>>133 ―リーダーでマネージャーで、学校的には軽音クラブの部長も桜井くんなら、ほとんど桜井くんがめんどくさいこと、引き受けてたってわけなんですか。
「役割分担とかは、今とあんまり変わんないかもしんないですけどね。バンドだから、もちろんそれぞれに担当する楽器があって、それが基本で。
あと、曲を作るとか、中身のことは僕で、パッケージとか衣装の事とか、どう見せていくかとかは、田原とか中川とかで。
だから今でも、僕はあんまりジャケットとかのアートワークとかって、どうでもいいタイプですから。
その代わり、例えば当時、ライヴハウスでやるときの告知チラシとかって、田原と中川が一生懸命デザインとか考えてた感じで……。
それを僕が実家でコピーして持って来て、という感じですね。あと、バンドの名前を考えたりするのも、田原とか、前から積極的でしたからね。」
―最初に作ったオリジナル曲は、大好きなものにモロ影響されてたって言ってたけど、その状態を超えて、真のオリジナリティーが芽吹き始めるのは、いつ頃?
オーディションに出る時とかが、やはり転機なんですか?
「それまでは、ずっとエコーズみたいなマイナー調のロックが好きだったんだけど、そのオーディションやって、そのときは全然駄目で、
たまたまゲストにユニコーンが来てて、その時、”ああすげーな、いいなー、こういうの”って思ったんですよ。なんかこうポップな感じが良くなった。
その辺から、作風も変わってきたし。多分、自分に無いもの、あんまり聴いてなかったものを自分で作ろうとしたんだと思うんですけど。
そのくらいから割と徐々にオリジナリティーが……」