日本で最高に売れているという彼女を、NYの人はほとんど知らない。
私も最近知ったばかりだ。 なじみの日本食の居酒屋でしつこく曲が流れていたせいもあって、覚えてしまった。
この間、 母と兄を連れてアポロシアターに行った。 昔は有名なスターが出たというが、今はボロボロの劇場で、見た目にはアマチュアーナイトとやらも近所の「のど自慢大会」に等しい。 時代遅れの舞台装置、 お粗末なバンド、 チープな照明。
しかし、 ここに出てくるアマチュアは素人とは思えないくらいレベルが高い。
ホイットニーヒューストンばりの声量のある太ったおばさんやら、 TLCと張り合うくらいの美人で声のいい三人の女性などが参加しているのであった。
私がふと思ったのは、 ウタダヒカルがここへ来て最後までブーイングされずに歌えるか?ということである。
日本人は日本のメディアに扇動されている。
彼女はたいして上手くない。
歌唱力なんてほとんど無い。 あんな鳥を絞め殺してるような声はそこいらのカラオケボックスに行けばいつでも聞けるはずだ。
繰り返し流れている彼女の音楽のせいで、 耳についているからなんとなく興味が湧いているに過ぎない。
しかし、日本の文化が世界とは異なるものだと思えばそれは仕方のない事である。
新しい音楽なのかもしれない。
機械的で人間味のない音。
アメリカという国は、 どんなに気取っていても泥臭い文化がある。 NYだって人間くさい。文学や映画だって結局、 家族愛や夫婦愛が最後には決め手なのだ。
今、演歌を忘れた日本ができるのは、 愛を忘れた音、 愛を歌いながらも感情を感じさせないラテンのセンスなのである。
ラテンはリッキーマーティンを頭に大ブレークしている。
なぜかラテン系のやつはいつも冷たいくせに仲間意識だけは強い。 しかし、 どこか冷たい、 だめなものはだめなのだと割り切れるラテンのあっさりした意識がある。 根性、人情といった浪花節は必要ない。
ウタダヒカルが世界に、 いや故郷NY?に錦を飾るには、 ブルックリンから地下鉄でマンハッタンへ通って歌手を夢見ていたラティーノのジェニファーロペスみたくラテンに生きるしか、 残される道はない。 まあ川崎真世の奥さんと同様、 NYで売れなくても日本で十分稼いでるから平気なはずだが。