16 :
短篇 [1]:
彼女はその時ゴムのレインコートを着て小さな傘を手に持ち、しょっちゅう
ランドセルを肩の上に揺り上げるようにしながら、小学校への道を急いでいた。
学校の塀に沿って片側が空地になっているあたりまで来た時に、三人ほどのや
はり登校中の男の子たちが、輪になってがやがや騒いでいるのが見えた。何を
しているんだろう、と彼女は考え、足を急がせて側まで行き、傘を傾けて、
「何してるの?」と無邪気に訊いた。
「見れば分るだろう、」と一人が横柄に答えた。
地面にはずぶ濡れになった子猫が、男の子たちの靴の先で小突かれなが
ら、かすかな鳴声を上げていた。
「可哀そうに。あんたたち、どうしてそんなことをするの?」
「こいつは捨猫なんだ、」と一人が言った。
「何も僕たち、こいつを苛めてるわけじゃないよ。様子を見ていただけだ
よ、」ともう一人が言った。
「うそ。靴で蹴っ飛ばしてたじゃないの。」
「ふん悪かったね。それでお前ならどうするんだ? これは捨猫なんだぞ。」
一番背の高いのが、相変らず威張ったような口調で言い彼女を睨みつけた。
その三人連れは確かに彼女よりも上級生だった。きっと四年生か五年生だった。
「おい早く行こう。遅刻するよ、」と一人が側からせっついた。
「どうする気だよ。雨の中を放って行くのか。」
17 :
短篇 [2]:2006/05/23(火) 05:57:44 ID:qHXyq1qv
彼女はもともと猫は大して好きではなかった。大きな犬が欲しくて何度も両
親にせがんだが、犬を飼うことは許してもらえなかったし、猫で我慢する気に
は彼女の方でならなかった。猫はどこか意地悪そうで、それにじっと見詰めら
れているとぞっとした。
しかしその時、彼女はまったく衝動的に雨傘を道の上に投げ出して、その子
猫を片手で抱え込むようにし、傘の柄を取り上げた。そのちょっとの間に、仰
向きになった傘の中には水が溜っていたし、大粒の雨は彼女の顔を濡らした。
「学校へ持って行くのか、」とさっきの男の子が訊いた。
「ええ。だって可哀そうだもの。」
「先生に叱られるぞ。」
「平気よ。悪いことをするわけじゃないわ。」
「ふん、叱られたって知らないから。」
三人の男の子たちは、つまらなさそうな、ちょっと惜しそうな顔をして、が
やがやと言い合っていたが、やがて彼女を残して先に歩いて行った。彼女の方
はお荷物を抱えてそんなに早くは歩けなかった。先生に叱られそうだという不
安が彼女の足を重くしたが、遅刻するかもしれない不安の方が勝を占めた。い
くら急いでも他の生徒たちに出会わないのは、もう余程遅くなっていることの
証拠のようだった。
学校の門をくぐる時には、遅刻したことは確実だと彼女に分った。広い校庭
は一面の雨に煙っていて、誰もいなかった。彼女は足を急がせて下駄箱のとこ
ろまで行った。自分の名前を書いてある下駄箱の中から運動靴を出して履きか
え、濡れた半長靴を奥の方へ入れた。片手に子猫を抱えたままでは、その作業
は楽ではなかったが、猫を下におろせば逃げられはしないかと心配だった。し
かし子猫は元気がなくて、彼女が下駄箱の中に入れようとすると、少し爪を立
てただけでおとなしくされるままになっていた。
18 :
短篇 [3]:2006/05/23(火) 06:00:15 ID:qHXyq1qv
「待ってるのよ。休み時間にまた来るからね。」
子猫はかすかに鳴声を上げた。彼女は教室に走って行った。
次の休み時間に、友達に見つけられないようにしながらそっと来て覗いてみ
た時に、子猫は逃げもせずに、じっと蹲っていた。次の休み時間にはもっと元
気がなかった。お昼休みに、彼女はお弁当のおかずを残して紙にくるむと、下
駄箱の中に入れてやった。
授業が終って皆が帰り仕度をしている間も、彼女はわざとぐずぐずして後に
残るようにした。仲良しの子が一緒に帰りたがるのも、上手にやり過した。そ
して安全を確かめた上で、そっと自分の下駄箱に近づき、その蓋を明けた。お
弁当の残りを食べた様子はなく、子猫はぼろ切れのように半長靴に寄りかかっ
ていた。彼女が手で掬い出すと、それはぐにゃりと首を垂れた。雨と泥で汚れ
た毛並は気味が悪かった。
彼女は子猫の骸をまた片手に抱き、もう片方の手に傘をさして校門を出た。
朝がた子猫を拾った、片側が塀で片側が空地になっている場所まで来ると、な
るべく遠くまで届くように、力いっぱいその骸を投げた。それはくるくる廻り
ながら草叢の間に消えた。
何か不意に無駄なことをしているような気がした。このいつ止むともしれな
い雨も、お弁当のおかずを食べられなかった子猫も、重たいランドセルを背負
っている自分も、みんな無駄なような気がした。彼女はランドセルを揺り上げ
ると、傘の柄を握り締め、一目散に走り出した。 〆