♪宇多田ヒカル統一スレ・パート52♪

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廃屋を見上げる--その一
こんな話を聞いたことがある。長年、会社勤めをしていた人が退職をした。
名前がないと不便だから、この人を仮に田中さんと呼ぶことにしよう。
田中さんがその男に出会ったのは、ある秋の夕暮れだった。
パチンコ帰りの田中さんは、裏通りを通ってブラブラと自宅へと向かっていた。
きれいな夕日だった。
パチンコで少しツイていたこともあって、田中さんは秋の風情をしみじみと楽しむこと
ができた。
「ごぞんじですか」
と耳元でとつぜん低い声がしたのは、そのときだった。
田中さんはちょっと驚いた。急に声をかけられるとは思っていなかったからだ。
(誰か、知り合いが自分を見掛けて、声をかけてきたのだろうか?)
横を見ると、男が立っていた。
田中さんくらいの年格好の、眼鏡をかけた初老の男で--ぜんぜん知らない人間だった。
無個性な顔であった。「ごぞんじですか」と、男はまた言った。
まわりには田中さん以外に人はいない。男が田中さんに話し掛けているのは明らかだった
けれど、「ごぞんじですか」とはどういうことだろう?
「は?何をです?」と、田中さんはちょっとうろたえて聞き返した。これは当然の反応だ。
「あれですよ」男は、顎でそれを指し示した。
こぎれいな建て売り住宅にはさまれて、ちょっとした広いスペースがそこにあった。
といっても駐車場を兼ねた空き地や、更地ではない。家は一応、建っていたから。
もっとも、どう見てもそれは、人が住んでいるとは思えない空き家であった。
いや、もっと正確に言えば、屋根も壁も長期間にわたって風雨に叩かれ、崩れかけてぼろぼろ
になった、木造の廃屋なのであった。
田中さんは、この町に来て以来、自宅のすぐ近くにこんな廃屋があることを知らなかった。
現役であったときは極端な会社人間で、仕事に追われて町内のつきあいはもっぱら奥さんに
まかせていたし、駅に向かう以外の道はほとんど通ったことがなかった。
「あの家が、どうかしたんですか」あらためて田中さんは、男に聞き返した。
「ああ、ごぞんじない?・・・・・・夫婦がね、住んでたんです。あそこに。ずっとね」
「はあ・・・・・?」
7962:02/07/27 18:25 ID:6pXCNtsI
廃屋を見上げる--その二
「たいへん仲が悪くてね。子供もいないし。かすがいってやつがない。喧嘩ばかりでね。
暴力ざたなんてしょっちゅうでしたよ。それでも別れなかったのは、どちらかが少しばかり
まとまった金を握っていて、まあそれが惜しかったんですね」
「ははあ」田中さんは、機械的にあいづちを打ちながら、この男は何のつもりでこんな話を
見ず知らずの自分に聞かせるのだろうと考えていた。
廃屋に昔住んでいた夫婦が、不仲であろうと、自分には全く関係のないことだ。
この男は自分同様、ヒマをもてあましている、しかも孤独な人間なのだろうか。
そうして話し相手がほしくてこうやって、誰彼かまわず道で通行人をつかまえて世間話を聞か
せるのを、日課にしているのだろうか。
だとしたら、面倒な相手につかまってしまったものだ。(適当なところで話をきりあげさせて、
早々に立ち去るようにしなくては・・・)
もじもじしている田中さんには、いっこうかまわずに、男はしゃべり続けた。
7972:02/07/27 18:28 ID:6pXCNtsI
「ところがあるときから、奥さんの方の姿がばったり見えなくなってしまった。ダンナの方は、女房は実家に帰ったとかなんとか、いろいろ言っていたらしいんですけどね。とにかく、奥
さんの姿はそれっきり近所で見られなくなってしまったんです。・・あなた、どう思われ
ます?」
「蒸発ですね。世間じゃよくある話じゃないですか。いや、ダンナさんには気の毒なことでし
たね。それはそうと、ちょっと私は急いでいますんで、これで失礼させてもらって・・・」
「気の毒?いやいや、そうじゃあない」
その場を離れようとした田中さんの挨拶に被せるような口調で、男はうむを言わせず言葉を
続けるのだった。
「蒸発なんかじゃあありません。・・・その時以来なんですよ」
「・・・・何がですか?」
話を切り上げそこなった田中さんは、むすっとしながらもたずねかえした。
「そのとき以来なんです」
「だから、何がです?」
男は初めて、田中さんの方を向いた。眼鏡があかく、ぎらぎらと光っていた。いや、眼鏡の
奥にある眼が光っていると言った方がいいだろう。
「すだれ、ですよ」
「すだれ?」(・・何のことを言っているのだろう?この男は?)
「ごらんなさい、あの窓を。ほら、ほら。あそこに、ぼろぼろになったすだれがかかっている
でしょう?」
7983:02/07/27 18:30 ID:6pXCNtsI
廃屋を見上げる--その三
なるほど、たしかに二階の窓にはすだれがかかっている。いや、正確に言えば、もともとは、
すだれであったらしい残骸が。
「このあたりは高台で風が強いし、西日も強いですからね。ああやって風よけと、そして日よ
けがわりに一年中、すだれを吊るしていたわけです。あそこの家はね」
「ハア」
「そのすだれがね。鳴るんです」
「すだれが鳴る?」
「ええ。今はあんなありさまですが、もともとはしっかりとヒモでくくりつけて、丈夫な鉤で
吊るしていましたからね。アレは。少々の風ではぱたぱたと、はためいたりはしないのです。
それが、ぱたぱたというかわいい音どころか、ぎいぎいぎしぎしと軋むように鳴るんですな。
それも、風がないときにもですよ」
「どうしてです?」
むすっとしていたはずの田中さんだったが、ほんの少し好奇心を動かされていたことも事実
だった。
「家に残ったダンナも、そう思いました。なんべんも、すだれを調べてみました。でもべつだ
ん、ヒモがゆるんでいるわけでも、鉤がおかしいわけでもないんです」
「じゃあ、どうしてなんです?」
「・・・・ある晩のことですがね」男はしばらく間を置いてから、ふたたび口を開いた。
7993:02/07/27 18:36 ID:1d6sw3VY
「その晩は、とりわけすだれが、ぎしぎしと軋んだのだそうです。軋むというよりはもう、
悲鳴のような音でね。そうなんです。ぞっとする、悲鳴のような・・・。ダンナは家の中に一
人でしょう?もうたまらなくなった。家中の電灯を全部つけて、他のどの部屋に移っても、
その音がついてまわるんです・・・」
ギイッ。ぎいーっ。ぎぎっ。きいぃぃぃぃっ
田中さんには、その音が本当に聞こえるような気がした。
「で、ダンナは最後に刃物を持って、二階のあの窓のところに駆け上がったわけです。すだれ
を切り落としてしまおうと思ったんですね。がらっと勢いよく窓をあけて、体を乗り出した。
すると」
「すると?」
「・・・目の前には、奥さんがいたそうです」
「奥さんが?」
「ええ。すごい形相でねぇ。ぶらさがっていたそうですよ。ぶら〜ん、とねぇ。・・・ヒヒヒ」
男は、低くふくみ笑った。耳の奥に、いつまでも残るような笑い方だった。
「嘘でしょう?」思わず田中さんは、そう言っていた。
「いくら丈夫に吊るしているといったって、しょせんはすだれでしょう。すだれに人がぶらさ
がっていられるもんじゃない。違いますか?」
8004:02/07/27 18:39 ID:1d6sw3VY
廃屋を見上げる--その四
「ええ」男は、また笑った。「人だったらできません。ひひひ。・・・人だったらね。そうだろう」
夕日が山の向こうに沈んだ。田中さんは、あたりが薄暗くなっているのに気がついた。
「そうなんだよ。だから・・・」
首のあたりが、妙に寒かった。
「つまり」
自分の前に立っている男も、なんだかひどく、影が薄くなっているような気がした。
「・・・・で?」
「・・・で、とは?」
「いや、ダンナはどうなったんです?」
最初とは逆に、いつしか田中さんの方が何度も尋ねかける形になっていた。
「どうなったかって?」
最初とはまるで違って、男の言葉遣いはひどくぞんざいになっていた。声はいっそう低く、
ほとんど聞き取れない。
「どうもしやしない」眼鏡の奥の眼は、光線のかげんだろうか、まったく見えなかった。
まるで黒いふかい穴が、そこにぱっかりと、あいているようだった。
8014:02/07/27 18:44 ID:1d6sw3VY
「・・・二人ともいるよ。今でも。あそこに」
そう言うと、男はゆっくりと指で廃屋の窓をさした。同時に強い風が、通りの向こうからやってきた。
『バサッバサバサバサッ!』
すだれが、ばたばたと激しくはためいた。
その奥に、青白い顔が二つ並んで、田中さんの方を見つめていた。
少なくとも、田中さんにはそう見えた。
「あっ」声をあげた田中さんは、男の方を振り返った。
・・・そこには誰も、いなかった。
人気のない裏通りには、田中さんがたった一人で立ちすくんでいるだけだった。
彼はもう一度視線を廃屋の窓の方に戻したけれど、そこにもやっぱり、何も見えはしなかった。
微動だにしない、すだれの残骸があるだけだったそうだ。
田中さんが、帰宅してから家の人間に、廃屋にまつわる話を確認してまわったかどうか?
また、それが気味の悪い初老の男が、話した通りであったかどうか?
そこまでは、聞いた話の中には入っていなかったので、なんとも言えない。
たとえば、廃屋に住んでいたという夫婦の夫の方が、銀縁の眼鏡をかけた初老の男で
あったかどうかも、まったくわからない。