ROSSO VS JUDE VS YOSHIILOVINSON

このエントリーをはてなブックマークに追加
189名無しのエリー
>>187
これか?

中原 繁
コロンビアレコード時代のプロモーション担当で、自分と同じ年で生きていたら38歳。

イエローモンキーがデビューした時から会社にいたが、大学を卒業したてでまだアルバイトだった。
2ndアルバムのエクスペリエンスムービーぐらいから、正式に社員になりイエローモンキー専属になった。
本来、THE CLASHやブルーハーツとかパンクが好きで、酔うとスッポンポンになり、よくリンダリンダを
熱唱していた。
当時のイエローモンキーは、あのとおりナヨナヨしていたので、彼の中では(?)だっただろう。
最初はお互い探り合いながらの関係だったが、日に日に意気投合していった。取材現場に彼が来ると
みんなとてもうれしそうだった。
92年から2年5ヶ月続いたFMの深夜放送も欠かさず来てくれて(酔っぱらってる時も多々あったが)
場を盛り上げてくれたので、本来苦手だったはずのラジオで喋ることもどんどん楽しくなった。
3時で生放送が終わり、そのあと朝の7時ごろまで飲んで、『今度はこんなことやろうぜ』と
どんなことか忘れるほどいつもベロベロだったが、少しづつ夢が近づいてきていることを、
店を出て朝を迎えている銀座の裏通りで、感じていた。

ある日自分が抱えている不条理を、全部紙に書いてそれに曲を乗せた7分近いバラードを作った。
社会的なこと、プライベートなこと等、思うことを遠慮なく全部書いた。
今ならそのまま世に出せるが、当時はそういうわけにはいかなかった。少しづつ詩を削っていき、
5分ちょっとの曲になった。録音したその曲を聴いて彼が言った。
『これは代表曲になるよ。会社の上の人間がなんて言おうが、オレが絶対売ってやるよ!』と。
『JAM』という自分の子供が正式に認知されたようで、とてもうれしかった。
190名無しのエリー:05/02/04 20:50:22 ID:1MywUBYF
『JAM』でミュージックステーション出演の話が来た。しかし歌番組に出ると、
曲を3分台にされてしまうので、『絶対に出ない』と、プロモーターである彼に
食ってかかった。困らせたくなかったが、それだけは譲れなかった。
しかし後日、彼の執念と人柄だと思うのだが、異例の"5分"という枠を取ってきて
くれたのだ。『歌詞がある部分は全部歌えるよ!』と。
その瞬間からイエローモンキーは色々なものを次々とつかみ始めた、、。

野生の証明というツアーの最終日、LIVEが終わったあと、楽屋に来た彼とすかさず
握手をして抱き合った。『おつかれ、ありがとう、、』と言って、2人で泣いた。
既にレコード会社移籍が決まっていた。

コロンビアを移籍する時、『うちの事務所に来ないか?』と誘った。
しばらく考える時間をくれと言った彼の数日後の答えはNOだった。
『親であるレコード会社を裏切れない。新しいバンドを見つけて絶対成功させる。
見つけたらオレの勝ち、見つかんなかったらオレの負けだよ』と、
半分冗談、半分殺気ある表情で言った。今思えば自分もそこからシフトが変わった。
その後、彼はミッシェルガンエレファントを、プロモーター的にも大ヒットさせた。
彼は勝ったんだ。

191名無しのエリー:05/02/04 20:51:28 ID:1MywUBYF
2000年の3月18日イエローモンキーのメンバーに事務所に集まってもらい、
自分は『もうやめたい』と告げたあの日。
話をし終わり、しばらく沈黙が続くと事務所の社長宛に1本の電話が鳴った。
中原が出張先の宮崎で死んだという知らせだった。レコーディングエンジニアの
山口州治さんからだった。
過労とストレスと暴飲暴食が原因による大動脈瘤破裂。宮崎の野口記念館で
アマチュアバンドのコンテストが行われていて、ゲストが中原の担当する
新人アーティストだった。
彼は会場内のトイレで倒れている所をスタッフに発見された。
その時、ステージ上の音を流すためにトイレに設置されているスピーカーから、
奇しくもアマチュアバンドがコピーしたJAMが流れていたとその後スタッフから聞いた。
嘘のようなタイミングだが、本当の話だそうだ。

その訃報を聞いて事務所でのミーティングは『とりあえず活動休止ということにして、
少し休もう。』ということになり、終わった。
彼がイエローモンキーの解散をその時止めたのかもしれない。

でも中原、ごめんな。

中原、最近取材なんかで、俺たちに影響を受けたっていう若くて有名なミュージシャン達と話すと
みんな『JAMは最高ですよ』って言ってくれるんだよ。
俺たちの夢は大成功したんだよ。

中原、またいつか一緒に飲もうぜ。

吉井和哉