我々はむしろ
権力の分配の公正な社会に生きていると、私はこう考えております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
人間の考えは――全部の人間が同じ考えをするということができれば、本来民主主義なんていうものはこの地上に
成立する余地はないのです。そんなものは要らない。したがって戦争も要らないわけだ。ところがどうしても
人間というものは全部同じ考えを持ち得ない。しかも言語を共有しながら同じ言葉を持ち得ないというところで、
バベルの塔のような神話があるわけだ。これは人間観の根本的な問題です。
大体ソヴィエトへ行った人の話を聞きますと、非常にアメリカ人とよく似ているそうです。アメリカ人は別の方法で
あんなコンフォーミティな人間ができちゃった。誰に聞いても、同じような冷凍食品を食べていますから頭の中は
同じになっちゃう。しかし実に親切で、自分の身の周りのことについては気持よく話してくれる。ただ、国家・
社会の問題になると何もわからないという人間達ですね。それは確かにソヴィエトでもできつつあるでしょう。
けれども、人類全部がそうなることが人類の幸福であるかどうかというと問題はまた残りますし、本人が幸福なら
いいじゃないかということになりますと、これは人間観の相違としか思う他にない。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
行動には必ずリアクションがある。そのリアクションはどこからくるかというと、自分の敵からくるわけですね。
敵がなければかなわん。(中略)
大体韓国の人達はいろいろな面で反共精神が強いのだけれども、これは実際に自分の親族が殺され、あるいは
自分の親兄弟が共産主義者から酷い目に遇ったりしている。(中略)
インドネシアでは役人の中にも共産党が入っていましたから、こいつらがみんな私腹を肥やしたり、宗教を
弾圧したりして農民に嫌われちゃった。農民も何年か我慢して、いまにあの野郎どもと思っていたから、いざ
共産クーデターを起そうとしたらば、逆に鋤、鍬で殺されちゃったわけだ。この恨みというのはすごいですね。
しかし、私は別に何ら危害を受けたわけではない。ただ敵として私が選んだ。これは私独特のものですね。私は
自分の行動を起すにはどうしても敵がなきゃならんから選んだ。そこで私は何ら矛盾を感じてないわけです。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
(日本では)惨状に対する異常なヒューマニスティックな同情から革命衝動が起るということは現在ではほとんどない。
(中略)被圧迫者が傍にいるという状況は、インドでホテルの二階で食事をとっていますと、窓から街路には
飢えた乞食がいっぱい見える。かわいそうな佝瘻(くる)病の少年が痩せこけた自分の弟を腕に抱いて、
もう一方の手を伸ばしています。それを見るとこっちは御飯が食べられなくなっちゃうですね。そういう国でこそ
共産革命ないし革命の情熱が涌き起るかというと、インドの共産主義者ってみんな金持ちなんです。なぜかというと、
共産主義の文献を読むにはお金がなければならない。金をかけて大学を出なければ……。みんなオックスフォード、
ケンブリッジへ行くのです。そういう上流階級が主に共産主義者の中心になって、しかも共産主義の知事のいる県は
他の県に米を移出しない。ですからその県に、米があっても、隣の県の飢え死にを放棄する。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
我々はヒューマニスティックな愛情を何に対して持つか。ニューヨークじゃ、もう人間に同情する人がなく
なっちゃったのでみんな犬に同情している。それがアングロ・サクソン動物愛護協会というものなんです。
これは生活の余裕がなければできないことで、オールビーの「動物園物語」という芝居をご覧になった方は
わかりますが、犬を可愛がって、犬としか対話しない人間が長々と出てきます。人間というのはそういうふうに
なっちゃうものなんですね。愛情と憐れみを何に向って与えようか。その溢れるアフェクションの中からどうやって
社会革新の情熱を呼びさまそうか。人間はこういうものを考える動物だと思います。
ちょっと問題が大きくなりましたが、その中で自我というものは大きくなればなるほど本来今言ったようなものが
溢れているはずなんですが、その溢れる対象に使われない場合には、何かでそれが捩じ曲げられてぶつかって
いくことになるわけですな。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
天皇と国民を現代的感覚で結びつけようということは小泉信三がやろうとして間違っちゃったことだと思うのですよ。
小泉信三は結局天皇制を民主化しようとしてやり過ぎて週刊誌的天皇制にしちゃったわけですよ。そして結局
国民と天皇との関係を論理的につくらなかったと思うのです。というのは、ディグニティをなくすることによって
国民とつなぐという考えが間違っているということを小泉さんは死ぬまで気がつかなかった。それでアメリカから
変な女を呼んできて皇太子教育させたり、そういうふうな形でやってきたわけです。ですからその考えはまだ
宮内官僚に随分残っているから、当然天皇制というものがそういう形でうまく国民と結ばれるということについては、
私は悲観的ですね。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
人間は未来ということを考えると、必ず現在というものを犠牲にするか手段化するという不思議な動物だと私は
思います。未来社会がもし理想的な社会になる。その社会のために現在我々が動いているとすれば、我々は
その社会への橋であり、プロセスであり、道具なんですね。(中略)これがあらゆる未来というものに関する
思想の――私は左とか右とかいうのじゃない、未来というものを想定した思想にからむ一つの危険だと思います。
(中略)
私はいわゆる革命家、社会運動家、改良主義者、こんな人達と話します時に自分との一番の違いだと思いますものは、
私は「未来がない」という考えなんです。(中略)もちろん我々は一週間や十日のところは大体未来ということを
考えて暮しておりますが、それはもうすでに現在に繰り込まれた実務的な時間の問題で、私がいっているのは
そういうことではないことはおわかりだと思います。つまり自分の行動のモラルの根拠として、未来を置くのか、
あるいは現在ないし過去を置くのか、ここで人間の行動の様式とモラルが完全に変ってきちゃうのです。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より
世間では進歩的、未来に向って、明るい未来に向って、人類の将来に向って、お手々をつないでというのが
大好きですな。(中略)ですが私はそういうミーハー受けのするスローガンにはいつも疑いの目を向ける。なぜ
私が未来がないかと申しますと、未来ということを考える暇がないほど現在の時点における自分の存在の中に、
連綿たる過去の日本の文化伝統と日本人の長い民族的蓄積とが、太古以来ずっと続いている、その一番ラストに
自分はいるんだ、自分が滅びたらもうお終いなんだ、自分は日本というものの一番の精髄をになってここにいま
立って、そこで自分は終るのだ。そういうことがなければ、ぼくは人間の最終的な誇り、日本人としての最終的な
誇りは持てないと思います。(中略)
文化というものはずっとうしろからつながってきて自分のところで途切れちゃう。そうするとこれから未来へ
つなぐには誰がやるだろうか。それは私より若い人がいるのだし、また自分がおしまいだと思っている若い人が
次々と出てくるからこそ、いつも文化というものはそうやってつながっていくのだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より
未来を所有しているのは老人の特徴で、未来を所有しないのが青年の特徴である。(中略)
自分がどうやって死ぬかということは大体五十、六十になってくると先が見えてきちゃう。それを未来を所有する
というのです。青年は未来に対してあらゆる可能性があるように見えるかわりに、未来を何一つ所有しない。
(中略)青年が未来に対して野心を燃やし、幻影を持つのは当然のことであります。ただその場合に、最後に
自分というものが未来のためだけにいま生きて怠けているのではないのだ。明日死んでも十分な生き方をしなきゃ
ならんということが青年らしい考え方だとむしろ思うのです。「葉隠」なんかでも、日々死を心に当てて生きろと
いうことをいっておりますが、朝起きた時に今日死ぬかもしれないという気持だったらば、どれだけ人間は
全身的な表現を毎日繰り返せるかわからない。そういう表現の中にしか人間の生死観も、文化というものの力も
自分を護る決意もないのじゃないか、こんなふうなのが私の未来観であります。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より
言論自由下の社会主義なんていうものを夢見ているとあぶないんだ。(中略)もし美しき社会主義を夢見れば
醜き社会主義にやられてしまうんだ。
私が共産主義を嫌いなのは美名をもって人間をたぶらかすからです。そして私は偽善というものが嫌いなんです。
共産主義は自由な未来に向って人間を唆す毒薬だと思います。
第二次大戦後に(アジアで)民族自決主義がリバイブしたのはあくまでも大東亜戦争の直接の影響だと思います。
それによってアジアの諸民族が自信を持って民族独立の道を歩き出したのだと私は信じて疑いません。
文化というものは結局マルキシズムの階級史観では絶対に解明できない。あらゆる哲学者が文化論、芸術論になると
失敗するのです。
十九世紀の主権国家の理論で私は日本の国家を規定して、その国家を守れといっているのじゃないのです。国家は
さまざまなんです。国家は我々なんです。
私は未来がないのだ。しかし私の背後には長い長い文化伝統があって私で終るのだから、おれの身には指一本
触れさせないぞという覚悟で戦うのです。そして私は勝たなきゃならない。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より
亀井勝一郎さんが、芸術は罪だってなことを言って一生苦しんだわけだ。どうしても芸術では救われないし、
芸術ってことに固執している間は、永遠に罪を犯していかなきゃならんてことをいった。あんな気楽なことを言って
いられたのは、彼に技術がなかったからだよ。というのは、彼は、創造的文学者として、本当の技術ってものの
こわさを知らなかった。だからあんな気楽なことを言えた。(中略)技術が手から離れたら、どうなるか、
そうしたらオートメーションの時代になる。技術社会になる、あるいは原子爆弾ができちゃう。ほとんど人間の
意思がかかわらないようなところで機械がどんどんオートマチックに回転して、恐ろしい罪を犯すかもしれない。
あるいは世界がフッ飛んじゃうような技術ができるかもしれない。そういう技術ってものとわれわれの技術は
どう違うんだ。われわれは肉体の罪を持ちながら、技術というものに一種の浄化作用を認めなければ、芸術って
ものは成り立たない。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
ところが、肉体というものを認めず、技術ってものにも浄化作用を認めないで、肉体と技術をくっつけている、
亀井勝一郎さんのような人はどこへ行くかというと、はっきりいえば、肉のない技術へいくほかないじゃないですか。
彼は、地獄へ落ちていますよ、そういうことをいえば。(笑)ぼくは、大きらいなんだ、ああいう考え。
肉のない技術っていうところへ落ち込むような考え方は、結局、もとへ戻ってくると、肉ってものを軽蔑する、
あるいは肉と技術とのつながりを軽蔑する。あるいは技術自体の浄化作用、ピュリフィケーションの機能を
軽蔑することになる。(中略)
技術が罪ないし肉にしっかり縛りつけられていることが人間的であるということが言えますね。もし、技術が
罪ないし肉を忘れたら、その瞬間、技術自体が堕落するかもしれない。そうすれば、あるいは集団的な技術になり、
原子爆弾をつくり、破壊的な技術を、幾らでも非人間的な技術をつくれる。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
ですから、芸術家の信ずる人間というのは、ある意味で罪の肉なんだけれども、それにプラス・アルファがある。
そのプラス・アルファが非常に芸術家にとって問題じゃないか。これが作家にとっても一生の問題じゃないかと
思います。簡単にいえば、芸ってことなんだが、芸って何だろうか。(中略)
自分の中に引き止められている、技術が制御されている、技術が、技術自体を無にしちゃうような、水爆の
爆発ですね、そういうところまでいかないように、技術を引き止めているものは、節度といっていいでしょうか、
それは何なんでしょうか。理性じゃないでしょう、少なくとも。
理性ってのは、必ずそっち(水爆)へ向かっちゃう。
(中略)
その技術が制御されているというのは、美しい形だと思うんです。何によって制御されているか、罪のある肉に
よって制御されている。(中略)その節度の、非常に危ない、スレスレの節度だけに芸術があるわけですね。
(中略)そういう節度に、芸術家は身を賭けながら、自分の中に虚無を引き止めている。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
自分に危険がないような暴力行為はまったく意味がない。それにはモラルがないですからね。ですから、
アウシュヴィッツや、原子爆弾には、いまでも反対ですね。それは、ヒューマニズムとちょっと違うんだな。
ヒューマニズムだからそういうことをしちゃいけない、というのとはちょっと違う。
技術が肉から離れるとか、肉が技術を置き去りにするということが、文学作品の中で起こる場合、それはモラルを
侵しているんじゃないですか。たとえば政府に頼まれて小説を書くと。(中略)彼がほんとうにそう信じている場合、
書いたっていいわけだ。もし、信じてなかったらどうか、っていう問題がありますね。
あるスタイルが、ある時代を体現しちゃうということ、いつも不思議に思うんですが、バロックの時代に、
どうしてバロックが支配的なスタイルとなったか。
スタイルの支配力ってものは、一種の歴史の謎だと思うんですよ。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
無を、スタイルによって自分の中にうまく引き止めた人間、それが芸術家じゃないでしょうか。
(中略)
一般にスタイルってものは、ある個人のいちばん深いところから出てきて、社会のいちばん浅いところまで
支配しちゃうようなものでしょうね。後世から見ると、それがその時代のスタイルというふうになって、非常に
歴史的なものになっちゃうんですね。不思議ですね、これは。
(中略)
ぼくが、精神分析っていうものを、根本的に信じないのは、そこのポイントなんです。
(中略)精神分析ってのは、ついにスタイルの問題を解決しない。スタイルを解決しなきゃ、芸術は絶対分らない。
精神分析は、いつも超歴史的なモメントを持ってきて、いつもおんなじところへ引き戻す。おんなじところへ
引き戻して、どうしてミケランジェロがいて、どうしてワットーが出てくるか、そういうスタイルの問題を、
何ら解決しない。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
ですからあれは、あらゆる芸術美学がそうですが、フロイトも芸術論でいちばん失敗していますね。カントも
「判断力批判」では失敗していますね。かりにも美ってものに哲学者がタッチしたり、あるいは哲学者以外の
ああいう学者がタッチしたら、全部まちがえるのはそこです。ぼくは、けっきょく、それが歴史だろうと思うんです。
芸術っていうのは、非常に個性的なあらわれ方を、自分ではしていると信じているんだけれども、どんなことを
してもできない。それが芸術なんですね。
大江(健三郎)の中には、学生運動のスタイルもあるんです。純芸術的なスタイルとばかり言えない部分もある。
大江の持って回り方には、純芸術的な持って回り方とそうでないものもある。大江の、あるゼネレーションとか、
大江の見たり聞いたりしてきたものの中にある曖昧模糊としたものをひきずっていますね。つまり、素直に
この花は赤い、っていうことが、どうしても言えないんだな。
三島由紀夫
石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
まあ、私も喜劇の部類で残念ですけれども、悲劇にはなりそうもない。
(中略)
失敗した悲劇役者というのが僕じゃないかしら。一生懸命泣かせようと思って出てきても、みんな大笑いする。
僕は、単細胞のせいかもしれないけれど、革命というものはイデオロギーの問題でもなんでもない、ただ爆弾持って
駈け出すことだと思っているんです。維新というのも、ただ日本刀持って駈け出すことだと思っている。駈けるのには、
百メートルを十六秒以下でなければ駈けるとは言えない。そのためには、ふとっていちゃ絶対だめですよ。
アメリカとベトコンの戦争は、やせたやつがふとったやつを悩ませたというだけの話ですよ。ベトコンはやせて
いるから駈けられる。アメリカ人はあの体していちゃ崖やなんか駈け昇れない。どうして日本のインテリというのは、
ふとるようになっちゃったんでしょう。これは僕は重大問題だと思っているんですよ。つまり肉体と精神との
関係において。
三島由紀夫
石川淳との対談「破裂のために集中する」より
(西洋では)フレッシュとボディは違うのだ。キリスト教は、フレッシュは否定するが、ボディは否定しない。
それは受肉という思想があるから。インカーネーションでもって、ボディが復活するのであって、フレッシュは
復活しない。フレッシュは滅びる。日本ではそれが、フレッシュとボディの区別がない。日本の体という場合には、
フレッシュとボディは渾然一体なんです。それで「源氏物語」の闇のなかにあらわれる女体は、やはり
フレッシュでありボディである。同時にその背後のものを暗示しているね、一つながりのあれですね。
それが日本の「色」というものだと思います。
西洋人は女と教養のある話をするにはね、カクテル・パーティーで、これはタダですね。肉体で寝るには娼婦を
買えばいい。これは金を払えばいい。その中間形態というのがほとんどないでしょう。日本は、その中間形態が
無限にある。ほとんど「快楽」と日本で称されているものは、その中間形態のことをいう。
三島由紀夫
山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より
(日本では)女というものを楽しみの対象としてみて、女と睦み楽しむというような状態にも、これはかなり
いろいろな階梯があります。全部性欲でただ寝るだけか、あるいは教養のある女と付合うか、という二律背反がない。
これもぼくは分裂がないと思うのです。西洋では、ジイドの「狭き門」ではないけれども、ほんとうに愛する女とは
寝られない。それで愛さない女とは寝られるという、いつもそこで対立がある。日本だったら、ほんとうに
愛する女とだったら、好きなら寝りゃあいいし、また、ただ金で買った娼婦との間にも心中さえするような、
精神的な関係が生まれる。娼婦との心中というのは、西洋ではばかばかしいことで、あり得ない。ところが
近松ものは、ほとんど娼婦との心中でしょう。こういうふうに、日本では、そのあいだがとても広いのですね。
(中略)
(アメリカで)プレイボーイ・クラブみたいなものができて、中間形態ができた。(中略)寝るか、精神的に
愛するか、どっちかだと思っていた人間が、中間形態があることに気づいたのは、アジアの
影響ですよ。
三島由紀夫
山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より
生まれ変わりと日本の霊魂観は、ぜんぜん違いますね。(中略)
仏教はまず霊魂がないということからはじまったわけですから、根本的に違うのですね。生まれ変わりというのは、
霊魂がないということからはじまったのだから。しかし、その生まれ変わりは、仏教以前からありますよ。(中略)
輪廻観は仏教の前からあったものを、ヴェーダの時代からあったものを、仏教が取り入れたのだけれども、
日本に来た輪廻観は仏教を通している。仏教を通しての輪廻観と日本の霊魂観とは、完全に衝突する。
(中略)
七生報国というのは、自分の意思だものね。だから七生報国をやるためには、自分は今度牛に生まれては報国が
できないでしょう。人間に生まれて、天皇陛下に忠義を尽くすというのでは、これは、自分の意思で「我」が
働いてるし、とてもあれは仏教観とは相容れないですね。
(中略)
仏教がはじまってから、アートマンが完全に否定されたのだから、霊魂というものはなくて、生まれ変わりの
主体はないのだというね。(中略)しかし輪廻説は、そのアートマン説よりももっと前にある。
三島由紀夫
山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より
ぼくは日本で不思議なのは、暴力神あるいは破壊神というものは、ルサンチマンによってしか、起こらないのだね。
ルサンチマンがなければ、そういう破壊神の思想が起きないのだ。風土の、もっと苛酷な国、たとえばインドなどは、
破壊神がちゃんといる。(中略)(日本では)暴力ないし破壊を事とする神というのは、それは須佐之男命
(すさのおのみこと)がそうかもしれない、唯一の例かもしれんけれども。
それで、なにか人間におそろしい、冥界から害を与えるのは、みんなルサンチマンがもとになっていて、これは
男も女を問わないのだね。
(中略)
なにか強固な人間意思、政治意思が、まっすぐにいこうとすると、怨霊がたたるでしょう。たとえば道長でも
そうですが、それから時平がそうですね。清盛がそうでしょう。それから天皇家にさえ怨霊がいるのだから。
最近までいた。天皇家の怨霊がいたでしょう。近衛家は九代たたったのでしょう。ほんとうにたたったのですからね。
このあいだで絶えたのです、満州で抑留されて死んだあの方で。
三島由紀夫
山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より
もう一つは、嫉妬の怨霊ですね。ジェラシーの表現というのは、日本の芸能のいちばん中心を占めているのですね。
日本の英雄信仰、あるいはヒロイズムというのは、みな幽霊的ですね。(中略)日本人には、どうもヒロイズムを
ヒロイズムとして認めたくないような、へんなものがあるのだね。ヒロイズムが一度怨霊を通過して出てくると、
はじめてヒロイズムが公明正大に認められるのだ。
西洋文学と比べて、(日本の)そのヒーローというものは、あまり行動的、男性的じゃないですね。道長は
政治的英雄であっても、武人ではない。
日本人の嫉妬について、村松剛が言ったひと言を忘れないのだが、天皇制がなぜ日本に合っているかというと、
日本人が嫉妬深いからだと、うまい説明だと思ったな。つまり、一つのクッションを置いて、権力を授受しないと、
絶対に日本人は承服しない。日本人同士の互選では、権力というものは一日も成立たんと言うのだ。
裏もわかっちゃって、佐伯さんを大統領にしたくても、あまり裏を知っていると、どうもねということに
なっちゃうのだな。(笑)これは困った国だね。
三島由紀夫
山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より
今の時代はますます複雑になって、新聞を読んでも、テレビを見ても、真相はつかめない。そういうときに何が
あるかといえば、自分で見にいくほかないんだよ。
ぼくの考えをいうと、「わだつみの像」というのは、ある悲しい記念碑ではあるけれども、どこに根拠があるかと
いうんだ。テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか
出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる。「きけわだつみのこえ」なんていうセンチメンタルな本を誰かが
作為的に集めて、平和主義の逆の証明にして、ああいう像をおっ立てた。全学連は、何だかわからないんだけれども、
この野郎、大学の進歩教授と一つ穴のムジナだろうと、ひっくり返しちゃった。(中略)この次ひっくり返すのは、
広島の「過ちは繰り返しませぬから」の原爆碑、あれを爆破すべきだよ。これをぶっこわさなきゃ、日本は
よくならないぞ。
「きけわだつみのこえ」なんていうのは、一つの政治戦略だ。前からぼくは反発していた。
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
三島:いま筋の通ったことをいえば、みんな右翼といわれる。だいたい、“右”というのは、ヨーロッパのことばでは
“正しい”という意味なんだから。(笑)
鶴田:ぼくはね、三島さん、民族祖国が基本であるという理(ことわり)ってものがちゃんとあると思うんです。
人間、この理をきちんと守っていけばまちがいない。
三島:そうなんだよ。きちんと自分のコトワリを守っていくことなんだよ。
鶴田:昭和維新ですね、今は。
三島:うん、昭和維新。いざというときは、オレはやるよ。
鶴田:三島さん、そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって、ぼくもかけつけるから。
三島:ワッハッハッハッ、きみはやっぱり、オレの思ったとおりの男だったな。
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
戦後のいまの世界を見ていますと、たいていのことはフィクションで片づいちゃう。(中略)思想的な激突を
やる代わりにテレビでもって討論会をやる。そんなふうに、だんだんだんだん影がうすまってくるわけですね。
そしてすべてがフィクションの世界にとけ込んでしまって、どこに生死を賭けた大事があるのかわからなくなってくる。
激突しても、これは本当に死ぬ気があるのかどうか、殺す気があるのか、あるいは殺される気があるのか
わからないところで対決する。それが現代ですね。「葉隠」は、そういうものを非常に嫌うわけですね。
そういうのは芸能に携わる人間のやることであって、(中略)武士というものはそういうものじゃなくて、
本当に死ぬということが武士なんだから、そういう点で、河原乞食なんかいくら軽蔑してもかまわないという
考えですね。現代は全河原乞食、一億河原乞食の時代で、政治家から、経済人から、芸術家から、なにから、
やはり河原乞食だと思うのですね、「葉隠」と較べれば。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
全学連の運動というのはね、方向がどうあれ、根本は実感主義の復活ということだと思うのですね。これは
全学連のみならず、右の学生もそうなのであって、(中略)自分の成長期に、なんら実感にふれないで大人に
なっていったらどうなるだろう、すごい恐怖だと思うのですよ。われわれは、少なくとも空襲という実感が
ありましたね。それから死体がそこらにころがっているという実感がありました。中世の人間は、「方丈記」も
そうですが、そういう実感の中から初めてフィクションも出てきた。
私はインドに去年行きまして、ベナレスで、癩病の乞食がいっぱい並んでいるところを見て、なるほど弱法師と
いうのは、ここから出たんだと思ったのです。そして芸術の根源というのは、ああいうところにあって、ああいう
恐ろしい実感、あのファクトを一生懸命洗練したり、磨き上げたり、抽象化するから芸術が起こるのであって、
現代みたいにファクトがないところで、どうやって芸術をやっていくのかという危機感は、私どももっているわけです。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
たとえば、私は人間関係は、みんな委員会になっちゃったというのです。そしてうそですね。うそでかためれば安全、
謙譲の美徳を発揮すれば安全、安全第一。そして人間関係も、とにかく世論というものをいつも顧慮しながら、
不特定多数の人間の平均的な好みに自分を会わせれば成功だし、会わせれることができなきゃ失敗。これが
現代社会ですよ。
(中略)
現代的コミュニケーション、現代的対人態度というものの中にある毒を清めたいときに、「葉隠」を読めばいいと思う。
「葉隠」をサラリーマンの心得みたいに思うことは、ずいぶん間違いだと思うのです。
ぼくは、もうちょっと人間関係ががたぴししたらいいと思うのです。人間関係全部ががたぴししないから、
集団の衝突になっちゃうのがいまの世の中だと思いますし、いまの近代社会というものの宿命だと思います。
どうも人間関係ががたぴししないで、あまり円滑にすべりすぎるから、一方では衝突が起こるのだろうと思います。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
(堤氏の父・堤康次郎氏の)家長というもののすご味を感じたな。冷酷なようだけれども、家を守るということは
ああいうことだね。いまのヒューマニズムじゃちょっと割り切れないが、あの当時、そんなヒューマニズムなんて
言っていたら、みんな三国人に取られちゃいますよ。(笑)
ルース・ベネディクトの「菊と刀」という本がありますが、これほど日本を馬鹿にした本はない。しかし
「菊」というのは文化で「刀」が武道という分け方は面白い。戦後は文化国家というので全部「武」に関するものは
抑圧されちゃった。みんな腰抜けを製造するのが文化みたいになっちゃう。もちろん戦争中のように軍人が威張ると、
軍人自体が腐敗して、頽廃していくんです。(中略)
ほくは、学生にアニマルプライドを持てといってるんだ。(中略)「千万人といえども吾往かん」というときに、
千万人のほうに自分を入れちゃうから、吾のほうがなくなっちゃう。(笑)「楯の会」でも百人が群なんじゃないんだ、
一人一人なんだということをしきりにいうんです。
三島由紀夫
堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」より
三島:(二・二六と全学連を)くらべること自体、二・二六の将校への冒涜ですよ。二・二六の栗原中尉というのは、
火薬庫を守るのに将校が不寝番をやるんですが、栗原中尉だけは、いねむりしたところを見たことがない。
なぜだろうというと、従兵が言うには、いつも下着に血がついている、ナイフで突っついていたからというんです。
全学連の指導者はなにをやっていますか。安田講堂の攻防では指導者は前の日にみんな逃げちゃった。人間というものは
そんなものじゃないんです。やれ世間にがまん出来ないとか、破壊か先だとか、表面的な類似で二・二六事件を
いっしょにすると、冗談言うなというんです。
堤:今の学生には純真さがない。(中略)
三島:人間が悪くなったんだと思いますよ。それは青年の責任でね。大人の教育が悪いという考えは、とても
嫌いなんです。「楯の会」の講義で、「君ら教育が悪いとか社会が悪いとか一言も言うな」とぼくは言うんだ。
(中略)どうして運命を自分で背負わないんですかね。運命はどんな時代だってあるでしょう。背負わない人は
嫌いなんです。
三島由紀夫
堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」より
未来を信じないということはだね、つまり自分が終りだということだろう。自分が終りだということは、あとに
続くものを信ずるということなんだ。あとに続くものを信ずるということと、未来を信ずるということは、完全に
反対の思想なんだ。
未来を信ずるという思想は、自分をプロセスと規定するものだよ。高見順がああいう気の毒な一生を送ったのは、
そういうことなんだよ。
ただしね、自分が終りだということは、谷崎潤一郎もそうだったろうな。川端さんもそうなのかもしれない。
人のことをいっちゃ卑怯なら、おれもそうだ。(笑)あとに続くものを信ずるということは、絶対に未来に対して
自分をプロセスと規定しないことだよ。
滑稽だということは、客観的に滑稽ということなんだ。(中略)客観的に滑稽であってもいいと思うんだ。
しかし主観的に滑稽だと思ったら、人間負けだよ、そういうことだけは絶対やっちゃいかんと思う。
三島由紀夫
いいだももとの対談「政治行為の象徴性について」より
三島:戦後教育は、死ぬということを教えてないね。客観状勢がどうとかということは、ぼくは必ずしも信じない。
(中略)客観状勢が熟すのを待つというのは、ゲバラがいちばん嫌ったろう。革命の客観的条件というのはないんだ、
それを熟させるのが革命家だ、という考えだろう。それを熟させるのは精神だよ。それがあれば、なにかが
かもしだされてくる。
三島:ぼくは、戦後の人間というのは、新左翼でもなんでも、西洋人になっちゃたんじゃないかと思うな。
西洋人はそんな行動(犬死)はとらないよ。必ずリミットがあるんだ。
けっきょく、人間の生命ほど尊いものはない、という考えだよね。その考えが、どっかで掣肘するんだ。
野坂:だから自分の生命ほど尊いものはないんであって、実際問題としては、人間なんて他人が何百人死のうと、
どういうことはないわけでしょ。彼らは、そういうことがはっきりわかっている人なんですね。
三島:ウン、そうなんだよ。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「剣か花か」より
村上:日本人というのはどうしてこう人がいいのですかね。だまされやすいというのか。
三島:ぼくはだまされやすい云々よりも、言葉が軽視されたということがすべての間違いのもとだというふうに
思うのですけれども、たとえば戦術的にいっても、政治の基本は、言葉で「おれはあした羽田から発つ」というと、
羽田から発たなければならないというのが政治のルールと基本であって、(中略)こっちも「あした首相官邸を
占領する」といったら、その言葉は文学の言葉と本質的に同じ重さを持つべきだ。
村上:武士に二言はないと言う。
三島:それでね。ぼくら小説を書くときはそういう言葉を書くつもりで書いているのだから、そうしたら
やらなければならない。そりゃ死んでもやらなければならない。だから「十一月に死ぬぞ」といったら絶対
死ななければいけない。政治の言葉が文学の言葉と拮抗するのはその一点を措いてないのですよ。ぼくはそう
思うのですね。
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
それを全部戦術である、あれはああいって敵をだまかしたのだ、実は死ぬ気はなかったので、ちゃんと戦力は
温存してある、首相官邸をどうせ占領できないことはわかっているが、敵の目をくらますためにそういったのである、
などと言う。これは戦術というものの一番最低の戦術ですね。欺騙行動というのですけれども、ぼくはそれは
もう言葉がばかにされている段階だと思うのです。一度言葉をばかにしたら、あと永遠にこれをばかにしなければ
ならない。
「言霊の幸ふ」というのは、紀貫之が「猛きもののふの心をも慰むるは歌なり」ですか、「古今集」の序に
ありますね。言葉が現実というものを支配しているのだ、そうして現実の人間感情というのは結局その言葉から
出て来たものでできているのだという、現実に対するアンチテーゼを立てる立て方なんですね。(中略)あの言葉は、
言葉が先であって、現実が先なんだということは一言もいってない。(中略)
しかしぼくが一歩言葉の外に出ればそこじゃ責任は完全にかかってくるという考えですね。
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
村上:祭りというのは天皇が中心になって米を斎き祭るというようなことですか、やはり米を食っていなければ
いけないわけですな。
三島:米は絶対食いますね。日本人はどこまでいっても食いますね。ここでパン食ってますけれど、米はとにかく
どこまでも食いますな。米が一つの象徴になったってぼくは構わないと思う。日本中に水田が全部なくなって、
宮中の陛下がおつくりになる一坪の水田になっちゃった――それでも構わない。
村上:そうすると三角寛さんの山窩の研究に出てくるような米を食わないやつがほんとうの日本人だというあれは
どうお考えですか。
三島:(中略)そういう民衆の中のちょっとした変ったものを見つけて来て、それを拡大する歴史観というのは
いろいろありますよ。八切止夫なんかそんなことばっかりいって暮している。(笑)そんなもの歯牙にかける
必要ないです。文化に関係ないです、そんなもの。そんな人間がいつ文化を創造したですか。いつ文化の高い洗練、
日本語の一番高いものをそんな人間が保証しましたか。山窩が日本語というものを保証しやしない。
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
村上:米をつくるということと、米を斎き祭るということと、言霊の幸ふということが合致するわけですね。
三島:そうですね。
村上:それがほんとうのネーションであるとおっしゃる?
三島:三種の神器とぼくがいうのはそれですけれども、あなたもそれ、お書きになっている。この間、石原慎太郎に
笑われちゃった。小田実と二人で、私をあざ笑っていましたよ。三種の神器だって、三島にも困ったものだ――
石原が笑ったら、小田実が共感の笑いをもって……。(笑)
村上:その点自民党と社会党も近いわけですな。
三島:いや、石原と小田実って、全然同じ人間だよ、全く一人の人格の表裏ですな。
村上:ともかく非常にモダンな人が多いから、三種の神器なんていうと驚いちゃうのですね。われわれは心の上では
非常に身近なんだけれども。(笑)
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
三島:ですからぼくが皇居を守るというのは、一般のやつとちょっと違うのは、宮中三殿守ればいい、宮中三殿の
ことなんですよ。文化というのは、結局それ以外に文化を最終的に守るといったって、「源氏物語絵巻」とか
国立博物館にある文化財とか、文部省の文化財保護委員会の思想とか、そういう思想は戦う思想じゃないのです。
そういう思想は絶対にどんな政治形態ができようが、これからも、大丈夫です。そういう思想は官僚の思想ですね。
ぼくはひょっとすると言論の自由を守るという思想もそっちの方じゃないかと思うのですね。下手をすると、
というのは言論の自由の問題は非常に微妙なんだけれども、文化というものの発達に、言論の自由というものが
ほんとうに栄養分になるかどうか、ときどき疑問に思うのです。(中略)
村上:結局自分が美しいと思う生き方を生きて見せるというほかに手がない。
三島:それ以外に全くないですね。ところがそのチャンスすらなくなっちゃった。(中略)
村上:なかなか腹を切るチャンスもないですし、うまく切れるかどうかむずかしい。
三島由紀夫
村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情――文化・ネーション・革命」より
三島:ぼくはスピードというのは、ある観点からみた主観的なスピードにすぎないと思うよ。たとえば「お能」と
いうのはとてもスピーディーだよ。ある時点からある時点へ飛んじゃうでしょ。舞台二回りぐらいすると東北から
京都に着いちゃうからな。あのスピード、どうしてみんなわからないのかな。
寺山:俗物は、斬られるときには居合抜きより、田中新兵衛みたいにゆっくり斬ってもらいたがる。(笑)
お能の速度は居合抜きだから宮廷向きで大衆性がない。速度というのはイデオロギーなのですね。
三島:お能のスピードは、電光石火をスローモーションで撮れば、ああなるに決まっている。恋愛でも、ドラマでも、
迅速そのものにすべてが過ぎてしまって、あとは何も残らない。それで、塚の上に秋の風が吹いている。それしか
なくなっちゃうんだから、すごいよね。どんな美女も、すぐ白骨になっちゃうしさ。
三島由紀夫
寺山修司との対談「エロスは抵抗の拠点になり得るか」より
寺山:カカトを三センチずらすと、三年経ったりするわけです。
三島:そのくらいのスピードだね。SFでこんなのがあったね。どこかの砂漠で不思議な彫刻が発見された。
手が空を指さしていた。それから十年経ってまたそこに来てみたら、こんどは手が下っているんだよね。この彫刻、
ほんとは生きてる人間なんだが、その人間の時間感覚では手を上げてから下げるまで十年ぐらいなんだ。
寺山:しかし、同時に何もしないやつが、おれの速度は肉眼では見えないだろうっていうふうにいい出す世の中だから。
三島:そうだ、だまされるよ。
三島:時間を支配しているのは女であって、男じゃない。妊娠十ヵ月の時間、これは女の持物だからね。だから
女は時間に遅れる権利があるんだよ。
寺山:ただ女は二十八日ごとに血が出てくるもう一つの時間を信じてるから、精工舎が作った時計の時間に対して、
無頓着になってしまっている。女は時計そのものですからね。
三島由紀夫
寺山修司との対談「エロスは抵抗の拠点になり得るか」より
三島:ぼくとっても時計が好きなんだよ。よく銀座あたりへ行って、百二十万とか八十万とかいう時計の前で
しばらくヨダレをたらすんだ。女房は安い時計ばかり持って歩いている。時計買ってやろうかっていっても、
絶対に欲しがらない。亭主は時計のところで立ち止まる。これには何か本質的なことがあるんじゃないかと思うんだ。
寺山:三島さんは刺青するみたいに、背中に時計をはめ込んだらどうですか。
三島:そう。女は自分が時計なんだから、肉体がちゃんと時計の役割をして、規則正しく自分の影響を受けている。
時間内存在なんだよ。男は時間外存在になりかねないから、しょっちゅう時計に頼らないと、こわくてこわくて。
寺山:だからぼくは、男はいつも偶然的な存在だから、外側に時計を探して歩いていなきゃいけないんじゃないかと
考えるのです。
三島:かもしれないね。自分をしばるものが欲しくて欲しくてしようがないんだよ、男というのは。時間を
逸脱するっていう危険がしょっちゅうあるから。
寺山:賭博の楽しみというのは、非常にマゾヒスト的な楽しみです。
三島:そうかもしれないな。
三島由紀夫
寺山修司との対談「エロスは抵抗の拠点になり得るか」より
三島:鏡花を今の青年が読むと、サイケデリックの元祖だと思うに違いない。
鏡花は、あの当時の作家全般から比べると絵空事を書いているようでいて、なにか人間の真相を知っていた人だ、
という気がしてしようがない。
三島:ニヒリストの文学は、地獄へ連れていくものか、天国へ連れていくものかわからんが、鏡花はどこかへ
連れていきます。日本の近代文学で、われわれを他界へ連れていってくれる文学というのはほかにない。(中略)
永井荷風はやっぱりどこへも連れていってくれないですよ。
澁澤:じゃ谷崎潤一郎さんは。
三島:谷崎さんも、もうひとつ連れていってくれない。
澁澤:つまり地上しか……地獄へもいかないわけね。
三島:天国へもいかない。川端康成さんはある意味で、「眠れる美女」なんかでどこかへ連れていくね。
澁澤:地獄ですね。
三島:地獄ですかね。鏡花が連れていくのは天国か地獄かわからない。あれは煉獄だろうか。
澁澤:煉獄あるいは天使界か、とにかく地獄でも天国でもない、その中間の澄みきった境地じゃないですかね。
三島:スウェーデンボルグ流に言うと天使界かな。
三島由紀夫
澁澤龍彦との対談「泉鏡花の魅力」より
これしかないという表現を体でもって選ぼうとすればことばだね。最終的に、ことばか身を投げることしかない。
それはもっとつきつめれば焼身自殺だよ。このあいだ、アメリカの国会議事堂で自殺した少年と同じだ。これは
ことばにかけると同じ重さを、からだにかけた行為だと思う。これが表現なんで、それ以外の表現は嘘なんだ。
嘘なんだけども効果はある。
アメリカ大使館の窓から旗を三つぐらい垂らせば世界中に報道され、これはたいへん象徴行為になって効果が
あるんだけれども、根底的に意味はない。意味がないんだけれども、意味があるかのごとくなっている。そして、
全学連は最終的に意味があるかのごときところで満足しているということが表現者として気に入らないんだ。
これは正義運動としての自己冒涜だよ。正義運動を正義運動たらしめる根底的なものは、最終的に自己破壊しかない。それができないと
いうことは、もう一つの表現のところに頼っているんだ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より
テロリズムといわれようとなんといわれようとかまわない、ことばを刻むように行為を刻むべきだよ。彼ら
(全学連)はことばを信じないから行為を刻めないじゃないか。もっとも、それを彼らに要求するのは無理かも
しれない。というのは、教育が彼らにことばというものの最終的な意味と重さを教えなかったから。そして
それは日本の文士、へっぽこ小説家どもの責任でもある。だから、彼らはことばの軽さに慣れて、テレビ的行為を
すばらしい政治行為だと思っちゃうんだよ。
(全学連は)ファクトを信じない時代の子で、自分らのやることはファクトだと思っていない。
一定の仕組まれた政治的プログラムのなかの一つのパブリシティだと思っている。パブリシティとファクトとを
厳密に分けなければわれわれの言語信仰は崩れるわけで、そこが気に入らない。全学連は、どこにファクトがあって、
どこがパブリシティなのかぜんぜんわからないでしょう、これはある意味ではいちばん気味が悪いよ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より
去年、福田赳夫さんに「自民党は安保と刺しちがえてくださいよ」といったんだけど、これは自民党の歴史的
役割りだと思うんだ。戦後の国際協調主義みたいなものの最終的なもので、これを自民党がやってくれなければ
その後の日本は開けない。
中国人はものを変えることが好きでね、人間を壷の中に入れて首だけ出して育ててみたり、女の足を纏足
(てんそく)にしてみたり、デフォルメーションの趣味があるんだよ。これは伝統的なものだと思うんだ。
中国というのが非常に西洋人に近いと思うのは、自然にたいして人工というのを重んじるところね。中国人の
人間主義というのは非常に人工的なものを尊ぶ主義でしょう。作って、変えたという確信を持つことが権力意識の
獲得ですから。だから意識の変革というのをやりたくてしようがないんだよ。中国文学の専門家には悪いけど、
これは中国人の伝統的な趣味だと思うんだ。
変革といった瞬間にすぐ偽善に陥る、モラルといった瞬間にすぐ偽善が押し寄せてくる、それはほんとに怖いねえ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より
去年、福田赳夫さんに「自民党は安保と刺しちがえてくださいよ」といったんだけど、これは自民党の歴史的
役割りだと思うんだ。戦後の国際協調主義みたいなものの最終的なもので、これを自民党がやってくれなければ
その後の日本は開けない。
中国人はものを変えることが好きでね、人間を壷の中に入れて首だけ出して育ててみたり、女の足を纏足
(てんそく)にしてみたり、デフォルメーションの趣味があるんだよ。これは伝統的なものだと思うんだ。
中国というのが非常に西洋人に近いと思うのは、自然にたいして人工というのを重んじるところね。中国人の
人間主義というのは非常に人工的なものを尊ぶ主義でしょう。作って、変えたという確信を持つことが権力意識の
獲得ですから。だから意識の変革というのをやりたくてしようがないんだよ。中国文学の専門家には悪いけど、
これは中国人の伝統的な趣味だと思うんだ。
変革といった瞬間にすぐ偽善に陥る、モラルといった瞬間にすぐ偽善が押し寄せてくる、それはほんとに怖いねえ。
全共闘諸君は若いかもしれないけど、若いなりにそういったものが垢として身についているかもしれない、怖いねえ。
三島由紀夫
高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」より
三島:人間がさがして最後に到達するものは根だよ。そうだろ。
石原:いろんな意味での存在の根に対する回帰でしょうね。(中略)
三島:回帰だろう。回帰のなかには自由という問題をこえたものがあるはずだ。ぼくは簡単に言うと、こういう
ことだと思うんだ。つまりわれわれは何かによって規定されているでしょう。これは運命ですね。日本に生まれ
ちゃった。(中略)
自由を守るというのはあくまで二次的問題であって、これは人間の本質的問題ではない。自由を守る、ある政治体制を
守るということは、人間にとって本質的問題でも何でもない。ぼくは、おまえ民主主義を守るために死ぬか、と
言われたら、絶対に死ぬのはいやですよ(中略)われわれはある政治体制を守るために死ぬんじゃない。じゃ何を
守るために死ぬのか。バリューというものを追い詰めていけば、そのために死ねるものというのが、守るべき
最終的な価値になるわけだ。それはこの自由の選択のなかにないとぼくは思うんだね。自由の選択自体のなかにはない。
もっと規定しているもののなかにそれがあるんだ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
三島:ニーチェの「アモール・ファティ」じゃないけれども、自分の宿命を認めることが、人間にとって、
それしか自由の道はないというのがぼくの考えだ。
(中略)
石原:(中略)しかし宿命というものを忌避しようとすることは、人間にとっての自由です。そこに、神のでない
人間の意志がある。
三島:しかし宿命を忌避する人間は、またその忌避すること自体が運命だろう。そういう人間はそういうふうに
生まれついちゃったんだ、反逆者として。
石原:しかしそれはその人間の一つの存在の表現であって、ぼくはやはり人間の尊厳というのはそこにしか
ないと思うな。
三島:君はずいぶん西洋的だなあ。ぼくはそういう点では、つまり守るべき価値ということを考えるときには、
全部消去法で考えてしまうんだ。つまりこれを守ることが本質的であるか、じゃここまで守るか、ここまで守るかと、
自分で外堀から内堀へだんだん埋めていって考えるんだよ。(中略)
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
三島:(おれは)最後に守るものは何だろうというと、三種の神器しかなくなっちゃうんだ。
石原:三種の神器って何ですか。
三島:宮中三殿だよ。
石原:またそんなことを言う。
三島:またそんなこと言うなんていうんじゃないんだよ。なぜかというと、君、いま日本はナショナリズムが
どんどん侵食されていて、いまのままでいくとナショナリズムの九割ぐらいまで左翼に取られてしまうよ。
石原:そんなもの取られたっていいんです。三種の神器にいくまでに、三島由紀夫も消去されちゃうもの。
石原:やはりぼくは世界のなかに守るものはぼく自身しかないね。
三島:それは君の自我主義でね、いつか目がさめるでしょうよ。
石原:いや、そんなことはない。
三島:(中略)天皇制という真ん中にかなめがなければ、日本文化というのはどっちへいってしまうかわからない
ですよ。(中略)
ですから(全共闘)三派が直接民主主義なんてことを言うと、(中略)君らの求めるそういう地上にないような
政治形態を天皇に求めればいいじゃないかって言うんですよ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
三島:伝統の多様性というものを守るためには闘う必要はないんだ。伝統なんかたった一つだけ守ればいいんだ。
絶対守らなきゃあぶないものを守ればいいんだ。守らなきゃたいへんなものを。そうすればほかのものは、
たいていだいじょうぶですよ。
(中略)
アイデンティティーというのは、最終的にアイデンティティーを一つ持っていればいいんだ。言わば指紋だよ。
君とおれとは別の指紋を持っている。ナショナリズムでもなんでもない。指紋が違う。それで文化を守るという
ことは、最終的にアイデンティティーを守ることなんだ。
石原:ぼくはやはり守るものはぼくしかないと思う。
三島: 身を守るということは卑しい思想だよ。
絶対、自己放棄に達しない思想というのは卑しい思想だ。
石原:身を守ることが?……ぼくは違うと思う。
(中略)
三島:だけど君、人間が実際、決死の行動をするには、自分が一番大事にしているものを投げ捨てるという
ことでなきゃ、決死の行動はできないよ。君の行動原理からは決して行動は出てこないよ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
石原:そんなことはない。守るというのは「在らしめる」ということ。そのためには自ら死ぬ場合もある。
献身、奉仕だってある。自分に対する献身もあるでしょう。
三島:それは自己矛盾じゃアないか。自分に対する奉仕のために自己放棄するなんてばかなやつは世のなかで
聞いたことがない。
石原:いや、そうですよ。はっきりありますよ。他者というのはぼくの内にしかないんだもの。
(中略)ぼくのうちに在るもの、つまり友人があったり、家族があったり、民族があったり、国家があるわけ
でしょう。(中略)
三島:それじゃ君、同じことを言っているじゃないか。つまり君の内部にそういう他者を信じるか、外部に他者を
信じるかの差にすぎないでしょう。
石原:(中略)大体ぼくは人間が他人を信じるなんて信じられないな。
三島:君は絶対、単独行動以外できないでしょう。
石原:そう思います。だから派閥をつくれって言われても人間を信じては派閥なんかつくれない。
三島:絶対の単独行動でどうして政治をやるんですか。
(中略)
もうすでに君は何かの形で(中略)意識しないディボーションをやっているんだ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
石原:ぼくはときどき言うんだけれども、行きすがるときにいきなりつばをはきかけられて、とがめて顔をふいて
もらってもどうにもならんでしょう。やはりなぐるか、切るかしなければいけない。(中略)
三島:そりゃそうですよ。そのときはやる。
石原:現代の社会には名誉というものがないと思うな。
三島:それを守らなくちゃ名誉はないわけだが、しかしそれは自分を守るということと別じゃないかな。つまり
男を守るんだろう。
石原:結局、自分を守ることじゃないですか。
三島:それは、ある原則を守ることだろう。
石原:男の原理。現代では通用しなくなった男の原理。
三島:男というのは動物ではない、原理ですよ。普通男というと動物だと思っているんだ。女から言うと、男って
ぺニスですからね。あの人、大きいとか、小さいとか、それは女から見た男で、女から見た男を、いまの世間は
大体男だと思っているんだろうがね。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
三島:ところが、男というのはまったく原理で、女は原理じゃない、女は存在だからね。男はしょっちゅう原理を
守らなくちゃならないでしょう。その原理というものは、石原さんが言うように自分だとはぼくは思わないですよ。
自分ならそんな辛い思いをして原理を守る必要はない。自分を大事にするんだったら、つばをはきかけられても、
なるたけけんかしないでそっとしておいて、かかわりあいにならないで、そばで人が殺されそうになっても、
警察に調書を取られるのはたいへんだから、そっと見ないで帰りましょうというほうが、よほど生きるのは楽ですよ。
だけどそこで原理を守らなければならないのが男でしょう。
三島:三種の神器です。ぼくは天皇というのをパーソナルにつくっちゅったことが一番いけないと思うんです。
戦後の人間天皇制が一番いかんと思うのは、みんなが天皇をパーソナルな存在にしちゃったからです。
天皇というのはパーソナルじゃないんですよ。(中略)
それで天皇の本質というものが誤られてしまった。だから石原さんみたいな、つまり非常に無垢ではあるけれども、
天皇制廃止論者をつくっちゃった。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「守るべきものの価値」より
三島:人間の生存本能や、自己防衛本能を超越できたら、人間というものはもう少し飛躍するのだろうと思いますけど、
気違いはそれが飛躍してしまうんですね。
尾崎:近所の脳病院には患者が三百人くらい入ってましてね、(中略)東大生ですが、非常にまともな口を
きいていて、どこが変っているんだろうと思っていると、「ちょっと向うの山をご覧なさい」というんですよ。
見ると、「ほら、あれが動いているでしょう。あの山が動いているうちはだめですよ」。(笑)「じゃあ君は、
地球が自転するその動きだと思うのか」といったら、「そうじゃないのだ、あの山の震動だ」って。(中略)
三島:それは何かバイブレーションを感ずるのかもしれないですね。僕はやっぱり物体というものは、バイブレート
するものだと思うんですよ。物体自体が、一つの構成要素がバイブレートしていなければ、この宇宙は成り立たないと
思うな。ほんとうはバイブレートしているのかもしれないけれども、われわれにはその動きが全然見えないわけですね。
三島由紀夫
尾崎一雄との対談「私小説の底流」より
言論の自由も左翼の言論の自由と右翼の言論の自由がある。私も小説を書いていますときはさほどに感じない
けれども、文壇というところは、文学賞など審査する場合、私ははっきりいえますが、かりにも思想的偏向で
作品を選んだことはない。たとえそれが、共産党員であろうがなかろうが、自分と政治的意見がかわろうが、
文学作品としてよければいいという立場を通しております。しかしひとたび評論の世界に入ると、なるほど
むずかしいもんだなということを最近痛感したことがあります。
私事ですけれども(中略)「文化防衛論」というのを書きました。つまらんものですが、一所懸命書いたんで
七十枚ほどの長いものになった。そうすると、読売新聞と東京新聞は、それぞれ林房雄さん、林健太郎さんが
文壇時評をやっておられるからいろいろ親切に採り上げてくださる。見ようによっては親切すぎるわけですね。
ところが朝日、毎日は一行も取扱わなかった。黙殺です。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
三島:もう一つはテレビの場合、ぼくらは実にニュース取材というのは困るんです。うっかり映像を出すと、
映像にウソはつけない。私がカメラの前に立つ、何かをしゃべる。何かをやる、それをフィルムではどうにでも
なるということですね。しまいにちょっとしたコメントリィをつけて「……と三島は意気揚々、過激な言論を
吐いて高笑いをしていた」なんていわれたら、これはもうマンガになっちゃう(笑)
マンガにされるのも悲劇にされるのも、みんな向こう様の自由。ですから言論の自由にしろ、偏向にしろ、
われわれは実に微妙なところで生きているということです。
小汀:ほんとうにそうです。(中略)
無着成恭という寺の坊主の、あんまり日本語のできない人、(笑)それと対等で議論するというんだ。ぼくは
(中略)しゃべる機会がほとんどない。こららにしゃべる機会を司会が与えないようにしているんだ。(中略)
(無着は)発言したら最後、マイクをはなさないんだ。(中略)向こうが七分の土俵を使えて、こちらは三分しか
使えない。そういうたくみな戦術をつかうんだ。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
三島:タクシーに乗っていたとき、ラジオで無着成恭が子供の質問に答えていたんです。子供が「先生、
スサノオノミコトとか、アマテラスオオミカミの話は本当にあったんですか」ときくと、その無着が「チミ、
それね、ぼくこれからハナスしるけどね。あのスンワ(神話)というのは、ほんとうのハナスと違うの。
ツガ(違)うけれども、あのネ(中略)アマテラスオオミカミ(天照大神)ツウ人がいだの。それがら
スサノオノミコト、ツウ人がいだの。これが悪い人でね、何したがどいうど、まんず、田んぼ荒らして米とれなぐ
したの。(中略)それがら機織りをこわして……(中略)あの岩戸ツウのはどう考えればいいがツウと、あれね、
お墓なんだね。(中略)」(笑)
これじゃ、ぼくは子供が可哀想になっちゃった。(笑)唯物史観の、つまり、やり方を教えて、まず基本的な
生産関係の生産手段の破壊とか、そういうところから教えていって、それがいかにいけないことかと。そして
神話的なことを全部リアリスティックに教えている。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
子供の雑誌なんかをみていますと、手塚治虫などがやはり神話を書いている。たとえば神武天皇など他民族を
侵略した蛮族の酋長にしている。日本に古代奴隷制なんてないんですが、奴隷たちが苦しめられて鞭で打たれて、
そこで金の鳥が弓の上にとまったりして、それで人民を威嚇して……と、全部そういう話です。
ぼくは大学生が白土三平のマンガを読むのはまだいいと思う。それは唯物論をかじってからマンガを読むんだから
まだいい。あるいはマンガで唯物論をかじるにしてもです。だけど小学生や子供が読むのは、大学生が読むのとは
違うでしょう。これがなんでもないような女の子向きのマンガの中に、支配階級を倒せとか、資本主義はいかんとか、
それがたくみにしみ込むように織りこんである。大人が神経をつかっても、いつのまにか侵入してきているんですよ。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
子供の雑誌なんかをみていますと、手塚治虫などがやはり神話を書いている。たとえば神武天皇など他民族を
侵略した蛮族の酋長にしている。日本に古代奴隷制なんてないんですが、奴隷たちが苦しめられて鞭で打たれて、
そこで金の鳥が弓の上にとまったりして、それで人民を威嚇して……と、全部そういう話です。
ぼくは大学生が白土三平のマンガを読むのはまだいいと思う。それは唯物論をかじってからマンガを読むんだから
まだいい。あるいはマンガで唯物論をかじるにしてもです。だけど小学生や子供が読むのは、大学生が読むのとは
違うでしょう。これがなんでもないような女の子向きのマンガの中に、支配階級を倒せとか、資本主義はいかんとか、
それがたくみにしみ込むように織りこんである。大人が神経をつかっても、いつのまにか侵入してきているんですよ。
(中略)とにかく厚顔無恥というのが彼らの特質ですね。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
(全般的に右寄りの人たちは)清らかなものはそっとしておきたいって気持ちがとても強いんだけれども、
清らかのまわりには濁流がうずまいている。われわれが清らかなものをもとうとすると、清らかなものだけ
もっていたら、どんどん押流されてしまう。エロティックというのは清らかなものの中にもあるんだということが
理解できないんですよ、彼らは……。むしろ左翼はそこらはうまいですよ。はじめから民青なんかのサークルでも
男女交際、(中略)きれいな女の子なんかがいっしょに手をつないでくれる。まあフォークダンスやりましょう、
そのうちに女の子のほうがアクティブだと、「こんどのなんとかの反戦デモに参加しない?」というと、
「きみにいわれたら……」ということになるでしょう。みんなエロティックからはいっていますよ。(中略)
これでは(右翼は)チャームという点がむずかしい。ユーモアも笑いもなくてはね。
いかに思想が正しくても欠点は欠点で自覚しなきゃいかんと思います。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
核兵器というのは男で、世論というのは女という考えを非常に強くもっているんですよ。
(中略)それをさらに敷衍しますと、こういう世の中にしたのは、どうも核が原因じゃないかと思えるんです。
というのは国家権力でも何でも、権力というのは力ですから、「“力”イコール兵器」で、兵隊の数と強い兵器を
もっている方が強い。当然でしょう。それが世界歴史を支配してきた。いままでは兵器は使えるからこそ
強かったんです。ところが使えない兵器をついつくっちゃったんですね。広島で使ってあんな惨禍を起こして
使えなくしてしまった。使えない兵器というのは、あるいは力というのは恫喝にしか用をなさない。恫喝ないしは
心理的恐怖、ひとつのシンボリックな意味だけが強まってきた。そうなると、片一方の方は使えぬ兵器に対する
ものとして人民戦争理論みたいに、ずっと下の方からしみこんでくるやつが出てくるのは当然ですね。それをみて
被害者意識というのがだんだん勝つ力になってくる。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
広島市民には非常に気の毒だけれども、つまり「やられた」ということが、何より強い立場とする人間ができてくる。
そうすると、やられないやつまでも、やられたような顔をする方がトクだというようになるわけです。つまり女が
男にだまされたといって訴えるようなものです。とにかくトクなのは、なぐることじゃなくて、なぐられることだと。
そして痛くなくとも、「あっ、イタタタ!」というほうがいつも強い立場をつくれる。それで全学連がヘルメットの
下に赤チンを綿にしみこませていて、なぐられると赤チンがダラダラと垂れるようになっているという話も
ききますが、それも被害者ぶる者の強さの一例ですね。
被害者という立場に立てば、強いということがわかっちゃっている。なぜなら向こうは力が使えないに決まって
いるんだから。それが世論であり、女の勝利だと思うんですね。女はあくまで「弱い女をどうしてこんなに
いじめるんだ」と、断然反対してくる。すると男はそれ以上、腕力をふるえないから負けちまうわけですね。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
(中略)力対力という関係が、戦後の世界ではだんだん薄れてきつつあると思うんですよ。(中略)
われわれの主張は正しいのに、こんなに弱い、武器をもたない学生がやられているじゃないかと、頭から血が
流れているじゃないかと。全学連を非難する人たちも、やっぱりおしゃもじをもって、主婦連じゃないけれども、
弱いわれわれの生活を守るのにはどうすればいいのか、すべて「弱いわれわれ」が前提になっている。これは
世論のいちばん大きな要素で、われわれが世論に迎合するためには、自分が強者、あるいは加害者であったら
たいへんなことになっちゃう。
自衛隊があんなに悪口をいわれるのはもう、自衛隊が力だということがはっきりしているからですね。そして
警察の悪口がいわれるのは、警察が力だということがはっきりしているからですね。力をもっているやつは
かなわない世の中になっちゃっている。これは戦略をよほど考えないと、いまわれわれは左翼の言論を力だと
思って評価したらまちがいで、あれは弱さの力なんですね。それをいちばん象徴しているのは、ぼくは核と
世論というものの関係だと思います。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
「ウエストサイド・ストーリィ」というミュージカルがありますが、実に皮肉な歌が出てきます。暴力団の
不良少年どもが、お巡りがやってくると、みんなで被害者意識を訴える歌を歌うんです。われわれは社会的な
病気だ、ソーシャル・ディジーズだ、すべて社会の被害者で、社会の矛盾がわれわれに集中されて、こういう
人間になっちまった、われわれに罪もなければ責任もない、教師が悪い、社会が悪い、政治が悪い、経済が悪いと
いうんです。お巡りは閉口してしっぽを巻いて逃げ出すんです。
ああいう逆手のとり方というのは、日本では一般的になっちゃった。いつも個人が責任をとらないからです。
それは現体制にも責任があるんで、誰も個人が責任をとらなければ、罪を人になすりつけるほかない。そうすると
金嬉老のような殺人犯の罪さえ、誰かに、あいまいモコたるものになすりつけることはできるんですね。これは
人間が、本当に自分個人の責任をとらなくなった時代のあらわれですね。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
たとえばわれわれの中に、自立感情というのがあり、(中略)何とか一人立ちしたい、人に頼らずに生きたいという
気持ちがあることは右も左も問わないと思うんです。その気持ちを左に利用されるというのは非常につらいですね。
たとえば米軍基地反対とか、沖縄を返せとか、どこかに訴える力がありますよね。それは右にも共通するからですね。
ぼくはこのあいだアメリカ人にいったんです。ここらが君たちの性根のきめどころだと。安保条約をやめて
双務協定にするとか、そのためには憲法をかえなければならない、そのときには君らの国に基地をくれと
いったんです。(笑)ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンの四ヶ所でいいから、基地を
ほしいと……。一坪でもいいんです。そのまわりに基地反対デモが押し寄せても、その一坪の中にはいってきたら、
撃っちまえばいいんですからね。そのくらいのことをアメリカは考えなければだめだと。(中略)双務的で
あれば、国民は納得する。(中略)
向こうで基地反対闘争でも起これば大成功です。(笑)
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
たとえばわれわれの中に、自立感情というのがあり、(中略)何とか一人立ちしたい、人に頼らずに生きたいという
気持ちがあることは右も左も問わないと思うんです。その気持ちを左に利用されるというのは非常につらいですね。
たとえば米軍基地反対とか、沖縄を返せとか、どこかに訴える力がありますよね。それは右にも共通するからですね。
ぼくはこのあいだアメリカ人にいったんです。ここらが君たちの性根のきめどころだと。安保条約をやめて
双務協定にするとか、そのためには憲法をかえなければならない、そのときには君らの国に基地をくれと
いったんです。(笑)ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンの四ヶ所でいいから、基地を
ほしいと……。一坪でもいいんです。そのまわりに基地反対デモが押し寄せても、その一坪の中にはいってきたら、
撃っちまえばいいんですからね。そのくらいのことをアメリカは考えなければだめだと。(中略)双務的で
あれば、国民は納得する。納得させるためには、アメリカの広いところで、一坪くらいの土地がなんだ、と
そういったんです。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
向こうで基地反対闘争でも起これば大成功です。(笑)こっちもやっているし、向こうでもやっているから、
おあいこですね。
それで解放されますよ、こっちのアメリカの基地は、そのかわりにこっちで責任をもって守ってやる。
もうひとつは自立という問題に関係するんですが、自衛隊がどうもいざというときには、アメリカの指揮で
動くんじゃないかという心配をみんなもっているわけですよ。これは自衛隊によく聞いてみても、最終的な指揮権が
どこにあるかということになると、実にむずかしいですね。(中略)最終指揮権については、いろんなカバーが
あるわけですね。(中略)
私はどうしても日本人の軍隊をもたなければいかん、どんなに外国から要請があっても、条約がない限り動かんと、
あるいはこっちはこっちの判断でやっていく軍隊がなければならん、そうすると、どうすればいいんだということを
いろいろ考えた。どうしても二つに自衛隊を分けて、全くの国土防衛軍と、それから国連協力軍の二つに分ければいい。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
ぼくは陸上自衛隊の九割までは国土防衛軍でいいと思う。そうすれば、その軍隊はどんなことがあっても日本を
まもるため以外は動かないんだから、国民の信頼を得ますよね。
(中略)
ところで自衛隊のことは、ぼくはあんまり細かいところまで知りすぎているんで、物をいいにくくなって
いるんですが、訓練の安全管理の問題を一つとってみても、予算がいろいろ響いている点があると思うんです。
はやい話が自衛隊には、はばかりの紙がないんです。紙の予算がないんです。だからみんな兵隊はPXで鼻紙を
買って、けつをふいているんですよ。
(中略)紙ならいいです。別に命にかかわりはないから。ところがレインジャー訓練のとき、末端の部隊には、
新しいロープが配給にならないんです。そうすると、何度も何度も耐久限度のすぎたやつを使っているところが
あるんですね。ちょっと危ないなと、思ってもやっちゃう。それでロープが切れて、現実に事故が起こっている。
これは予算ということもひとつの問題です。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
こういうことをあまりいっちゃいかんかもしれないけれども、防衛大学の学生なんかに聞きますと、われわれの
軍隊はシビリアン・コントロールの軍隊であると。だから政権がかわれば、それに従うのは当然だと。日本に
共産政権ができれば、われわれは共産軍になるのは当然だという考え方をするのが、かなり多いらしいですね。
そういう考え方は間違いだということを世間はこわいから教える自信がないんです。これは軍隊の重大な問題で、
自衛隊というのは、もともとイデオロギッシュな軍隊であるということを、もっと周知徹底させないと……。
それを世間でたたき、国会でたたき、ぼくにいわせると、イデオロギー的な軍隊であるけれども、名誉の中心は
やはり天皇であるというところで、すこし極端ですが、そこまでいかなければだめだと思うんです。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
少なくとも自民党が危ないときになって国民投票をやったとします。そうしてウイかノンかというのを国民に
問うたとします。できることは、安保賛成(ウイ)か安保反対(ノン)かどっちかしかない。安保賛成というのは、
はっきりアメリカですね。安保反対というのはソビエトか中共でしょう。日本人に向かっておまえアメリカをとるか、
ソビエトをとるか中共をとるかといったら、僕はほんとうの日本人だったら態度を保留すると思うんですね。
日本はどこにいるんだ。日本は選びたいんだ、どうやったら選べるんだ。これはウイとノンの本質的意味を
なさんと思うんですよ。
(中略)まだ日本人は日本を選ぶんだという本質的な選択をやれないような状況にいる。これで安保騒動を
とおり越しても、まだやれないんじゃないかという感じがしてしようがない。それで去年の夏、福田赳夫さんと
会ったときに、「自民党は安保条約と刺しちがえて下さいよ」と言ったんですよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
私が大きなことを言うようですが、私の言う意味は、自民党はやはり歴史的にそういう役割を持っている、
自民党は西欧派だと思うんです。西欧派は西欧派の理念に徹して、そこでもって安保反対勢力と刺しちがえてほしい。
その次に日本か、あるいは日本でないかという選択を迫られるんであるというふうに言ったことがある。いま
右だ左だといいましても、安保賛成が右なのかということは、いえないと思うんです。安保賛成も一種の
西欧派ですよ。安保反対はもちろん外国派です。そうすると国粋派というのは、そのどっちの選択にも最終的には
加担していないですよ。
ですからナショナリズムの問題が日本では非常にむずかしくなりまして、私が思うのに、いま右翼というものが
左翼に対して、ちょっと理論的に弱いところがあるのは、われわれ国粋派というのは、ナショナリズムというものが、
九割まで左翼に取られた。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
だって米軍基地反対といったって、イデオロギー抜きにすれば、だれだってあまりいい気持ちではない。それから
アメリカは沖縄を出て行け、沖縄は日本のものであったほうがいい、なにを言ったところで、左翼にとってみれば、
どこかで多少ナショナリズムにひっかかっているから広くアピールする。そうして私は、ナショナリズムは
左翼がどうしても取れないもの――九割まで取られちゃったけれども、どうしても取れないもの、それに
しがみつくほかないと信じている。だから天皇と言っているんです。もちろん天皇は尊敬するが、それだけが
理由じゃない。ナショナリズムの最後の拠点をぐっとにぎっていなければ取られちゃいますよ。そうして日本中が
右か左の西欧派(ナショナリズムの仮面をかぶった)になっちゃう。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
林:僕は今の左翼の“ナショナリズム”は発生が外国指令だと思う。いくら彼らに教えても反米はできるが
反ソ、反中共はできない。したがって尊王ということは、彼らにとっては、もってのほかです。いま愛国主義が
彼らに先取りされているようにみえるが、実際は取られていないんだな。われわれ右翼がうっかりしている間に
日本のナショナリズム、愛国主義とアメリカ帝国主義打倒をすり変えてしまったんですよ。
三島:この間も羽田で火炎ビンを投げたのは毛崇拝で、かつ愛国だというんでしょう。あれは明らかにおっしゃった
ような代表的なものですが、(中略)やつらは天皇、天皇といえばのむわけないです。のむわけないから、
やつらから天皇制打倒というのを、もっと引出したいですよ。(中略)
これをもっとやつらから引出さなければならない。やつらのいちばんの弱味を引き出してやるのが、私は手だと
思っているんですがね。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
三島:いま左翼のあとを追って理論化を急いでもなんにもならん。
私は三派の連中なんか、共闘派の連中と論争してみたけれども、(中略)連中は言葉使いは変だし、訳の
わからんことを言いますが、少なくともポレミッシュですよ。非常に論争にたけています。足をすくうのも平気だし、
こんなことは真似しようと思ったらむだな勉強です。僕は純粋な青年にこんな毒々しい技術を学ばせたくないですね。
もし理論武装といって、そういうことを意味するんならやめてほしい。
林:(中略)左翼学生たちが果たして頭がいいかどうかということには、私は疑問を持つ。彼らの理論は
鵜呑み理論であって、イデオロギー以上には出てこない。
三島:(中略)ただポレミッシュだ。ポレミックが非常にうまい。
林:(中略)訓練され学習させられていますからね。(中略)(右翼は)まず、たった一人の大川周明、たった一人の
北一輝が出ればいいんですよ。(中略)現在の右翼の理論武装のためには、新しい北、大川が出なければならない。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
三島:もう一つ大事なのは、ユーモアとウイットですね。左翼の連中は小憎らしいけれども、ユーモアが
あるんですよ、ときどき。(中略)右翼の理論というのは、儒教の悪影響だと思うんだけれども、とにかく衿を
正して聞かなければならないような理論ばっかりですね。とにかくユーモアとウイットで相手をこてんぱんに
のすような、おもしろい理論がない。そういう文章がない。
赤尾敏なんかユーモアがあるな。
林:それはちょっと皮肉な意味でね。
三島:あれは若いやつが喜んで聞いてますよ、おもしろいと言って。
林:赤尾さんがアメリカの旗を掲げているのは困る。僕は手紙を出したいくらいだ。あれをはずせば立派な
ものじゃないか。なぜアメリカの星条旗を掲げるんでしょうね。
三島:ある意味では日本の右翼の追いつめられた姿をいちばん正直に露呈しておる。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
三島:僕は理論なんか根底的に必要じゃないと思うんです。根底的には誠だけでいいんですよ。誠以外になにが
いりますか。
林:その意見に賛成です。右翼にはユーモアはなくとも、誠がある。いちばん安心してつき合える。左翼のやつは
つき合えない。油断ができない。
三島:いちばん根底には誠だと思います。誠があるかないかですよ。
私もいま誠だなんて、きれいなことを言いましたけれども、実態の人間にぶつかってみると、そうもいえないな。
いまの青年でも右だから誠だ、左だから誠でないと思っていると、つい間違えることがある。自分で苦い目に
会ってみなければわからない。これは原則論であって、右翼は最終的には誠だけだ。それをはずしたら右翼じゃない。
左翼は誠がなくてもいいんだというところで左翼だと思うんですが、それだけの建前、もし建前をはずしたら
いろんな人間がいます。左翼もいっぱいいるし、右翼もうじゃうじゃいる。実態に触れると、いまの青年だからと
いっていちがいに純真だといえないでしょう。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
三島:最近感心したのは、大東塾の靖国神社問題に対する対処の仕方ですね。これには感心している。つまり
靖国の霊を国が神道の祭祀にしたがって顕彰し、弔うべきだというだけのことです。彼の言いたいことは。
それを政治家だとか、いろんな圧力団体がそうさせない。遺族会すらそういう本旨を誤っているという場合に、
だれがその思想をとおすのか。その思想をとおすのに、言論だけでたりるのか。どの政治家のところへお百度詣り
したら、それをとおしてくれるのか。人間がそういうことを考えたら、それをとおす方法といったら、やっぱり
ぶんなぐるほかないでしょう。だからちょっとぶんなぐったでしょう。
政治家をぶんなぐることがいいかどうかわからない。ただ影山(正治)氏の塾の人がやったことは、ある一つの
思想をとおすには、どうしても法的にも、議会政治の上でも、どうしてもとおらない。しかしそれが日本にとって
本質的なものだと考えたら、あの方法しかないんじゃないですか。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
その方法の良し悪しというよりも、あの方法しかないからやったんでしょう。そういうふうな、どうしても
やらなければならんことで、ほかに方法がないということをやるために右翼団体というものはあるんだと思うし、
塾というものがあると思うんだ。それはその姿勢は守らなければならない。それを捨てたらだめだと思うんですよね。
あの人はその観点からあの事件についてはちゃんとしていると思う。
林:右翼は長い歴史を持ち過ぎて、政治家、財界人と仲良くなり過ぎている傾きがある。政界財界から二歩も
三歩も距離をおいて、いざというときにその尻をひっぱたくのが頭山満、内田良平先生以来の右翼浪人の
生き方だった。対露軟弱論者の伊藤博文はずいぶんおどかされたり、はげまされたりしている。
政界と財界に対して常に一敵国を形成しているという根本態度だけは、僕は右翼人に忘れてもらいたくない。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
三島:日本人の心のなかには、日本人というのは自分の主義主張のためには体を張るものである、命を最終的に
惜しまないものであるという伝統的なメンタリティーがあるでしょう。そうして新左翼というものはそのすれすれのところへいって、
国民に期待を抱かせたわけです。あのとき(安田城攻防)期待したやつはずいぶんいる。ところがそうでなかった。
これから先右翼に対する期待はそれが残ってる。ほんとうに体を張るやつはどっちかなということを国民は
みていますよ。
私はここで右翼も左翼と同じ体質になって、体を張らないんだということになったら、これは絶対絶望だと
思うんですよ。左翼と違って体を張るんだということが右翼の最終的なもので、それが国民の心というものを
ほんとうにつかむ唯一の方法だと思う。これは言ってやさしいことではありません。軽々に言うべきでは
ないんだけれども、ほんとうにそこしかないんじゃないですか。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
林:誠と命が右翼だ。左翼はどんなえらそうなことを言っても、それがない。(中略)彼らには戦略があるだけだ。
これはマルクスの生産力説と唯物史観から生まれている。人間というものをまるで認めてない。ちょっとした
不満は人間疎外というし、彼らの人間性回復とは実は動物になりたいということなんで、だから三島君は
“東大を動物園にしてしまえ”と言った――あんな学生動物がたくさんできてきたのだから。(笑)
三島:つまり義のために死ぬというのは人間の特徴で、動物にはない。義のために死なないのは、動物と人間の
境い目がつかないやつ。(中略)
林:(中略)いまの日本の左翼にもレーニン的なところがあり過ぎるんだ。(中略)裁判官が書いていたね。
安田講堂のそばの建物にたてこもった学生は、地方から出てきたばかりで、中央の闘争ぶりを見ろと、だまして
つれて行かれたんだそうですね。そういうことをやるんですよ。右翼ならそういうことはやらんなあ。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
三島:公明党はちょっと気味が悪いところがあるな。というのは僕は一九七五、六年には、ひょっとすると
連立政権ができるんじゃないかと思っています。(中略)
林:児玉誉士夫さんは、民社と公明党と自民の連立政権をつくれと言っている。
三島:しかしその場合、公明党のいちばんの持参金は自衛隊と警察ですよ。これはほかの野党はだれも持っていない。
林:そんなにたくさん入ってるんですか。
三島:非常なもんですよ、公明党の自衛隊と警察に対する手の打ち方は。十年たてば持参金になる。(中略)
林:武力という実力だな。これは噂だけれども、共産党が公明党になだれ込んでいるのと同じ比率で、右翼も
なだれ込んでるというんだが、ほんとうですか。
三島:そういうことも言いますがね。もう一つの可能性としては、公明党は分裂するでしょうね。
林:革命派と合法派と。
(中略)
共産党は人民戦線などというが、結局独力でやらなければならない。僕はあれは異教だと思ってるよ。マルクス主義は
キリスト教の裏返しだから、日本には土着しない。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
林:池田大作という人物は聡明な男だから、なにを読んでみても、理路整然と逃げてる。大事なところは少しも
触れない。いま正面から公明党を攻撃しているのはやはり大東塾ですね。
三島:ですから連立政権ができたとき、そういう時代がくれば、ほんとうにそれに対抗する勢力は右翼しかない
でしょう。
(中略)
林:いろんな「文化人」が「潮」にも「赤旗」にも書くでしょう。自民党の出版物に書くと安い。知識階級とは
そんなもんですから、あてにしなくていい。(中略)
三島:辛辣なことだが、そうですね。講演料がたくさん出ているところへ行く。文化人なんというのは頼らない
ほうがいいですよ。
僕は反共というのは、実は嫌いなんですよ。共産主義だろうがなんであろうが外国思想はみんな反対というのが
国粋主義であって、共産党だから反対じゃなくて、日本の純粋性をくもらすものは、共産主義であろうが、
資本主義であろうが、民主主義であろうが、なんでもいかん。だから日本人でいいんです。そのためには右翼と
いわれたって、なにいわれたってそんなことかまわない。そこから出発してほしいと思いますね。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
舟橋:僕は谷崎さんて、一生格闘したと思うんですよ。
三島:やっぱり都会人で、羞恥心が強いから格闘なんていうところ、人に見せたくないし、それで、闘っているなんて、
野暮な下品なことですから見せたくない。なるたけ負けたような顔して、そして非常に自己韜晦の成功した人だと
思いますね。世間はわりあいすなおで、「そうですか。じゃ、あなた闘ってないんでしょう」ととるんだから、
ばかですね。
(中略)
日本語というものをあそこまで代表した作家なら、偉大じゃないか。ヒューマニズムなんて西洋の輸入物なんだから、
少なくとも日本の文学伝統の上に立って、それをあそこまで、日本語のああいう美的な大構築物をつくったと
いうだけでも、偉大なんじゃないか。(中略)
舟橋:国家が弔旗を出さない、あるいは勲一等を出さないというところにもね、谷崎文学におけるヒューマニズムの
欠如があるんじゃないか、という心配が世間にはあるんだな。
三島:あるんですよ。それはみんな西洋かぶれなんですよ。いちばんみんなが判断に迷うのは、そこだろうと
思うんですね。
三島由紀夫
舟橋聖一との対談「大谷崎の芸術」より
キーン:びっくりなさるでしょうが、ヨーロッパの小さな国、フィンランドとかデンマークとかノルウェーでも、
三島さんの名声はたいしたものです。三島さんの小説の題名をよく知っています、まだ翻訳されていないものまでも。
(中略)
どうぞ御自分の作品を十分にほめて下さい。(笑)
三島:ただ僕が残念なのは、サガンと、谷崎さん、川端さんや僕たちと、そんなに差はないとおもうのですがね。
サガンはどんな(海外の)田舎に行っても知られている。僕は知られていない。つまりフランスのような
文化的伝統のある国と辺地にいるものとのハンディキャップは大きいてすね。いちばん身にしみて感じたことです。
キーン:それは翻訳者たちの責任かもしれないけれど。三島さんは不公平のようにおっしゃいますが、アメリカでは
サガンより三島さんの方がよく知られています。もしも私たちが「金閣寺」とか「宴のあと」を訳さないで
「美徳のよろめき」を訳したとすれば、あるいは「悲しみよこんにちは」よりもよく売れたかもしれない。
これは私たちの責任です。
三島由紀夫
ドナルド・キーンとの対談「三島文学と国際性」より
小西:おもしろいことには、女の役なのに、能役者は男の声でうたいますね。これをわれわれは何の不思議もなしに
受け取っています。しかし、もしあれを女のような声でうたわれたら、おかしくて聞いておれない。
キーン:ときどき、しろうとの能でほんとうの女の人が舞うでしょう。ほんとに気味が悪い。
三島:いつも言うんですけれども、能が日本の芸能のほんとうの形だと思うので、歌舞伎の女方が女のまねするのは
ほんとうの女方の堕落だと思いますね。ですから、歌舞伎の女方も、義太夫がほんとですね。そういう女方は
時蔵で終りになっちゃった。ちゃんと男の声でやっていた。
三島由紀夫
小西甚一、ドナルド・キーンとの対談「世阿弥の築いた世界」より
芸術家というものは、かなり追いつめられて来てから、始めて自分の「場」を発見するんだね。そして芸術家の
価値というものは成功したとか成功しないとかいう問題でなく、自分の宿命を見究めたかどうかにあるんだと思うな。
三島由紀夫
戸板康二との対談「歌右衛門の美しさ」より
三島:ゴンブローヴィッチはエロティックでない哲学なんて信用できないという。青年がなぜ特権を持っているか。
それはエロティックということです。学生新聞の文章を読んでごらんなさい。妙な観念的なことを書いていて、
何を言わんとするのか全くわけがわからない。だけど性欲が過剰だということだけはよくわかる。
芸術はそういうものがなければいかぬということだ。あんなわけのわからぬ文章をつくるもとがなければいかぬ。
それがなかったら、いくら技術的によくても、いかに美的であっても、根本的なことに欠けているだろう。
エロティシズム自体が一種の生命主義みたいなことになっちゃう。
(中略)
もちろんインポテでもエロティックであり得る。谷崎が一番エロティックだったのは「瘋癲」時代だったかも
しれない。谷崎という人はエロティックということを忘れなかった人だ。
志みたいなものだ。あれは偉いと思う。
(中略)
中村:そうすると肉体を離れるね。
三島:でも肉体から出てきたものだ。絶対に肉体から出てきて、それはただの観念じゃない。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
西洋人を見ているとわかるでしょう。いい年をして脂っこいセックス。ちょっと話がそれるけれども、
サンフランシスコのシンポジウムで一緒になった、実に高潔なイギリス紳士の探検家がいた。そこに日本人の
二世みたいな女が来た。この女があとでぼくにこぼしていましたけども、その追っかけ方ときたらたいへんなもので、
ほんとに閉口したそうですわ。あのおじいさん、もう七十ぐらいでしたかな。それでああいうものを持っていると
いうことは絶対肉体からくるので、日本人にはちょっとわからないようなところがある。西洋の哲学でも思想でも、
みなああいうものを抜きにしては考えられない。宗教もそうでしょう。キリスト教で抑圧した性欲の激しさと
いうものはすごい。だからバタイユとかクロソウスキーみたいな作家が出てくる。
中村:(中略)あれはやっぱり西ヨーロッパ人がキリスト教というタガをはめるに足る強い肉体を持っていると
いうことだね。
三島:ぼくもそう思います。日本人ではあんなことをする必要はない。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:ぼくは自分の小説はソラリスムというか、太陽崇拝というのが主人公の行動を決定する、太陽崇拝は母であり
天照大神である。そこへ向かっていつも最後に飛んでいくのですが、したがって、それを唆かすのはいつも
母的なものなんです。(中略)ずいぶん右翼のいろんな手記を読んだりしたけど、おふくろがみんないいおふくろで、
息子の行動を全部是認している。おやじは心配しますね。たとえば中村さんなんかは父性愛で心配するが、
おふくろは心配しながらも、息子が人殺しをするというと、いいよいいよといって是認してしまう。おふくろの
力というのはとても大事なんです。右翼のあれを読むと、みなおふくろ好きなんです。イタリアのギャングが
帰着するところは全部おふくろなんです。何か人間の行動性とおふくろと関係があるようだ。
(中略)
日本人の行動性の裏にはおふくろがべったりくっついている。それを発見するのです。(中略)いくら女を
締め出してもだめです。最終的におふくろが出てくる。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:小説は人間をどこかへ連れていけばいい。長々とただ語っていけばいい。それにはスタイルによって
人を物語に乗せることですね。
(中略)
中村:ぼくは、日本の近代小説がいちばん忘れているのは物語だと思う。物語を否定したわけでしょう。
三島:完全に否定した。
中村:そんなバカなことはないんだよ。西洋人は近代小説で物語というものをある意味で否定したろうけども、
実はそうじゃないんです。それは夫婦喧嘩みたいなもので、「このバカ野郎」といっているのを見ると、ほんとに
これは別れるのじゃないかと端では思うけれども、実はそうではない。西洋の場合はそういうものだった。
ところが日本では、それを端から見て、これはどうも、別れるのじゃないかと思っちゃったようなところがある。(中略)
結局物語というものを何かの形で復活しなければ小説などというものは滅びてしまう。
三島:ぼくも絶対そう思う。
中村:ところが物語というものはなくならない。
三島:民衆がある限りなくならない。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:ぼくはヒーローの魅惑という以上の、もっと魔的な、デモーニッシュなことをいっている。ヒーローが
魅惑があるに越したことはない。だけど物語というものは、人を知らぬ間に誘い出して、どこか水の中にボコンと
落として溺れ死させるようなものですね。
中村:そういうものがあればいい。
三島:せっかく自分がここに坐っているのになんでおれを連れて行くのだといっても、自然にあとをついて
行っちゃうようなもの。笛を吹いている人間は魅力があるわけでもないのだけれど、ただ魔的なものに惹かれて
行っちゃう。自分はそれによって感動したわけでもないし、それによって自分が高められたり低められたりする
わけではないけれども、自分が必ず水の中で溺れちゃう。物語というものは必ずしまいには人を滅亡させちゃう。
そういう魅惑があれば、たいへんな文学だと思う。
中村:死、結局そうかしら。
三島:そこへ行っちゃう。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:やっぱり死ですよ。芸術というのは何か根本的に死のイデーがあって、そして人をひきずってゆく力でしょう。
虚無などというものは人は信じたくもないし、実体に囲まれて住んでいる。(中略)これ以上のものが何が
ほしいんだというのに、どこかから変な笛の音が響いてきて、結局どうにもならない虚無のなかに陥れられちゃう。
(中略)
川端さんの「眠れる美女」にもあります。そういうのがぼくは文学だというように思うんですね。虚無へ向かって
ひきずってゆかないものは必ず贋ものだと思う。どこからきた確信か知らないけども、そう思う。
(中略)
やっぱり西鶴も偉いが近松も偉いと思う。ああいう日常的な三面的なつまらない事件を扱って、些々たる人間の
コンフリクトを扱って、非常に低い次元からはじめて虚無へひっぱってゆく。あれは社会科学者にいわせれば、
封建制度下のやむを得ない脱出だというけれども、絶対そうじゃないな。
中村:それはそうだ。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:ぼくはドナルド・キーンで感心しているのは、「道行」で人物の背が非常に高くなるということ、それまでは
背の低い人間たちが争ったり恋したり泣いたりしている、それが心中直前の「道行」の
文章にきてそこで背がすっと高くなるという、あれは非常にうまい批評だと思う。やっぱり背の高くなる文学と
いうのは非常に必要ですよね。
ぼくはいま安岡君の「幕が下りてから」を読んでいるのだけれども、あんなに人間が背が高くなることを
信じない人というのはつらいだろうな。
中村:それはおもしろい。そういう意味ではあの人は魅力がない。
三島:魅力がない。
中村:とても悧巧だからね。
三島:大江(健三郎)君は、少なくとも背が高くなるという可能性は信じているでしょう。自分は絶対ならない
けれども、誰かがなるだろうということを信じている。それが自意識と結びついて変なことになっちゃうかも
しれないけれども、少なくとも安岡君とちがうのはそこだ。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:作家がピエロというのは前提条件で、どこからどこまでピエロなんだから、自分でピエロだといったら
ピエロでなくなっちゃう。つまりピエロが出てきて、私はピエロですピエロですといったら絶対ピエロで
なくなっちゃう。メドラノの曲馬、あれは悲しそうだからいいので、私はクラウンですよといったらクラウンで
なくなる。日本の私小説というのはどうもそういう感じがする。
中村:また意見が一致しちゃう。
三島:(中略)太宰は、私はクラウンですよと絶えずいっていた。だからおもしろくもおかしくもないし、
そんな当たりまえなことをいうなと言いたくなる。
中村:太宰はともかくとして、日本の私小説は大まじめで、大いに悲劇的な表情で喜劇的なことをやってたんじゃないの。
三島:自分が気がつかないでね。自分が気がつかないというのはクラウンとはちがう。クラウンは全部知っている。
そして一生懸命やる。人は大笑い。それが芸術家だと思う。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:日本の小説家は自分がクラウンだということを知らない。そして私はクラウンですよというのだけれど、
腹の底でそう思っているかどうかはわかりません。
中村:思っていない。
三島:もし自分はクラウンだといえば、どこかの女が、冗談おっしゃってはいけません。クラウンじゃ
ありませんよと……。
中村:必ず言ってくれると思っている。
三島:あれは耐えられない臭味だな。
中村:とくに太宰はね。
三島:耐えられない。ぼくは安岡君のものを読んでも気に食わないのもそれなんです。安岡君が、「私」は醜男だ、
どうせ滑稽だ、女房にいじめられてばかりいるとか、そんなことはちっともおもしろくもおかしくない。
中村:そういうことになれば、何がおもしろくておかしいかということになる。
三島:それはクラウンが毅然としてクラウンであること、やっぱり毅然としているということです。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
中村:結局そうだね。だけど、ある意味でいえば安岡君は毅然としているんじゃないの。
三島:やっぱりそうじゃない。こんどの「幕が下りてから」を読んでもそうじゃないと思う。
中村:それは読んでないけれども、だいたい彼などは何かかんか言っていても、非常に自信があって、最後の
ところは毅然としているのじゃないかしら。それでなければやっぱり人はついてゆかないよ。
三島:ちょっとそこは疑問に思うな。
中村:あなたは考えようによれば安岡君のいうことを非常に真正面から受けとっているのに対して、普通の読者は
もうすこし横から見ていて、そんなことをいっているけれどもあいつはまあ自信があるのだと……。
三島:だけど、そういう読者を相手にするというのは卑怯じゃないですか。ぼくはそういうことは嫌いなんです。
中村:そこまでいえばそうよ。
三島:いちばん嫌いなんです。
中村:それはどういうことだろう。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:つまり、どこかでなあなあでなれ合いで、おれはこうやっていても、おれの偉いということは人がわかって
くれているのだぞ、ということがどこかに残っているからですよ。そんな意識は捨てればいい。
第三者、ぼくの理解者がどこかにいて、ぼくのことを偉いと思っていたら、ぼくは偉いというふうにすれば
いいじゃないですか。人が偉いと思ったら偉いと思えばいいし、人が滑稽だと思ったら滑稽であればいいので、
それについて自分は偉いとか滑稽とかいう必要は毛頭ない。
中村:安岡君はどう言ってるの。
三島:安岡君はいつも自分はクラウンだというふうに自己規定する。あれは狡いと思う。安岡君をまじめに
とっている人がいくらでもいるだろう、そういう人間に対して失礼だと思う。読者を考えた場合に、読者に対する
礼儀というものは非常に大事だと思う。読者がもしぼくをある一点においてまともにとってくれているなら、
ある一点でまともなんですよ。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
中村:あなたの小説の読者は何千か何万か何十万かいる。
それが自分のイリュージョンをあなたに対して持っている。
三島:それがすなわちぼくそのものだ。
(中略)
ぼくはだけど、これだけ大きなことを言う以上、イリュージョンのために死んでもいい。ちっとも後悔しない。
中村:それはよくわかっている。それでなければイリュージョンはつくれない。
(中略)
三島:たとえば西郷隆盛が死んだときは、(中略)おしまいのあれは、西郷とすれば死ぬことはないのに、
わざわざ出かけていって死ぬようにする。あれはイリュージョンの完成です。乃木大将、あれもイリュージョンの
完成です。人間というものにはそういうやみがたい欲求があるのじゃないか。
中村:それは人間じゃない、名士です。
三島:名士だというんですか。
中村:そうだよ。あなたはやっぱり気の毒だけど人間にはなれないよ。
三島:あんなことをいう。名士というけれども、それでは特攻隊はどうですか。
中村:特攻隊は名士ですよ。
三島:それは光栄だ。そんなら名士になっていい。
中村:あれは大名士だ。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:そんならあなた、あらゆる人間の名誉欲とか名誉心とか、概念的な誇りとか誉れとか栄光というものは
全部そうじゃないの。文学というものは栄光とは何の関係もない。
中村:文学は栄光と非常に関係があるけれども、もうちょっと女々しいものだと思う。
三島:おそらくそうでしょう、最後のところは。文学の栄光というものはほんとになにか疥癬みたいにくっついて
きちゃう。(中略)
ほんとうをいえばね、川端さんが文化勲章をもらったときにぼくは何だって文化勲章をもらったのだろう、
あんなに人間嫌いで、人間を否定して、人間世界をいやがっている人が、どうしてあんな小説を書いて文化勲章を
もらうんだろうということをもうちょっと穏当に書いたことがある。それはぼくの文学者と栄光の関係についての
基本的な考えなんです。
中村:だけど、それはあなたの川端さんに対する非常な買いかぶりです。ほんとうは文化勲章がほしい人です。
それはあなたのほうがもうちょっと偉い。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:文学の栄光というのは何か賎しくていやなんだ。栄光は栄光でとっておきたいし、文学は文学でとって
おきたい。それがぼくのやみがたい二元論なんだ。どうしてもそれでやりたい。
中村:それでやりなさい。
(中略)
三島:文学者についている栄光は全部贋もので、文学賞でもなんでも全部嘘みたいな、なんか汚ならしく
いやらしい感じがする。人前に出て賞状など持って写真をとるでしょう。ほんとうにみじめだ。
中村:あたりまえだ。
三島:オリンピックで一位になって月桂冠がつく栄光と何たる差だろう。
(中略)一つの作品で文学賞をとったときの、あの自分だけが知っている何ともいえないいやなもの、ほかのやつが
「おめでとう」などといってくれる、そういうものに対する何となくいやなもの、スポーツなどにはそういうものは
絶対ないと思う。
(中略)
ぼくは自分がいやらしくない人間だとは毛頭思わない。しかし文学がいやらしいことはよくわかっている。
だけど栄光だけはきれいに別のところにとっておきたい。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:こんどの大江君の「万延元年のフットボール」を読みました。非常にいい作品で、好きですけれども、
どうしてある上昇的な理念へ向う人間を表現するのに、自分のほうは衰亡あるいは降下、衰退、そういう立場でしか
とらえられないのか、とても歯痒くてしようがない。
中村:大江君のように才があれば、そういうものでしかとらえられないということはない筈なんだ。ところが
それをやるでしょう。
三島:そして成功するんだ。
中村:それはやっぱり読者にある形でおもねっているのだと思う。
三島:文学的には成功する。
中村:成功するのだけれども、それは大江君という人が悧巧すぎるのかバカなのか、そこは非常にむずかしい
ところでね。たしかに成功しました。だけれども、成功したことがいままである日本文学の範囲の外に出たかと
いうと……。
三島:絶対に出てない。
中村:出てないから成功している。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
中村:たとえば左翼の人たちが自分は反権力だと思っているでしょう。かりにああいう人たちが考えている革命が
成功すれば、それこそすぐ権力者になるでしょう。
三島:彼らはガリガリの権力亡者です。権力意識というものが彼らを押しているいちばん根本的な潜在意識だと思う。
それは日本の近代的文化人知識人の共通点です。ですからぼくは反教養主義のものすごいものしか認めない。
たとえば野坂昭如とか……。
三島:太宰治を好きになっているほうがぼくを好きになるよりまだ安全ですね。
中村:それは非常に安全だ。
三島:ぼくを好きになる青年は太宰治を好きになる青年より少ないから安心です。
中村:太宰より多かったら大へんだ。(笑)
三島:でも、なかには石原慎太郎を好きになる青年がいるし、そのほうがぼくよりずっと安全だし、勧めるね。
大江君などいちばん安全だよ。でもだんだん少なくなりますよ。そして時代おくれになって青年が振り向きも
しなくなるから、そのときにいい小説を書くでしょう。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:(小高根二郎の「果樹園」に)戦争中、丹羽文雄が「海戦」を書いたときに、ぼくを非常にかわいがって
くれた先輩の蓮田善明が丹羽を非難攻撃した話が出ている。丹羽という男はいかに頑冥固陋な男か、海戦の最中、
弾が飛んでくるなかでも一生懸命メモをとって海戦の描写をしている。これは報道班員として任務を遂行して
いるわけで、そのために丹羽は名誉の負傷までしている。ところが蓮田は丹羽を非難して、なぜそのときおまえ
弾運びを手伝わないかといっておこっている。(中略)そこにはかなり重要な思想が入っていて、ほんとうに
文学というのは客観主義に徹することができるか、文学者はそういうときにキャメラであるのか、単なる「もの」を
記録する技術者であるのか、あるいは文学とはそういうときにメモをとることをやめて弾を運ぶことであるのか、
という質問を蓮田がしているのじゃないかとぼくは思う。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:ぼくはそれは丹羽文雄が悪いとは決していってない。丹羽文雄は己れの信奉している文学の観念に
忠実だったと思う。ぼくは丹羽文雄のシンセリティーを微塵も疑わない。
(中略)総力戦というのは人間をあらゆるフィールドにおいて機能化してゆくものですね。大砲を撃つ人は大砲、
報道班員は文章によって記録あるいは報道し、あるいは軍宣伝のために利用される。そういう近代的な総力戦では
丹羽は正しい任務を果たしている。だけど文学というものは絶対そういう機能になり得ないものだということを
信じたい。
そうすると、文学が絶対に機能になり得ないということを証明するためにはどうすればいいかということになると、
そのとき弾を運べばいいじゃないかという結論になっちゃう。いかに邪魔でも、どいてくれといわれても。
(中略)
中村:それは戦時でなくいまの技術社会でもそうだね。
三島:いまおこっている問題なんだ。それは戦争の話と考えていない、いまおこっているものだ。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:ぼくはその問題はそういうふうに現代の問題として考えるのだけれども、文学の機能化ということと
文学と行動との問題はいつもからみ合っているというふうに考える。なぜなら、現代技術社会における行動とは
その九九%までが、自分の機能によって縛られているもので、これは戦時中から「職域奉公」という思想で
はじまっていた。文学にしたって同じなので、(中略)文学文学と言っていればいいかというと、それこそ受身で、
しらずしらずのうちに機能化されてしまっているということが現代なんだと思うな。(中略)平和な時代だと、
実に複雑なヴァリエーションに富んでいて、のんびり芋掘りの話を書いていても、文学好きの実業家の消閑の具に
使われているかもしれないから、うかうかしていられぬわけだ。(中略)文学をこういう「しらずしらず」の
機能化から目ざめさせるには、文学外の行動の必要が起ってくるのじゃないか。その弾運びだけが文学だという
状況が来るかもしれないのではないか。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:つまり、文学者が、言葉イコール行動、文学イコール行動と信じていることは、しらずしらずの機能化に
からめとられる危険があるので、あるとき自分の機能から絶対に離れたところで「何かのため」という行動を
やってみたらどうだ。(中略)
そこで、自分をそうやって文学からあるとき弾き出す力というものを、文学に本質的に具わった逆説的な
(ある意味で健康な)能力と考えるか、そういう力はもともと文学に存在しないと考えるか、で考えが完全に
二分されると思う。蓮田善明はその前者の考え方をした人だと思うし、僕は狭義の文学というよりも、どうしても
そういう広義の文学というものに魅力を感じる。そしてそれは、どちらがより強く文学を信じているか、という
信仰の形の論争にもなると思います。しかし、現実の例は、それほど高尚な話ではなくて、今起っている文学の
機能化というのは、簡単にいえば中間小説化ですよ。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:汚れてない思想というものはぼくは文学のなかにあるかどうかは疑問で、汚れてない思想というものは、
もしその思想を信奉すると文学を捨てなければならぬかもしれないという危険がいつもある。それが文学と行動との
問題にぶつかってくる。
(中略)
もし技術社会のなかにおける文学の機能ないし技術ということを考えれば、いまのテレビなどに毒されている
大衆が要求し、その大衆が人生の慰めあるいは疲れ休めとして要求する技術的によくできたおもしろい小説で
十分じゃないか。それ以上に現代読者ないし現代社会は何も要求していないと思う。一部の気ちがいじみた青年は
文学に哲学を求めたり文学に思想を求めたりするかもしれないが、社会はそんなものを全然要求していない。
ですからプロレタリア文学時代よりいまの時代のほうが文学が社会から要求されていないという意識は強かる
べきだと思う。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:ぼくは最近アイラ・レヴィンというアメリカ人の「ローズマリーの赤ちゃん」という大衆小説の飜訳を
読んだ。こんなおもしろい小説を読んだことはない。すごくうまくできている。サスペンスの積み上げから何から
完璧です。しかし何もない。思想もなければ哲学も何も徹底的にない。そのかわり技術の高さは日本の大衆小説を
百倍しても追いつかないくらい技術が高い。そういうものがあるんだね。
中村:やっぱり金になるからみんな勉強するんだね。
三島:ぼくはあの小説を読んで、「群像」なんかに載っている純文学は技術という点において百倍劣ると思ったね。
中村:それは千倍かもしれない。
三島:音楽もアメリカやソ連ではそうなりつつある。アメリカもソ連に非常に似た傾向がある。演奏技術など
非常に高度に達している。技術社会の人間というのは技術を喜んで、ほかのものをべつに喜ばない。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
武田:文学をやっていれば、いちおう決定しないですむ、というような風習が日本にある。
三島:あるんだよ。それは日本ばかりじゃない、僕はヨーロッパからきた風習だと思うよ。日本だったら
決定してますよ、明治維新までは。それは、ものを書く人間、詩をつくる人間、それから、少くとも文章を
書く人間は決定してますよ。だけど、いまの日本じゃ、非常にヨーロッパ的になったんです。つまり、ものを
書く人間のやることだから、決定しないですむんだという考えがある。僕はとってもそれがいやなんだよ。
(中略)
僕は、学生が東大で提起した問題というのは、いまだに生きていると思っているけれどもね。つまり、反権力的な
言論をやった先生がね、政府からお金をもらって生きているのはなぜなんだ、ということだよ。簡単なことだよ。
周の粟をくらわず、という人間がぜんぜんいないということだよ。これは根本的批判だよ。
私立大学ならそれはいいよ、だけど官立大学じゃそれは成り立たんじゃないですか。
三島由紀夫
武田泰淳との対談「文学は空虚か」より
武田:たとえば、いまヘドロの問題があるでしょう。ヘドロの一番の問題は、われわれが紙を使って生きていると
いうことですね。もし日本文学全集が出なくて、あるいは大新聞があんなに増頁しなかったら、石狩川のヘドロも
大昭和製紙の田子の浦のヘドロも出ないですよね。それを自分が、自分の芸術、あるいは自分の美をうたいあげる
根底は、けっきょくそのヘドロによって支えられているという感覚がないと、無限に批判できますよ、それは。
(中略)画家の使う絵具だって、映画監督の使うフィルムだって、全部ヘドロを出しているんだもの。それを
ふまえないで公害問題を言うと、それこそまた戦後の空虚だね。
三島:またはじまっていると僕は思うんだ。つまり、公害を批判すれば、またそれでいいんだ。(笑)文学と
いうものは、そういうものにいつも反抗してきたはずだろう。ところがいま文学の機能というのは、ほとんど
反抗しないようなところにきちゃって、反抗する力もなくなっちゃったんじゃないの。そういうものはウソだと
いうことを。
三島由紀夫
武田泰淳との対談「文学は空虚か」より
ひとたび自分の本質がロマンティークだとわかると、どうしてもハイムケール(帰郷)するわけですね。
ハイムケールすると、十代にいっちゃうのです。十代にいっちゃうと、いろんなものが、パンドラの箱みたいに、
ワーッと出てくるんです。だから、ぼくはもし誠実というものがあるとすれば、人にどんなに笑われようと、
またどんなに悪口を言われようと、このハイムケールする自己に忠実である以外にないんじゃないか、と思うように
なりました。ぼくのこの気持ちは、思想的立場の違う人、ゼネレーションの違う人にはきっと理解できないんだと
思います。
(中略)
もし白(純粋さ、純白)が観念的なら残酷さも観念的だ。白がザッハリッヒ(客観的、即物的)なら残酷さも
ザッハリッヒだ。ぼくにはその両者は、同一次元のものとしか考えられないんです。それを意地悪な人が見れば、
あいつは苦労を知らん、戦争を知らん、貧乏を知らん、だからそんな甘い見方をするんだ、とこんなふうに
なってしまう。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
しかし、ぼくだって、ぼくなりに戦争を見ているんですよ。たとえば勤労動員に行って、仲間が艦載機の機関銃に
やられて、魚の血みたいなのがいっぱい吹きだしているのを見たり、まあ多少は知っているんです。そして
「平家物語」ほどではないけれども、人間はすぐに死ぬんだ、死ねばどうなるかということを認識したんです。
これは相対的な問題なんで、おれは死体を百も見たから、三つしか見ないお前より戦争体験が深刻なんだ、とは
言えないし、おれはお前より貧乏だったから、だから偉いんだぞとも言えないはずです。(中略)
殺された側の人間はどうだとか、テロリズムはいけないとか、そういう思考は戦後ずっとつづいてきているし、
ぼくはもう聞き飽きたんです。ロシア革命だってフランス革命だって、貴族はみんな殺されているんですよ。(中略)
二・二六事件で感心するのは、女や子供をひとりもやっていない点ですね。これは立派だと思います。女や子供を
殺すのはキタナイですよね。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
古林:現在の文壇にはセックス小説、姦通小説が氾濫していますよね。セックスがマイ・ホーム主義的な秩序の破壊、
つまり反体制なものとして各作家の意識にとらえられているわけです。三島さんにも「美徳のよろめき」のような
作品がありますが、しかしこれは背徳の美学の追求であって、セックス描写があるわけではない。(中略)
現体制の頽廃をののしり、新しい社会正義の樹立を目ざす三島さんが、この風潮に無関心であるのは不思議ですね。
三島:(中略)だけど、いまの相対主義的な世界におけるエロティシズムというのは、フリー・セックスでしょう。
なんにも抵抗がない。あんな絶対者にかかわりを持たぬセックスなど、ぼくはエロティシズムとは呼びたくないですね。
ぼくの考えでは、エロティシズムと名がつく以上は、人間が体をはって死に至るまで快楽を追求して、絶対者に
裏側から到達するようなものでなくちゃいけない。だから、もし神がなかったら、神を復活させなければならない。
神の復活がなかったら、エロティシズムは成就しないんですからね。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
三島:ぼくは吉本隆明の「共同幻想論」を筆者の意図とは逆な意味で非常におもしろく読んだんだけれど、
やっぱり穀物神だからね、天皇というのは。だから個人的な人格というのは二次的な問題で、すべてもとの
天照大神にたちかえってゆくべきなんです。今上天皇はいつでも今上天皇です。つまり、天皇の御子様が次の
天皇になるとかどうかという問題じゃなくて、大嘗会と同時にすべては天照大神と直結しちゃうんです。そういう
非個人的性格というものを天皇から失わせた、小泉信三がそれをやったということが、戦後の天皇制のつくり方に
おいて最大の誤謬だったと思うんです。そんなことをしたから、天皇制がだめになったとぼくは思っているんです。
それはあなたのおっしゃる政治的に利用された絶対君主制=天皇制というものと、ぜんぜん意味が違うんです。
小泉信三はぼくの、つまりインパーソナルな天皇というイメージをめちゃくちゃにしたやつなんです。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
三島:ぼくは死の問題について彼ら(全共闘)に期待していませんよ。つまり彼らが革命のために死ぬかどうか
という点を、ぼくはずっと注意して見てきたけれど、彼らは革命のためには死なないね。明治維新のときは、
次々に志士たちが死にましたよね。あのころの人間は単細胞だから、あるいは貧乏だから、あるいは武士だから、
それで死んだんだという考えは、ぼくは嫌いなんです。どんな時代だって、どんな階級に属していたって、
人間は命が惜しいですよ。それが人間の本来の姿でしょう。命の惜しくない人間がこの世にいるとは、ぼくは
思いませんね。だけど、男にはそこをふりきって、あえて命を捨てる覚悟も必要なんです。維新にしろ、革命にしろ、
その覚悟の見せどころだとぼくは思うんだが、全共闘には、やっぱり生命尊重主義というか、人命の価値が
至上のものだという戦後教育がしみついていますね。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
古林:マイ・ホーム主義の限界をウーマン・リブで衝き破ろうとする動きもあるのですが、これは……。
三島:バカの骨頂ですね。
女が女であることを否定したら損だということが理解できないんですね。ただバカな女どもですよ。
古林:(戦後は)やはり余生という意識がありますか。
三島:いまだにあります。(中略)天皇陛下バンザイというその遺書の主旨は、いまでもぼくの内部に生きて
いるんです。だから死ぬとき、もう遺書を書く必要はない。(中略)あれを書いたときのぼくは子供だったが、
もう二十にはなっていたんだから、あの時点で十分に自分のすべてを自覚的に注ぎこめたと思うんです。もちろん、
あの時代特有のふんい気、少年らしい気どりやミエ、それから世間体もあったでしょう。ですけど、遺書を
書いちゃったんですからね、自分の意志で。ぼくは、あれから逃れられない。いつでも
そう思っています。だから余生です。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
古林:私の場合は海軍のパイロットで――といっても、特攻隊には直接の関係はありませんでしたが、(中略)
最近、いろんな記録やら写真集が出版されるでしょう。あれの巻末によく特攻隊員の名簿なんかが掲載されて
いますね。あそこに知っている名まえがずいぶん出てくるんですよ。(中略)どうしてこの男が死んで、ここに
私が生き残っているんだろうかと、そんなことを考えると、いたたまれない気持ちになります。私が生きているのは
たんなる偶然なんです。あいつがおれのかわりに生きてたとしたら……と、思うたびに、戦後の二十五年は一挙に
空白となって、戦争下の記憶へたちまちショートしてしまうんですね。
三島:その気持ちはよくわかります。ぼくも、だから、たとえば「最後の特攻隊」なんていう映画は、絶対に
観にゆきません。(中略)ぼくはヤクザもの映画なら出かけるけど、「最後の特攻隊」なんてのは観たくない。
古林:私も観たくありませんね。それにウソのような気がするんです。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
三島:同時に ぼくがウソだと思ったのは「きけわだつみのこえ」でした。あの遺稿集は、もちろんほんとに
書かれた手記を編集したものでしょう。だが、あの時代の青年がいちばん苦しんだのは、あの手記の内容が
示しているようなものじゃなくて、ドイツ教養主義と日本との融合だったんですよね。戦争末期の青年は、
東洋と西洋といいますか、日本と西洋の両者の思想的なギャップに身もだえして悩んだものですよ。そこを
突っきって行ったやつは、単細胞だから突っきったわけじゃない。やっぱり人間の決断だと思います。それを、
あの手記を読むと、決断したやつがバカで、迷っていたやつだけが立派だと書いてある。そういう考えは、
ぼくは許せない。〈わだつみの像〉が京都でひっくりかえされたが、ぼくは快哉を叫びましたね。ぼくは一面的な
考え方はどうしても嫌いなんです。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
三島:防衛大出身の三尉たちと話していましたらね、これは個人的見解でしょうが、彼らは平然として言うんですよ。
われわれはまったく職業的軍人であって、技術者であり、ニュートラルなんだと。だから共産政権ができたって、
軍隊は必要なんだし、そのときは喜んで赤軍になりますって。(中略)
古林:(中略)その連中の理念は旧海軍と似ている点もありますね。(中略)海軍に入ったら、もっと猛烈に
精神教育をやられるだろうと覚悟していたんです。ところが入隊してみたら、軍人勅諭を暗誦できるヤツなんか
一人もいない。(中略)
三島:海軍は昔から文明開化ですものね。
古林:(中略)とにかく徹底的に分業化した技術主義でしたよ。
三島:戦後、山本五十六が英雄になったのは、そういう技術主義的英雄だったからですよ。陸軍の持っていた
暗い精神主義は、アメリカ的理念では理解できないんだよね。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
三島:どろ臭い、暗い精神主義――ぼくは、それが好きでしようがない。うんとファナティックな、蒙昧主義的な、
そういうものがとても好きなんです。ぼくのディオニソスは、神風連につながり、西南の役につながり、萩の乱
その他、あのへんの暗い蒙昧ともいうべき破滅衝動につながっているんです。
(中略)
少年時代の劣等意識がいまになって過剰期待にふくれあがったって、それは当然なんですよ。それを抑制するのが
インテリだと世間では思っているらしいけれども、ぼくは、それが気にいらないんです。人間はバカですから、
こっちが低くなるとこっちへ足す、あっちが高くなるとこっちを低くする――それがふつうの人間のやることですよ。
たとえば、この机がガタガタすると脚を一本切る。ウワーッ、こっちが低くなったと、そっちの脚を切る。また、
そっちが低くなったと、あっちを切る。こうして机はだんだんに脚がなくなっちゃっう。これが人生じゃないですか。
ぼくはいま、ちょうどその机の脚がなくなっちゃっう段階にきているんです。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
古林:今後の日本文学についてどう考えておられるか、締めくくりの意味で感想を聞かせてください。
三島:ぼくは自分をもうペトロニウス(ローマ皇帝ネロの側近で、「サチュリコン」の作者)みたいなものだと
思っているんです。そして、大げさな話ですが、日本語を知っている人間は、おれのジェネレーションでおしまい
だろうと思うんです。日本の古典のことばが体に入っている人間というのは、もうこれからは出てこないでしょうね。
未来にあるのは、まあ国際主義か、一種の抽象主義ですかね。安部公房なんか、そっちへ行ってるわけですが、
ぼくは行けないんです。それで世界中が、すくなくとも資本主義国では全部が同じ問題をかかえ、言語こそ違え、
まったく同じ精神、同じ生活感情の中でやっていくことになるんでしょうね。そういう時代が来たって、それは
よいですよ。こっちは、もう最後の人間なんだから、どうしようもない。
(中略)ぼくの言いたいことは、「わが友ヒットラー」と「癩王のテラス」でぜんぶ言いつくしましたよ。
三島由紀夫
古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」より
小林:抒情的には非常に美しいものが、たくさんあるんだよ。ありすぎるくらいあるね。ぼくはあれを読んでね、
素直に言うけどね、きみの中で恐るべきものがあるとすれば、きみの才能だね。
つまり、あの人は才能だけだっていうことを言うだろう。何かほかのものがないっていう、そういう才能ね、
そういう才能が、君の様に並はずれてあると、ありすぎると何かヘンな力が現れて来るんだよ。魔的なもんかな。
きみの才能は非常に過剰でね。一種魔的なものになっているんだよ。ぼくにはそれが魅力だった。あのコンコンとして
出てくるイメージの発明さ。他に、君はいらないでしょ。何んにも。
三島:ええ、何んにも。
小林:つまりリアリズムってものを避けてね、実体をどうしようというような事は止めてね。何んでもかんでも、
きみの頭から発明しようとしたもんでしょう。
三島:ええ。
三島由紀夫
小林秀雄との対談「美のかたち――『金閣寺』をめぐって」より
小林:その才能さ。その才能の過剰だよ。これが面白い。面白いっていうのは、いい意味だよ。ぼくはだから
退屈しなかった、ちっとも。たしかに、きみは人を乗せた、乗せてどんどん運んでいったよ。そういうものの中に、
ぼくは力を認めたね。そういうように感じて読んだんだよ。ぼくは「潮騒」を読んだ時も、それは感じたけども、
今度のほうがもっと豊富で、もっと緻密で、もっとパッショネートだ。自分の才能をとっても愛してるんじゃ
ないのかな。才能を信頼したり愛したりする度がさ、ズッと強いだろう。そういうものがあったな。
(中略)
ほんとに君は才能の魔だね。堕ちてもいいんだ。ひるんだらダメですよ。
三島:いつ落ちるか判らない、馬に乗ってるようなもんだな。
小林:才能のために身を誤ったら、本望じゃないか。ほんとに退屈しなかった、読んでて。才能の魔ですよ。
由良川で金閣は焼かなけりゃならんと決心するまでね、あそこはサワリだ。だけども、殺すのを忘れたなんて
いうことは、これはいけませんよ。
三島由紀夫
小林秀雄との対談「美のかたち――『金閣寺』をめぐって」より
僕は、自由主義政治論の欠点は、人間の理性の盲信というのがあると思うのですよ。バートランド・ラッセルが、
現在では、いちばん狂気に陥りやすいのは理性だと言っているのですね。つまり、政治がそんなに技術的に
扱えるものだろうかという疑問が、僕には非常にある。(中略)
ナショナリズムは、近代的理性の産物であるネーションをやすやすと逸脱してしまうわけです。そんなことから、
だんだん考えるようになったのは、なぜプラトンが、理想国家から詩人を追放したのか。それは自分に似て
いるからではないか。理想国家の政治家にとっては詩人が自分たちに似すぎているからではないか。自分に
似たものは、ほかにはいらない。政治というのは、どうも人間の根元的な衝動に根ざしていると思う。本来、
政治と芸術というのは同じ泉から出ているのではないかと僕は思う。だから排斥し合うのではないかと。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
進化論が迷妄なら、政治制度の進化論も迷妄であって、政治にとって、原始的形態は必ず、よく理性で考え抜かれ
磨き抜かれた近代的形態の間隔を縫って出て来る。理性的、技術的な政治制度は、政治の本源的なパトスと必ず
抵触するときがくるからです。政治の世界の、普遍的理性という問題は、国際連盟で失敗し、戦争裁判で馬脚を
現わし、国際連合で無力化している。現実の政治制度は、人間の普遍的理性と、民族の深層心理的衝動との、
二つの車輪の間にいつも二つに引き裂かれる宿命をもっている。アメリカのような国では、それでなんとか
やっていけるでしょうが、もっと古い歴史のある国では、反発するものが起きてくるのは当然だと思うのです。
それだけでは、どうも政治も物足りなければ、芸術も物足りなくなってくる。それで、政治が物足りないのは
たしかで、僕は、アメリカン・デモクラシーが普遍妥当性をもっているとは、微塵も思いませんがね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
(戦前は)こんな狭い国は、こんなに人口が多くては、とても食えないと。それでどこかの領土を開発しなければ
ならない、なんだかんだと言っていたわけですよ。ところが戦争が済んでやってみたら、人口が多いことは
かえって経済復興にプラスになった。同時に狭い国に人口が多いということは、横(大衆、空間)の社会の形成を、
とても容易にした。というのは、人口が少なければ縦(伝統、時間)の世界を維持できる。人口が多いものだから、
横の社会の形成が楽にできた。というのは技術社会に入りこむことがたやすかった。そうすると、戦前からの人間の
考えとまるで逆な現象が現われた。これだけの人口が、賃金の上昇によって国内生産物を国内消費する体制が
できて、そうして横の社会が成立して、テレビやマス・コミュニケーションが発達して、すべてが瞬間瞬間に
横にダーッと広がるでしょう。縦には絶対広がらない。横にだけ広がる。そのなかで、もちろん技術伝承は
いらなくなる。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
そうすると作家の孤立というのは、ほかの国の倍ぐらい孤立してきているのではないかと思うのです。作家と
いうのは、技術的にはなるほど横の社会の住人だが(小説の近代化がますますそれを助長したのだが)、言葉に
おいては、あくまでも縦の世界に生きているものだと思います。そうするとわれわれが人生というものに対して
もってる夢、人間というものに対してもってる夢は、いつも縦の形で出てくる。それが横と完全に交差した一点しか
ないのですね。(中略)ある作家は縦だけの孤立状態、それは職人の誇りですね。それだけに逃げるでしょう。
そうすると、そこなりに作家が稀少価値があって、作家は漆の職人、それから棺桶の職人のように、静かな
ところで自分の技術を守って、かつてのよかりし人生の代表者になるかもしれないが、僕はそれではちっとも
満足しないですね。ぜんぜんそれではいやなんです。
(中略)ときどき横の社会に、ヒステリックに、縦の社会を見せてやろうという、欲求を感じる。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
インダストリアリゼーションの必然的結果で、工業化の果てに、精神的空白なり荒廃がくるというのは、どこの
国でも同じ現象だと思います。それをアメリカ化と言っているのは間違いで、フランスではコカ・コーラを
飲まないことによって、アメリカに対抗するのだと言っているが、これは実にむなしい結果で、フランスも
コカ・コーラを飲むようになった。日本もコカ・コーラを飲むようになった。これはアメリカだけのつくった
現象ではなく、アメリカというものが、大衆社会の一つの、歴史上の最初のサンプルとして現われたので、これは
ロシアもそういう形になっているし、ヨーロッパもいやおうなしにそういう形になっているし、日本もなっている。
後進社会では、まだそこまでいってない。だから、後進社会の大衆というのは、大衆社会化の大衆ではない。
少なくとも、ベトナムの民衆は、大衆社会化の民衆ではないのですから、焼身自殺するでしょう。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
いま民族の国と大衆の国とにだんだんわかれちゃって、それは後進国、先進国というような形に実際はなっているが、
われわれも、いやおうなしに、そういう状況に追いつめられていて、そのかわり日本という国は、バランスを
とる力は激しいですから、民族ということばは、少しかすがついたことばで、あまり好かんですけれども、
日本とはなんぞやという問題が、どうしてもそこで出てくる。大衆社会化が激しくなれば、それに対抗するものは
なんだろうというと、アメリカ対日本ではないと思う。つまり工業化ないし大衆社会化、俗衆の平均化、
マスコミの発達、そういう大きな技術社会の発達、そういうものに対して、日本とはなにかということを言って
いるので、やはり攘夷思想の中にあった恐怖の予感はこれだったと思うのです。いまは西洋もクソもないですね。
アメリカですらないですね。つまり新しい時代の新しい大衆社会化の現象が起こっている。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
完全な大衆社会化がどんどん実現してくると、そのなかにおける芸術家の孤立というものが、一般的孤立の中へ
まぎれこんじゃう。(中略)横の社会、つまり大衆社会というのは、逆に言えば一人一人が孤独になる社会で、
それが全部等価になって、芸術家も一つの歯車にすぎない。いくら威張っても、いくら仕事をしていても、自分の
アパートのなかで、一人でテレビを見ている状況と変わらない。そうしてくると、やはり個対全体という形は、
なんかあまりに近代的な古い問題提起じゃないかという気がしてきて、大衆社会化に対抗するには、やはり個対
全体という形でなくて、向こうが量でくるなら質だという考えではなくて、量でくるなら、還元された別の形の量、
つまり縦の量ですね、横の量ではなく縦の量、そういうもので、ある意味で集合的なものがだんだんほしくなってくる。
その場合に、僕の契機になったのは「ことば」ですね。ことばというものは、結局孤立して存在するものではない。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
芸術家が、いかに洗練してつくったところで、ことばというものは、いちばん伝統的で、保守的で、頑固なもので、
そうしてそのことばの表現のなかで、僕たちが完全に孤立しているわけではない。それは、ことばは横にも
広がるが、同時に縦にも広がる、だから芸術家の、ことに文学者の仕事は、ことばを通じて「縦の量」というものに
到達するのだと。それは林さんのおっしゃった伝統とか、民族という問題とつながってくる。ですからことばを、
自分の孤立した作業と考えることから、ことばというものが、大衆社会に対抗する一つの質だけではないものだと
いう考え方が、だんだん出てくるのですね。なぜなら大衆社会では、良質であるということも、一つの商品価値に
すぎないからです。
ことばは質だけではなくて、ことば自体のなかに、一つのいわゆる、集合的無意識も眠っているだろうし、
それが日本語の問題になってくるのですが、政治家は、結局ことばというものは絶対にわからない。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
文学の仕事というものは、どうも僕は、衆を頼むというようなところが、どこかにあるような気がするのです。
衆を頼むというのは、悪い意味ではないのです。つまり、いまの大衆社会の人間に対抗するには、別の衆を
頼まなければならない。その衆とはなんであろうか。それはやはり、自分だけの問題ではないと思うのです。
そうすると自分だけのことに文学者が関心をもって、ただ近代的自我の模造品のようなものを書いていたのでは、
大衆社会に、なんにも対抗するものは出てこないという……。
(中略)
つまり僕の量という観念は、たくさん書くとかいうことではないのです。たくさん書くとか、マスコミに流すとか、
テレビに連続物を書くとかいうこと、僕はそういうことを意味してない。つまり力ということですね。(中略)
ことばというものは、質とか量とかいう問題を超越した、もっともっと大きなものですね、言霊的なひろがりの
あるものだと考えるようになった。それを、僕は少しずつわかってきたような気がする。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:男というのはうぬぼれと、闘争本能以外にはないのではないかな。
林:だから、ニーチェの権力意志、あれはたいへんな発見ですね。
三島:どうもうぬぼれと、闘争本能以外はエネルギーの源泉がないでしょう。
林:それがなければ孤独にも耐え得ないでしょう。君だって孤独じゃない、僕だって孤独じゃないよ、闘争本能が
あるから、たった一人でけっこうだ。(中略)みな孤独になれないから、あせっているのではないかな。孤独に
なれないというのは、脆弱な精神だよ。
三島:それはそうです。ただ僕がさっき言ったことは、テレビを見て一人でアパートにいる三時間と、芸術家が
自分をパッシブなものだと思っているときの三時間の孤独感と似ているということです。そうなっちゃったら
おしまいだと言いたいのです。それで、なんか孤独のなかで享楽している。一人でテレビを見ておもしろければ、
それがなにが悪いという考え方だってあるでしょう。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:孔子が、自分のやることには創造はない、創作はない、すべて尭舜の道を、周公の道を祖述して復活するだけだと
言っている。あれは強い精神だと思ったね。独創性なんかにこだわっていないから、孔子は古代に友達があって
孤独じゃなかった。創造というものは、それ以外にないね。
三島:独創性を信じたやつで、一流の文学者は一人もいませんよ。ヴァレリーもぜんぜん独創性なんか否定しているし。
ちょっと僕はね、量で対抗するということで、林さんに誤解されたが、僕らは現実のいまの時点における
量対量ではなくて、三十三間堂の通し矢みたいな、西鶴の矢数俳諧の一日一夜千六百句の記録だとか、昔の坊主が
米粒にお経を書いたとかあるでしょう、納経で一心不乱にお経を写すとか、ああいう作業しかないということを
言いたかったのですよ、孤立すれば孤立するほど。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
僕はね、いろんな対抗策はもちろん考えているのですが、対抗策としては、一つは、そういうふうに米粒にお経を
写すようなことをやろうとしている。つまりいまテレビの人たちが、視聴率などと言って威張って、三千万人
見たとか言ってる。テレビの人に僕は言うのだが、あなたたちの仕事は、一時間か三十分間で消えて、もう永久に
……それはリバイバルもたまにあるが、それでさみしくはないか、ときくと、向こうはキョトンとして、あなたは、
時間というものを短かく考えているけれども、三十分のテレビドラマを一千万人が見れば、それを加乗すれば、
長い小説を三千人が読んだより、ずっと大きいではないかと反論してきますよ。人間の忘却とか、記憶とかいう、
縦の要素は全部忘れられている。そういうことを考えるのは彼らにとっては怖いのです。長く記憶に残って、
読み返されるということは怖いのですよ。それは、いまの大衆社会化のウィーク・ポイントだと思う。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
こっちは、向こうが横に一千万人でくるならば、縦に一千万で、一千万字書ければいいではないですか。(中略)
一日十字でもいい、あるいは一日二百字、三百字でもいい。しかし、一日、もし一千字ずつ書ければ、十日で
一万字ですからね。それで一月で三万字書けるでしょう。そうして一年間で何万字書けますか、そうやっていく
しかないと……。
(中略)
横の世界にも付き合わなければならないが、それには絶対に精神を提供しない、横には。なぜならそれは、生の
非連続性の再確認にしかならないからです。実存主義の哲学も、結局、この再確認に耐えて生きてゆけ、という
ことでしかない。あらゆるヒューマニズムはそれです。「生きる」ということは、この再確認、再確認、再確認に
だけ宿るわけですから、そんなところに精神を支出しても無駄ですね。精神は連続性へ、死へ向けていればいい。
剣道なんかには、その精神主義の中に、ちょっとそういう魅力があるのです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
世界を回ってみますと、現在日本のように無階級な国はないように思う。
実に(日本は)不思議な国で、アメリカはもっともっと階級がありますね。ステータス・シンボルがそれぞれ
あって、クラブでも上のクラブに入らないと、お嫁さんのいいのが来ないとか。それからなんだかんだと言って、
一つ一つの関係が非常にうるさいですね。
戦後の知識人におけるユートピアは、アメリカ占領下において、あたかもそういう近代的価値概念(自由、平等、
博愛、人類愛とか)が、普遍性をもったかのごとき錯覚をもった。(中略)それが平和主義なんかの精神的な基盤、
あるいは理論的な基盤になって出てきた。一口に言えばインターナショナリズムだけれども、(中略)それらの
価値は、結局それぞれの民族や歴史や伝統のなかではじめて存立するものであって、けっして普遍的な概念ではない。
ヨーロッパにだけ普遍的概念として妥当したものも、アジアにおいては必ずしもそうではない。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
GHQと戦争裁判という問題はね、単なる思想問題として考えますと(いまや僕は、政治問題としての意味よりも
思想問題として影を落としていると思うのですが)GHQの理念、あるいは戦争裁判の理念というのは、近代的
普遍的諸価値のヒューマニズムがおもてだっているわけです。そうすると、戦後にそういう諸観念がもう一度
復活して、天下をまかり通って、同時にその欺瞞をあらわしたということで、僕はアメリカの影響というのは、
日本の戦後思想史には非常に強いというふうに考える。みんなが思っているよりも。というのは、アメリカと
いう国は、十八世紀の古典的な理念が、おもて向きいちばんのうのうと生きている国なんですね。アメリカは
ああいう人種の雑種の国ですし、歴史は浅いし、インターナショナリズム的な観念でも、国内でじゅうぶん
充足するわけです。妥当するわけです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
たとえばここにフランス系アメリカ人と、ドイツ系アメリカ人と、オランダ系アメリカ人の三人の話を通じさせるのに、
結局先祖のもとまでもどって、十八世紀的な理念で伝達するほかない。だから彼らは、自由といい、平和といい、
人類というときに、それは信じていると思う。それは彼らの生活の根本にあって、そういうものでもって国家を
運用し、戦争を運用し、経済を運用してやっている。それが日本にきてみた場合に、日本人がそういうような、
ある意味で粗雑な、大ざっぱな観念で生きられるかどうかという、いい実験になったと思う。(中略)たとえば
川島武宣の民法学を僕は習いましたが、民法学のなかにおいて、彼のギリギリの近代主義民法学ですがね、
そんなものは絶対日本の社会構造には妥当しなかった。戦後になってやってみた結果、アメリカが与えたと同時に、
アメリカ人の考えている自由、アメリカ人の考えている人類、アメリカ人の考えている平和というものは、
ベトナム戦争もやれるものであるということがわかってきたということだ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
これは大きな問題だと思う。そうすると、アメリカ人はベトナム戦争をやっても、やはり自由を信じ、平和を
信じていると思う。これは嘘ではないと思う。彼らはけっしてそんな欺瞞的国民ではありませんし、彼らは
戦争をやって自由のために戦っているというのは、嘘ではないですよ。彼らは心からそう信じている。ただ日本人は、
そんな粗雑な観念を信じられないだけなんです。というのは、日本で自由だの平和だのといっても、そんな
粗雑な観念でわれわれ生きているわけではありませんからね。そこに非常に微妙な文化的なニュアンスがあって、
そこのうえで近代的な観念が生きている。それが徐々にわかってきたというのが、いまの思想家全体の破綻の原因で、
それは結局アメリカのおかげだと思うのです。それを与えたのもアメリカなら、反省を促したのもアメリカですね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:アメリカニゼーションは、日本の戦後のはっきりした現象ですが、その初期にはアメリカ出先機関の
アメリカニゼーションだったな。日本弱化と精神的武装解除の軍人政治にすぎないものを、アメリカニゼーションと
思いこんだのが三等学者です。新憲法とともに登場して来た三等学者がたくさんいる。彼らが新憲法を守れと
いうのは当然です。(中略)
三島:しかも、丸山(真男)さんなどでも、ファシズムという概念規定を疑わないのは不思議ですね。ファシズムと
いうのは、ぜんぜん日本にありませんよ。
林:絶対ありません。どう考えてもね。
三島:そういう概念規定を日本にそのまま当てはめて、恬然と恥じない。今度彼らを分析していくと、別なものに
ぶつかるのですよ。丸山学派の日本ファシズムの三規定というのがありますね。一つが天皇崇拝、一つが農本主義、
もう一つは反資本主義か、たしかこの三つだったと思う。そうすると、それはファシズムというヨーロッパ概念から、
どれ一つ妥当しはしませんよ。
林:一つも妥当しない。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:はじめナチスは資本家と結んだのですからね。日本のいわゆる愛国運動というのは、もちろん資本家と
いろいろ関係も生じたけれども、二・二六事件の根本は反資本主義で、当時二・二六事件もそうだが、二・二六事件の
あとで陸軍の統制派が、二・二六事件があまり評判が悪かったので、今度、やはり反資本主義的なポーズにおける
声明書を発表したら、麻生久がとても感激したのですね。やはりわれわれの徒だということになって、それで
賛成演説などをやったりしたことがあるけれども、そういうファシズム一つとってもそうだし……。
林:(中略)「ファシズム打倒」は連合国側の戦争スローガンで、日本もドイツ、イタリアなみのファシズム国家に
されてしまったのだが、最近ではご本家のアメリカ・ハーバード大学の教授グループが、日本にはファシズムは
なかったことを論証し始めている。丸山君とそのご学友諸君は何と申しますかね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:それから二・二六事件にしても、進歩学派諸君は支配階級内部の対立だというふうにかたづけているが……。
三島:事実はぜんぜん違っている。
林:これは一つの革命勢力と支配勢力との闘いだということを認めないわけですね。
三島:僕は、ああいうものは、ある意味で林さんのおっしゃる、文明開化というものからくる一つの事象であって、
日本の近代化の激しい運動の、ラジカルな運動がああいう形をとったと考えてもいいと思いますね。いつも日本では、
アイロニカルな形で社会現象が起こっている。いちばん先鋭な近代をめざすものが、いちばん保守的な、反動的な
形態をとったり、一見進歩的形態をとっているものが、いちばん反動的なものである場合もある。政治学者などが
日本の現象を見る場合には、ぜんぜん分析が皮相で浅薄だという感じがいつもするのだけれども。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:丸山君にこだわるわけではないが、あの人をピークとする敗戦学者の学問はいかにも学問らしい顔をして
いますけれども、読めば少しも学問ではないのです。学問というのは、読んでみて、「ああ、そうだったか」と
目からウロコの落ちるような気になるのが学問です。敗戦大学教授の仕事は読者の目にウロコをかぶせるような
ものですよ。
三島:ほんとうにそうですね。でも、近代主義者はとにかくだめだということは、二十年でよくわかった。
そうして日本の近代主義者の言うとおりにならなかったのは、インダストリアリゼーションをやっちゃったと
いうことで、これが歴史の非常なアイロニーですね。普通ならば、近代主義者の言うとおりに、思想精神が完全に
近代化することによって近代社会が成立し、そしてインダストリアリゼーションの結果、そういうものが社会に
実現されるという、じつは必ずしもコミュニズムであってもなくても、彼らの考えていることはそうですよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:ところがなに一つわれわれのメンタリティーのなかには、近代主義が妥当しないにもかかわらず、工業化が
進行し、工業化の結果の精神的退廃、空白といってもいいが、そういうものが完全に成立した。それと、日本人の
なかにある古いメンタリティーとの衝突が、各個人のなかにずいぶん無秩序なかたちで起こっているわけですね。
そうすると、毎日テレビを見て、土曜日にはレジャーだということで、あわてて自家用車で海にでかけている人間の
なかにも……。
林:みんなレジャーから帰ってくると、夫婦ゲンカしている。
三島:それはもう、しょっちゅうです。(笑)僕が思想家がぜんぜん無力だというのは、経済現象その他に
対してすらなんらの予見もしなければ、その結果に対して責任ももってないというふうに感ずるからです。
第一、戦後の物質的繁栄というのは、経済学者は一人も寄与してないと思いますよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:僕が大蔵省にいたとき大内兵衛が、インフレ必至説を唱えて、いまにも破局的インフレがくるとおどかした。
ドッジ声明でなんとか救われたでしょう。政治的予見もなければなんにもない。経済法則というものは、実に
あいまいなもので、こんなに学問のなかでもあいまいな法則はありませんよ。それで戦後の経済復興は、結局
戦争から帰ってきた奴が一生懸命やったようなもので、なんら法則性とか経済学者の指導とか、ドイツのシャハトの
ような指導的な理論的な経済学者がいたわけではないし、まったくめくらめっぽうでここまできた。これは
経済学者の功績でも、思想家の功績でもない。一方、戦後の文化界はなにをやったか。それは僕も戦時中よりも
いい作品が出たと思います、戦後の二十年の芸術作品は。これも一人一人勝手にやったので、だれのお蔭も
被ってないと思いますね。理論的指導者、思想的指導者というものは一人もなかった時代ですね、おそらく。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:ともかく、彼ら(進歩的近代主義者)は思想を一つもつくらなかった。日本の知識人に自分の国の歴史と
伝統に対する知識というものが、ぜんぜんなかったわけですから、簡単に言えば。(中略)
あとどんな思想が……僕はたとえばね、どんな思想が起ころうが、彼らはもう弁ばくできないと思うのです。
だって自分たちがやるべきときやらなかったのだから、あとに何が出てももうしょうがないですよ。
林:まず、現われたのがアメリカン・デモクラシー、おつぎはソ連礼賛論ですな。それを圧倒したのが中共絶対論。
……だが、それもどうやらしぼみ始めたようだ。
三島:とにかく僕が「喜びの琴」という芝居を書いたとき、共産主義は暴力革命は絶対やらないのだと、もう
そんなのは昔の古いテーゼで、いま絶対にそういうことはやらないのだと……あんな芝居を書く男は、頭が三十年
古いとみんな笑ったものです。そうしたらね、インドネシアの武力革命が起こりかけた。まあ、失敗しましたが。
ちょっと、五、六年さきのこともわからないのですね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:やはり林さんの明治維新の根本テーマでも、開国論者がどうしてもやりたくてやれなかったことを、
攘夷論者がやった。あの歴史の皮肉ですね。
林:攘夷論者のみが真の開国論者だった。これが歴史のアイロニイだが、敗戦史家たちには、このアイロニイが
わからないのだな。いまにわかります。
三島:そういう大きな歴史の皮肉ですね、そういうあれがあったでしょうか、戦前、戦後を通じて、文学で……。
林:アイロニイだらけだ。内村鑑三も新渡戸稲造も日本精神について英語で書いた。ドイツ文学の鴎外と英文学の
漱石が乃木大将の殉死を最も正確に理解した。現在、日本回帰の論文を発表しはじめた若い学者たちは、ほとんど
西洋史家だ。東西文明の接点に立つ日本文化のアイロニイではないでしょうか。政治の面でも、自由民権家は
大アジア主義者になる。幸徳秋水が生きながらえておったら国家主義者になっていただろう。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:若い高村光太郎は文明開化派で西洋派だったが、晩年はたいへんな日本主義者になる。与謝野鉄幹、
北原白秋をはじめ詩人たちの大部分は同じ道を歩いている。すべて内的な自己展開であって、時流におし流されて
ものを言ったのではない。
三島:伊東静雄なんかも、戦争中のものは非常にいいですよ。ほんとうにいい詩ですね。
林:だから人間は戦争を避けて通ろうとしてはいけないのですよ。平和は結構だが、戦争は必ず起こると覚悟して
いなければ、一歩も進めない。平和が永久につづくなどと思っていたら、とんだ観測ちがいをおかすことになる。
地球国家ができましたら、こんどは宇宙船を飛ばして……。
三島:ほかの遊星を攻撃する……。
林:人類はあと何世紀くらい戦争をやるのでしょう、人類という動物は!
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:文壇というものがあるかないか、そんなことはわからないけれども、やはり時代のどこかで風船の空気が
漏れているところというのは敏感ですよね。いまたしかに風船の空気が漏れている。風船が小さくなりつつあるのです。
それで、その風船の空気を、また充填するか、その穴をどうするかということは、それは左翼も右翼もありはしない。
みな考えていたことですね。(中略)文学というのは、われわれが机の上で厳密に測定し、構成し、そうして
つくり上げるものであって、定規がちょっとでも曲がっていたら気持ちが悪い。そうすると、その定規が曲がって
いるところで、(実業家なり、政治家が)大きなことを言ってもらいたくないという気持がありますね。だから、
一方、文学のなかで、そういう不満の状況のままで出したものは嫌いなんです。たとえば小島信夫の「抱擁家族」に
対する僕の嫌悪というのはそれですね。空白状態、それから風船の穴の漏れている状態、そういうものを文学に
するということは、僕はたくさんなんです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
それでどうにかして、なぜその穴があいているのか、その穴をふさぐものはなんなのか。その穴をふさぐには、
普通の接着剤では駄目で、よほど強力なやつを持ってこなければならないかもしれない。しかしその強力なものは、
その風船のゴムの質とどういう関係があるか、われわれは技術室や研究室で考えるように厳密に考えなければ
ならない。そういう僕の厳密主義が……厳密主義と自分でいうのもおかしいけれども、厳密主義に、いままた逆に
さからうようなものがいっぱいある。それがいまの文学上の混乱とかなり密接に関係があると思うのです。
一方では空白状態をそのまま出せば正直だと思う。僕はそんなものは正直だとは思わない。つまり現在の空白、
現在の堕落――堕落と言ったらちょっと政治的な面がこもりすぎるが――文学というのは、そういうものを
映す鏡ではない。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
文学というのは、いつも医者と薬とを兼ねたものです。あるいは医者と患者を兼ねたものだと言ってもいい。
われわれは最先端の患者なんです。同時に最先端の医者なんです。それが文学の使命でね。そうして医者だって、
使命だけにとらわれたものは社会改良家になっちゃう。それは文学者の逸脱で、患者だってカルテにとらわれたら
空白状態を模写するだけにすぎない。そうするとサナトリウムに入っちゃう。そうなると文学者じゃないのです。
文学者というのはいつでも、最先端の患者であり、最先端の医者である。おのずからそこに、医者と患者の間には、
いつも争いがあって、患者は癒りたくないと言うかもしれない。医者はおまえに効く薬はないと言うかもしれない。
それが文学状況の、いつも先鋭なところで、それをつかまえてないやつは、文学のほんとうの危機というものは
わかってないのではないかと考える。それが現在のナショナリズムの問題とかなんとかいう問題と、おのずから
照応してくるので……。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:君のいう型の文学者――医者兼患者の文学者は、文学者の永遠のタイプだろうが、生きにくいね。
ローマ帝国でも、ヒトラー帝国でも、中共帝国でもソ連帝国でも、詩人や作家は追放されなければ自殺してしまう。
だが、敗戦二十年間の日本は国家でも帝国でもない。大平社会は文学の味方顔しているが、最悪の敵かもしれぬ。
野放しにされた物書きが文学者顔して、ひどい文章を書いている。
三島:いま文壇にいるのは、患者と医者だけですよ。患者兼医者というのはいない。それで医者が患者をほめて
いますね。
(中略)
文学は、もちろん弱さから出てくる。「僕は弱くない」といったら、嘘つきだと思いますよ。そして僕の文学は
強さの文学だというと、大嘘ですよ。弱いから文学になる。神経衰弱に文学、蔦には壁と同じで。ですけれども、
文学が寄りかかって、それで文学と弱さとのあいだに馴れ合いが起こるというのが、いちばん嫌いですね。
というのは、それだけなら文学などやる意味がないと思う。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
弱い人間というが、「人間はみな弱い」という考え方もありましょう。そのとき文学が概念的に浮かんでくる。
つまり、自分を表現したらどうだろうか、自分が救われるのではないだろうか。だけれども、それが第一段階の
文学で、文学の第二段階は製作過程に入るとことばにぶつかると思う。ことばは絶対に克己心を教えますね。
それでことばというものにぶつかったときに、つまり文学というのは、己れの弱さをそのまま是認するものではない、
文学の世界にことばがあって、われわれに克己心を要求するのだということを学んだような気がする。それは
自制の心というか、太宰でいちばん嫌いなのはことばをそういうふうに使ってないことです。ことばがつまり
彼に対抗して、もちろん文章を作るのに苦心もしたでしょう。でもことばというものは、自分に対抗する原理だと
いうことはあまり考えてないような気がする。その自分に対抗するものをねじ伏せて自分のものにしてしまうのが、
文学の仕事です。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:文学自体は弱いものだが、弱いものの味方であるというのは嘘です。(中略)人間に重要なものは、あなたの言う、
克己、自制、勇気、英雄的行動です。この自覚はつらいことだ。悲劇的結末に通ずるから。……だが、そうじゃ
なければいけないのです。人間の弱さに妥協してはいけない。ニーチェは、人間を生きながらえさせるものは、
森の中で生活していたころの原始人の用心深い臆病さではなく、不利な環境に抵抗した勇気だ――人間の条件は
勇気であると、言っている。太宰治はこの意味の勇気とは関係ない。
三島:僕もないと思う。それからつまり、最近のでは、また太宰治の別の顔に会ったような気がしたのは、
「抱擁家族」ですね。それから大江健三郎のある小説です。つまり、ああいう弱さの表白というのは非常に
受け入れられやすいのです。やはりこの閉塞状態のなかでは、自分が弱いと規定されて、おれも弱いという標本が
出てきて、それなりの真実というのは、とてもわかりやすい真実だと思いますよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:僕は、昔、小林秀雄さんと対談したときに、文学に大きい主題はないと言ったことがあるのですけれどもね。
(中略)僕が当時考えていたのは、文学というのは、小さい一つの花とか、小さい一つの昆虫とか、名も知れぬ
庶民とか、そういうものを偉大にする仕事だというふうに考えていた。というのは、バルザックは、ゴリオという
ケチじいさんを書く。ケチじいさんは、属性ケチということだけで、政治的信念も天下国家を論ずることもない。
だけれども、ケチといういちばんつまらない属性が、バルザックが書くと偉大になっちゃう。だから文学というのは、
偉大な主題を小さくするより、小さな主題を大きくするのが文学だと考えていた。それはいまも変わらないのです
けれども、同時に僕は、文学というのは大きい主題も小さい主題もないのだと、そのなかの一つのエッセンスを
つかまえればいいのだ、そのエッセンスは大きいのにも小さいのにも通ずるのではないかというふうに、考えが
変わってきたのです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
そうすると、なにも徳川家康を避けなくてもいい。西郷隆盛を避けなくてもいい。しかし西郷隆盛のなかで、
通念における西郷隆盛の偉大というところと違うところで文学はつかまえる。しかし西郷隆盛の卑小さとか、
西郷隆盛の弱さとか、そういうものをつかまえるのが文学と考えるのが自然主義ですよ。そんなものは僕は
ぜんぜん認めません。偉大さにも卑小さにも、どっちにも惑わされないものをつかまえるのが文学だと思うのですよ。
(中略)つまり概念的な偉大という意味でもなければ、通俗的な偉大さでもない文学的偉大という意味ですね。
文学的偉大という意味では、西郷隆盛もケチなゴリオも変わりないというのです、ある意味では。どっちも
英雄譚であり、どっちも……まあ、ドン・キホーテもそうでしょう。どっちも、つまり偉大な人物の話ですね。
(中略)結局目的とするところは、小さいもののなかにある偉大さ、あるいは偉大さのなかにある美とか、
どっちにしろ同じことですよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:僕は、人間が自然に好きなように生きるというのは、論理的一貫性をつくるいちばんのもとになると
思うのです。それは「葉隠」の、どうせ短い人生だから、好きなことをして暮らせという意味はそれだと思うのですよ。
自然に好きなことだけやっておれば、絶対人間は論理一貫性を保てるように、神様はつくっていると思いますよ。
ところがときどき、好きでないことをやるから間違う。
林:あなたの「英霊の声」という最近作は、パルチザンの作品ですよ。(笑)
三島:好きだから書いたのですよ。僕は、嫌いなことは書きたくない。
(中略)好きなことでの受難ならちっともかまわない。しかし、もし自分で、これは違うのではないかな、これは、
俺の考えではないなと思ってやったことで受難したら、人生はつまらないでしょう。
林:自分の好きなことをやるというあなたの意味はやりたいことをやるという石原慎太郎君の思想とはちがいますね。
君のようなストイックな作家は他にはないですから。(笑)
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:近代史学だとか社会学的方法だなどというけれど、歴史の真実はそんなものではつかめない。論理も方法も
達し得ないところに愛情が作用する。愛情以外に歴史を解釈する方法はない。歴史的人物にほれることによって
その人物を理解できる。
三島:批評もそうですね。批評も絶対そうです。
根本動機は愛情でなければ、真実は……。
林:真実とは人間精神の創造物でしょう。事実は客観的なものです。それに生命を与えるものは、愛情という
主観的で神秘的なものだとすれば、不可知論ですね。対象としての事実や事件は存在するが、その対象を究極的に
理解するものは愛以外にないというのは、不可知論でしょう。私がもし三島由紀夫論を書くとすると、その方法は
愛以外にない。私が西郷隆盛を書く動機、これも愛ですよ。
神秘と信仰の世界を認めない合理主義者には、この機敏がわからない。(中略)神秘と独断、信仰と愛情を
不可知の世界に作用させる。非情きわまる三島美学の底にも愛情がある。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:僕は文壇に対して嘆きもしなければ、慨嘆もしない。(中略)批評家がいろんなことを言って地図を
一生懸命かいているだけで、文士はいまや自分の世界観を徹底させるほかに、行く道はないということはみな
感じていますよ。世界観がろくすっぽない人でもそう感じていますよ。舟橋聖一はやはり女の姿、女の体に徹底する、
それはそれでいいじゃありませんか。それから僕は神風連に突っ走っちゃうかも知れないし……。(笑)
風狂といいますが、芸術はますますクレージーになっていくと思いますよ。一種の狂気の兆候によって、時代の
意味を先鋭に象徴するというのが作家なんだから、作家がそんなまともな、常識的なことを言って、世間から
紳士扱いにされて、一つご意見をうかがいたいと、そうしてもっとも常識的な、良識的なことを言うのが作家じゃ
ありません。作家はそれぞれ狂気の代表なんですよ。
林:人間は狂気によってのみ暗殺者にも予言者にもなれる。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:話が少々飛びますが、僕がずっとつき合ってきた日本の文壇の人は、どうしてあんなに日本のクラシックを
読んでないのですか。ほんとうに批評家でも読んでいませんね。
(中略)
林:戦後二十年間の文学は、文章的にもひどいものだ。
三島:ことばがひどいですね。これはずっと長い歴史で、あとで見たら、ことばがひどいので驚くでしょうね。
林:これから文学を志すものは、日本古典全集を読めと言ってもいいくらいですね。
三島:まあとにかく、読書百ぺん、意おのずから通ず。中学生にもっと古典を読ませなければいかんな。いやでも
おうでも読ませたほうがいいですね。
ただ現代語訳は絶対反対ですよ。現代語訳の場合は、いまのやつは現代語訳を読んでああわかったと思っちゃう
でしょう。現代語訳を読んでから原文にあたってやろうというのは少ないと思う。だから現代語訳はないほうが
いいと思う。「源氏」を読むのは原文しかないというほうが、ほんとうだと思いますよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:ことばはどんなことしたって、インターナショナルではあり得ないですね。僕らはことばに携わるのだから、
世界がどんなにテクノロジーと生活水準の平均化によってインターナショナルになっても、あるいは思想も
インターナショナルになっても、ことばだけはダメ。それだから、ことばに偏執する。ことばはプラクティカルな
意味ではどうにもなることでも、そうでないところで、われわれは立派に偏執する。われわれのナショナリズムと
いうのはことばですよ。僕は、言霊説ですね。
僕たちのことばが、外国語に翻訳される場合に、人情は通じると思うのですよ。人情は通じると思いますが、
ことばは通じない。(中略)たとえばある橋を渡ったという場合に、その橋という観念のなかに、どういう橋が
イメージとして浮かんでくるか。そのイメージだけは、どんなことをしても伝えられない。文学はそれでいいのでは
ありませんか。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
ゲーテの小説を日本語で読んで、橋(ブリュッケ)ということばが出てくるとき、その橋がドイツのどこの橋が
ゲーテの頭のなかにあったか、そんなことがわれわれにわかるわけがないですよね。
でも思想や観念は、まだ伝わりますよ。こういうものは伝わります。ですから文学は思想や観念ほど普遍妥当性が
あるわけがない。
林:翻訳できるから普遍妥当性があるときめてしまっているのが、インターナショナリストだが、彼らは何か
重大なものを見落しているね。
(中略)
三島:文学者というものは、どうもことばというものは、非常に土地と風土に密着しているもので、亡命作家で
いいのはいませんね。トーマス・マンでもアメリカに行ってからの作品は、よくないわけですよ。(中略)
林:ことばは民族の命だからね、これを捨てるわけにはいかん。
三島:命ですからね。
(中略)
林:本来的には、インターナショナリズムはナショナリズムの否定ではない。読んで字のごとく、いろんな
ナショナリティーがたがいに交渉している、その状態だよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:世界文学などと言ったころのゲーテの概念にあった、汎ヨーロッパというものね、ああいうものは、
僕としてはちっとも考えないですね。普通概念としてのヨーロッパというのは、あの時代にはあるいはあったかも
しれない、夢見られたかもしれない。やはりヨーロッパというものは、そういうものだと思うのですよ。
ヨーロッパという観念自体が、普通妥当性という観念の姿なんですね、ヨーロッパ世界の。それで発達して
きたのですね。ギリシャ、ローマ世界から発達してきた。われわれはアジアと言っても、そんなにアジアというものと
普遍妥当性、あるいは文化的な統一性というのとは、一度もかかわりあったことがないのですね。われわれは、
すぐヨーロッパ世界に参加するわけではないでしょう、アジアの一画だし。それでアジアというものに対して
ゲーテ的な世界文学的なイメージをもてるかというと、もてはしません。政治は知りませんよ、文学ではね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:アジアは一つというが、日本もシナも、インドもインドネシアも、タイも、たがいに理解し合っているとは
思えないね。「アジアは一つ」というのは、スローガンであり、政治目的のある言葉だ。主唱する民族のエゴイズムが
ふくまれている。昔は日本が大アジア主義と言い、今は中共がAA作家会議を主催する。そういう意味では、
福沢諭吉の「脱亜論」の方が正直だ。(中略)政治家諸君は大いに親善外交をおやりになって結構だが、文学者は
AA作家会議より前にもっと日本自身のことを考える必要があるね。その方が正直だ。
三島:ほんとうはそうです。僕は、アジア主義だけはちょっとわからない。政治的にはもちろんわかり得ると思うが。
まったく政治的なものですね。
林:政治的なアジア主義というものは、わかりますよ。日本が圧迫されているとき、同じ圧迫された朝鮮やシナや
インドと力をあわせて立ち上がろうという主義なんだが、いまは、中共さんも韓国さんも威張ってるのだから、
こっちとは関係ありませんよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:ヨーロッパ共同体というものは文化的には昔からあったのだから、それが伝統に帰ることであり、そうして
普遍的ヨーロッパに帰れということを、ゲーテは言いたかったわけですね。しかし日本では、普遍的ヨーロッパと
いうものは、日本にとってはぜんぜん別なものでしょう。それから普遍的アジアというものは、文化的にはない。
だから日本にとっていま世界文学などというのは、ちゃんちゃらおかしいということになるわけですね。そうして
翻訳されても、人情はわかるだろうが、ことばのスピリットがわかるわけがないということです。それは当然な
ことでしょう。じゃ、わからないから訳さないというのは、それもバカな話で、わかる部分だけでもおもしろいと
いうのが、ほんとうの小説ではないでしょうか。ドストエフスキーでもロシア語のニュアンスがわかるわけでは
ないけれどもおもしろい。それはそれで、翻訳したものはまた別なものですね。でも世界文学などというのは
空疎な観念で、いまの日本にはあり得ないですね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:(世界主義者は)インターナショナリズムという観念によってナショナリティーを簡単に否定するのです。
みな浮き上がっている。政治次元においてインターナショナリズムを過信すると、インドネシア共産党みたいに
浮き上がって民族主義者に虐殺されてしまいます。インドネシアの事件で、日本共産党がふるえあがって、
中共と離れたという、うがった観察もあるくらいだ。土着性というもの、ナショナリティーというのは怖いですよ。
意識下にテロリズムの基盤をひそめている。日本に続発した個人的テロリズムは、なにも独占資本が指令した
ものではない。自発的なものだ。テロリズムの論理は西洋ではアナーキズムだが、東洋では老荘派の虚無主義です。
仏教にも一殺多生という観念がある。文学的だよ。いまに三島君の本を読んで、暗殺を実行しましたという青年も
出るかもしれない。
三島:僕が教祖で捕まるか。でもあれは、テロリズムを全部容認するわけではない。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:しかし近代的法秩序というものの欠陥に対して、それを否定してテロリズムをやるということは、これは
刑法では確信犯で、これは近代的法秩序、近代的法道徳ではどうすることもではないものですね。モラルの点から
言ってもしょうがない。
林:(中略)大統領暗殺はアメリカ民主主義の光栄ある伝統みたいになっている。民主主義が防止できるのは
集団的暗殺であって、個人的テロリズムではない。
三島:そうなんです。これはどうしようもないのです。人間性というのは、近代的な法秩序よりもっと広くて、
もっと広大で、もっといろいろなことを考えるものだし、そのなかにそれなりの真理があり、それなりの確信が
あるのだから。
林:だいたい文学の傑作は個人的テロリズムですよ。
三島:全部そうです。
林:作家が自分の作品に命をかけたら、テロリズムの書が生まれる。作家の目には、テロリズムは美しい。
三島:どうしてもしょうがない。
林:人間的美の極致として映る。武士の切腹がそうであるように。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:文士はことばが自分のノミであり、大工道具なんだから、大工道具にケチをつけられるのは、気味が悪いね。
社会革命家というのは、いつでもことばをいじりたがる。北一輝でも、エスペラントで国語を統一しようと思って
いたのだから。中国は全部漢字を簡略化してね、あれでは古典文学は読めないでしょう。いま実業家のなかでも、
この頃漢字をやめろとか、なぜローマ字にしないかとか、カナ文字ばかりでやっている会社もあるしね。全部
カナ文字という会社もあるのですね。それで、ことばというものは一歩プラクティカルなことを考えたら、絶対
こんな不合理なものはない。ことばの性質というものは、そういうものです。ことばというのは、そもそも人間の
意思を疎通させるために、生まれたものであるにもかかわらず、もしプラクティカルな見地からしたら、実に
非合理に満ちているという。これはどこの国のことばでも、みなそうですね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:たとえば英語のナイトクラブのナイトは、night。あの gh はなんだということになる。それでアメリカでは、
ナイトクラブのことを、nite CLUB と書くね。ことばはそういうものですよ。国語問題表意派のほうも、やはり
プラクティカルな議論にとらわれているところがありますね。あれは表音派と同じことになる。つまり、ことばに
ちょっとでもプラクティカルな原理を導入したら、もうだめですよ。ことばというものは、全くそういうものは
ないのです。実際に必要な見地から言えば、こんなに無駄なものはありゃしない。
林:政治的な便宜論です、(表意派、表音派)どっちも。
三島:そうなんです。あれに巻きこまれるのはいやなんです。どっちが便利だという問題になっちゃう。僕が
言っているのは、どっちが便利だというような問題ではない。またどっちが使いいいというような問題ではない。
どっちが意味が通じるという問題ですらないのだから。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:それぞれの民族には十万年くらいは変わらない核心性格がある。神風連的なものは日本民族の核心性格の
発現でしょう。この核心は(中略)日本民族の意識下にひそんでいる。奈良、平安時代のシナ文化と仏教文化の
流入もこの核心を変え得なかった。(中略)十万年と、二千年または二百年の「外来文化」は勝負になりませんからね。
日本人の民族性格は、天然真珠の玉のように、十万年の核心(core)をつつんで、儒教文化、仏教文化、西洋文明が
重なっている。(中略)人間の性格の外皮は真珠のように固くないから、核心がときどき流れ出し、爆発する
ことがある。これが国粋主義で、どの民族にもそれがある。ロシアでも、西欧派のツルゲーネフに対して、
スラブ派のドストエフスキーがいたようなものだ。復古主義の形をとるが、実は、求心運動としての革命的
爆発ですね。神風連はたしかにその旋風で竜巻でしょう。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:僕はこの熊本敬神党、世間では、神風連と言っていますが、これは実際行動にあらわれた一つの芸術理念でね、
もし芸術理念が実際行動にあらわれれば、ここまでいくのがほんとうで、ここまでいかないのは、全部現実政治の
問題だと思いますよ。それでは、彼らがやろうとしたことはいったいなにかと言えば、結局やせても枯れても、
純日本以外のものはなんにもやらないということ。それもあの時代だからできたので、いまならできないが、
食うものから着物からなにからかにまで、いっさい西洋のものはうけつけない。それが失敗したら死ぬだけなんです。
失敗するにきまってるのですがね。僕はある一定数の人間が、そういうことを考えて行動したということに、
非常に感動するのです。
思想の徹底性ということ、思想が一つの行動にあらわれた場合には、必ず不純なものが入ってくる。必ず戦術が
入ってきて、そこに人間の裏切りが入ってくる。それがイデオロギーというものでしょうが、そうして必ず
目的のためには手段を選ばないことになっちゃう。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
だけれども神風連というものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イコール目的、目的イコール手段、
みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離というのはあり得ない。
それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味で
いちばんファナティックな純粋実験はここだったと思うのです。もう二度とこういう純粋実験はできないですよ。
その後いろいろなテロリズムが起こりました。いろいろなものがあったでしょう。しかしこれくらいの純粋実験と
いうものはないですよ。日本の歴史のなかで、こういう純粋実験があったということは、みな忘れていますが、
当時は笑うべきことだったかもしれないが、なにごとかだったと思うのですよ。それで僕はいまの(中略)
あいまいな日本精神とかなんとかを、ここでもってもう一度よくこれを振り返ってほしいのです。そういう意味で、
僕は神風連を言うのですよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:たしかに日本人が外国に対して徹底的に受け入れるというのは、十九世紀の全く正しい方法だったと思います。
(中略)近代化することによって、植民地から身を守るか、あるいは受け入れないことによって敗北するか、
どっちしかなかった。一つの道しかなかった。(中略)
僕は政治的に、たとえば明治維新において、もっと日本的にやるべきだったとか、外国の武器を使うべきではないと
言っているのではないし、日本の西欧化をするべきではなかったと言っているのでもなんでもない。西欧化は、
十九世紀には単なる西欧化であったが、二十世紀においては単なる西欧化ではない。(中略)西欧化という段階を
通り越していると思うのです。だけれども、その必然的結果としての大衆社会化という問題が、いまわれわれの
前にあって、それに対抗する概念を僕はさがしている。僕がさがしているものは、どうしてもその前にいかなければ
ならない。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:僕たちはもうハカマもはかない、ズボンをはいてる、西洋的な生活をしていますね。しかし禅は、そうで
あってはいけないという考えです。それは天皇制の考えにつながるのです。禅はそうであってはいけない。何か
究極的なものは、そうではあってはいけないという考えがあるのです。(中略)いまに(日本人は)日本酒の味も
わからなくなるでしょう。そういう一面をもっているが、精神の本質的な価値というのは、僕たちのなかにある
かもしれないが、カソリックにおける教会みたいなものがどこかにあって、精神の本質的な価値を守らなければ、
われわれにはとても生活全般で守ることはできない。われわれは電話もかけなければならない。テレビを見なければ
ならないし、自動車にも乗らなければならないから、どこかに自動車に乗らない、テレビを見ない、電話をかけない、
ガスを使わない、電気を使わないというものがなければならないと思うのです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:(僕は)文学的な目で見るといま日本とか、日本人という、みんなの言っている概念のあいまいさに
耐えられない。いったいどこを根拠にして言っているのか。(中略)日本人はたしかに、いろんなものを取り入れて、
雑然と消化してしまう国民であるけれども、日本および日本人ということは、いまこんなに問題になっているなら、
それの純粋実験ということを、どういうふうにしてやるかということを僕は考えるのです。たとえ無力であってもいい。
(中略)なにがそれでは、そういう純日本的なもの……純日本人的なものの純粋実験だろうかと考えると、結局、
神風連にいっちゃう。あすこにガンジーの糸車があって、かならず敗北するでしょう。それは勝つわけはありません。
つまり西欧化のほうが正しいに決まっている。(中略)かならず敗北するのだけれども、そこに純粋性と正当性が
あって、そういうものがつまり、われわれが日本および日本人といっているものの核になっているのではないか。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:いったい日本では抵抗精神というのはどこにあったか。純日本の抵抗精神というのはどこにあったか。(中略)
僕はへそ曲りですからね、そういうものをさがす。そうすると、禅寺が電気冷蔵庫を持っていてはいかんではないか。
ガンジーは糸車を回したではないか。そうすると、神風連が電線の下を通るときに、あれでもって電報がくるのだ、
あんなものはバテレンの妖術だというと、頭の上に白扇を乗っけて、下を通ったという、あの白扇に、つまり
西欧文化というものはどういうものを日本にもたらすか、というものの予感がはっきりひらめいていたように思う。
林:大きな予言ですよ。
三島:大きな予言ですよね。いまから白扇を持ってもどうしようもないが、白扇で電線の下を通ったということは、
あの電線がただの電線ではないのだぞ、あの電線が、あれから、百年たってこういうような状態をもたらすのだぞ、
という予言としか思えない。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:神風連のことを研究していて、おもしろく思ったのは、かれらは孝明天皇の攘夷の御志を、明治政府が完全に
転倒させ、廃刀令を出したことに対して怒り、「非先王之法服不敢服、非先王之法言不敢道、非先王之徳行不敢行」
という思想を抱いていた。万世一系ということと、「先帝への忠義」ということが、一つの矛盾のない精神的な
中核として総合されていた天皇観が、僕には興味が深いのです。
歴史学者の通説では、大体憲法発布の明治二十二年前後に、いわゆる天皇制国家機構が成立したと見られているが、
それは伊藤博文が、「昔の勤皇は宗教的の観念を以てしたが、今日の勤皇は政治的でなければならぬ」と考えた
思想の実現です。僕は、伊藤博文が、ヨーロッパのキリスト教の神の観念を欽定憲法の天皇の神聖不可侵のもとに
したという考えはむしろ逆で、それ以前の宗教的精神的中心としての天皇を、近代政治理念へ導入して政治化した
という考えが正しいと思います。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:(神風連の起こった)その時代の天皇観念には、天皇を宗教的精神的中心として純粋に確保したいという
強烈な考えが、一方にあっても少しも不思議はなかった。
明治憲法の発布によって、近代国家としての天皇制国家機構が発足したわけですが、「天皇神聖不可侵」は、
天皇の無謬性の宣言でもあり、国学的な信仰的天皇の温存でもあって、僕はここに、九十九パーセントの西欧化に
対する、一パーセントの非西欧化のトリデが、「神聖」の名において宣言されていた、と見るわけです。神風連が
電線に対してかざした白扇が、この「天皇不可侵」の裏には生きていると思う。殊に、統帥大権的天皇の
イメージのうちに、攘夷の志が、国務大権的天皇のイメージのうちに開国の志が、それぞれ活かされたと見るのです。
これがさっきの神風連の話ともつながるわけですが、天皇は一方で、西欧化を代表し、一方で純粋な日本の最後の
拠点となられるむずかしい使命を帯びられた。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
天皇は二つの相反する形の誠忠を、受け入れられることを使命とされた。二・二六事件において、まことに
残念なのは、あの事件が、西欧派の政治理念によって裁かれて、神風連の二の舞になったということです。
ところで僕は、日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、
西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない、という
アイロニカルな歴史意志を考えるのです。
福沢諭吉と神風連が実に対蹠的なのは、明治政府の新政策によって、前者は欣喜し、後者は幻滅した。僕は
幻滅によって生ずるパトスにしか興味がない。幻滅と敗北は、攘夷の志と、国粋主義の永遠の宿命なのであって、
西欧の歴史法則によって、その幻滅と敗北はいつも予定されている。日本の革新は、いつでもそういう道を
辿ってきた。唯一の成功した革新は、外国占領軍による戦後の革新です。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
僕の天皇に対するイメージは、西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への
洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴です。しかるに昭和の天皇制は、内面的にもどんどん
西欧化に蝕まれて、ついに二・二六事件をさえ理解しなかったではないか。そのもっとも醇乎たる悲劇意志への
共感に達しなかったではないか。「何ものかを汲みとろう」なんて言うとアイマイに思われるでしょうが、僕は
維新ということを言っているのです。天皇が最終的に、維新を「承引き」給うということを言っているのです。
そのためには、天皇のもっとも重大なお仕事は祭祀であり、非西欧化の最後のトリデとなりつづけることによって、
西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点になり、革新の原理になり給うことです。イギリスのまねなんか
なさっては困るのです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:僕は天皇無謬説なんです。
僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんですよ。
(中略)
革命家がある場合には旧支配の頂点によって肯定されるという妙なことが起こり得るのが、日本ではないのですか
というのです。
(中略)つまり天皇というのは、僕の観念のなかでは世界に比類のないもので、現状肯定のシンボルでもあり得るが、
いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる。いまあまりにも現状肯定的ホームドラマ的
皇室のイメージが強すぎるから、先鋭な革新の象徴としての天皇制というものを僕は言いたいというだけのことですよ。
天皇制のもう一つの側面というものが忘れられている、それがいかんということを僕は言いたい。
それだけのことです。天皇は実に不思議で、世界無比だというのは、その点ですよ。
林:革新のシンボルにもなります。これからもかならずなります。
三島:ならなければいけないのですよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:日本共産党史には二つのコミンテルンテーゼがありますね。あれはロシアの三流学者が書いたもので、
いま読んでみると、全くでたらめな日本分析です。その、まるでバカみたいな打倒天皇制論を、野呂栄太郎などが
日本に当てはめようと苦労したのだが、当てはまりません。天皇制の基盤は地主勢力だ、いや独占資本だといっても、
三流学者の見当ちがいで、的はずれです。それで天皇制打倒論はお蔵になってしまったのだ。(中略)
三島:僕は大嘗祭というお祭りが、いちばん大事だと思うのですがね。あれはやはり、農本主義文化の一つの
精華ですね。あそこでもって、つまり昔の穀物神と同じことで、天皇が生まれ変わられるのですね。そうして
天皇というのは、いま見る天皇が、また大嘗祭のときに生まれ変わられて、そうして永久に、最初の天照大神に
かえられるのですね。そこからまた再生する。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:ただ僕は、経済の発展的な段階というものを、ぜんぜん信じてないのですね。農耕文化なり、なに文化なり、
資本主義から社会主義になるというのは、まったく信じてない。だけれどもインダストリアゼーションは、土から、
みんな全部人間を引き離すでしょう。そしてわれわれのもっているものは、すべて土とか、植物とか、木の葉とか、
そういうものとはどんどん離れていく。それでは土を代表するものはなにかとか、稲の葉っぱを代表するものは
なにかとか、そうして、自然というものと、われわれの生活とを最後に結ぶものはなにか。それは、たまたま、
ことばは農本主義と言っても、経済学上の用語としての農本主義とちょっと違いますが……。
林:(中略)諸民族の神々がみんなちがうということは、無神論の根拠だが、その逆に神が諸民族に違った形で
現われるということは、その背景に神があることの証明だという有神論、この方がおもしろいね。
三島:そうですね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:僕は、新憲法で天皇が象徴だということを否定しているわけではないのですよ。僕は新憲法まで天皇が
お待ちになれず、人間宣言が出たということを残念に思っているのです。いかなる強制があろうとも。
林:私は、天皇以外に忠誠を尽くす気はない。大統領でも人民執行委員会でも国家主席でもだめだ。神にして
人間なるもの、人間にして神なるものを創造して、それ以外には仕えないというのは大きな知恵ですよ。(中略)
僕は天皇は昔から象徴だったと思っている。
三島:天皇制というのは、少しバタ臭い解釈になるが、あらゆる人間の愛を引き受け、あらゆる人間の愛による
不可知論を一身に引き受けるものが天皇だと考えます。普通の人間のあいだの恋(こい)でしょう……。
林:恋闕(れんけつ)……。
三島:恋(れん)ですね。それは普通の人間とのあいだの愛情は、みなそれで足りるのですよ、全部。それが
ぼくは日本の風土だというふうに思うのです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:僕は天皇アナーキストだから、天皇以外に仕えない。「マッカーサー天皇」はもってのほかだ。吉田総理にも
片山(哲)委員長にも仕えない。あなたは吉田さんは好きらしいが、僕も好きだが、彼に忠誠をつくせと言ったら、
とんでもないと申します。
三島:それは絶対にいやですよ。
林:さいわいに日本には、天皇という人間でない支配者が実在している。有史以来、いや、おそらくそれ以前から
存在している。どんな事件が起ころうとも、今度の敗戦があろうが、存在しつづけている。この不思議さ。
三島:ある意味では、日本人というものの象徴だという意味では、日本人のフレキシビリティーというものの、
あれほどの象徴はありませんね。
林:高級なる政治思想ですね。人間には仕えない、神以外には仕えない、天皇は現人神である、という高級な
政治理念だな。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:祭政一致はエジプトにもギリシャにも古代シナにもあった。そういうものは時代が進歩するとなくなると
学者は言うが、僕は信じないな。僕の天皇アナーキズムは、人間には仕えない、神でなければ仕えないという精神。
日本人はその精神をもち続けている、不思議な国だ。
三島:たしかにそうですね。それは武士道はあったけれどもね。
林:武士道は立派なものです。武士道には神道も仏教も儒教も入っているが、中心に天皇があったから、武士道が
できた。
三島:ということも言えます。と同時にやはり、その前で行きどまりということもあるでしょう、藩主のところで。
つまり殿様のために身を捧げる。
林:(中略)和辻哲郎は封建時代以前の日本の家族制度の中に天皇制の根拠を発見している。武士の忠義も殿様だけが
対象ではない。その殿様たちが天皇絶対だった。織田信長も、上杉謙信も、豊臣秀吉も、徳川家康でさえ……。
三島:最終的にはそうですね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:日本のように反体制的大政党を抱えた国が、シヴィリアン・コントロールをやるということは、危険きわまる
体制じゃありませんか。
林:軍人はコントロールできますよ。天皇は軍部に対してはシヴィリアンですよ。
三島:まあそうだけれども、もしこれから徴兵制度ができて、若い人たちが兵隊にとられて、そうしておまえの
命はもらったぞというとき、昔は上官から天皇まで一貫していた。(これからは)シビリアン・コントロールで、
間に(もし反日の)政治家が介在していて……。
林:ああ、そういう意味……。
三島:そういう意味です。
林:あなたは東大法科の優等生だから、新憲法を研究してごらんなさい。読めば読むほどひどいものだ。あれは
廃止しなければいかん。必ず廃止されます。明治憲法がそのまま復活することはないでしょうが、新憲法に
くらべれば立派な憲法だ。統帥権を人間に与えず、神としての天皇に与えた点はおもしろい。
三島:そういうことです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:「木戸幸一日記」のなかで、敗戦後の昭和二十年九月二十九日の日記につぎのように記されている。
陛下がファシズムを信奉するかのように非難攻撃していたというアメリカの新聞論調に対し、遺憾に思われてこう
言われたと。「其際、(天皇は)自分が恰もファシズムを信奉するが如く思はるゝことが最も堪へ難きところなり、
実際余りに立憲的に処置し来りし為めに如斯事態となりたりとも云ふべく、戦争の途中に於て今少し陛下は進んで
御命令ありたしとの希望を聞かざるには非ざりしも、努めて立憲的に運用したる積りなり」とこう言っておられるの
ですね。僕は、「実際余りに立憲的に処置し来りし為めに如斯事態となりたりとも云ふべく」という文句は、
非常に感銘深いのです。林さんの言われる、日本の西欧化、それからイギリスの立憲君主政体ということに、
陛下はやはり非常に忠実であられたことはまちがいないと思う。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
戦争が終わったとき、「実際余りに立憲的に処置し来りし為めに如斯事態となりたりとも云ふべく」といわれたときに、
ちょっと陛下のなかで、なにかが揺らいだと思う。だけれども、それは、またそのまま、いまずっとイギリスが
いいということになったから。
林:むずかしい問題ですね。天皇現人神ということは、天皇は神そのものではないということにもなる。天皇と
いうのは神の象徴で、しかも生きた人間で、われわれは神の声を天皇を通じて聞きたいと望んでいる。
三島:一種のミディアムですね。
林:神道はシャーマニズムだという学説もある。天皇はシャーマンだということは、恥ずかしいことでも不敬な
ことでもない。神と人間の仲介者ですから。(中略)マッカーサーはキリスト教徒だから日本の現人神の思想を
理解できなかった。日本人をブードゥー教徒なみに扱かった。扱かいきれぬので天皇利用の政策に移行した。
ついでに自分がマッカーサー天皇になってしまった。いけませんね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:宿命に対する自由の例外というのは、人間だれでも認めるでしょう。もし林さんが、生まれつき片輪で、
足が一本しかないとしますね。林さんは非常にご自身で宿命的に苦しまれると思います。だれだってそうですね。
それが自分一人の宿命と考えるのはいやだから、どう考えても、これは人間に課せられた、どうにもならない
宿命だと思う。私は足が一本しかないが、ほかにも、もっと、もっと宿命をもった人がいる。(中略)人間は
宿命のなかの動物です。しかし自分が宿命で、こんなに苦しんでいるだけにどこかに自由はないだろうか。自分の
宿命を超脱するような自由がほしいではないか。そうしたら自由のイメージを描くのが普通でしょう。それが
自分に実現できなければ、どこかに宿命から超脱した人間というものを求めるでしょう。それが天皇であり、
宿命に対する自由の象徴なんです。
それは一つの比喩として言っているのです。
林:もっと聞かせてください。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:自由のイメージを求めるとしますね。僕の場合は、宿命ということばを使ったのは、インダストリア
リゼーションです。それから日本の近代史です。それから二十世紀的現象というもの。これは宿命ですよ。それを
われわれは、だれ一人としてまぬがれないし、日本人であってもなくてもまぬがれないことは当然なんです。
インド人でも当然です。インドネシア人でも当然そうです。そういうなかでもって、われわれはそのなかの
いろいろなマイナス現象につき合って生きているわけです。なんとかかんとかと。(中略)だけれども同時に、
そのインダストリアリゼーションに、絶対に巻きこまれないものがあってもいいじゃないですか。
林:それに異議はありません。
三島:それがですね、歴史的必然と見えるものに対する、自由の象徴ですね。
それが天皇であり、なんでありという考えです。
(中略)(それは)外見的には自由が縛られているかもしれない。だけれども自由はその意味では逆転していると
いうことを僕は言いたい。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:献身への憧れとかね。僕らは文学に献身していると思って己を慰めているのですな。文学も一種の神の業ですから。
三島:あなたは、その神と自分の芸術作品と同一視することはできませんか。
林:同一視したい。
三島:そうでしょう。つまり僕にとっては、芸術作品と、あるいは天皇と言ってもいい、神風連と言ってもいいが、
いろいろなもののね、その純粋性の象徴は、宿命離脱の自由の象徴なんですよ。つまりね、一つ自分が作品を
つくると、その作品は独得の秩序をもっていて、この宿命の輪やね、それから人間の歴史の必然性の輪からポンと
はみ出す、ポンと。これはだれがなんと言おうと、それ自体の秩序をもって、それ自体において自由なんですね。
その自由を生産するのが芸術家であって、芸術家というものは、一つの自由を生産する人間だけれども、自分が
自由である必要はない、ぜんぜん。そしてその芸術作品というのはある意味では、完全に輪から外れたものです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:現代において危険な思想はなんだろうか。(中略)いろいろ考えました。一度、僕は新聞に原爆のことを
書いたことがある。そして、ナセルが「落とすなら原爆を落としてもいいよ」とか、中共が「水爆を落としても
いいよ、われわれは人口七億だから、半分なくなってもあと戦える」と言った、ああいうのはもっとも危険な
思想だろうと、そういうことを書いたら、没になったことがあるのです、だいぶ前に。
いま、危険な思想というのはなんでしょうね。ほんとうの危険です。キリスト教がローマで危険だったように
危険だということ。なんか人間性に根ざしていながら……。
林:本物の思想はみな危険な思想でしょう。思想というのは、人を切腹させたり殉教者にしたりしますね。
人がそのために喜んで死ぬ思想は危険思想でしょうね。危険でない安全思想は有害な思想だ。平和主義とか、
新憲法擁護とか、こういうのは、有害なる思想ですよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:幕末に武陽隠士の「世事見聞録」という本があって、いま僕なんかの言っているようなことをしきりに
言っている。今の世は堕落していて、武士道が復活しなければならない、と。それを滝川政次郎が「いかにも
太平の逸民らしい思想だ」と批評しているのが面白い。(中略)
林:太平ムードの現状はわれわれの責任ではない。しかし終末思想や危険思想は、太平の頂点にあらわれる。
三島:いつもそうなんです。
林:この太平ムードの頂点において、なぜ君が「英霊の声」を書いたか。これは文壇批評家諸君は理解できない。
それでけっこうではないですか。旧約聖書は予言の書だが、二千年たって、やっとイスラエルという国ができた。
三島:「葉隠」は、僕は戦後二十年ずっと読んで、いつも座右から離したことはない。あれは実におもしろいので、
あんなおもしろい人生知のある……あれは、日本のモンテーニュだと思いますがね。(中略)
林:(中略)よく考えてみれば、人間は常に死地に出入りしているのですよ、太平な世の中でも。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:はげしい抵抗精神というか、末世観というか、それが日本にはあらわれますね、ときどき。
三島:必ずあらわれるのですね。
林:末世観は革命精神ですね。たとえば日蓮の終末観。(中略)昔は宗教がそれをやってくれたが、今は文学者が
ときどきそのかわりをする。すべての文学者がとは言わないが。
三島:それは政治家なんかより十年早くあらわれるでしょうね。
林:政治家よりもね。だから孟子は自ら「王者の師」と称したのです。王者の師は王者によっては受け入れ
られないのが普通だ。追放されたり処刑されたりする。王者が、十年か二十年たって気がついてももうおそい。
(中略)幕末に、日本の侍たちに勇気をふるい起こしたのは、孟子ですね。軍人だった田中義一首相も広瀬武夫と
同じころに留学して、よく勉強したのです。(中略)だから軍人が総理大臣にたくさん出た。あれは無理もない。
政党人たちは勉強する暇がなかった。選挙と地盤が心配で投票ばかり気にしていたから。
三島:いまでも実業家は本を読まないですね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:橋川文三なども言っているけれども、戦争中の特攻隊の連中でも、それから戦没学徒の心情でも、
死ななければ国家を批判はできない、死ぬことによってはじめて国家を批判できるという。日本人の最高のものに
対する批評の形式というのは、死しかないというあれは、かなり切腹のみにとどまらず、いろいろな形であらわれて
いるものだと思いますね。つまり、批評と絶対との関係というものは、僕はおよばずながら「英霊の声」などを
書いたときに、ふっと、その問題をかいま見られたような感じがした。つまり絶対を批評するということが
できるか、できないか、これはだれもわからないことですね。だけれどもその批評形式としては、 死しかない
ということはありますね。それは小さな例で言えば、市川団蔵が巡礼をして、船から飛びこんで死んだ。実に
りっぱな最期だと思う。団蔵という人は、おそらく学問もないだろう、理論もないだろう。そういう人間の
一生をかけた批評という点では、最高のものだろうと思う。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:日本人は、最高の批評の形式というのは、ことばのないものでしかないという考えがどこかにある。
それは、禅の不立文字からきたものばかりではないと思いますね。体当りと言えばそれまでですが、なんか
自己否定という形が批評になると、こっちに主体があって、対象を分析したり、対象を論理的に解釈することが
批評ではないのだと、こっちが自分を根本的に否定して見せることが批評なんだというような、批評の根本形式が
あるように思う。
(中略)
新聞は、それ(団蔵の死)をセンチメンタルに扱う。旅路の果てみたいに。その新聞の志の低さ、精神の低さに
驚きますね。乃木大将の死でも、明治に殉じたという面もあるだろうが、明治のつくった文化全体に対する批評だ
とも言えますね、おそらく。焼身自殺だって、あれは全然批評だしね。
林:福田恆存君は認めないが、僕は焼身自殺を認める。
三島:アメリカ人には絶対わからない。だいたい西洋の批評というのは、命が惜しいということですからね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
林:死ぬなら海がいいね、いちばん。……君は出征する時、天皇陛下万歳という遺書を書いたそうですね、(中略)
結局は遺書の文字のままあのとおりでしょう。
三島:あのとおりです。結局あのとおりです。
林:人間というのはそんなに複雑ではないですね。立派な遺書ですよ、あれは。
三島:いまの人は貔貅(ひきゅう)という字が読めないのですね。皇軍の貔貅という字が。――それはそうと、
この間江田島の参考館へ行って、特攻隊の遺書をたくさん見ました。遺書というのではないが、ザラ紙に鉛筆の
走り書きで、「俺は今とても元気だ。三時間後に確実に死ぬとは思えない……」などというのがあり、この
生々しさには実に心を打たれた。九割九分までは類型的な天皇陛下万歳的な遺書で、活字にしたらその感動は
薄まってしまう。もし出版するなら、写真版で肉筆をそのまま写し、遺影や遺品の写真といっしょに出すように
忠告しました。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
それにしても、その、類型的な遺書は、みんな実に立派で、彼らが自分たちの人生を立派に完結させるという叡智を
もっていたとしか思えない。もちろん未練もあったろう。言いたいことの千万言もあったろう。しかしそれを
「言わなかった」ということが、遺書としての最高の文学表現のように思われる。僕が「きけわだつみのこえ」の
編集に疑問を呈してきたのはそのためです。そして人間の本心などというものに、重きを置かないのはそのためです。
もし人間が決定的行動を迫られるときは、本心などは、まして本心の分析などは物の数ではない。それは泡沫の
ようなただの「心理」にすぎない。そんな「心理」を一つも出していない遺書が結局一番立派なのです。
それにしても、「天皇陛下万歳」と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。もう二度と
来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、何だか、
おそろしい幸福感で思い出すんです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
三島:いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感はいったい何だったんだろうか。僕は少なくとも、
戦争時代ほど自由だったことは、その後一度もありません。
林:そういう時代はきますよ、必ずきます。君はすでに天皇は神でなければならぬと言い出した。(中略)
戦後二十年の新憲法教育で、日本人のコア・パーソナリティーまで変わったと思うのは甘すぎます。民主主義の
本家のアメリカ人自身、星条旗のもとに、毎日死んで行っている。アメリカ人の冒険精神と敢闘精神は彼らの父祖が
ヨーロッパからもって来て、アメリカ大陸で開花させたものでしょう。日本の歴史はアメリカよりも古いのです。
民族の性格はそう簡単に変わるものではありません。簡単に変わるものより頑固に変わらないものの方に僕は
望みをかけます。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
織田:これは有名な話で(六代目中村)歌右衛門さんも言ってますけれども、「芙蓉露大内実記」の時に(三島と)
(市川)猿翁(二代目猿之助)さんとごたごたしたんですね。その時に「台本をとにかく直してくれ」と。
直さなかったら、もしかしたら猿翁さんが降りたかもしれないというような時に、歌舞伎座の頭取部屋のデスクを
借りて三島さんが台本を直したというんですね、一時間ぐらいで。それで稽古を再開して。それが見事にできた
ということで、歌右衛門さんも「大変な才能だ」と褒めてました。それをやらないと駄目なんですね。これ、
三島さんという人もそういう人だけども、とにかく台本を直す時に、何とも言いようがないんだけれども……
南北にでも黙阿弥にでも「なる」んですね、座付の作者になりきってしまう。だから、稽古場の雰囲気で
直さなきゃだめなんです。
井上(司会):三島も座付作者になったということですね。
織田:稽古場の延長線上で台本を直さないと切れちゃう。そこでみんなも気持ちが切れちゃうし。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
松本:だけど、「芙蓉露大内実記」の場合、あの直しは失敗だったと指摘されていますね。
織田:いや、失敗というより、そうしなかったら上演できないですよ。あの日あそこで直さないと。最終的に
失敗だったかもしれないけれども。「芙蓉露大内実記」は四本目ですよね、作品としては。そのあと、(中略)
「協同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」(「演劇界」昭32.5)という座談会があって、その中で、三島さんは
「芙蓉露大内実記」の稽古のプロセスの話をしてますね、きれいごとになってますけど(笑)。三島さん自身は
「それで大体限界がわかっちゃったんです」ということをおっしゃってますね。「わかっちゃった」というよりも、
「もうこれ以上深入りしない、もういい」ということでしょう。絶交なんですね、これ。
山中(司会):そうなると、これは結構シビアな発言というか、ある種歌舞伎に対する、見切り宣言のような……。
織田:見切りをつけてるんですよ。そのあとでもう一本「むすめごのみ帯取池」をやってますが、それは歌右衛門の
懇望だったんでしょうね。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
織田:「大内実記」はラシーヌの「フェードル」を下敷きにしているわけだけれども、限界があるんですよ。
ラシーヌの「フェードル」を昭和三十年当時、どれだけの人が知ってますか。それも歌右衛門ファンが。
松本:まあ、知らないですね。
織田:日本の観客、かなりのレベルの識者だってそうでしょう。まして歌舞伎の客なんか、どれだけ知って
ましたか……(中略)
松本:舞台はともかく、「大内実記」は読んでみると面白い。ラシーヌとは関わりなく、よく出来ていると
思いますよ。効果的な工夫も凝らされていて。
織田:やっぱり義太夫の失敗でしょうね、作曲の。これはもちろん歌右衛門もそう言っているし、「もう一度
やってもらいたい、やってみたい」と(現・五代目坂東)玉三郎さんなんかも言ってますけどね。だけど義太夫は
完全に直すべきだとは、歌右衛門さんも言ってますね。
(中略)
井上:三島は『三島由紀夫選集』に「大内実記」を入れる時には、書き直す前のオリジナルの台本を、あえて
収録していますね。
山中:不本意な書き直しだったと、選集には注記がありますしね。(中略)猿翁だったでしたか……。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
織田:あの人にとっては第一義は文学、それも小説ですね。第二義であるけれども大事だったのが創作戯曲
だったと思う。三番目に、あの人の心の遊びというか、少年の遊びというか、そういうものに帰って行けたのが
歌舞伎だったと思う。そして歌舞伎は、能を扱うのとは全く違った扱い方をしてるわけですよ。能は『近代能楽集』を
見てもわかるように、とにかく能を昇華しきった上で、三島にとっての現代劇になってるわけですね。歌舞伎の場合、
彼が最後の最後までこだわったのは「狂言作者」なんですよ。まずそこから遊びなんです。竹柴ナニガシに
扮している、彼自身が。「三島由紀夫」じゃないんですよ。だから「演劇界」の対談でも利倉幸一さんに、
「狂言作者というとだれまでをいうでしょうか?」と聞いてますよね。利倉さんは「新七まででしょう」と、
三代目の(河竹)新七まででしょうと言っているけど、三島さんはその次は自分だと思ってるんですよ(笑)。
(中略)
山中:本読みを必ず自分でするのも、狂言作者の流れに自分も沿おうとして実践していたというわけですね。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
織田:あの人にとっては「鰯売恋曳網」がとにかく当たってしまったのが気に入らなかった(笑)。
困惑してるし、歌右衛門さんも言っているように、初演の時からぼやいてるわけですよ。(十七代目中村)勘三郎が
気に入らなかったと。
「弓張月」の時、監事室というガラス張りの部屋が劇場の客席の一番後ろにあるんですが、そこに僕はつめていて、
三島さんと一緒に見てた。初日が開いて何日か経って、二人で立って客席を見てたんですね、誰か来ていないかなと。
(中略)そしたら中村屋(勘三郎)が客席に入ってきたんです。で、三島さんに手を振ったんです。(中略)
僕が頭を下げたら、三島さんが「愛想がいいね、俺の『鰯売』を単なる喜劇にしちゃったんだからねえ、彼は」。
ファルスだと三島さんは言ってるけれども、「あのねえ、そういうことが理解できないんだよ、あの人は」
という話をそこでしましたね。まあ、それは確かにそういう人なんだけどね。単なる喜劇にしてしまったと。
井上:ちょっとふざけすぎというか。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
松本:ファルスと喜劇との差は何ですかね。
織田:やっぱり、ペーソスなんですね。何か苦い笑いというか。原作のお伽草子を読んでみてもわかるように、
元々は単純な笑い話なんですね。蛍火はお姫さまでも何でもなくてほんとに遊女ですよ。どこの馬の骨かわからない
五条東洞院の遊女。それを三島さんは歌右衛門のために、丹鶴城のお姫さまにしちゃったわけですね。そうすると
あそこで一番大事なところは、二重の身分差別の悲劇、二重の身分違いの恋の悲劇なわけで、三島さんは、
俺はそういうものを設定したじゃないか、と言いたかった。
井上:勘三郎にそういうことを要求してたわけですか。
織田:そうなんだね。また作品世界に要求した。それをよく理解できなかったというところなんだと思います。
山中:悲哀を帯びた笑いが込められている、と。
井上:姫は鰯売りの声に誘い出されて出奔するわけですから、そこには身分差の問題がある。ペーソスもある。
ところが、ただおちゃらけたみたいな、そういうふうになってしまった。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
松本:あれ(鰯売)は本当に、劇場の中が沸きに沸きました。最近上演された歌舞伎で、あれだけ劇場を沸かせた
脚本ってないんじゃないかと思うんですよ。
織田:それはやっぱり先代も今も勘三郎のやり方を受けて立てる台本だからできるんだけれども、ただ、それは
どうも三島さんの意図ではないらしい。
松本:だけどそれね、三島さんはちょっと贅沢すぎると思いますね。
織田:そうでしょうね。歌右衛門さんも「おもしろくて受ければいいわよねえ」と言ってましたけどね。
松本:笑劇としてはどうかわからないけど、祝祭性がものすごくよく出てる。あれは見事だと思うんですよ。
健康なエロティシズムも出ている。三島と歌右衛門、それに勘三郎も加えてよいかどうか、とにかく共同作業だから、あれだけのものが
できたのではありませんかね。
織田:ただ三島さんという人は、照れというか、(中略)まだ若い時だし、二十九ですから、この時。「まだ
もうひとつひねりがあるんだよ」と。そのひねりが、役者にも客にも伝わらない。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
井上:織田さんは、三島歌舞伎全般についてどんな印象をお持ちになっていますか?
織田:(中略)やっぱり先ほどお話したように、三島さんは狂言作者を気取った最後の人だったんだなという
ことですね。それから僕は三島さんのことだけを考えるというよりも、一九六〇年代の最後から七〇年代の
劇作家の方たち、大佛次郎、舟橋聖一、宇野信夫、川口松太郎、北條秀司、村上元三というような、戦後、
歌舞伎の作品もお書きになった劇作家たちとの仕事をご一緒にやらせていただいて来たわけですが、誰とも違う。
そこが魅力ですね。
井上:そこをお聞きしたいですね。違いとはどういうことなんでしょうか。
織田:それはもう三島さん自身が十七歳の頃からずっと変わらなかった古典志向というか、自分でもお書きに
なっているように「エセ近代歌舞伎」というものをいっさい認めないという歌舞伎観をずっと通して全作品に
通低しているということ。それが同時代のどの作者とも違った道だということです。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
織田:たとえば宇野先生のいくつかの世話物は、近代歌舞伎の創始者といわれる六代目尾上菊五郎と共にあった。
それよりひとつ以前の岡本綺堂、三島さんは綺堂を劇作家の中でももっとも認めてなかった。でも戦後の
新作歌舞伎というのはみんな綺堂張りなんですよ。そこから最も遠いところにあろうとした。三島さんは最後の
最後まで言わずもがなで言いたくなかったんだろうけど、「擬古典」という言葉を使っていますね。だけど本当は
そうじゃない。これが正当な、歌舞伎の伝統なんだ、これこそ作者の伝統であると、実作者として証明した。
松本:だからもしも三島という台本作家が出てこなかったら、歌舞伎は変わったんじゃないかと思いますね。
三島を除いた新作歌舞伎の人たちが本流になってしまった可能性があるんじゃないか。そうなったら、歌舞伎は
グズグスになってしまったろう。三島が出現したために伝統的な本来の歌舞伎が生き残ったし、今ではかえって
そちらが強くなってるんじゃないかと僕は思っているんですけどね。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
織田:「三島歌舞伎」とは言っても「宇野歌舞伎」「大佛歌舞伎」とは言わないんですよ。それらとは違う別の
作品なんです。昭和三十年代というのは、書き手がいなくなってしまったことが目に見えてわかった時代ですね。
松本:そうですね。三島以外の誰にもあんなのは書けない。三島だけが書けた。
織田:書こうとも思わないしね。そうすると「三島歌舞伎」対「他の歌舞伎」なんです。三島以外の歌舞伎。
山中:戦後、新作歌舞伎と三島が、ジャンルとして対決しているということですね。
織田:そうそう。だからある意味では孤独峰なんですね、屹立している。
松本:それでいながら歌舞伎本体に深く根を届かせているわけですね。
織田:野坂昭如さんが「三島ってのはすごいよね」と。「義太夫を書ける日本人というのはああいう人しか
今いないんじゃないか」と言ってました。
山中:それは亡くなった後のことですか?
織田:いや、亡くなる前だと思います。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
織田:何かの時に……三島さんが「おかしいよね」と。「浄瑠璃書けるのが当たり前だよ、日本語で何かを
書こうと思ったら、謡曲や和歌を作ったり、浄瑠璃を書いたりする方が当たり前なんだ、書けない方がおかしい」と。
昭和三十年代というのは戦後の教育がそういう知識を失わせて、もはや「戦後」ではなくて「日本」がなくなった
悲劇的な時代の分岐点で、そういうものに訣別したことが「三島歌舞伎」という言葉を生んだんじゃないかと
思いますね。
(中略)百年後にもう一度日本人がこういうものを作り上げられるかと思ったらそれは大間違いです。絶対に
不可能ですね。文化の伝承、伝統は戦後教育のもとで断ち切られたという思いが三島さんにあっただけに、
かろうじてそれをどこかに求める、そういう気持ちがあの人には強かったんだと思いますね。義太夫狂言で何が
一番お好きですかと三島さんに聞いたら、「鬼一法眼三略巻」の菊畑が好きだと言ってました。何でですかと
聞いたらノリが好きだと。義太夫の三味線に合わせて乗るせりふ。(中略)あれが好きだと。
織田紘二「『三島歌舞伎』の半世紀」より
中山:(朱雀家の滅亡の主人公)経隆のものの考え方、生き様っていうのは、初めは全く無私というか、無欲な、
本当にただの忠誠だったんです。それが、だんだん時間を経てくると、お上と自分が同化しちゃう。今まで忠誠を
尽してきたお上と自分が同化しちゃって、ますます、思いが強くなる。その、思いとは、「私は遠くからあなたを
お守りします」ということになるわけですよ。こういう忠誠の仕方というのは、普通考えたらやっぱり奇人変人かな、
と思うわけですけれども、決してそうじゃない。で、そこまで持っていく、ある種の静かなエナジーが必要なんです。
それをずーっと、じーっと追いつづけないと、成立しない芝居なんですよ。その辺で苦労しましたね。
経隆というのは、どういう人かといわれると、今言ったことに尽きるのですが、とにかく、演じるほうと観るほうで、
すごいギャップがあると思うんです。そのギャップが実は最後に正当化されていってしまって、観ているお客さんを
こっちへ引っ張り込むという。そういうある種非常に精神的なパワーのいる仕事でした。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
井上(司会):NLT、浪漫劇場と、三島由紀夫と交わって、最初はどんな印象をもたれましたか。
中山:三島先生に初めてお会いしたのは、多分NLTの頃だと思うんですけれども、誰かに紹介されて「ああ、
どうも」というふうに御辞儀をした時に、小柄な方だな、それにしては顔が大きいなあ、と……。やっぱり
頭のいい人って、頭が大きくなるんだろうか、とか、いろんなことを考えましたよ。それが一番最初の、先生との
出会いでしたね。それから、色々ありまして、ある時、「冒険ダン吉」みたいな恰好をして稽古場に来られる
わけですよ。半袖の、襟章のついたシャツを着てね。白いハイソックスをはいて、白い靴を履いて、探検家の
帽子をかぶって、「仁くん、どうだ!」って。「先生、どうだ! はいいけど、それ逆だと思いますよ」って。
日本人は、帽子ってひさしの方が前だと思っていますよね。でもあれ、逆なんですってね。後頭部を守るためのもので。
違うんですよ、かぶりかたが。そういうことで大笑いしたことがありましたね。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
佐藤(司会):前に、岸田今日子さんに、ここに来ていただいて、お話を伺ったことがあるんですけれども、
劇団の中で、若い役者さんたちと随分リラックスして話をされていたと。(中略)それは三島由紀夫が、もっと
若い頃の話でした。中山さんがお会いになった頃は、もういわばこの世界で知らぬもののない作家ですね。
その頃のNLTの中での三島由紀夫というのはどんな人だったんですか?
中山:僕なんか本を読ませて頂いていますから、ああ、凄い先生なんだと思って、なるべく目を合わせないように
しましてね。「おはようございます!」とご挨拶して目をそらしてしまうような感じでした。で、皆さんは、
毎年二日に「三島詣で」をするんですよ、ご自宅に。
山中(司会):一月二日にですか?
中山:そう、一月二日です。でも私は、うちの親父から「正月二日から他人の家になんかいくもんじゃない」と
昔からいわれていましたのと、敷居が高かったという感じが常にありましてね。とうとう、行かずに終わって
しまったんです。行っておけばよかったな、と思いますけれど……。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
井上:三島由紀夫から何か言われたのでは?
中山:ああ、そうそう。「仁くん、君、僕のこと嫌い?」って。「僕のこと嫌い?」って言われると、ちょっと、
いろいろな意味に取りますよね……(笑)。「いや、そんなことはございません」て、とぼけちゃったことを
覚えています。いやあ、悪いことしたなと思っていますけど。(中略)
井上:ボディ・ビルに誘われたりとか、そういうことは?
中山:ああ、ありましたよ。行きました、後楽園に。それでこう、ハールっていうダンベルの大きいのを、
二十キロか三十キロぐらいするのを持って、こう、やっているんですよ。「どうだ!」って言うから、
「いや、たいしたもんですね。ちょっと貸して下さい」って僕がやったら、「おお」っていって、サッといなく
なっちゃったんですよね。きっと、嫌な野郎だと思ったんでしょうね。
井上:案外軽かったと(笑)。
中山:いえいえ、決してそうではなくて、僕は若い頃、体をつくるために色んなことをやっていましたから。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
佐藤:難しい質問……。「中山さんにとって三島美学とは何か」。
中山:よく言われていますけれども、「滅び」っていうのは言葉にしても非常にきれいな響きでしょう?
それに尽きると思うんですよ。全然違うところで経験したんですが、ピーター・オトゥールが、「将軍達の夜」
という映画で、(中略)伝統に培われたものが壊れていくときの悲鳴とか、そういうものをぞっとする思いで
感じました。(中略)そういうことから考えて、たとえばもう絶対にありえない、天皇は天皇として現人神で
あってほしい、しかし、そうはならなかった。それじゃあ、いままでそのために忠義を尽してきた人たちは、
滅びるしかない。それは、全員がそうじゃないかもしれない。いいよ、やめた、っていう人もいるかもしれない
けれども、あそこまで忠義を尽す人間を書いてくると、もう滅びしかないだろうと。それも、多分先生は、見事に
滅びをしたかったのではないのかな、と。見事というのは、他人に対してじゃなくて、自分で許せる見事さ
みたいなものが、絶対にあったような気がするんですね。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
中山:僕は、お墓参りには行きませんけれども、そちらへ向いて、毎年拝むようにはしていますけど。やっぱり、
これだけのものを遺してくれて……。僕だってもう六十六歳ですから、先は長くないですよ。
井上:いやいや……。
中山:それでもなにかこう、まだやることがあるよ、っていうものを遺していただいたわけですから。やっぱり、
少しでも続けたいなと思っています。
(中略)
佐藤:一番好きな役は……。
中山:うーん、やっぱり今歳を食っちゃいますとね、若い頃のあの役、なんでもいいですよ。久雄でも、経広でも。
あれはもういまや憧れでしかないですから。そういう役を、誰かがやっているのをそっと見てみたいなと思います。
佐藤:たとえば、純な心を持っている三十歳の少年、帝一はやりにくいんでしょうか。
中山:あれはねえ、そういう意味では、どうしようとか、ああしようとか全く考えずにできた役でしたね。
自分の中に滞る部分がなく、できました。だから三島さんは泣いたのかな、と思ったんですが、違ったんでしょうね。
でも、褒めてくれましたよ。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
>>380前
中山:「薔薇と海賊」では、帝一という純粋な青年の役をやりましてね、その時に、ちょうど三島さんと僕と、
今日の会場で一番前の席にいる方ぐらいの距離しかないわけですよ。それで、こう、芝居をやっていて、ちょっと
目線を渡したら、えっ? と思うぐらい目を真っ赤にしている。どうしたのかなと思って芝居が終わったら、
「仁君、よかったよ」と。「なんだ、お世辞をいって」なんて思ったんですけれどね、どうも違うみたいなんですよ。
佐藤(司会):初日にも涙を流したという談話を、村松英子さんは残していらっしゃるし……。
中山:それから、しばらく変なことが続いたんです。三島先生は、蟹という字すら嫌いなんです。それなのに、
「蟹を食いにいこう」って言ったんです。えっ、と驚きつつもみんなで行って食べたんですが、何かがおかしい、と。
井上:「薔薇と海賊」の上演は昭和四十五年十月から、十一月三日までですね。
中山:それじゃあ、本当に亡くなる直前だったんですね。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
中山:あの日、十一月二十五日、僕は京都の撮影所でのロケーションで亀山のほうへ行っていまして、(中略)
送りのハイヤーの中で、「作家の三島氏が……」っていうふうに始まったのを聞いて、えっ! と思いました。
それがわずか五分もしないうちに、「犯人・三島は」って言った女性レポーターがいたんですよ。それはちょっと
違うだろうと非常に腹を立てたことを覚えています。その晩は眠れませんでしたね。僕と先生の付き合いというのは、
「おい、元気か?」「はい、元気です」っていう、そういう付き合いだったんです。しょっちゅう皮膚感で
付き合っていたもんですから、切腹して、介錯を……っていうことの衝撃の強さっていうものがあって、何も
考えられなかったですね。その次の日の撮影は休みにしてもらって、飛んで帰りました。
(中略)思考が停止した状態がしばらく続いたんです。少しは考えられるようになったのは、一年ぐらい経って
からですね。ああ、そういえばあの時に蟹を食べたな、あれはおかしいよな、とかね。そういうことでしか
推し量れない。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
井上:劇団の中で、三島由紀夫が自分の思想的なことを話すとか、文学の解釈について話すとかいうようなことは
ありませんでしたか。
中山:ほとんどありませんでしたけれどね、「仁君ね、僕の台詞は、いいかい、句読点まで読んでくれよ」って
言われたことを覚えています。だから、「だって先生、長いんだもん」なんて言ったってだめなんですよ。
句読点まで読んでくれ、って言うんですから。
それはもう、めちゃくちゃに鍛えられましたね。何とか先生の期待に添おうと思うから、一生懸命にやったんですがね。
NLTって新文学座という意味なんですけど、文学座はリアリズムの芝居をやってきた劇団なんですね。今でも
そうですけれど。NLTは、そうじゃない芝居をやろう、よりシアトリカルな芝居をやろう、劇場性の高いものを
やろう、と。(中略)他の先輩達は文学座で散々やってこっちに来ているから分かるんでしょうけれど、これは
ちょっと待ってくれよという感じがしましたね。いきなりですからね。右往左往したのが、二年ぐらいありましたかね。
中山仁「三島戯曲の舞台」より
和久田:文学座をはじめとする新劇の役者たちは、リアリズムというものを追求して来たため、大見得を切って
芝居をするようなことを恥ずかしがって出来ないんです。それを三島さんが、堂々とやるばいいんだと教え込んだ。
「鹿鳴館」で、朝子と草乃が舞台端から、影山と飛田の会話を窺うところがありますね。あたり前の新劇なら、
植え込みに隠れて演ずる場面です。しかし三島さんは、隠れていることにすればいいんだから、表に出て演じなさい
と言った。これは、歌舞伎役者なら平気でやるんだけど、杉村さんもはじめは全然出来なかったそうですよ。
井上:なるほど。文学座は「鹿鳴館」の翌年、福田恆存の「明智光秀」で、はじめて歌舞伎との合同公演を
やりますが、その下地を三島の「鹿鳴館」が用意したようなところがあるわけですね。こう言うと、福田恆存は
面白くないでしょうが。
松本:三島は、杉村春子という女優を、そういうシアトリカルな方向に押しやることを、意識的に考えたんでしょうね。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
和久田:自宅が山王で近かったことから、三島さんの馬込のお宅には、しょっちゅう行ってました。伺うのは
だいたい昼の一時ぐらいでしたね。ちょうど三島さんが起きて日光浴しながら食事をする時間でした。ただし
三島さんは自宅の三階を増築、おっぱいの形をした部屋にするというんで、四十年の五月まではホテルニュー
ジャパンを利用してました。ニュージャパンにも行きましたよ。「近代能楽集」の座談会のゲラでも見せに
行ったのかな。そうしたら舟橋聖一さんがいましてね、三島さんと仲よく喋ってました。不思議なんだよね、
この二人の仲がいいのは。(中略)
舟橋さんは、三島さんの家に来るのにも、執事からいちいち電話がかかってきて、ただ今、大崎広小路をお通りに
なりました。あと何分ぐらいでお着きになります、なんて言うんだそうです。大袈裟な奴だって、三島さんは
笑ってました。三島さんと自宅でお話しするのは、その三階の「おっぱいルーム」が多かったですね。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
>>386前
山中:杉村春子は役になりきって舞台に出てくるが、それでは駄目だ、まず杉村春子が出てきて、それから役になる
という具合に意識的に演じろと、三島は「トスカ」の時に注文をつけていますね。
和久田:「サド侯爵夫人」でも、序幕でサド侯爵夫人ルネではなくて、ルネを演じる丹阿弥谷律子が、真白な装束で
下手からバッと出てくる。それを三島さんはとっても喜んでいましたね。ただ、三島さんは、「サド侯爵夫人」では
あんまり役者を動かしたくなかったと思いますよ。松浦(竹夫)さんは、割と役者を動かしたがるんだけど、
三島さんとしては動きとか舞台装置とか、そういうものに寄りかかるんではなくて、セリフでもって芝居を
運ばせるんですね。(中略)
松本:(中略)芥川比呂志が紀伊国屋ホールで「サド侯爵夫人」を演出した時は、割合に動かしましたね。
動かして、よくなかった。
和久田:よくわかりませんが、あれは芥川さんが体調がよくなくて、NLTの岸田良二という人が実質的に
演出をやっていたのかもしれません。彼は松浦的な演出が好きでしたから、動かし過ぎたんじゃないかな。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
>>386次
井上:「ブラジャールーム」と言うんじゃなかったですか?
和久田:三島さんは、「おっぱいルーム」って言ってた気がするなあ。一階や二階のいわゆるロココ風の感じとは
全然違って、いわゆるモダンな、シンプルな装飾でしたね。あれは、UFOを見るために作ったんですよ。私ね、
三島さんはひょっとしたらね、宇宙人じゃないかと思うんだ(笑)。とても人間とは思えないです。
井上:わかるような気がします(笑)。実際に会っていて、そう思う瞬間がありましたか?
和久田:いや、そういうんじゃなくて、帰宅後ふっと思い出して、なんだか人間と会ったんじゃなくて、宇宙人と
会って来たんじゃないかという気がしましたね。
井上:波長や感受性が、普通の人とは全然違うんでしょうね。
松本:それは人間としての存在感が希薄ということではなくて……?
和久田:いや、頭の回転が早くて、われわれの十歩も二十歩も先のことを察するとかね。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
和久田:昭和四十二年十月、「朱雀家の滅亡」はいい芝居でしたね。私はやはり舞台監督をやりましたが、
快感なんだよねえ。ああいう芝居って、めったにない。春、秋、夏、冬の四幕でしょ。最初は春でツツジの花を
舞台に出す。秋は楓、夏に戻って蔦や夏草、冬は雪を降らせるんです。松浦さんはね、その頃テレビで本物の
雪みたいなものを降らせていたんだけど、三島さんはそうじゃなくて、歌舞伎の三角の雪じゃなきゃ駄目だよ、
と言うんです。最後に村松(英子)君が十二単を着てお社から出てくる場面で、雪を降らせるんだけど、これも
舞台監督としては嬉しいんだよね。
松本:幕が上がると、まず舞台が目に飛び込んできて、観客はわくわくする。四幕ともそういうところを計算して
いるんですね。(中略)
山中:芸術祭参加作品でもあるし、中村伸郎も好評だったようです。
井上:この時から「劇団NLT」を名乗るようになりますね。
和久田:「朱雀家の滅亡」の時にはじめて「劇団NLT」となり、松浦さんが劇団代表になるんです。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
これ(「わが友ヒットラー」の三島の本読みのテープ)は私が録音したんです。脱退届けを出しに行ったNLTの
事務所のロッカーには、「サド侯爵夫人」の三島さんの本読みのテープも入っていたんで、よっぽど盗んで
来ようかと思ったんだけど(笑)、持ってこなかった。その後、「サド侯爵夫人」のテープは所在がわからなく
なっちゃいました。「サド侯爵夫人」と「わが友ヒットラー」は三島戯曲の二大金字塔なのに、片方の本読みしか
残っていないのが、本当に残念でしょうがない。
(中略)この原稿で、書誌学的に気をつけなければならないのは(笑)、登場人物が「シュトラーサー」に
なっていることです。(中略)再版ではじめて「シュトラッサー」になった。なぜかって言うと、稽古場に
ヒットラー・マニアの高校生が来てね。
山中:ああ、後藤修一さんという方ですね。
和久田:そう、その時、三島さんもいたんだよね。その子から、これはシュトラッサーですよ、って指摘を
受けたんです。(中略)
山中:(中略)(後藤さんは)それがきっかけで浪漫劇場に来て、色々協力するようになったと何かで読みました。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
和久田:三島さんは10・21(国際反戦デーのデモ)なんかを見に行きましたね。その頃、和久田君、事があったら
俺は楯の会の連中と斬り込みに行くけど、女房と子どもは車に乗せて山のほうに逃げてくれよ、なんて言われました。
井上:真顔でですか?
和久田:いや、半分冗談ですけどね。
山中:稽古場に楯の会の制服で来ることなんかありましたか?
和久田:ありませんね。ただし「わが友ヒットラー」の初日のカーテン・コールの時は、制服を着て来ました。
楯の会の連中も来ていましてね。それがこの写真で、三島さんはむこうを向いてます。私も真ん中にいます。
山中:村松剛の姿も見えますね。この日は芝居の前に楯の会の例会があって、会の終わりに三島が希望者をつのって
連れてきたそうです。(中略)
和久田:(中略)私が三島さんと一緒に撮った写真は、これと私の結婚式の時のしかないんです。
山中:結婚式はいつですか?
和久田:四十四年の十一月六日です。場所は東京会館、三島さんは君が代を歌ってくれました。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
和久田:その日(十一月二十五日)、私は寝ているところを叩き起こされたんですが、何も考えられませんでしたね。
すぐ劇団に行きましたが、どうしようもない。三島家に行って通用口の門番をやりました。(中略)あとで、
劇団の稽古場で劇団葬をやりました。ただね、「サロメ」は三島さんの演出で私が演出助手ってことになって
いましたが、松浦さんは、とんでもない、本当は俺がやるのがあたりまえだ、って言うんですね。私は呼びつけられて、
お前は若くてこれからいくらでもチャンスはあるんだから、「サロメ」の演出は諦めてくれ、と言われたんですよ。
そう言われれば、松浦さんは私の先生ですし、わかりました、と答えたんです。ところが、(三島の)奥さんが、
「サロメ」だけは何としても主人の遺言なんですから、ぜひ和久田さんにやって戴きたい、と言って、松浦さんも
折れて、演出ではなく公演責任者という役割になったんです。松浦さんは、この年の九月に「朱雀家の滅亡」の
演出をやって、それを追悼公演にしたんです。
井上:そういうことがあったんですか。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
和久田:私はね、この松浦さんとのことがあって芝居が嫌になって、それで芝居をやめちゃった。
松本:ある意味で、和久田さんは三島さんに殉じたんですね。
山中:支柱的存在を失ってしまって、浪漫劇場自体も昭和四十七年の「地球はまるい」で終わりになったという
ことですか?
和久田:そうです。解散ですね。でも、その時のことは私はもう全然知らない。演劇の質が昭和四十年代にすべて
変わってオーソドックスというものがなくなりましたから、私もそこでやめてちょうどよかったんですよ。
(中略)
松本:和久田さんの立場も複雑ですね。それにしても、演出家として「サロメ」をやったということは、
強烈過ぎる体験ですね。
和久田:そうです。なぜ三島さんは私を演出助手に選んだのか。私でなくても、(中略)一向におかしく
ないんですがね。じゃあ、私がどれだけの舞台を作れたかというと、忸怩たるものがあります。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
松本:和久田さんは、(サロメを)三島は自分の劇場葬にしようと意図したとおっしゃった。そのとおりだと
思いますが、ただの葬儀ではありませんね。なにしろ血がたっぷり流され、生首が出るんですから。血が流され、
生首が出るとなると、犠牲が供され、甦りが祈られる儀式じゃありませんか。市ヶ谷では「七生報国」と書いた
鉢巻きをして、死ぬけれど、こちらで甦る。少なくとも芸術家として甦る願いを込めている、と私には思われて
ならないんです。
和久田:なるほど。「椿説弓張月」の最後、為朝が白鳥に跨って昇天するのも、そうでしょうね。
松本:そうなんですよ。(中略)再生の祈りを込めた劇場葬と、一対にして捉えると、腑に落ちるんです。多分、
映画「憂国」の展開でもあるでしょう。当時としては生々しすぎて、そうと受けとれなかったでしょうが。
和久田:三島さんの意図がどうであったか、私には分かりませんが、なるほどなと思います。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
松本:最後にもう一つ、三島について忘れられない思い出を、ぜひお聞かせください。
和久田:「サロメ」の最後の打ち合わせを、十一月二十一日の晩にやったとお話しましたね。その後、三島さんが
飯でも行こうと言って、奥さんが運転する車で六本木の福鮨に行きました。テーブル席に、三島さんと奥さん、
おふたりと向き合って座って、ご馳走になったんですが、そうしてねぎらってくださったんですね。
その時私が車の中で、「豊饒の海」が終わったら、何を書くんですかと聞いたら、それを聞くのはわが家では
タブーなんだ、あとは死ぬしかないじゃないか、ワハハハ……、と三島さんは答えました。それから、帰りの
車の中で三島さんが、しきりに寒い寒いと言い出して、助手席で震えるように縮こまったんです。確かに
寒かったですが、震えるほどではなかった。それを、運転する奥さんが気遣っていました。
松本:……それは、やはり精神的なことからだったかもしれませんねえ。
和久田:そうだと思います。そのことをよく覚えています。
和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」より
大河内(司会):演技をする際に、三島さんから注文なり助言があったんですか?
村松:いつも役の核心をつく説明をして下さいました。また演技の基本としては、人間を表現するのにひと色で
描こうとしない方がいい。例えばこのシーンで優しいからといって、残虐なところがあるかも知れない、愛の裏には
憎しみが……。何にでも光と影の両面を意識すること。人間を多面的に演ずること。
台詞に関しては、一つの文節をニューヨークのマンハッタンの摩天楼のように構築しておくれ。一つの台詞のなかに
一つのドラマがあると思いなさい。そう仰った。一言一句を大切にするということを思い知りました。
(中略)
先生のヒロインを演ずるときは、女という自分の素材によりかかってはいけない。むしろ素材は邪魔で、時には
自分が男になったつもりで「三島のヒロイン」を創っていかなくては、とても太ち打ち出来ない。複雑というか、
強さというか。極端なまでの存在です。
村松英子「ヒロインを演じる」より
村松:(朱雀家の滅亡で)私の頂いたヒロインの役名が璃津子ですけど、先生の亡くなった最愛の妹さんの名が
美津子。「戦争で負けたことよりもショックだった」と先生が言われた妹さんの死は、敗戦まぎわに勤労奉仕中
喉の渇きに耐えかねて飲んだ容器の水から疫痢にかかったためと伺いました。妹さんは聖心女子学院生でしたから
勿論制服は違いますが、「朱雀家」で愛しんで描かれている学習院の制服姿の若い婚約者同士に、私は若き日の
先生と美津子さんを重ねたものでした。「先生のノスタルジイですね」としみじみ言うと、「うん」と優しい微笑が
返ってきました。
松本(司会):読み返してみたんですけど、二幕目、恋人の朱雀経広が戦死の確実な戦地へ向うという時に、
璃津子が言いますね、「正式の、もう二度と引き返せない結婚ではなくてはいやでございます」。美しくて
雄々しくて、恋心あふれ出る場面ですね。
村松英子「ヒロインを演じる」より
三島:ときどきつまらない映画で発見することがありますね。この間、なんだったかちょっと忘れたが、男が
入ってきて、女がとても驚いて水差しを落すところがある。水差しが床に落ちて割れる。それを見てなるほどなあと
思って、しばらくあと考えたのだけれども、ちょっと落すのがおそいのだよ。それで、あっ嘘だと思うのですよ。
現実には人間の心理は、驚いてから水差しを落すまでに間がある。だけど映画はその瞬間見ていると明かに嘘に
なるのです。そうすると、芝居なんかのアクチュアリティというのは、やはり現実のままじゃいけないと思う。
なんかこれならアクチュアリティがあるというタイミングがあると思う。そのタイミングを演出家はしょっちゅう
考えなければならない。そのタイミングは現実とはちょっと違って、お客の心理の中にある。お客の持っている
生活体験から生れた最大公約数の真理がある。芝居はそういうものを狙わなければならない。つまりそれが芝居の
リアリティと、考えちゃったのです。
三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
荻:(中略)現実通りにやると間がのびちゃう。あれは不思議なものだね。時間で計るわけにいかないことだからね。
三島:ただ見ているお客の目から見ると、女がびっくりして水差しを落す所を現実の生活でしょっちゅう
見ているわけじゃない。しかしわれわれの生活にはそういうときには、このタイミングで水差しを落さなければ
おかしいと考える法則ができている。そういう法則がなければ安心して生きていられない。その法則をみんな
持っている。ぼくもミーハーも同じだ。それが外れると嘘なんだと思う。
荻:ヒッチコックがリアクション・ショットをやるでしょう。ふっと驚くところを出して、次に、驚いた原因を
見せる。ただその原因を知っているだけじゃ、このおもしろさをだれでも出せるわけじゃないな。そのときの
タイミングというか、映画独特の時間を勘で持っているかどうか。格闘シーンなんか全然現実時間じゃないな。
三島:現実の格闘はもっと間の抜けたものだろう。
三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
荻:結局そういうところは歌舞伎……新国劇の殺陣なんかも、舞台の時間というものを創作した人は偉かったですね。
三島:歌舞伎の場合はもっとスロー・モーションで引き伸ばしてあって、別のおもしろみを出している。
現実生活ではお客は見ていないで、なんか考えるところはおもしろいと思う。観客心理としておもしろいと思う。
だから小説と体験の問題でも、小説家の体験、読者の体験ということがどっかでマッチするところがある。
たとえば人殺しをやった体験は、読者にもない、作者にもない、しかもどっかで折り合いのつくものがなんか
あるのです、法則がね。
荻:三島さんが書いていらっしゃいましたね。舞台では一目惚れとか偶然ということは、簡単に観客のほうに
許されるところがあると。映画では、同じくドラマでも問題になる。たとえば日本のすれ違い映画が観客を
笑わせるのは、やはりおかしいからなんだ。ところが芝居だと、「ロミオとジュリエット」の一目惚れは実に
簡単に受け入れられるのだな。
三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
三島:その点では映画は小説に近い。映画はドラマより小説に近いと思う。やはり時間の経過は映画の場合は
厳密じゃない。たとえば、急に十年飛ぶ。芝居は非常に構成が必然的だから偶然が許容される、ということが
考えられる。たとえば荻さんの話をして、荻さんどうしたろうと言っているところへ荻さんが入ってきても、
芝居だとおかしくない。映画じゃおかしいよ。ぼくは古典劇の技巧が好きなんだ。たとえば「あそこにネロが
やって来た、こうしちゃいられない、向うへ行きましょう」、ああいう技巧は好きなんだ。(中略)
しかし、映画はどうして演劇的であるということをいやがるのだろう。大概芝居くさいのは受けが悪い。
荻:それは見るほうも解放感を求めているからでしょう。
三島:そうですね。
お客が一つの枠の中で享受する芸術の楽しみ方はもう失われちゃったからね。したがって、映画は枠が小さい
という観念――最近は大きくなったけれども――枠が小さいから、それで解放感を求めるということがあると思う。
人物全体を見られないからね。
三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
三島:ぼくは映画が生れたのは小説の罪だと思う。(中略)小説の謳歌した罪を映画はもっと拡大して謳歌している。
五十歩百歩だ。小説家が映画の悪口を言うのは、眼クソ鼻クソを笑うと同じものだ。
小説の欠点をみんな持っているもの。たとえば一人の人生が一時間で語れるという、そういう確信を持っている。
戯曲はそんな確信を持っていなかった。ある人間の三時間とか一日とかしか語れない。小説、映画はそういうことが
できることになった。
小説の双子だな、芝居の双子というよりは……。
荻:まま子だな。だから、小説の崩れもずいぶん流れ込んだんじゃないか。
三島:オペラを喜んでいたお客は、現実生活とは違うものというので、それを喜んでいた。だけど小説が始まって
砕いちゃった。書いてあることは本当のことだという迷信を抱かしちゃった。だから映画が出てくるのは当たり前だ。
荻:映画は実写的だからなおその確信が映画の支えになったのだし、それはまだ続いている。
三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
三島:しかし小説と映画はあまりにも近すぎて、かえって関係がない。近いものではないけれど、ぼくは芝居の
興味で見る。やはり映画は野外劇の発展したものじゃないですか。ページェントですね。だからイタリアの廃墟を
うまく使って「ロミオとジュリエット」を作ったり、そういうものはたしかに生きてくるのだ。つまり野外劇では、
舞台装置の全部が人工のものでなしに、現実におかれた外部のものがすっと入ってくる。廃墟とか水とか芝生とか、
そういう芝居と関係のないものが入ってくる。それで芝居が展開していくおもしろさ、そういうものは昔から
発見されていた。それが映画に発展して行ったと思うのです。
荻:映画論でそのことを指摘しているのは、日本では寺田寅彦さんですね。ドキュメンタリーのおもしろさは
全くそれなんですね。
三島:ものが入ってきたのだ、芸術の世界に。
劇では生のものは絶対出さないわけですよ。(中略)しかし、人間は生のものだから、人間だけ生であとは
生でないというのが芝居のミソだ。映画では人間プラスいろいろなものが入ってくる。
荻:それが機械でとらえられるから、なお複数になっちゃうのですよ。
三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
三島:チャップリンでは「殺人狂時代」が好きだ。「ライムライト」は大嫌い。
荻:三島さんはやはり濡れたのが嫌いなんだ。
三島:大嫌い。
荻:「しのび泣き」(ジャン・ドラノワ)なんてのは濡れたところと乾いたところの境目みたいなものだけれども。
三島:ああいうものは許容できる。ガイガー検査器をあてると、許容量のリミットだね。
荻:映画というものがすぐセンチメンタルに湿ってくるということ、これも考えなければならない問題でね。
三島:「二十四の瞳」は困った映画ですね。木下恵介さんのああいう傾向は買えないな。
荻:あの人は一歩退いて自分をいじめることができる作家だ。乾かすこともできる。湿らすことも……。
三島:だけど日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくて政治だよ。
荻:しかし映画はそのポリシーが……。
三島:あるのだね。(中略)国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。進歩派が
「二十四の瞳」を買うのはただ政治ですよ。
三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
三島:ぼくはほうぼうで引用するが、アーサー・シモンズの言葉、「芸術でいちばんやさしいことは、涙を
流させることと、わいせつ感を起させることだ」というのがあるが、これは千古の名言だと思う。
荻:逆に言えば、映画は末梢を刺激するようにできている。
三島:セックスの点がそうね。あんなセンジュアルなものはない。映画の根本的なものかもしれない。オッパイが
出てくれば、三メートルぐらいに拡がっちゃう。そういうことと涙と関係があるからね。
荻:映画ってものは観客をどうしても同化作用に引き込ませる。映画ですぐ作品のテーマということが問題に
なるのもそこだね。たとえば頽廃的なもの、悪影響を及ぼすもの……。
三島:映画でいちばん信用できないのはそれなんです。人間的な限界をのり越すということなんだよ。彫刻は、
大きな彫刻はあるにしても、人間の限界にとどまっているからね。無害なんだ、芸術として。小説も人間の限界に
とどまっている。
三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
三島:映画は人間の限界を飛び越すからね。オッパイは三メートル、十メートルになっちゃう。それは人間の
仕事でなく、拡大する機械の仕事なんだ。そういうものによって訴えるということは、人間的な限界を踏み越した
ものだと思うね。
荻:それはおもしろいな。みんなこの問題はマス・コミュニケーションの問題としてしか考えていない。
たくさんの人々に見られるから危険だというふうにしか考えない。
三島:ぼくは非人間的なものが危険だという考えだ。
荻:その点をまた映画は大変な武器にして来たわけでね。
三島:オッパイが十メートルになるということは、現実の世界にはない。シネマスコープは十メートルになる。
そんな昂奮はないかもしれない。そういう点でラクロの「危険か関係」のように、「観念がいちばんわいせつだ」
という信念で作られたエロ小説から考えると、十メートルのオッパイは観念なんだ。観念が拡大されて人間以上の
ものになっている。
三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
三島:ラクロがどんなに努力しても、人間の想像力のエロチシズムから出ない。映画は想像力を越して、ただちに
官能に命令する。そこが危険なんだ。そういうものを狙ったものが。ぼくも木石でないから感ずる。それは
芸術でないと感ずる。そういう武器はすごいよ、映画は。観念が拡大されて人間を追い越すという点では
恐るべき武器だ。どこまでも行っちゃう。古代ローマのコロシアムのショーね、あれなんか登場人物がほんとうに
死ななければ満足できなかったのだ。今やプロ・レスリングがそうだし、ボクシングがそうだ。
荻:抽象的なルールのないスポーツみたいなものなのね。
三島:ギリシャ劇がいつかローマの円形劇場のショーへ堕落して行ったのと小説が映画になったということは、
符節を合している。そこまで言うと身も蓋もなくなる。映画にもいい所があるけれども……。
(中略)
荻:一部の映画作家がむしろアンバランスなものを作ろうというところに、いわゆる映画芸術の悲劇があるのかも
しれない。
三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
>>404前
荻:三島さんは映画芸術を信じられる?
三島:ものによっては信じるな。
荻:条件づきですか。
三島:小説だって芸術だかどうだか怪しいものだ。いまや芸術というものはあまりはやらないからな。
荻:そうなんだ。
三島:小説も芸術じゃない、あいまいなものだと思います。非常に限定がない。限定がないものは芸術じゃない。
芝居とか詩とか、そういうのは限定があるから芸術だね。限定がないと、ぐずぐずになっちゃう。
荻:じゃ映画が条件づきで芸術というのはどういうところ?
三島:そうですね、出来と仕上げです。それから統一性ということだな。最初のすべり出しからラストまで
統一的理念が支配しているということ、そういう映画は芸術だと思うのだ。腰砕けになったものは芸術じゃないと思う。
それは三流西部劇だって統一的だよ、だけど……。
荻:そのほかに何かある?
三島:ほかにも何かあるでしょう。あいまいなものだ。小説だってこれは芸術か芸術でないかというのは見当つかない。
谷崎さんの「鍵」だってわからない。映画は小説と同じに芸術の概念があいまいなときに生れたのじゃないか。
三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
荻:ぼくは実をいうと芸術でなくともよいと思うのだが。
三島:そう思う。どうでもいい。
荻:つまらないものでも部分的に芸術的なところがある。
三島:それはあります。(中略)ぼくもなんか映画というものを根本的に信用していないことはたしかなんだ。
荻:どういう点ですか。
三島:多勢で作るから信用できない。
荻:それはいつも問題になる。批評家が戸惑うのもそこなんだ。(中略)ほかの芸術みたいに一個人を探し
求めようとすると、それは不可能です。(中略)
三島:芝居も多勢で作るものだが、台本は神聖だし……。
たとえば録音技師が音を入れる場合に、重役が口を出して、ここは人間が歩いているから足音がないとおかしい、
はい、入れますと、それを入れる。人間が歩くと足音がする。汽車が走るとシュシュポッポ。そこで崩れちゃう。
足音を入れちゃいかんという監督が何人いるかね。
荻:単に個人の権力として言える言えないでなく、入れちゃいかんという自信がなくなっちゃうわけです。皆で作る、
ということが根本なんだから。
三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
>>401訂正
三島:その点では映画は小説に近い。映画はドラマより小説に近いと思う。やはり時間の経過は映画の場合は
厳密じゃない。たとえば、急に十年飛ぶ。芝居は非常に構成が必然的だから偶然が許容される、ということが
考えられる。たとえば荻さんの話をして、荻さんどうしたろうと言っているところへ荻さんが入ってきても、
芝居だとおかしくない。映画じゃおかしいよ。ぼくは古典劇の技巧が好きなんだ。たとえば「あそこにネロが
やって来た、こうしちゃいられない、向うへ行きましょう」、ああいう技巧は好きなんだ。(中略)
しかし、映画はどうして演劇的であるということをいやがるのだろう。大概芝居くさいのは受けが悪い。
荻:それは見るほうも作るほうも、内心で解放感を求めているからでしょう。
三島:そうですね。
お客が一つの枠の中で享受する芸術の楽しみ方はもう失われちゃったからね。したがって、映画は枠が小さい
という観念――最近は大きくなったけれども――枠が小さいから、それで解放感を求めるということがあると思う。
人物全体を見られないからね。
三島由紀夫
荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
三島由紀夫の『橋づくし』には、「映画俳優のR」が出てくる。新橋の料亭の箱入娘満佐子が「一緒になりたい」と
願う相手である。(中略)
前田愛は、(「幻景の街――文学の都市を歩く」で)この映画俳優Rは市川雷蔵であるらしいと言っている。(中略)
三十七歳の若さで亡くなった俳優市川雷蔵は、十五年間の俳優生活で百五十八本という数の映画を残している。(中略)
しかし、雷蔵はその「スター」の地位に安住することのない、非常な野心家であった。
雷蔵は長谷川一夫の「美剣士」を継承し、ファンの期待を裏切らないようにそれを守りながらも、新しい市川雷蔵を
作り出していった。(中略)
そんな市川雷蔵にとって、映画デビューをして初めて俳優としての転機となった作品が『炎上』なのである。
言うまでもなく、三島由紀夫『金閣寺』の映画化である。その後、三島原作の映画を雷蔵が演じたのは、
『剣』だけであるが、『炎上』、『剣』のこの二作品は、雷蔵の俳優人生の中でも異彩を放っている。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
(『炎上』公開の)前月、雷蔵は後援会会誌にこんなことを書いている。
《私が『炎上』で丸坊主になってまであの主人公の宗教学生をあえてやるという気になったのはもとより、
三島由紀氏の原作『金閣寺』の内容、市川崑監督をはじめとする一流スタッフの顔ぶれにほれ込んだことも
大きな原因ですが、それと同時に私はこの作品を契機として俳優市川雷蔵を大成させる一つの跳躍台としたかった
からにほかありません。》(「雷蔵、雷蔵を語る」)
(中略)これまで時代劇で人気を博した雷蔵は、現代劇を跳躍台に選んだ。しかし、大映からは今まで築いてきた
「美剣士」のイメージが壊れると反対され、スタッフからも雷蔵ではこの役は務まらないと思われていた。
一方で、映画化決定の際、三島由紀夫と市川崑監督は、主演は市川雷蔵だと期せずしてイメージが一致していた。
雷蔵は、もともとファンであった原作者の三島がそう言っていたことを知り、益々意欲がわいたという。雷蔵は、
周囲の反対を押し切り会社を説得するのに一年を費やしている。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
雷蔵は三島文学の最高峰『金閣寺』を読んで、武者震いのような感動、役者魂に火をつけられたような感覚を
得たのではないだろうか。主人公溝口の美への憧憬と疎外感、難解な観念、そして金閣寺の放火に赴く心理……。
それらを鮮やかな独白体で表現し、現実の事件を芸術作品にまで昇華しえた三島由紀夫の文章は、表現者市川雷蔵を
大いに感化したことだろう。
従来の「市川雷蔵」のイメージを払拭するために、雷蔵は対極に位置するような役を選んだ。化粧を施した
端整な顔と美しい声の「美剣士」から、すっぴんの顔を歪ませながらしゃべる屈折した青年へ。まさに変貌を
遂げる俳優の姿を見せつけたのである。
原作者三島は、映画の制作途中の雷蔵を見ている。三島が撮影現場を見学した日の日記に、
《頭を五分刈にした雷蔵君は、私が前から主張してゐたとほり、映画界を見渡して、この人以上の適り役はない。》
(「炎上」撮影見学〈日記(五)〉)
と書いている。三島は雷蔵主演の成功を確信していたようだ。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
さて、『炎上』撮影見学の約二ヶ月後に、三島は大映本社で完成した映画の試写に参加している。
《この映画は傑作といふに躊躇しない。(中略)俳優も、雷蔵の主人公といい、鴈治郎の住職といい、これ以上は
望めないほどだ。(中略)雷蔵君を前に、私は手ばなしで褒めた。かういふ映画は是非外国へ持つて行くべきである。》
(「炎上」〈日記(七)〉)
『炎上』の前年に上演された映画『美徳のよろめき』を《これ以上の愚劣な映画といふものは、ちよつと
考へられない。》(「美徳のよろめき」〈日記(五)〉)とまで言った三島が、『炎上』や雷蔵の演技に対して
大絶賛しているのが分かる。原作者として満足したと同時に、原作を離れて独立した映画作品としても感動を
味わったのだろう。
(中略)『華岡青洲の妻』などで雷蔵と仕事をした増村保造監督は次のように言っている。
《「映画にならない小説」を見事に映画化した成功例として『炎上』がある。(中略)小説の鮮やかな映画的
再構成と云えるであろう。》(「原作映画とその映画化」)
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
>>414訂正
さて、『炎上』撮影見学の約二ヶ月後に、三島は大映本社で完成した映画の試写に参加している。
《この映画は傑作といふに躊躇しない。(中略)俳優も、雷蔵の主人公といひ、鴈治郎の住職といひ、これ以上は
望めないほどだ。(中略)雷蔵君を前に、私は手ばなしで褒めた。かういふ映画は是非外国へ持つて行くべきである。》
(「炎上」〈日記(七)〉)
『炎上』の前年に上演された映画『美徳のよろめき』を《これ以上の愚劣な映画といふものは、ちよつと
考へられない。》(「美徳のよろめき」〈日記(五)〉)とまで言った三島が、『炎上』や雷蔵の演技に対して
大絶賛しているのが分かる。原作者として満足したと同時に、原作を離れて独立した映画作品としても感動を
味わったのだろう。
(中略)『華岡青洲の妻』などで雷蔵と仕事をした増村保造監督は次のように言っている。
《「映画にならない小説」を見事に映画化した成功例として『炎上』がある。(中略)小説の鮮やかな映画的
再構成と云えるであろう。》(「原作映画とその映画化」)
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
また、この映画から四年後、(中略)三島は「雷蔵丈のこと」という文章を送った。
《君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、「炎上」の君には全く感心した。(中略)
ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを
注ぎ込んだのであらう。私もあの原作の「金閣寺」の主人公に、やはり自分の人生から汲み上げたあらゆるものを
注ぎ込んだ。さういうとき、作家の仕事も、俳優の仕事も、境地において、何ら変るところがない。》
三島由紀夫にとって『金閣寺』は、それまでの創作活動の集大成であり、これからを指し示す重要な転換と
なった小説でもある。市川雷蔵にとっても、同じことが言える。同じ作品に人生を賭け、大業を成し遂げた者同士の
共鳴というものをこの文章からは感じることができる。
この映画で雷蔵は、キネマ旬報主演男優賞や(中略)イタリアの映画誌『シネマ・ヌオボ』でも最優秀男優賞に
選ばれた。この作品は市川雷蔵の代表作の一つとなり、日本映画史にも残る傑作となった。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
映画『剣』は昭和三十九年三月に公開された。(中略)小説発表から映画化までわずか五ヶ月である。雑誌に
掲載された小説を雷蔵が読んで、自ら映画化したいと希望した作品である。(中略)
年明けすぐ、午前四時の寒稽古見学、多忙を極める二人がここまでするのは、作品への情熱、そして、三島が
雷蔵を本物の俳優だと認め、期待していたからだろう。
『剣』はTVドラマとしても映像化されているが、三島はそのドラマと映画を比較した感想も日記に書いている。
《加藤剛の主役は、みごとな端然たるヒーローだが、映画の主役の雷蔵と比べると、或るはかなさが欠けてゐる。
これはこの役の大事な要素だ。》(TV「剣」〈週間日記〉)
雷蔵は、次郎の正しさ強さ、「はかなさ」を見事に表現した。映画『剣』に関して、「ここでは雷蔵が三島の
分身ではないかと思わせられるほどだった」(塩田長和「日本映画五十年史」)という感想もあるほど、雷蔵は
三島の理想を体現することに成功している。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
雷蔵が『剣』の国分次郎を演じたのは、もう一人の同時代俳優、石原裕次郎を意識してのことだったかもしれない。
時代劇で映画デビューをした雷蔵に対して、石原裕次郎は(中略)「太陽族」と言われた戦後派青年の象徴的
存在だった。しかし、同じ戦後派の国分次郎は、(中略)反時代的な生き方をしている青年だ。雷蔵は、
この国分次郎を演じることで「市川雷蔵」という俳優をアイデンティファイするという意図もあったのでは
ないだろうか。
雷蔵は、俳優「市川雷蔵」のアイデンティティーを反時代的な美に求めていたように思う。それは、市川崑監督が
「若いくせに妙にクラシックなところがあって、そのくせ強情なんですよ」と言ったように、雷蔵の生来の
性質だったかもしれない。(中略)
雷蔵は三島作品によって自己を表現することが出来た。自分を思う存分表現出来る作品に恵まれなかった勝新太郎に
比べると、雷蔵の俳優人生にとって三島の作品は、かけがえのない存在であっただろう。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
三島由紀夫が描き、市川雷蔵が体現した反時代的な青年は、三島の理想とした反時代的な「美」を象徴する
人物でもある。三島はこういった青年を描くときに、共通した特徴を持たせている。それが「微笑」である。
三島の小説の中で、主人公がしばしば「微笑」することに注目したい。なにげなく書かれた「微笑」という言葉は、
三島の描く主人公のシンボルとなっている。(中略)
まずは『潮騒』の新治の「微笑」である。
《新治は微笑して、壁際に坐つて膝を抱いた。さうして黙つて、人の意見をきいてゐるのが常である。》(第三章)
(中略)新治以外の若い漁師仲間や船長たちが「漁の自慢をしたり」、「愛情と友情について」とか「食塩注射と
同じくらいの大きさの葡萄糖注射があるか」などを熱心に「議論」している場面である。新治はそういう
「議論」には参加しない。ただ「微笑」して聞いている。しかし人一倍海や漁のことを考えているし、いざとなれば
誰もが怖ける嵐の海にも飛び込む青年である。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
次ぎは『金閣寺』である。一見、主人公の溝口に「微笑」する余地があるとは思われないが、実は「金閣を
焼かなければならぬ」と決意してから、「微笑」し出すのである。
《(中略)
「そうか。君は奇妙な奴だな。俺が今まで会つた中でいちばん奇妙な奴だ」
その言葉は私の口辺から消えぬ親愛の微笑に向けられたものだとわかつたが、私の中に湧き出した感謝の意味を、
彼が決して察することはあるまいといふ確実な予想は、私の微笑をさらにひろげた。》(第八章)
(中略)「人生に参与」することを諦めてからは、「金閣」は溝口の前に現れず、溝口は「微笑」し出すのである。
三つ目は、『剣』である。この作品は、(中略)主人公国分次郎の生き方の象徴として「微笑」が意図的に
使われている。
(中略)
《その微笑は美しかつた。次郎が「くだらないこと」に耐へ、煩雑で無意味なことに耐へるときの表情は、決つて、
その微笑、ただ黙つて浮べる微笑なのだ。》(その三)
(中略)「剣」以外の生活に耐えるときに、次郎は「微笑」する。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
最後は、『奔馬』である。勲たちの「昭和維新」が実行前に検挙され、長い裁判の結果、勲が刑を免除され
一年振りに家に帰った場面である。
《勲は家へかへつてから、微笑するばかりで何も言はなかつた。》(三十八)
《佐和は大声で獄中の物語をして人々を興がらせてゐたが、勲は微笑を泛べてゐた。》(三十八)
(中略)若い勲が挫折し、目的を喪失したときに「微笑」しているのが分かる。
このように、四作品の主人公に「微笑」する場面がある。(中略)いわば「微笑」は、主人公の内面を覆い隠す
仮面である。(中略)
この「微笑」は、三島の行動や肉体の思想とも関係している。例えば、『潮騒』の新治は、(中略)行動する
若い肉体に「議論」はいらない、という作者の思想が見え、新治の行動力の隠喩として「微笑」は使われて
いるようだ。(中略)
映画『剣』では、次郎の「微笑」が原作と同様、象徴的、効果的に使われている。(中略)クローズアップで
映された雷蔵の顔には、「剣道で昔から言う『観世音』の目」(『剣』)と口角をわずかに動かした「微笑」があった。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
市川雷蔵は、『金閣寺』と『剣』の主人公を演じた。それは(中略)「美」から疎外された人物と、「美」そのものの
人物の両極を演じることであった。(中略)
市川雷蔵という俳優自体、生活臭がなく人生にも芸道にもストイックなところがあった。そこが「人生」よりも
「美」を選ぶ三島作品の主人公たちを表現できた所以だろう。
雷蔵は、映画化された二作品の他に、『獣の戯れ』の映画化を計画したり、闘病中にも『春の雪』を舞台で
やりたいと構想を練っていたりしたそうである。一人の俳優が、これほどに三島由紀夫作品を映画化し主演したいと
言った例があるだろうか。また、増村保造監督と二・二六事件の青年将校の役もやりたいと相談していたという。
こういったエピソードから、フィールドが違っていても、三島と雷蔵の追求していたものが似ていたことを
思わずにはいられない。
雷蔵が『奔馬』の勲を演じる機会がなかったのが悔やまれる。雷蔵であれば、三島文学の「微笑」の系譜を
作れたのではないだろうか。
大西望「市川雷蔵の『微笑』――三島原作映画の市川雷蔵――」より
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ねじまき鳥(『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹)が巻いている「世界のねじ」という作家の一つのビジョンは、
八〇年代以降のポストモダンといわれる現実の比喩である。複雑多様な文明社会が、驚くほど容易にある事柄に
よって崩壊する。平和な豊かな日常が薄い透明な破れやすいガラス板の上に乗っかっていて、それがちょっとした
ことによって一挙に破壊される。絶対的な価値を喪失した人間と社会は、歴史の持続を信じることが出来ず、また、
未来を確かなものとして構想することができない。こうした近代世界のニヒリズムは、三島由紀夫がすでに
『鏡子の家』で描き出したものであった。三島はこの長篇で「戦後の日本のニヒリズムを壁画のように描く」と
言っていたが、この作品は当時、十分に日本の文壇で理解されなかった。『英霊の声』は、この戦後のニヒリズムと
絶対者の喪失という現実に対する三島の挑戦であった。村上春樹は、ポストモダン時代の作家として、三島の
この二つの作品、すなわち『鏡子の家』と『英霊の声』の遠いこだまを常に受けてきているように思われる。
富岡幸一郎「『英霊の声』と一九八〇年以降の文学」より
「世界の終わり」という一種の疑似終末論的な発想、世界を巻く「ねじ」という空虚な文明社会の隠喩、いずれも
三島的問題の新たな展開の一端である。
『ねじまき鳥クロニクル』では、一九三八年の満州蒙古国地帯の戦争のシーンが鮮烈に描かれている。作中では
ノモンハンの戦闘を体験した間宮という老人が「僕」にその戦争体験とシベリアの収容所体験を話す。かつて
満州で日本人の将校がロシア兵と蒙古人によって皮剥ぎの拷問をうけ殺されるのを目の当りにした話がある。
間宮老人は、外蒙古の砂漠の深い井戸に突き落とされたときの「無感覚」について、こう語る。
《(中略)私はあの井戸の底の、一日のうちに十秒か十五秒だけ射しこんでくる強烈な光の中で、生命の
核のようなものをすっかり焼きつくしてしまったような気がするのです。あの光は、私にとってはそれくらいに
神秘的なものでした。(中略)地獄のようなシベリアの収容所にいたときでさえ、私はある種の無感覚の中に
いました。(中略)わたしの中のある何かはもう既に死んでいたのです》
富岡幸一郎「『英霊の声』と一九八〇年以降の文学」より
この「無感覚」は、戦争という暴力によって作り出されたものだが、同時にそれは「平和」という名の収容所と
しての「戦後日本」のニヒリズム感覚にも相通ずる。村上春樹がデビュー作以来一貫して繰り返してきたのは、
「何かがすでに終わっている」という喪失感であった。三島は、この戦後的(それはもちろん明治維新以降の
日本の近代化=西洋化に始まるものである)な喪失感に対峙しつつ、『英霊の声』において「天皇」を「神」として
問うことからそのニヒリズムの克服、言い換えれば「近代の超克」をなした。(中略)二・二六事件の青年将校と
特攻隊の「英霊」を自らの作品の言葉の力となしえた三島は、そのことによってあの昭和四十五年十一月二十五日の
自決まで一挙に疾走した。ライフワーク『豊饒の海』最終巻『天人五衰』が作家自身の死後の時間を描いていることは
忘れられてはならない。つまり、そこでは一九七〇年以降の村上春樹が登場してくるポストモダン的時空間が
予告的に描かれているからである。
富岡幸一郎「『英霊の声』と一九八〇年以降の文学」より
(中略)(三島は)絶対者を「待つこと」によってニヒリズムを超克する道を示した。「待つこと」は、晩年の
三島の文学と行動のキーワードである。三島の論文『「道義的革命」の論理』でくりかえし語っていたことも
「待つこと」の希望であった。
《二・二六事件はもともと、希望による維新であり、期待による蹶起だった。といふのは、義憤は経過しても
絶望は経過しない革命であるといふ意味と共に、蹶起ののちも「大御心に待つ」ことに重きを置いた革命である
といふ意味である》
《(中略)明治維新は、これほど切なく「待つこと」はなく、又、一方、その指導理念が、北一輝のそれほど
暗い否定に陥つたことは一度もなかつた》
《事件、逮捕、裁判の過程において、いや、事件の渦中においてすら、戒厳令下の維新大詔の連発を待つた彼らは、
待ち続けた。革命としてははなはだ手ぬるいこの経緯のうちに、私は、道義的革命の本質を見る。といふのは、
彼らは、待ち、選ばれ、賞讃され、迎へられなければならない、といふことを共通に感じてゐる筈だからである》
富岡幸一郎「『英霊の声』と一九八〇年以降の文学」より
二・二六事件の本質にあるものを、三島はこの「待つこと」であると言った。「大御心」を待つことによる熱烈な
希望の革命。それが三島がその文学においてあらわしたものであった。サミュエル・ベケットの『ゴトーを
待ちながら』では、二人の男が神を待っているが、ついに神はやってこない。それは、到来しない神を待つことの
逆説的現実をアイロニカルに描いたものであった。三島は「ベケットのこの作品は認められない、神はやって
来なければならない」と安部公房に語ったことがあったが、まさに三島の『英霊の声』は、「神の到来」を希望し熱烈に期待し、
物語ることによって、言霊の力によって、歴史を動かそうとした野心的作品であった。村上春樹の作品世界には、
このような「神の到来」を描く一切の契機がすでに失われている。『ねじまき鳥クロニクル』以降の村上作品は、
グローバリズムという奇妙に拡散した文明社会のニヒリズム状況の中で消費され続けている。三島的問題意識を
内包しながら、一九七九年に作家的出発を遂げた村上春樹は、すでにその文学の内的な根拠を失ってしまった
ように思われる。
富岡幸一郎「『英霊の声』と一九八〇年以降の文学」より
『1Q84』を読んで、誰もがこれはオウム真理教のことだ、と思ってしまうでしょう。ただ、ここに描かれて
いる新興宗教のリーダーは、本当にオウム真理教の教祖がモデルなんでしょうか。決してそれだけではないと
思います。もっと大きなシステムを体現した存在である。実に村上春樹がリーダーに与えている規定は、折口信夫が
天皇に与えている規定とまったく同じなんです。
(中略)預言者とは、未来を予知する者(予言者)ではなくて、神の言葉を自らの身に預かることができる者です。
村上春樹はそう規定しています。(中略)
さらにこの男は神の声のレシヴァ(receiver)だとされている。しかもレシヴァというのは、ただその人間が
存在するだけでは能力が発揮できず、パシヴァ(perceiver)という認識者が必要不可欠であると書かれている。
(中略)レシヴァが王でありパシヴァが少女であって、王の近親者である。つまり、姉妹もしくは実の娘が
神の声を王に届ける。これは折口信夫が「大嘗祭の本義」等で説いている天皇の規定そのものなんです。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
折口は、昭和三年に発表された「大嘗祭の本義」と密接に関連する論考の中で、天皇のことを御言持(ミコトモチ)で
あると定義しています。(中略)まさに預言者としてある王でしょう。(中略)
折口はさらに続けます。最高位のミコトモチは天皇であるが、ミコトを預かるという条件を満たせば、他に無数の
ミコトモチが生まれ出てくる可能性がある。(中略)天皇は、天上世界の神々の声を聞き届ける人間であり、
神の声の象徴であるとさえ折口は言う。折口のミコトモチ論は戦後の象徴天皇制の先取りにもなっているんです。(中略)
『1Q84』のなかでは、獣であり精霊でもあるリトル・ピープルが空気さなぎというものを織り上げます。
空気から透明な糸を紡いで繭を織る。その中から新たな存在が生まれ出てくる。それは原型(イデア)としてある
王の分身なんです。折口は「大嘗祭の本義」において、新たに即位する天皇に真床襲衾という寝具であり
衣裳である巨大な布を被せる。同じ情景を『死者の書』では、少女が蓮の花から採った透明な糸で織り上げた
曼陀羅として描く。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
曼陀羅は「衣」であり「裳」であると折口は書く。どちらも糸を紡いで織り上げられた繭です。その繭の中から
先代の「天皇霊」(折口の定義によればそれは言葉の霊でもあります)を受け継ぎ、先代の分身となった新王が
即位する。王という存在は滅びないのです。天皇の身体は霊が身にまとう単なる「容器」に過ぎない。反復される
王の即位の際には、王の身体に生命(霊魂)を取り憑かせ、安定させるために「水の女」である后が象徴的にも、
実際的にも性の交わりを果たす。王と少女はまさに「多義的に」交わるのです。
そっくりだというと語弊があるかもしれませんが、私が長年研究してきた折口信夫の『死者の書』と『1Q84』は
非常によく似た物語構造を持っていると思うのです。その核心には天皇制というシステムがあり、さらには
想像力によるその乗り越えが図られている。現実の制度を想像力によって解体し、再構築するのです。新しい王国を、
作品として到来させるのです。こう考えてみると、おそらくは村上春樹が意識的に読み込んだ先行作家の姿も
浮かび上がってきます。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
大江健三郎の『燃えあがる緑の木』三部作から『宙返り』へと続く、宗教教団と救世主をめぐるサーガです。(中略)
さらに、より直接的なのは三島由紀夫との関係です。ただし私は、村上春樹が実際のインタビューで三島の
作品群に対して否定的な見解を述べていることを無視しているわけではありません。おそらくそうした個人的な
好悪の判断を超えて、現代の日本で意識的に小説を書こうとする書き手たちの作品、想像力によるシステムの破壊と
再構築を意志した作品はみな相似形を描かざるを得ないのでしょう。三島由紀夫が『英霊の聲』で提示したのも、
まさに折口信夫が「大嘗祭の本義」で大きく準拠した宗派神道に伝わる神道儀礼でした。国家神道と同時期に
無数に生まれ出た新興神道の教祖たちが明らかにした憑依の主体、神主と審神者の構造をもとに、折口も三島も、
天皇制を脱構築しようとしたのです。ただし、ここで三島もまた、折口に対してきわめて批判的な、というよりも
愛憎が複雑に入り交じった両義的な態度をとりました。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
三島が『英霊の聲』で依拠したのは、出口王仁三郎の「大本」から分かれた友清歓真の鎮魂帰神法です。神の声が
憑依する「神主」がおり、神主に憑依を促し、それを統御する「審神者」(さにわ)がいる。神主とは神の声の
レシヴァであり天皇である。審神者とは神の声のパシヴァであり后である。折口=三島の天皇論をまとめれば、
こうなります。三島由紀夫が『英霊の聲』で得たヴィジョンを作品として結晶化させたのが、遺作となった
『豊饒の海』四部作だとすると、村上春樹に至るまでの戦後文学の課題が一体何であったのか、おぼろげながらも、
しっかりと把握できるのではないでしょうか。
何度も繰り返すようですが、それは天皇制というシステムの問題なのです。しかもこの天皇制というのは、
太古から連綿と続いてきたシステムではない。この極東の地を含めて世界が一つになりつつあった最初の時期に、
現在でも猛威をふるう強力な資本主義グローバリズムの圧力のもとで、アジアの片隅に勃興した新興の一国家が
生き残るために採用した、近代になって再発見され、再構築されたシステムなのです。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
だからこそ、表現においても、実践においても、このシステムに従い、またこのシステムに抗うことが重要に
なってくる。折口も三島も、神道的なるものにキリスト教的なるものを接ぎ木して、グローバリズムを生き抜く
ための理念、恐るべき雑種としての信仰原理を作り上げたのです。東洋と西洋の信仰と文化を怪物的な王のもとで
統一しようとしたのです。
そしてそのすぐ傍には、折口や三島が作品として抽出してきた権力発生の方法を現実世界に応用する人物が
現れてきた。折口と同時代を生きた大本の出口王仁三郎です。出口王仁三郎は結果として、日本の中に天皇の
分身ともいえる存在が統治するもう一つの神聖王国を築いてしまった。しかもその神聖王国を、一国家を超えて
アジアにまで拡大しようとしていた。日本の大陸政策と軌を一にした満州や蒙古への進出です。現実の国家が、
そのようなもう一つの理想国家の存在を許すはずがない。大正、昭和の二度にわたる大本弾圧事件が起こるのは、
相似形をもったシステム同士の齟齬という事態を考えれば必然だったわけです。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
しかし、第二次世界大戦で天皇制は滅びず、より抽象度を増し、より純粋なシステムとなった。そのシステムが
まさに飽和状態を迎えようとした時、一九八四年から一九八五年にかけて、大本のネガのような存在である
オウム真理教が生み落とされることになった。オウム真理教もまたこの地上を、そのまま現実のシャンバラ(楽園)に
変えようとします。麻原彰晃を中心とした天皇制の劇画とも言えるシステムを用いて……。つまり近代という時代は
象徴天皇制を条件として、現実世界においても想像世界においても、それを生の指針とし、その疑似システムと
してしか成り立つことができなかった。そこで意識的な実行者たちは天皇制を模した現実の組織を作り上げて
国家と対峙し、意識的な表現者たちは想像力によって理想の王国をもう一度自分の手だけで作り上げようとした。
それらはみな驚くほど似てくるのです。それが近代日本思想史と近代日本文学史のいずれにもまたがり、その二つが
交叉する本質的な問題となったのです。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
『1Q84』は、そのような流れの中で形になった作品だと思います。その点に、村上春樹の作家としての創造性と
困難の両方があるのではないかと推測されます。信じられない部数が出たというのも、おそらくは時代の無意識に、
この極東で近代=現代という困難な時代を生き抜いている多くの人々の無意識に、ダイレクトにつながることが
できたからでしょう。我々の誰もが悩んでいるシステムそのものをどう脱構築していくのかという実践が、
この作品の執筆にかけられている。また、だからこそ、村上春樹の多くの作品に、まるで回帰する亡霊のように
「満州」という言葉が何度も登場することになったのでしょう。(中略)オウム真理教の信者たちにインタビューして
仕上げられた作品のあとがきでは、「唐突なたとえだけれども、現代におけるオウム真理教団という存在は、
戦前の『満州国』の存在に似ているかもしれない」という一節がわざわざ明記されなければならなかったのでしょう。
村上春樹にとっては、自分が書いている物語の世界が現実として逆襲してきたんじゃないでしょうか。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
(中略)ここに描かれているのは、村上春樹にとって切実な物語であるとともに、近代以降を生きている我々に
とっても実に切実な物語なのではないかと思います。ただ、そのシステムは非常に男性的なシステムなんですよ。
(中略)実際、この物語では女たちだけが不幸になってゆく。男は受動的に享楽を得ることができる。
(中略)システムへの意志、つまり物語が長編小説としてまとめられてしまうことを拒むような拡散への志向、
男性的な権力をたわめてしまう女性的もしくは中性的な未知なる力への夢想。この作品に弱点があるとすれば、
そうした視点があまり見受けられないことでしょう。
システムの矛盾、システムの悪とその解消を描くはずの物語が、理想のシステムそのものとなってしまう。私は
そこに大きな不満を覚えます。
(中略)麻原彰晃は狂ったまま生き延びているし、象徴天皇制は揺るがない。だから王が殺されて物語が
完結するこの小説は、やはり作り物めいてしまう。あまりにもシステム通りに、きれいに作られすぎている。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
(中略)現実の出口王仁三郎は破壊的なユーモアの持ち主であるとともに、誰からも好かれる規格外の大人物で
あったといわれているし、麻原彰晃にしても、内部の者に対しては限りのない包容力を持っていたと伝えられている。
それが反権力の闘士となり、また底知れない悪を体現することにもなった。『1Q84』だと、不気味な悪の
源泉であるリーダーをはじめとして皆、格好よすぎるわけです。そして女は死に、男は生き残る。レシヴァで
あった王を引き継いで小説家になるであろう男は無傷のまま美少女と安全な愛を交わす。これではあまりにも
不公平です。
しかし、だからこそシステムは円滑に動いているとも言えるわけです。王と少女の関係が物語の母体となり、
その関係性が反復され、それぞれ展開されてゆく。そこにはまったく無駄がありません。(中略)男はエロスの
物語を生き、女はタナトスの物語を生きる。(中略)小説家を志した男だけが生き残って、リーダーの後を継ぐ。
だけど青豆は物語の構造上、生き残ることができない。青豆は物語の構造に、システムに殺されたのです。
安藤礼二「王を殺した後に――近代というシステムに抗う作品『1Q84』」より
映画『人斬り』にはもう一つの隠されたエピソードがある。田中新兵衞が少将姉小路公知暗殺の嫌疑で捕縛された時の
京都町奉行は、三島の父方の祖母なつの祖父にあたる永井主水正(もんどのしょう)尚志(なおむね)〔なおゆき、
などの説も〕だったのである。しかし映画では尚志は登場せず、新兵衞を呼び出して吟味するのは京都所司代の
与力という設定になっている。残念ながら、三島は曾々祖父の面前で切腹ということにはならなかったが、
その役のめぐり合わせを楽しんだ。『人斬り』の撮影中に林房雄に送った手紙には次のようにある。
〈(中略)明後日は大殺陣の撮影です。新兵衞が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の
曾々孫が百年後、その新兵衞をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう。〉
(昭和四十四年六月十三日付)
三島と幕末との結びつきは、その家系に根ざしていたのである。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
(中略)
私はここでさらに幕末の水戸藩についてふれておきたいと思う。三島の祖母のなつの母親は高といい、水戸の
支藩である宍戸藩の八代藩主松平頼位の側室の娘であったからだ。頼位の長男頼徳、次男頼安の妹である。
九代藩主となった大炊頭頼徳は水戸天狗党による筑波挙兵の鎮圧にあたったが天狗党に同情し、非業の死をとげている。
なつの父方の祖父である永井尚志は直参の旗本であり、母方の祖父である松平頼位は徳川家の嫡流という血筋である。
(中略)
三島のなかに流れていた「水戸の血」は、その生涯にもわずかな翳りを落としている。それはなつの言うところの
「宿命」であったかもしれない。それには二つのことを語らねばならない。一つは幕末の水戸藩が尊皇攘夷思想の
中心的存在として、その指導的立場にあったこと。二代藩主徳川光圀によって始められた『大日本史』の編纂は、
光圀の死後も藩の事業として継続され、明治三十九年に十代藩主徳川慶篤の孫である圀順によって完成をみた。
それがいわゆる水戸史学、通称水戸学と呼ばれる尊皇論であり、幕末になって攘夷論と結びつき尊攘思想が生まれた。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
九代藩主斉昭は過激な尊攘家として知られ、後期水戸学を推し進めた。そこから相沢正志斎、豊田天功、藤田東湖ら
すぐれた学者を輩出した。若き日の吉田松陰、西郷隆盛もまた水戸を聖地として訪れ、彼らと面談している。
水戸学による尊攘思想は、三島が『革命哲学としての陽明学』で語る行動哲学に密接に結びついている。
もう一つは、水戸学につよい影響を受けた尊攘派の藩士たちが蹶起した天狗党の乱である。この乱は大きく二つに
分けられ、最初の蹶起は元治元年(一八六四)、藤田東湖の四男である小四郎が幕府の外国政策に不満を抱き、
攘夷をつよく主張。水戸藩町奉行の田丸稲之衞門と筑波山で蜂起し、幕府と水戸藩の追討軍と北関東を中心に
転戦したものである。この時、小四郎は二十三歳の若さであった。(中略)
次の行動は、同年十月水戸藩家老の武田耕雲斎が、小四郎らとともに那珂湊の戦いを終えたあと、総大将となって
一橋慶喜を擁立するために京に向かって行軍したもの。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
(中略)背景には、藩内で権力を握っていた門閥派(諸生党)との対立があった。小四郎、耕雲斎らは改革派
(天狗党)と呼ばれている。(中略)藩主慶篤は、天狗党の蹶起を理由に耕雲斎を罷免し、門閥派の中心人物で
ある市川三左衞門を要職に復帰させた。市川は尊攘派を徹底的に弾圧し、耕雲斎の殺害をも命じた。耕雲斎は
身の危険を感じ、一族郎党をしたがえて藩を脱出した。
一方、幕府は関東諸藩に天狗党追討を命じた。それに呼応して、水戸藩も市川を中心に追討軍を編成した。天狗党は
賊徒とされたのである。(中略)(藩主慶篤は)支藩の宍戸藩藩主松平頼徳を水戸に赴かせ、藩内の統制を
はかろうとした。しかし頼徳もまた尊攘思想の信奉者であった。父の頼位は斉昭の心酔者であり、その影響を
つよく受けていた。藩主慶篤の名代として江戸を出発した頼徳には、江戸にいた尊攘派も随行した。これを
知った耕雲斎が途中から合流し、さらには元目付の山国兵部らも加わり、頼徳の一団は尊攘派の一大勢力と
なってしまった。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
当然、市川ら門閥派は危険を感じ、頼徳を阻止しようとする。(中略)頼徳は戦闘になるとは夢にも思わず、
和議を申し入れるが聞き入れられず、ついに応戦に出る。その戦闘を知った小四郎らは筑波山を降り、頼徳に
共闘を願い出る。頼徳は困難な選択を迫られるが、軍議の末、耕雲斎の助言に従い、天狗党との一時共闘を決断する。
門閥派には頼徳を討つ好都合の大義名分ができてしまったのである。こうして那珂湊の戦いが始まる。(中略)
門閥派は頼徳を天狗党と同じ賊徒とし、追討のために幕府に画策した。(中略)これ以上人命が失われることを
憂いた頼徳は釈明によって疑いを晴らすことができると考え、降伏。しかしその機会は与えられず、「賊魁」という
汚名を着せられたまま、切腹。元治元年十月五日、享年三十五歳。父の頼位もこれに連座、官位を剥奪され、
羽前新庄藩預りの身となった。藩は改易され、江戸藩邸も幕府没収となった。三島の「水戸の血」には、
切腹した大名がいたのである。祖母なつの伯父であった。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
この天狗党の乱は、昭和十一年に起きた二・二六事件と思想的に共通点がある。日本陸軍の皇道派の二十一人の
青年将校たちは、「昭和維新」と「尊皇討奸」をスローガンに一四八三名の兵士を率い蹶起した。(中略)
政治の腐敗と農村の困窮の元凶である元老や重臣を武力をもって排除することによって、大義を正し、天皇親政の
実現を断行しようとした。一君万民の天皇制による国家改造計画は、明治維新の原点へ帰ることだった。(中略)
青年将校たちにとって、時代は幕末の混乱期と同じだった。(中略)首謀者の一人であり、陸軍一等主計だった
磯部浅一は、その「獄中手記」において藤田小四郎の父である藤田東湖の言葉を引用して、次のように書いている。
〈藤田東湖の「大義を明かにし人心を正さば、皇道爰んぞ興起せざるを憂へん」これが維新の真精神でありまして、
青年将校蹶起の真精神があるのです。〉
藤田東湖は天狗党の思想的師父といってよかった。天狗党が目ざしたのも「尊皇」であった。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
(中略)
しかしこうした青年将校たちの天皇に対する至純の恋は報われることななかった。(中略)
「賊徒」となった天狗党、「反乱軍」となった青年将校たちの、帰順後の運命は同じである。三島は『英霊の聲』で
(中略)終戦の勅許による天皇の「人間宣言」を批判した。しかし「人間宣言」そのものを否定したわけではなく、
英霊の声として「それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう」と前置きして、次のように書いたのである。
〈だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての
義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度の
きはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。それを二度とも陛下は逸したまうた。もつとも神で
あらせられるべき時に、人間にましましたのだ。
一度は兄神たちの蹶起の時、一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。〉
これは三島自身の恋闕といっていい。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
(中略)三島にとって、十一歳の少年の時に際会した二・二六事件は「挫折」という観念と「英雄崇拝」の
原点となった。(中略)
三島は、磯部の遺稿をもとに、「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」を書き、二・二六事件の
思想的背景を考察している。蹶起によって天皇に「昭和維新」を直訴しようとした磯部らの心情につよく共感し、
それは「蹶起ののちも『大御心に待つ』ことに重きを置いた革命である」としている。だからこそ三島の天皇の
「人間宣言」に対する批判が深い意味をもつのである。(中略)
三島のなかに流れている「水戸の血」は、一方に二・二六事件の思想的源流ともいうべき天狗党の乱をもち、
一方にその天狗党の乱によって詰腹を切らされた徳川直系の大名をもつのである。
司馬に天狗党と二・二六事件について書かれた作品はない。天狗党については、『竜馬がゆく』の「希望」の章の
なかで、その悲惨な結末を一つのエピソードとして紹介している。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
司馬は、水戸から京に向かった武田耕雲斎の率いる行軍の惨憺たる様子にふれている。さらに武田耕雲斎以下幹部
二十四人が斬首され、つづいて三百五十二人もの同志が斬首されたことを述べ、「史上まれな大虐殺」であったと
言っている。竜馬には「残虐きわまる徳川幕府」と言わせている。天狗党の乱は、幕末史上稀にみる大虐殺によって
終結したのである。
三島と司馬は共に幕末維新の精神を重んじる。三島はそれを肉体化した思想とすることで、自己の美学的な存在の
根本条件としている。それに対し司馬は歴史小説家という立場から、そうした精神とは距離を置き、自己の内面的な
思想に執着せず、フィクショナルな物語を創作していった。つまり司馬は三島のように、生きるように書き、
書くように生きるというタイプの作家ではなかった。三島は幕末の平田国学に始まり、神風連、二・二六事件へと
連なる精神の系譜に、存在証明を見出そうとしたのである。私はそこに天狗党の乱を加えることによって、
三島の思想的帰結の宿命をみたいのである。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
>>447の訂正
この天狗党の乱は、昭和十一年に起きた二・二六事件と思想的に共通点がある。日本陸軍の皇道派の二十一人の
青年将校たちは、(中略)政治の腐敗と農村の困窮の元凶である元老や重臣を武力をもって排除することによって、
大義を正し、天皇親政の実現を断行しようとした。一君万民の天皇制による国家改造計画は、明治維新の原点へ
帰ることだった。幕末期に大政奉還によって、天皇は親政をもって近代日本の建国を決意し、国民国家を実現させた。
青年将校たちにとって、時代は幕末の混乱期と同じだった。(中略)首謀者の一人であり、陸軍一等主計だった
磯部浅一は、その「獄中手記」において藤田小四郎の父である藤田東湖の言葉を引用して、次のように書いている。
〈藤田東湖の「大義を明かにし人心を正さば、皇道爰んぞ興起せざるを憂へん」これが維新の真精神でありまして、
青年将校蹶起の真精神があるのです。〉
藤田東湖は天狗党の思想的師父といってよかった。天狗党が目ざしたのも「尊皇」であった。
山内由紀人「三島由紀夫vs.司馬遼太郎 戦後精神と近代」より
誰もが平岡家を語るが、橋家に言及する者はほとんどいない。平岡定太郎と夏子ばかりが論じられて、橋健三と
トミは等閑視されてきた。あたかも三島由紀夫には、定太郎・夏子という父方の祖父母しか存在しなかったかの
ようであり、「一世紀ぐらい時代ずれのした男」と「或る狂ほしい詩的な魂」の女だけが三島文学の形成に
影響を与えたかのような印象を受ける。しかし、それは事実だろうか。三島は、母方の橋家からは大して影響を
受けなかったのだろうか。
健三は、万延2年(1861年)1月2日に金沢に生を享けた。加賀藩士の瀬川朝治とソトの間に次男として生まれ、
武士の血をひく。健三は幼少より漢学者・橋健堂に学んだ。明治6年(12歳)、学才を見込まれて健堂の三女・こうの
婿養子となり、橋健三と名乗る。健三は14、5歳にして、養父の健堂に代わり講義を行うほどの秀才だったという。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
やがて健三は妻子を連れて上京し、小石川に学塾を開く。(中略)明治21年(27歳)、共立学校に招かれて漢文と
倫理を教え、幹事に就任する。妻・こうの死去により、健堂の五女・トミを後妻とした。明治27年(33歳)、
学校の共同設立者に加わる。明治43年(49歳)、第二開成中学校(神奈川県逗子町)の分離独立に際して、
健三は開成中学校の第五代校長に就任した。
開成中学校校長としての健三の事績は『開成学園九十年史』に詳らかで、(中略)顔写真を見ると、健三は白い
長髯を蓄えて、眼光炯々とした真相である。生徒は、「青幹」「漸々」「岩石」と渾名をつけたという。
(中略)
漢文の授業では、教科書として四書五経ではなく、『蒙求』を使用した。(中略)『蒙求』は、清少納言から
漱石に至るわが国の文学者に影響を与えた故事集である。テキストの選択から健三の教育観の一端を窺うことができる。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
(中略)
(開成の)初代校長は、高橋是清。(中略)第四代校長の田辺新之助は、(中略)英学者にして漢詩人として
令名を馳せた。長男が哲学者の田辺元で、三島は学習院時代から『歴史的現実』など元の著書に親しんでいる。
第九代校長の東季彦は、(中略)一人息子が、夭折した東文彦である。三島と文彦との親交は『三島由紀夫
十代書簡集』に詳しく、晩年の三島は『東文彦作品集』の刊行に尽力した。二・二六事件、田辺元、東文彦……、
健三をめぐる歴代校長の人脈と三島との関わりは以外に深い。
(中略)
健三は雇われ校長ではなく、学校経営者であった。学校の移転拡張を図るため、大正4年に組織を財団法人とし、
校主は理事となる。当時の寄付行為第五条には、三校主(健三、石田羊一郎、太田澄三郎)が学校の動産及び
不動産の全部を寄付し之を財団法人の財産とすることが謳われており、「この三校主の勇気決断は、この学校の
出身者の特に肝に銘記しなければならないことである」と学園史に記されている。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
建物は老朽化・狭隘化が著しく、教室の床や廊下は波打ち、机は穴だらけで、生徒は「豚小屋」と呼んだという。
校舎の移転整備が課題であるが、学校側には土地も資金の当てもなかった。そこで健三たちは、窮状を詩文に託して
早大教授の桂湖邨に訴えた。桂はこの話を前田利為侯爵に伝え、大正10年に前田家の所有地を格安で払い下げて
貰うことになった。場所は、現在の新宿文化センター一帯である。詩文で土地を手に入れるとは、三島の祖父に
相応しいエピソードである。漢学者の桂は『王詩臆見』など王陽明に関する論文を著し、『奔馬』の藍本の一つ
『清教徒神風連』の著者・福本日南とも親交があった。(中略)
ところが、この土地に目をつけた東京市長・後藤新平が、電車車庫の整備を計画して、学校側に譲渡を申し入れてきた。
健三は直ちに突っぱねた。是清からも譲渡を勧められるが、硬骨漢の健三は拒絶する。やがて関係者と相談した結果、
市民のために東大久保の土地を譲る。紆余曲折の後、学校は新たに日暮里の現在の高校敷地を入手した。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
(中略)
永年にわたり健三は、赤字と襤褸校舎を抱えた開成中学の校長・理事として奮闘した。校舎の移転用地を確保し、
建設資金を集め、震災を乗り越えて新校舎を竣工させた。また、校長就任時に600名であった生徒定員を文部省との
粘り強い交渉の結果、1000人に拡充している。開成学園の今日の隆盛の礎は、健三が築いたといっても過言ではない。
こうした多年の功績により、大正12年2月、健三は勲六等に叙せられ、瑞宝章を授与された。
(中略)(平岡)夏子が一人息子・梓の嫁に迎えたのが、健三の次女・倭文重(三島の母)であった。健三は、
開成中学校校長を辞職後、昌平中学(夜間)の校長として、勤労青少年の教育に尽瘁した。昭和19年、四男の
行蔵にその職を譲り、故郷の金沢に帰った。同年12月5日、健三は永眠する。享年84歳であった。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
(中略)
兄弟について、倭文重は「私なんか娘のころ、男はやさしいものと思い込んでいました。実家の兄たちを
見なれてましたからね」と証言している。
昭和5年1月、公威(三島)は自家中毒に罹り、死の直前までゆく。
〈経帷子や遺愛の玩具がそろへられ一族が集まつた。それから一時期ほどして小水が出た。母の兄の博士が、
「助かるぞ」と言つた。心臓の働らきかけた証拠だといふのである。ややあつて小水が出た。徐々に、おぼろげな
生命の明るみが私の頬によみがへつた。〉(『仮面の告白』三島由紀夫)
『仮面の告白』に登場する「母の兄の博士」が、健行である。橋健行は、明治17年2月6日に健三・こうの間に
生まれた。生母・こうの死去により、明治23年からトミに育てられる。
健行は、ブリリアントな秀才であった。明治34年に開成中学を卒業し、一高、東大医科に進んで精神病学を
専攻するが、常に首席であったという。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
斎藤茂吉は、『回顧』に「橋君は、中学でも秀才であつたが、第一高等学校でもやはり秀才であつた。大学に
入つてからは、解剖学の西成甫君、生理学の橋田邦彦君、精神学の橋健行君といふ按配に、人も許し、本人諸氏も
大望をいだいて進まれた」と記している。茂吉は、開成中学の同級生・健行に2年遅れて医師となった。(中略)
健行は、早熟な文学少年であった。開成中学3年(14歳)頃から文学グループを結成した。村岡典嗣(日本思想史)を
リーダー格として、吹田順助(独文学)、健行、(中略)9名で、「桂蔭会」と称して廻覧雑誌を作った。
弁舌爽やかな少年たちで、住居が本郷を中心としていたことから「山手グループ」と呼ばれた。また「桂蔭会」は、
「竹林の七賢」とも称されて、周囲に大きな刺激と影響を与えた。触発された生徒のなかに茂吉や辻潤がいた。
当時の「桂蔭会」メンバー写真を見ると、健行は帽子をあみだに被り、自負心の強そうな面構えをしている。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
(中略)
開成中学の『校友会雑誌』は投稿を建前としていたが、実態は課題作文の優秀作を掲載することが多かった。
この度、開成高等学校の松本英治教諭の御協力を得て、『校友会雑誌』に掲載された健行の文章が明らかになった。(中略)
〈一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく流水の暢々たるが如く、珠玉の転々たるがごとく、高尚なる思、
優美なる想を、後に残して止まらざるもの、これを文士の筆となす。〉(『筆』5年生 橋健行)
蒼古たる文章である。(中略)しかし〈一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく……〉という一文は、
三島由紀夫という作家を予見したような感がある。そして『校友会雑誌』の常連であった開成中学の文学少年・
健行は、40年後に『輔仁会雑誌』のスタアとなる学習院中等科の文学少年・公威(三島)を髣髴とさせる。
「桂蔭会」で村岡や吹田に伍した健行の文才は、なまなかなものではなかった。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
東大精神科の付属病院は、東京府巣鴨病院(後の松沢病院)であった。大正期、院長は呉秀三教授、副院長は
三宅紘一助教授、医長は黒沢良臣講師と橋健行講師の体制をとっていた。(中略)
〈明治43年12月のすゑに卒業試問が済むと、直ぐ小石川駕籠町の東京府巣鴨病院に行き、
橋健行君に導かれて先生に御目にかかつた。その時三宅先生やその他の先輩にも紹介して
もらつた。〉(『呉秀三先生』斎藤茂吉)
健行と茂吉の「先生」とは、呉秀三である。箕作阮甫の流れを汲む秀三は、日本の精神医学の先駆者で、鴎外に
親灸し『シーボルト先生』や『華岡青洲先生及其外科』を上梓するなど名文家としても知られた。そして秀三の
長男が、ギリシア・ラテン文学の権威・呉茂一である。三島は、昭和30年頃に「呉(茂一)先生」からギリシア語を
学ぶ。秀三――健行、茂一――三島の二組の子弟関係は、奇しき因縁である。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
大正14年6月、秀三が松沢病院を退任し、院長に三宅、副院長に健行が就任する。昭和2年8月、健行は松沢病院
副院長から千葉医科大学(現在の千葉大医学部)助教授に転出する。6年7月から8年9月まで2年余り欧米に留学。
帰国した年の11月に教授となり、10年3月から付属医院長を兼ねた。しかし翌11年4月17日、健行は危篤に陥る。
川釣りで風邪をひきながら、医院長として無理をした結果、肺炎をこじらせたのである。報せを受けて、茂吉は
急遽千葉に向かう。(中略)
昭和11年4月18日、健行は52歳の男盛りで急逝する。「ルンゲンガングレン」とは、肺化膿症のことであろうか。
(中略)後に茂吉は健行の挽歌を詠み、これを歌集『暁紅』に収めた。
〈弔橋健行君
うつせみのわが身も老いてまぼろしに立ちくる君と手携はらむ〉
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
昭和16年5月、健行の死から5年ほど後、一人の客が茂吉の家を訪ねる。客は、80歳を越えた健三であった。
(中略)
健三は、亡き息子の墓碑銘の撰文と揮毫を茂吉に依頼した。律義な茂吉は、恩師・健三の頼みを引き受ける。
5月23日から30日にかけての日記には、友の生涯を文に編むために呻吟する茂吉の姿が記録されている。
〈七月一日 火曜 クモリ 蒸暑
客、橋健三先生、墓碑銘改ム、(中略)墓碑銘改作、汗流ル。〉(『日記』斎藤茂吉)
最も期待した長子に先立たれて、老いた健三の悲しみは深かった。茂吉が撰した墓碑銘によって、健三の心は
幾分か慰められたように思われる。三島が北杜夫に好意を寄せて『楡家の人びと』を高く評価したのは、
トーマス・マンを範とする文学観の共通性の故ばかりでなく、健行と茂吉との深い絆を知っていたからでは
あるまいか。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
(中略)
昭和19年、昌平中学の校長を(四男の)行蔵に譲って、健三は金沢に帰ってゆく。健三は、苦学生教育を
ライフワークと考えていた。明治36年、健三たちの尽力によって、開成中学にわが国初の夜間中学・開成予備学校が
併設される。第一期入学生は僅か22人でしかなかったが、唯一の夜間中学であったことから、生徒数は年々増加し、
大正10年には1,355人という大所帯となった。生徒の職業は、銀行や会社の給仕から商店の小僧、印刷屋の職工、
玄関番など千差万別で、年齢は15、6から30位までであったという。震災で校舎が消失したため、大正15年、
神田駿河台に新校舎を建設する。昭和11年に校名を昌平中学と改称した。
昌平中学の経営は常に赤字であった。健三は、勤労学生から高い月謝をとろうとせず、赤字が累積し、遂には
身売り話まで出るようになった。昭和16年、四男の行蔵がマニラから帰国する。行蔵の実像は、昌平高校の
米山安一教諭の手記『夜学こそ我等が誇り』に描かれている。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
橋行蔵は、明治34年に東京で生まれた。慶応大学を卒業後、横浜正金銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)に入行し、
上海やマニラで海外駐在員として活躍する。帰国した行蔵が目にしたのは、80歳の健三が杖をつき、電車の人混みに
揉まれながら赤字の昌平中学に通う姿であった。これをみかねて、行蔵は父の仕事を手伝う決意をする。
銀行業務を終えると、急いで立ち食い鮨で夕食をすませ、昌平中学に駆けつける毎日が始まった。やがて学校の
理事たちは、「本気で父君の跡を継いでやる気があるのかどうか」と行蔵に詰め寄る。行蔵は、横浜正金銀行の
会計課長として月給250円であった。昌平中学に転職すれば、これが一気に70円に下がる。話を聞いた銀行の幹部は
猛反対する。重役の椅子が待っている有能な社員を、万年赤字学校に行かせる訳にはいかない。しかし行蔵にとって、
大切なのはキミ夫人の意見だけだった。キミは、静かにこう言った。「貴方さえよろしかったら」
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
横浜正金銀行の退職金は5万円であった。5万円あれば、当時10年は楽に暮らせた。行蔵は、退職金を学校の
赤字の穴埋めにつぎ込む。こうした努力にも関わらず、終戦の混乱期には生徒数が2、30人にまで減少した。
この危機を乗り越えるため、行蔵は奇抜なアイデアを捻り出す。一つは、英文タイプである。行蔵は、共同通信の
記者・中屋健一を説き伏せて、会社の地下室で埃を被っていた英文タイプを借り出した。学校に英文タイプ部や
英会話部を結成して、タイプ仕事を請け負ったのである。(中略)
もう一つのアイデアは、予備校である。戦後の学制改革によって、昌平中学は昌平高校となった。行蔵は、
学制改革で大学の受験競争が激化すると予測し、理事たちの反対を押し切って予備校「正修英語学校」を設立する。
建物は、昼間の空き教室を利用した。(中略)結果的に行蔵の予測が見事に的中し、予備校収入のお陰で夜間学校は
存続することができた。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
校長としての行蔵の初仕事は、職員便所の撤廃であった。「先生がションベンしているところを、生徒に
見られたって、別に恥ずかしいこたあ、ねえだろう」行蔵は、生徒たちの悩みや相談ごとにも気軽に応じた。
夜間の授業が終わり、残っている生徒の面倒をみると、行蔵は一人で校舎のなかを見廻った。戸締りを確認し、
火の用心をしてから世田谷の自宅に帰り着くと、午後11時であった。
(中略)
顔写真を見ると、行蔵はげじげじ眉毛が印象的な面長で、笑顔が三島と似ている。ただし、六尺豊かな偉丈夫で
あったという。健三の衣鉢を継いで夜学に後半生を捧げた行蔵は、昭和37年に逝去する。享年62歳であった。
平岡家は官僚・法律家の家系であり、永井家は経済人の家系であって、橋家は学者・教育者の家系である。
この三家の人々のうち、学生時代の印象が三島と似ているのは健行である。理系と文系と進む道は違ったが、
二人とも秀才で早熟な文学少年として認められていた。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
>>457前
(中略)
トミは、明治7年に金沢で生を享けた。父は橋健堂、祖父は橋一巴で、いずれも加賀藩の漢学者である。トミは
六人姉妹の五番目で、(中略)姉・こうの死去により(中略)明治23年に健三の後妻となる。健三は29歳、
トミは16歳であった。二人の間には、雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子の三男三女が生まれた。(中略)
昭和13年、中等科二年の公威(三島)はトミに連れられて能を観る。初めて目にした能が『三輪』であったことは、
三島の生涯を思うと極めて暗示的である。『三輪』は、世阿弥の作と伝えられる四番目物であり、三輪明神が
顕現する。『奔馬』で本多繁邦と飯沼勲が邂逅する場所は、わが国最古の神社で、謡曲の『三輪』の舞台となった
大神神社である。
昭和20年2月、三島は兵庫県で入隊検査を受け、即日帰郷となる。金沢のトミから三島に宛てた2月17日付けの
書簡には「心の亂れといふものが千々の思ひに幾日かを過ごす」とあって、孫の身を気遣うトミの温かい人柄が
偲ばれる。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
三島の曾祖父は、橋健堂である。(中略)父は一巴(幸右衛門)、母は石川家の出で、金沢に生を享けた。
健堂は書を善くした。長町四番丁(城下西部)に「弘義塾」を開くとともに、石浦町(城下中央部)に「正善閣」を
開いて習字を教えるが、後者の対象は女子である。健堂は、多数の子弟を教育し、「生徒常に門に満つ」と称された。
安政元年(1854年)、加賀藩による「壮猶館」の開設に伴い、漢学教授となる。
(中略)
明治3年、藩の文学訓導、筆翰教師となる。廃藩置県後の明治6年、小学校三等出仕に補され、8年、二等出仕に
進み、12年、木盃をもって顕彰された。健堂は、夜学や女子教育の充実など、教育者として先駆的であった。
そして「壮猶館」「集学所」など、その出処進退は藩の重要プロジェクトと連動していた。
(中略)(子が)いずれも娘であったため、瀬川健三を三女・こうの婿養子とした。健堂の『蒙求』中心の漢学や
庶民教育にかける熱意は、養子の健三に継承される。明治14年12月2日、健堂は59歳で没し、野田山に葬られた。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
(中略)
健堂が出仕した「壮猶館」は、儒学を修める藩校ではない。「壮猶館」とは、加賀藩が命運を賭して創設した
軍事機関なのである。嘉永6年(1853年)、ペリー率いる黒船の来航は、人々に大きな衝撃を与えた。二百余年に
及ぶ幕府の鎖国体制を崩壊させる外圧の始まりである。以後、幕府はもとより、各藩において海防政策が
最重要課題となった。「日本全体が主戦状態にある」という現状認識からである。加賀藩も財政難に苦しみながら、
海防強化に乗り出してゆく。安政元年(1854年)、上柿木畠の火術方役所所管地(現在の知事公舎横)に
「壮猶館」が整備される。施設は、加賀藩の軍制改革の中核的な存在として明治初年まで存続した。
「壮猶館」では、砲術、馬術、洋学、医学、洋算、航海、測量学などが研究され、訓練や武器の製造を行った。
さらに加賀藩では、西洋流砲術の本格的な導入と軍制改革を図るため、洋式兵学者の招聘を検討する。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
村田蔵六、佐野鼎、斎藤弥九郎の三人が候補に上がり、安政4年(1857年)、西洋流砲術として名高い佐野鼎が
出仕する。佐野は、西洋砲術師範棟取役に就任した。この経緯は、前掲の松本英治教諭の「加賀藩における
洋式兵学者の招聘と佐野鼎の出仕』に詳しい。「壮猶館」では、佐野を中心に海防が議論され、軍事研究の深化が
図られた。健堂と佐野は、親しかったという。佐野は、万延元年(1860年)の遣米使節、文久元年(1861年)の
遣欧使節に随行し、海外知識を生かして加賀藩の軍事科学の近代化に貢献する。七尾に黒船が来航した際には、
アーネスト・サトウと会見した。佐野は、明治新政府の兵部省造兵正に任官する。明治21年に健堂が、佐野の
創設した共立学校に招かれるのは、「壮猶館」における健堂と佐野の親交の遺産ともいえよう。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
三島の軍事への傾斜については、永井玄蕃頭尚志に淵源を求める声が多い。しかしルーツは、尚志よりむしろ
健堂であろう。健堂は市井の漢学者ではなかった。何より平時の人ではなかった。幕末の動乱の時代、「壮猶館」
関係者の危機意識は強かった。さらに「壮猶館」は単なる研究機関ではなかった。敷地内には、砲術のための
棚場や調練場が設けられるとともに、弾薬所や焔硝製造所、軍艦所が付設されるなど、一大軍事拠点を形成していた。
こうした軍事拠点の中枢にあって、健堂は海防論を戦わせ、佐野から洋式兵学を吸収する立場にあった人である。
「壮猶館」の資料として『歩兵稽古法』『稽古方留』『砲術稽古書』が残されている。これらは、三島が
陸上自衛隊富士学校で学んだテキストの先駆をなすものといえよう。健堂の血は、トミ、倭文重を通じて三島の
体内に色濃く流れていた。晩年の三島が、西郷隆盛を語り、吉田松陰を語り、久坂玄瑞を語ったのは、健堂の
血ではなかったか。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
『春の雪』には、「終南別業」が登場する。王摩詰の詩の題をとって号した「終南別業」は、鎌倉の一万坪に
あまる一つの谷をそっくり占める松枝侯爵家の別邸である。モデルは、前田侯爵家の広壮な別邸だという。
「終南別業」を描きながら、徳川末期に橋家三代が仕えて、大正期に祖父の願いを容れて土地を提供した前田家の
ことを、果たして三島は意識していたのだろうか。
金沢が舞台となった小説は、『美しい星』である。(中略)卯辰山には、かつて健堂が教鞭をとった「集学所」が
設けられていたが、『美しい星』では遠景として登場する。(中略)三島は取材のため金沢の街を歩いている。
二日間という限られた時間のなかで、果たして三島は橋家由縁の場所を訪れたのだろうか。
金沢では、人々の生活に謡曲が深く浸透している。小説では、金沢のこの風習が巧みに生かされている。竹宮は、
暁子に奇怪な話を語る。自分が「金星人」であることの端緒をつかんだのは、この春の『道成寺』の披キでからで
ある、と。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
>>472訂正
『春の雪』には、「終南別業」が登場する。王摩詰の詩の題をとって号した「終南別業」は、鎌倉の一万坪に
あまる一つの谷をそっくり占める松枝侯爵家の別邸である。モデルは、前田侯爵家の広壮な別邸だという。
「終南別業」を描きながら、徳川末期に橋家三代が仕えて、大正期に祖父の願いを容れて土地を提供した前田家の
ことを、果たして三島は意識していたのだろうか。
金沢が舞台となった小説は、『美しい星』である。「金星人」の美少女・暁子は、「金星人」の美声年・竹宮に
会うため金沢を訪れる。金沢駅、香林坊、犀川、武家屋敷、尾山神社、兼六公園、浅野川、卯辰山、隣接する
内灘などが描かれている。卯辰山には、かつて健堂が教鞭をとった「集学所」が設けられていたが、『美しい星』では
遠景として登場する。(中略)三島は取材のため金沢の街を歩いている。二日間という限られた時間のなかで、
果たして三島は橋家由縁の場所を訪れたのだろうか。
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
金沢では、人々の生活に謡曲が深く浸透している。小説では、金沢のこの風習が巧みに生かされている。竹宮は、
暁子に奇怪な話を語る。自分が「金星人」であることの端緒をつかんだのは、この春の『道成寺』の披キでからで
ある、と。
〈どこで竹宮が星を予感してゐたかといふと、この笛の音をきいた時からだつたと思はれる。
細い笛の音は、宇宙の闇を伝はつてくる一條の星の光りのやうで、しかも竹宮には、
その音がときどきかすれるさまが、星のあきらかな光りが曙の光りに薄れるやうに
聴きなされた。それならその笛の音は、暁の明星の光りにちがひない。
彼は少しづつ、彼の紛ふ方ない故郷の眺めに近づいてゐた。つひにそこに到達した。
能面の目からのぞかれた世界は、燦然としてゐた。そこは金星の世界だつたのである。
(『美しい星』三島由紀夫)
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
三島は、能舞台が金星の世界に変貌する様を鮮やかに描いている。初めて能にふれた日から、この時までに
ほぼ四半世紀の歳月が流れていた。13歳の公威が、祖母のトミと観たのは『三輪』であった。杉の木陰から声がして、
玄賓僧都の前に女人の姿の三輪明神が現れる。三輪明神は、神も衆生を救う方便としてしばらく迷いの深い人の心を
持つことがあるので、罪業を助けて欲しいと訴える。三輪の妻問いの神話を語り、天照大神の
天の岩戸隠れを物語って、夜明けとともに消えてゆく。謡曲『三輪』は、「夢の告、覚むるや名残なるらん、
覚むるや名残なるらん」という美しい詞章で終わる。
この詞章は、三島の遺作『豊饒の海』の大団円に通じる。現代語訳をすれば、次のようになろうか。「夢のお告げが、
覚めてしまうのは、実に名残惜しい、まことに名残惜しいことだ」
岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
小説(鏡子の家)の冒頭で、鏡子と収、峻吉、夏雄が勝鬨橋を渡り、月島を抜け、訪れるのは晴海の埋立地である。
(中略)彼らが訪れた時点では、米軍の占領地でありながらも、具体的な利用には供されず、空き地のまま
放り出された、宙づりの〈空白〉の場である。彼らが訪れる場所が勝鬨橋から晴海の埋立地であることの理由は
何も語られることはない。(中略)
これまで、勝鬨橋のせり上がる鉄の壁については、「現実世界の揺るぎなさの換喩」(柴田勝二「他界の影―
三島由紀夫『鏡子の家』論―)であり、男たちの前に立ちはだかる新たな時代の壁を象徴するものとして
読まれてきた。しかし、彼らが都心を離れ、勝鬨橋から晴海の埋立地一帯を訪れたことの意味については、
従来の『鏡子の家』論では言及されてこなかった。冒頭に語られた場を勝鬨橋のみに焦点化させるのではなく、
晴海の埋立地までの空間として捉えたとき、この場面は異なった様相を呈してくる。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
この一帯は、テクスト(小説)内では空き地のままに放り出された〈空白〉の場として語られるのみである。
ただし、この場における空白性は、このテクストで設定されている時間のなかで有効であったにすぎない。
その証拠にこの場は、『鏡子の家』発表時の昭和33年においては、すでに高層アパートが建設され、これからの
日本の経済成長を象徴する空間へと変貌し、新たな時代の生活の場として広く注目を集めていた。
『鏡子の家』と並行して書かれた日記体の『裸体と衣裳』では、三島が『鏡子の家』の取材のために勝鬨橋から
晴海埠頭を訪れたときの印象について、「数年前『幸福号出帆』(中略)を書くためにここへメモをとりに来た時と
比べて、完全に一変した景色に一驚を喫する」と書いている。つまり、三島はわずか数年で一変してしまった
この空間を、時代の変化を色濃く反映した場として認識している。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)晴海の埋立地は時代の変化にさらされ続けた場所である。歴史を遡ると、戦前に政府は皇紀2,600年に
あたる昭和15年にこの地を会場として、万国博覧会とオリンピックを開催することを国家事業として揚げている。(中略)
また、勝鬨橋は「帝都の門」として国家の威光を証明すべく昭和15年に建設され、万博会場へのゲートとして
位置づけられていた。しかし、この計画は戦争の激化により中止、延期された。オリンピックと万博の予定地で
あったこの埋立地は、その後軍需産業を支える工業地帯に様変わりし、戦中の日本を支えた。
この空間における歴史的側面について、テクスト内で言及されることはない。しかし、『鏡子の家』の冒頭で
描かれたエリアは、まさに戦前の近代国家としての歴史が刻み込まれ、時代に翻弄された空間だったのである。
そして、鏡子たちが訪れた時点においては、未だ米軍の占領地であり、敗戦の記憶が生々しく残っている。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
この地がアメリカの占領下にあるという時代設定は、『鏡子の家』における父親の気配の希薄さを映し出したものである。
〈『鏡子の家』の中に父親の気配が希薄なのは、東京湾の埋め立て地に米軍基地があり、「立入禁止」の札が
立つようにアメリカの占領下にある日本を鏡の如く映しているとも読めるだろう〉(松山巌「都市という廃墟」)
(中略)敗戦を期にその絶対者(天皇)は退場を余儀なくされ、アメリカの支配のもと不在の中心を抱えることと
なった戦後の日本の姿が、この空間に刻み込まれているのだ。
また、先述したように、『鏡子の家』が発表された昭和33年から昭和34年にかけて、このエリアは米軍の占領から
解放され、現代的な高層住宅の建設地として再び脚光を浴びていた。この地に新たに建設された晴海高層アパートは、
現代的なデザインを採用した公団住宅で、日本の復興と高度成長期の到来のシンボルとして注目されていた。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
そして、この空間における変容の予感は『鏡子の家』にも表出されている。それは、目の前に広がる「春の
汚れたお納戸いろの海」に予兆されている。峻吉はこの春の海に向けて拳を突き出す。
〈それは見えないものを相手にするシャドウ・ボクシングではない。茫洋たる汚れた春の海が
彼の相手に立つてゐる。岸壁の下を舐めるだけの漣の連鎖が、はるか沖のうねりにまで
つらなつてゐる。決して戦はない敵。呑み込んでしまふだけで、怖ろしい宥和を武器とする敵。
しじゆう、かすかに笑ひつづけてゐる敵。……〉(『鏡子の家』三島由紀夫)
埋立地の向こうに広がる海は、大波を立てるわけではない。しかし、目の前に絶えず寄せてくる漣は、その波頭に
沖のうねりを忍ばせている。それは一見穏やかで平穏なようでいて、実はあらゆる動きを呑み込む「怖ろしい
宥和を武器とする敵」として存在する。峻吉が海に抱いた感情は、清一郎が鏡子に向けて語る次の言葉に重なるものとして受けとることが
できるのではないだろうか。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
〈君は過去の世界崩壊を夢み、俺は未来の世界崩壊を予知してゐる。さうしてその二つの
世界崩壊のあひだに、現在がちびりちびりと生き延びてゐる。その生き延び方は、卑怯で
しぶとくて、おそろしく無神経で、ひつきりなしにわれわれに、それが永久につづき
永久に生き延びるやうな幻影を抱かせるんだ。幻影はだんだんにひろまり、万人を麻痺させて、
今では現実と夢との堺目がなくなつたばかりか、この幻影のはうが現実だと、みんな思ひ
込んでしまつたんだ。〉(『鏡子の家』三島由紀夫)
(中略)戦後の混乱期を抜け、高度成長へと大きく転換していく社会と、そこに生きる人々の緩慢でありながら、
どこか不敵な様相。それは静かにゆっくりと忍び寄る大きなうねりであり、また「いつまでたつても、アナルヒーを
常態」とした戦後の混沌と無秩序に満ちた〈祝祭的な空間〉、「廃墟」の時代にとどまり続けようとする峻吉や
鏡子たちを脅かすものの影でもある。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)
この埋立地に吹き寄せる海からの風は、鏡子にもまとわりつく。(中略)「すこしずつ激しくなる海風が、
髪をかきみだしはしないか」ということが「ただ一つの煩い」として意識されている。少しずつ激しさを増す風は、
焼跡の時代にとどまり続け、変化を遅延しようとする鏡子を混乱させるものとして意味付けられている。
〈空白〉の場である埋立地の向こうに広がる海とそこから吹き寄せる風は、峻吉の抱いた印象と同じく、とどまり
続けようとする自己を脅かす存在の暗示として提示されているのである。
それはまた、この土地の工事従事者である男たちが夏雄の車を破壊したことから始まる乱闘事件にもあらわれている。
乱暴をはたらく男たちは、この「廃墟」の時代の気分を色濃くとどめている〈空白〉の土地を、新たな土地へと
造り変える者である。(中略)新たな時代の台頭は、「廃墟」の時代にとどまり続けようとする者に対して
暴力的なまでの力でその存在を脅かしうるのである。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)
〈鏡子の家〉から周囲を見下ろすとき、強く鏡子の目をひきつける空間がある。それは明治神宮外苑一帯の
エリアである。明治記念館の森とその向こうの大宮御所の森へ、鏡子の意識は時折向けられている。(中略)
深く生い茂った森に包まれたその空間の内部を、鏡子の視線は透視することができない。その内部を把握することが
できないために、鏡子にとってこの空間は意味を明確にすることのではない、言わば〈空白〉の場としてある。
森はその内部に知られざる何のものかを秘めているがために、幼い鏡子の心に「漠たる不安」をもたらしている。
そして、その「不安」は鴉の姿となって時折、森から鏡子の側まで飛来する。それは見えざる森の内部から
飛来するものであり、常に不安な何ものかを予感させている。この不安の源泉についてはほとんど語られることがなく、
「漠たる不安」という曖昧な輪郭のままにとどめられている。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)鏡子は常に焼跡の都市の記憶、「廃墟」としての都市の記憶をとどめ、そのような視点から眺めることが、
鏡子の認識の方法である。その一方で幼い鏡子を支配しているのは、〈鏡子の家〉から都市の情景を間に挟んで
存在するこの森なのだ。時代とともに変貌していく都市の様相とは対照的に、明治神宮外苑の森の外観は
〈鏡子の家〉と同様に変わらないものとしてある。だが、その森の内部は今や大きく変貌している。(中略)
その森の内部に踏み込んだ清一郎を通して現在の明治神宮外苑の森の内部が語られる。
〈(中略)夕べごとに胡麻のやうに鴉の群を撒き散らしてゐたあの森、(中略)森の中では
年がら年ぢう、結婚式の群衆が煮立つてゐたのだつた。(中略)〉(『鏡子の家』三島由紀夫)
その暗い森の内部は、〈鏡子の家〉から眺められる外観の印象とは大きく異なり、小市民的な生の祝祭の場として、
新たな生の始まりに向かう人間たちでひしめき合う空間だったのだ。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)そもそも明治記念館は明治14年に建造され、明治21年には憲法制定のための御前会議が開かれ、
大正7年に明治神宮外苑に移築された。また、近代国家成立の象徴である明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮を
臨む外苑は、第二次大戦下には、晴海の埋立地と同様に、昭和15年の皇紀2,600年奉祝記念事業のオリンピックの
開催地候補として話題をよんだ。そもそも、神宮外苑の競技施設は「国民の身体鍛錬と精神の作興を目的」に
築造されたものである。オリンピック計画が頓挫した後も、戦時下には「国民体力の錬成と国民精神の振作」を
目的とした明治神宮国民錬成大会が開催されるなど、過分に歴史的意味を内包した空間である。
また、戦後GHQに接収されたという経緯も、『鏡子の家』の冒頭に登場した晴海の埋立地と重なる。戦前に
この空間を支配していた明治天皇の威光は、戦後のアメリカの占領体制によって希釈され、ここもまた、
絶対者不在の場として記憶されることとなったのである。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)
峻吉の拳は「強さの象徴」として彼の世界の中心点であった。しかし、拳を中心点たらしめている思想とは、
峻吉の兄の死ではないだろうか。拳を繰り出す原動力として、輝かしく死んでいった特攻隊員の兄の存在が常に
峻吉に意識され、「行動の亀鑑」として峻吉を規定してきたのである。彼を支配し続ける兄という存在は、
『鏡子の家』で唯一語られる戦前の記憶であるが、(中略)甘美な死の観念に支えられながらも、それは絶対的な
不在であるがゆえに、峻吉はなにものかによって埋め合わせようとしている。兄という存在は、その死ゆえに、
暴力性によって常に身体を死の危険にさらすボクシングによって代補されてきた。峻吉は、ボクシングという方法で
死に接近することにより、兄の存在を感じている。(中略)峻吉にとって右翼団体への所属とは、血の繋がった
特攻隊員の兄の死に対する憧憬を引きずりながらも、血判を押すというイニシエーションによって新たに結ばれた
血の繋がりのなかへ自己を投企していくことを意味する。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)
峻吉は、ひたすらにボクシングに打ち込みながらも「兄の一度も知らなかつた日常性の影、生の煩雑な夾雑物の
影」が侵食しつつある自分の生活に対抗しうるものとして、輝かしく戦死した兄が生存していた戦前という
時間を召喚している。(中略)ポスト戦後へと移り変わろうとする時代にあって、戦後の焼跡の時代を保留し
続けるのではなく、純粋な行動が可能であった戦前の記憶が峻吉を支配し続けていたのだ。その記憶は、
右翼団体への入団という行為によって、表向きは保留され続けるが、高度経済成長という緩慢な海にどっぷりと
浸かりきるという皮肉な選択をしていくこととなる。峻吉の世界は、兄の死の影響下にあった拳を中心としたものから、
もはや実体のない天皇を中心に置き、アメリカ的な資本主義体制を信奉するポスト戦後的な思想のなかへと
スライドしていったのである。時代のシフトチェンジに、皮肉的に身をまかせていく『鏡子の家』の登場人物のなかで、
峻吉の変容は、まさに時代の影響を強く受けている。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
(中略)
鏡子は混乱と野卑な雰囲気に包まれた(ボクシング)会場に、焼跡の無秩序な状態に通じるものを感じ、この空間に
親しみをもつ。(中略)
鏡子に野卑な若者が投げかけた「いい席ありますよ、妃殿下」という言葉は、(中略)天皇の神格化が否定された
戦後においては、皇室のカリスマ性も大衆にとっては希薄なものになっており、(中略)揶揄の意味合いが色濃く
にじんでいる。(中略)
〈(中略)場ちがひに頓着しない鏡子は、鼻血をこすりつけたあとのある椅子のあひだを、
峻吉のはうへ近づいて、レエスの手袋の手で、バンテージを巻いた手と握手した。(中略)
「頑張つてね。気をしつかり持つて頂戴ね」
健気なものを見るときの母性的な率直さが、鏡子の目に悲しみの色を点じた。(中略)
峻吉にはこの気持がよく通じたので、バンテージの手を自分で嗅いでみて、かう云つた。
「けふのパンチは香水くさいつて云はれるだらう」(中略)〉(『鏡子の家』三島由紀夫)
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
鼻血やバンテージといった野蛮なものと、優雅なレエス手袋の対比。(中略)鏡子のもつブルジョア性と野卑な
状況が混交し合う状況こそが鏡子の望む時代である。(中略)鏡子にとって、焼跡の時代の野蛮さや無秩序は、
鏡子のブルジョア性を脅かすものではない。むしろ、野蛮さの消滅―平板な日常性の瀰漫こそが鏡子の存在を
危機に追いつめていくのである。
(中略)
テクスト内では、晴海の埋立地や明治神宮外苑にまつわる歴史は直接的に語られてはいない。しかし、これらの
空間における鏡子や峻吉の振る舞いは、その空間が内包する歴史と深く結びついていることがわかる。(中略)
昭和30年代という新たな時代の到来は、昭和20年代の焼跡の時代を暴力的なまでの圧力で葬送するとともに、
これらの空間に刻みこまれた日本の近代の歴史すらも大きく変質させていくのである。(中略)
鏡子をはじめとする四人の男たちとともに、時代の変化を象徴する場としてこれらの空間が三島によって選びとられ、
記述されたことの意味は大きいだろう。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
鏡子は戦後的な人物というよりは、むしろ戦前という時代を担保にして戦後の混乱のなかに生きようとする人物である。
(中略)ポスト戦後という時代の到来によって変質していくように、鏡子という人物もまた、戦前からの記憶が
刻みこまれながらも、ポスト戦後という終りのない日常の到来によって、余儀なく変質させられていくのである。
「アナルヒーを常態」としていたような廃墟の〈祝祭的空間〉は、もはやどこにもないことを、鏡子は痛感するのだ。
(中略)
焼跡の時代であった戦後は、敗戦の記憶が未だ残っていた時代である。(中略)そのような戦後を切り捨てようと
したのが、昭和30年代という新たなディケイドにむかう時代の空気であり、『鏡子の家』はまさにそのような変化を
トポスに反映させているのである。
(中略)
『鏡子の家』は、新しい時代の到来による戦後的空間の変容だけではなく、人々の内面や空間に刻みこまれた
日本の歴史までもが否応なく塗り替えられていこうとするポスト戦後という時代への不信感に満ちている。
中元さおり「古層に秘められた空間の記憶―『鏡子の家』における戦前と戦後―」より
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:2013/06/20(木) 05:22:03.64 ID:???
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:2013/07/25(木) 07:26:59.12 ID:???
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