山下達郎からの返事にはこう書かれていました。
自分はTVとは縁がないので、この企画には出演できない旨。
達郎はもともとオフコースを意識してこの曲を作ったということ。
そして、ともに新人でアパートの1階と2階にそれぞれの事務所があった
頃から、重要なライバルであり、あっちがバンドのハーモニーで来るなら
こっちは一人ハーモニーで行くぞという具合に張り合っていたこと。
長い時代を経てその小田によってこの曲が歌われるようになって感無量で
あること。 そのお礼の言葉等々・・・
「憎しみあってるようなところもあったからねえ、この手紙は出てくれた
のと同じ価値がある」と語る小田。
ライブ後、「達郎の手紙が主役のひとりだった」と振り返ります。
そして、今までずっと我が道を行くことを良しとしたひとりのアーティス
トがあらたな出会いと絆を求め、動き始めます。
「来年もやる。 そして新しい仲間に今度こそ来てもらう。
それが新しい約束だ」と今年54歳になった横浜生まれの小田は静かに笑
いました。 小田和正にとっての”traveling”がこうして始まったのです。
ざねっちの返事については次の投稿で・・・
この後
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