【FUGAZI】DISCHORD総合スレ2【Q and not U】
101 :
名盤さん :
03/05/25 14:20 ID:aCi+gkop >>99 そうです。DISCOGRAPHYだけ。
このレーベルってレアになって高くなるのうざいから古い音源とか7inchとかもCDにして再発してるんだよね。
イアンってえらいよな。
102 :
名盤さん :03/05/25 15:10 ID:GbWUh16m
ありがたいよ
103 :
名盤さん :03/05/26 04:57 ID:KfK/MgOr
ここら辺に影響受けてる日本のバンドってドンなんいます? ブッチャーズ周辺しか知らないんですが・・・
104 :
名盤さん :03/05/26 20:48 ID:HCvEtNlt
3枚組みボックスセットは買いですか? 未発表曲集がかなり気になるんだけど・・・
105 :
名盤さん :03/05/26 20:49 ID:M0odPqzq
エンハンスドっつーか映像もついてるよね。 俺も欲しいな。
106 :
名盤さん :03/05/27 00:42 ID:WQGD4xdu
オレは生VOID見るために買ったヨ。
107 :
名盤さん :03/05/27 09:22 ID:pZCTvtVu
>>103 ハイスタ、envy、BORIS、DMBQとか
108 :
名盤さん :03/05/27 09:25 ID:WlXl0ZKm
あ
109 :
名盤さん :03/05/27 09:26 ID:bwpU8tQd
ハイスタ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
110 :
名盤さん :03/05/27 09:30 ID:pZCTvtVu
ハイスタのギターは原爆オナニーズに加入したし。
111 :
バンダナ :03/05/27 09:46 ID:311uKkYN
>>95 へぇ〜、なるほど。HCよりな音なら結構聴けるかもしれませんね。今度見つけたら買います。
レビュー・サンクスです。MARGINAL MANは"identity"は持って無いので、"double image"のみを
レビューすると、ぶっちゃけメロディックHCな音ですね。DAG NASTYとかVERBAL ASSAULTとか好きな
人は好んで聴けると思います。全曲通すと疾走感ある曲ばかりなのですが、中でもテンポ若干落として、
歌メロ取ってる曲の"friend"、"shades of reason"、そしてトラック・ラストに相応しい"double image"は
印象に残ります。特に"double image"は男泣き出来ます(w イントロのギターソロ、サビの部分、ラスト近くの
コラース?は素晴らしく、同時に切ない曲だと思います。80年代中期〜後期にかけてのDCバンドと比べると、
結構聴き易い方なので、見つけたらチェックして見てはいかがですか?ちなみに、"double image"はCD再発されて
いるので手に入り易いと思います。"identity"は新品ではもう見なくなりましたね…。レーベル直販しか手に
入らないかも。
112 :
バンダナ :03/05/27 09:56 ID:311uKkYN
>>98 確かに面子もパートも全く一緒ですよね。でも、ONE LAST WISH自体が遊び半分でやってた感じ
なんじゃないかなっと、勝手に想像してますけど(w 活動自体僅か3ヶ月程度の、ライブ6回しか
やってないくらいだし…。FUGAZI結成に関してのヒストリー的な事柄は全く知らないですね。
僕はそういうバンドの背景的な情報にうといんで…。というか、あの時代はFAITHの元メンバー達が
結構活躍してたんだなぁっと、DCバンドのCD・インナー眺めながら思いましたね。
113 :
名盤さん :03/05/27 10:37 ID:w2fb8VIx
One Last WishのMichael Hamptonはex-Faith, Embrace. Rites of SpringもEmbrace(Faith + Ian)もライブ15回で解散後結成。 Rites of Springと同メンバーは実験志向のHappy Go Licky. BlendanとGuyはしばらくFugaziとかけもち。 ボックスセットにやや詳しいバンドヒストリー。
114 :
名盤さん :03/05/27 10:38 ID:w2fb8VIx
Blendan→Brendan
115 :
バンダナ :03/05/27 13:00 ID:xbVFfdyP
>>113 なるほど。BOXセットかぁ…。欲しいっすけどもっと安くならないかなぁ。
HAPPY GO LICKYも聴いてみたいですね〜。80年代中期〜後期にリリースされた
音源の再発CDって、今は気軽に手に入らないのが悔しい感じしますね(全部では
無いけど…)。GRAY MATTERの1stなんか一度しか見たこと無いし、SCREAMの
後期音源編集CDなんか一度も見たこと無いですね…。
116 :
95 :03/05/27 20:10 ID:IWfu2w2e
>>111 ありがとうございます。MARGINAL MANぜひチェックしてみます。ていうか僕も
BOXセット持っててMARGINAL MANいいなーって思ってたんですよね。
BOXセットはかなりいいですよ。一つ一つのバンドのヒストリーが1ページ分
書いてあるし、もちろん英語ですけど…まだ聴いたことのないバンドも聴けるし。
80年代中期から後期のDCバンドってハードコアから抜け出してそれぞれのバンド
によって音が違うからおもしろい。EMBRACE、DAG NASTY、NATION OF ULYSSES
みんな違う。思ってるの俺だけだったらすいません
117 :
名盤さん :03/05/27 23:17 ID:w2fb8VIx
ボックスセット Rites of Springの項を訳してみた。 ほかに希望がある? 1983年、ディスコードの中枢のバンド(マイナースレット・フェイス・ インサレクション)の解散とともに、レーベルの活動は止まったかに見え たが、水面下で模索が続いていた。DCシーンは大きくなって様変わりし、 問題が見えにくくなっていた。メディアによってパンクに結び付けられた 暴力とニヒリズムがDCでも根付きはじめ、古くからのパンクスは疎外感を 感じていた。 この出直しの先頭に立った Rites of Spring は、我々に多くを残した。 当時のパンクシーンで支配的になっていたマッチョスタイルと真っ向から 戦ったことももちろんだが、音楽やスタイルのきまりごとに挑戦したこと が大きい。元インサレクションのギー、マイケル、ブレンダンに、アンタッ チャブルズ→フェイスのエディーが加わって、全く新しい音楽を作り出し た。四人の団結は固く、バンドの理念を追求していた。 バンドのファンは、欠かさずギグに通うことを競った。どのライブも、 最初で最後とでもいうような気迫だった。火がついたような演奏で、楽器 が壊れることも多かった。それもあってか、15回ほどのライブでバンドは 解散する。このバンドの果敢な挑戦が、後に「革命の夏」とも言われる、 DCシーン1985年のエネルギーの膨張を導いたのである。
118 :
名盤さん :03/05/28 01:22 ID:tLCtsT29
>>107 BORISとDMBQ関係ないだろ
やっぱ日本だとゼアイズ、クララ、ナインデイズワンダーとかはすごいな。
119 :
山崎渉 :03/05/28 13:02 ID:v4D/P2ql
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
120 :
名盤さん :03/05/28 22:12 ID:mjIILAbs
勝手に訳した。 まずEmbrace マイナースレットの解散ライブは1983年9月で、12月に7インチのSalad Days を録音した。そのときまでに4つのバンド(ティーンアイドル、マイナースレッ ト、スキューボールド、グランドユニオン)で一緒にやってきたイアンとジェフ は、ふた月も音楽を休むとそろそろまた新しいバンドに取り掛からねばという気 になっていた。 メンバーを換え、イアンがベース、ギター、ボーカルというように編成をいじ り、1年あまり練習しているうちに、元フェイスのクリスとマイクとでバンドと しての形が整ってきた。しかし、マイナースレット以来ずっとこじれていた問題 も相変わらず多く、イアンはジェフと話し合いの末、一緒にはやらないというこ とに決めた。大学進学のためフェイスをぬけたアイヴァーが冬休みで帰っていた ので、ドラムは彼に頼み、卒業まで待つことにした。 結局のところ、喧嘩別れ同然で解散したフェイスに、イアンが弟に代わってボー カルとして加わる、という形になったのは皮肉だ。しかし、とにかくまたバンド をやりたいという熱意はみんなほんもので、おまけに「革命の夏」がらみでシー ンは活性化していたから、とにかくこのラインナップで先へ進もうということに なった。 エンブレイスは、85年7月フード・フォー・ソートでのライツオブスプリング ・グレイマターとの対バンを皮切りに15回のライブを行なって解散した。
121 :
名盤さん :03/05/28 22:13 ID:mjIILAbs
One Last Wish 「革命の夏」が政治的・音楽的な新たな展開をみせる中、80年代半ばから「グ ループハウス」文化が広がり、その後何年もDCのアングラパンク文化の中核とな った。1981年のディスコード・ハウスがその走りだが、年下のパンクスが実家を 離れ、あるいは大学から戻ってグループハウスに集結するようになるのはその4、 5年後のことだ。 DCのカテドラル地区にあったガーフィールド・ストリートハウスは1985年のオー プンで、ライツオブスプリングのブレンダンとギーやエンブレイスのマイケルと アイヴァーもその住人だった。両バンドが十数回のライブだけで1986年早々に解 散してしまった後、マイケルは、ライツオブスプリングの3人(ブレンダン・ギー ・エディー)とワンラストウィッシュを結成する。しかし、このバンドは前身バ ンドよりさらに短命で、4ヶ月あまりの間に6回のライブを行なっただけだ。 11月にインナーイアーで12曲テープを録音したのがバンドとしての最後の活動 となった。バンドとしての展開もなかったし、解散後のバンドのリリースばかり という評判をなんとかしたいというディスコードの意向もあって、このテープは 長らくお蔵入りすることになった。1989年にそのうちの1曲がステートオブザユ ニオン・コンピに収録されたことでこの録音への関心が高まり、元メンバーはテー プのダビングに追われることになった。ディスコードとピータービルト(ギーの レーベル)のコーリリースでテープ全体が世に出るのはそのさらに十年後である。
122 :
名盤さん :03/05/28 22:14 ID:mjIILAbs
Happy Go Licky ワンラストウィッシュがダメになったあとも、ブレンダン・ギー・エディーの 3人はスリーピースでやっていくつもりだった。誰もベースをやりたがらなかっ たので、当初はギター2+ドラムで立ち上げることも考えたが、やがてライツオ ブスプリングのベーシストだったマイク・フェロウズの名前があがることになる。 単なるROS再結成では面白くないので、4人は全面的に新曲で行くことにし、バン ド名も変えてハッピーゴーリッキーと決まった。 バンドは実験的で、80年代当時のパンクの常識とはかけ離れた音に向かってい た。歌詞は抽象的で、ライブのパフォーマンスも徹底したデコンストラクション で臨んだので、未完成か、あるいは即興で演奏しているのではないかという印象 を与える曲もあった。スタジオレコーディングは一度もなく、何本かのライブの テープ録音がこのバンドの唯一の記録となっている。このうち一部はギーのレー ベル(ピータービルト)が87年にリリースし、さらに97年にはもっと充実した音 源がディスコード/ピータービルトから出ている。 1987年、ハッピーゴーリッキーが練習をはじめるとまもなく、イアンとジョー がブレンダンを彼らの新しいプロジェクトに誘い、やがてギーも加わって、その 年の暮れフガジが誕生した。ギーとブレンダンはこの年の秋は二つのバンドをか けもつことになった。ハッピーゴーリッキーの最後のライブは1988年の元旦の9:30 クラブで、このライブの最後を「ドリンク・ディープ」で締めくくった。このバ ンドで演奏した最初で最後のROSの曲だった。
123 :
名盤さん :03/05/28 22:15 ID:mjIILAbs
Fugazi 1986年夏のビーフイーターのツアーにジョーはローディーとして参加していた。 そのツアーの間のどこかで、ジョーはボーカルのトーマスにバンドでベースをや りたいと洩らしたのだ。それでツアー後トーマスが、ハッピーゴーリッキーはベー スを探してたんじゃなかったか?とイアンに問い合わせた。マイクがHGLに参加する 前のことだ。ところが、イアンはイアンでバンドを組む相手を探しているところ で(エンブレイスが解散したばかりでそんなに急いではいなかったが)、イアン はジョーと会っていっしょにやることにした。 イアンにとってはバンドでギターを弾くのは初めて、ジョーはジョーでバンド 経験はほとんど無くて楽器もまだ勉強中だったから、二人ともやることはたくさ んあった。二人は元ダグナスティーのコリンにドラムを頼み、秋の間は3人で演 奏した。12月になってコリンからダグナスティーに戻ると告げられたので、イア ンとジョーは代わりがみつかるまでブレンダンにドラムを頼んだ。ブレンダンは 友達で、ディスコード・ハウスでハッピーゴーリッキーの練習をはじめたところ だった。 夏のあいだ中3人は遅くまで地下室で練習に励み、初ライブに臨んだ。デビュー はスリーピースだったが、2回目にはギーがボーカルで加わった。ギーとブレン ダンはそれまでに4つのバンドで一緒にやっていて、そのときもハッピーゴーリッ キーで組んでいた。それに4人は古くからの友達だった。だからギーがバンドに加わ るのはすんなりと決まった。
124 :
名盤さん :03/05/28 23:43 ID:bEwgG1DB
いやーほんと助かってます。 時間があったらでいいのでVoidを訳してもらえませんか?お願いします。
125 :
名盤さん :03/05/29 00:16 ID:FAddSkDo
Void ワシントンの50キロ北にコロンビアという町があるが、この町はアメリカで最初の 計画都市のひとつである。Voidのように徹底的にカオティックなバンドが生まれるのに ふさわしい町だったといえるかもしれない。彼らのDCでのデビューは1回目の ウィルソン・センターライブで、バッドブレインズが中心となって企画した 15バンドのマラソンライブだ。ヴォイドの曲は、各メンバーがそれぞれ自分の パートを人間技で可能な限りばらばらに早弾きする、といった感じだった。 単なる不協和音だと思った者もいるだろうが、高度な音楽だと見抜いた者もあった。 このコロンビアのバンドはディスコードのクルーと親しくなり、やがてイアンや ドンと共にスタジオ入りすることになる。最初のデモのうち3曲がフレックスユアヘッド コンピに収録され、2回目のデモはDCの人気を二分するバンドのスプリットとして 世に出た。現在に至るまで両バンドはよく比べられ、このアルバムを「フェイス/ボイド」と 呼ぶか「ボイド/フェイス」と呼ぶかで好みがだいたいわかるということになっている。 末期にはボイドのメンバーはメタルに傾倒していくが、奔放な演奏スタイルのおかげで 相変わらずパンクスの機嫌をそこねることなく演奏できた。1984年、バンドは オハイオ州モーミーのコリー・ラスクの地下スタジオに入り、コリーのレーベル、 Touch & Goからアルバムを出すことになった。テープは未完成で、音源は日の目を見ていない。
126 :
名盤さん :03/05/29 13:10 ID:zfF+EvvO
Egg Hunt 1983年にイアンとジェフはロンドン・サザンスタジオのジョン・ローダーと組 むことにした。マイナースレットのEPアウトオブステップを聞いたジョンが、欧 州での独占販売について電話してきたのがはじまりだ。同じようなオファーはオ ルタナティブ・テンタクルズ、ラフトレード、SSTといったところからも来ていた が、自主運営と健全な思想性で知られていたクラスとジョンが組んでいるという のは大きかった。クラスはジョンが自分のスタジオでレコーディングしたバンド の一つで、クラスのレーベル(クラスレコード)とも仕事をしていた。 ジョンはニューヨークでイアンとジェフに会い、マイナースレットのライブを 見た。このときから長く我々は友情と仕事で結ばれることになった。ジョンが関 心を示してくれたタイミングは、アウトオブステップの予想外の売れ行きと、新 譜の注文の殺到で四苦八苦していたディスコードにとってもまたとないものだっ た。サザンとの関係のおかげで、より多くの在庫を維持しながら新譜をリリース し続け販路を拡大することが可能になった。 1986年にイアンとジェフはイギリスへ渡りジョンを訪ね、彼のスタジオでレコー ディングさせてもらった。サザンはウッドグリーンという労働者地区の住宅街に 本拠をおいていて、ジョンはガレージに24トラックのスタジオをもっていた。録 音したのは4曲で、そのうちミーアンドユーはイアンとジェフが長年にわたって 地下室で一緒に演奏してきた曲だ。ウィオールフォールダウンはイアンがエンブ レイスのために書いたのだがバンドがなくなって宙に浮いていた曲だ。 せっかくロンドンにやって来てレコーディングまでした記念にと、イアンとジェ フはシングルを出すことにした。バンド名は、イースター休みの間にレコーディ ングしたことに因んでいる。その夏、二人は元グレイマターのメンバーとエッグ ハントという新しいバンドを組もうとしたが実現しなかった。結局、サザンのセッ ションが二人の最後の録音ということになった。
127 :
名盤さん :03/05/29 19:29 ID:nT0nFPWX
禿乙age
128 :
名盤さん :03/05/29 23:29 ID:fglK6ral
ラフトレードがハードコア・パンクのレコードを出そうとしてたのかー。 それくらいMINOR THREATにインパクトがあったってことかな。
129 :
名盤さん :03/05/30 00:13 ID:22zH3DjU
130 :
名盤さん :03/05/30 00:25 ID:+7cRDd/2
131 :
124 :03/05/30 00:31 ID:7K1rJgls
>>125 ありがとうございます!
次はSLANT6をお願いします。
132 :
名盤さん :03/05/30 07:21 ID:7OxAfVCU
Slant6の前にAutoclave ディスコードはDCのアングラパンクの代名詞になっているが、 もちろんこの地域のすべての音楽をカバーできるわけではない。 80年代終わりにはシーンは地域の点でも世代の点でも拡大し、 パンクという語が指すスタイル自体も融通無碍になっていた。 あまりにもたくさんのバンドがあちこちから出てきて、レーベルが すべてのバンドを知るなどということは不可能で、もとより リリースでカバーしきれるわけもなかった。自分たちでレーベルを はじめたバンドも多かったので、DC地域でリリースされた作品の 流通サービスとして、ディスコードはディスコード・ダイレクトを はじめた。 Autoclaveは90年代初期にダイレクトがかかわったバンドの ひとつだ。バンドとしての活動は1年あまりで、ライブも数回だが、 ジェフとイアンがたいへん気に入った音源をいくつか残した。クリス ティーナとメリッサが1989年にハズマットという名ではじめたバンドに、 やがてニッキとメアリーが加わりオートクレイヴとなった。 最初の7インチは、オリンピアKとのジョイントDisKordからのリリース、 2枚目は解散後の10インチをクリスティーナのレーベル、マイラレコード から出た。解散後、メンバーはちりぢりになった。ニッキはオリンピア、 メリッサはニューオーリンズへ移り、メアリーはボストンでヘリウムを 結成する。クリスティーナはDCに残って別のバンドをはじめた。 オートクレイヴは分類とか流行とは無縁なバンドで、その音楽は ユニークで色褪せないものだったので、ディスコードは6年後の1997年に 全作品をCD化した。
133 :
名盤さん :03/05/30 07:22 ID:7OxAfVCU
Slant6 オートクレイヴが解散したあと、クリスティーナは新しいアイデアを実行に移 す。メンバーを固定することにこだわらなかったので、いろいろな人と組み、中 には楽器を教えながら、ということになることもよくあった。アパラチアから出 てきたマイラの場合も、ベースを教わりに来たのがはじまりだ。最初のライブで は、なんとネイションノブユリシーズ・ベースのスティーブ・ギャンボーがドラ ムを担当した。ニューヨークのキッキングジャイアントというバンド出身のレイ チェルがしばらくドラムを担当したが、オリンピアに移ってザ・ニードに参加し た。 ドラムが決まらないまま、クリスティーナとマイラはフガジのスタジオでブレ ンダン、ギーとレコーディングする。このうち、ネイションノブユリシーズ・ド ラムのジェイムズ(ブレンダン弟)が参加したタイム・エクスパイアドが、マイ ラレコードのGo in the darkコンピに収録されている。 この頃、クリスティーナはフードフォーソートで働いていて、マージとはここ で知り合った。マージはピアニストだったがかまわずバンドに迎えてドラムを頼 んだ。3人は、ネイションノブユリシーズのグループハウス(通称エンバッシー) に移り、彼らと一緒に、レコーディングやファッションショー、あるいは、フェ イマス・モンスターという名のパフォーマンス主体の定例ハウスパーティーを行 なったりもした。セカンドLPのタイトル曲をイメージした8ミリ「インゾンビ ア」も撮っている。USツアーも数回行い、ディスコードからはシングル1枚ア ルバム2枚を出している。イギリスツアー中に解散ということになり、1995年リー ズでのフガジとの共演が最後のライブとなった。
ボックス買って無い
激しく後悔中。
>>7 OxAfVCU
お疲れさまです。大変興味深く読ませてもらってます。
135 :
名盤さん :03/05/30 21:27 ID:lXnW7oF8
皆さんDANCE OF DAYSは読みましたか?
136 :
名盤さん :03/05/30 22:18 ID:2XkLIQn3
137 :
137 :03/05/31 03:03 ID:VvgJduH+
何度か話の出たlightning boltのDVDはpower of saladってやつっすよね? アマゾンで買えるみたいやけどリージョンコードは無視していいんですか?
138 :
和久井さんチのノブくん :03/05/31 03:06 ID:R6yRxZa4
あぁ〜、リュージョンコード無視でええみたいよ。確証ないけど。 どっかのスレでコテハンがそう言ってた。
139 :
名盤さん :03/05/31 04:34 ID:PRY5ZV47
ナイス情報。
140 :
名盤さん :03/05/31 07:16 ID:FzwgRLK8
Three エッグハントの曲をイギリスで録音した後、イアンとジェフは新しいバンドを 考えていた。グレイマターのジェフ・ターナー、スティーブとでやってみたがあ まりうまくいかず、イアンはそこでおりることにした。3人は踏みとどまり、グ レイマターからもう一人マークを呼んだ。このラインナップがスリーとなる。 このころジェフは印刷に凝っていて、数字の3が大きなポスターでも目立ち、 遠くからでもすぐ見分けがつくバンドのシンボルになりそうだとひらめいたのだ。 ジェフは長年、ディスコードハウスのガレージに作った印刷機でTシャツをプリ ントしていて、その頃は多色刷りのライブのポスターに手をつけはじめていた。 レーガン政権にいろいろあった司法長官を攻撃した例の「ミースは豚だ」ポスター もこの頃だ。あの馬鹿でかいポスターがDCの至るところに貼られたので、ディス コードに警察が現れて逮捕するぞとジェフたちを脅すという騒ぎになった。一方 スティーブはコミック本の会社、アーケイン・コミクスを創めた。事務所は、DC のデュポン・サークル近辺にジェフ・ターナーと住んでいたスワンストリートの アパートだった。この通りについては曲にも歌っている。「ここの実は糞みたい な臭いがする」というのは、界隈の歩道の銀杏並木が落とすぎんなんのことだ。 スリーはツアーも2、3回こなし、ジェフ・ターナーのホームスタジオやイン ナーイアーでレコーディングした。バンドをとりまく条件は順調だったが、アル バムリリースを前にバンド自体が自壊した。1988年の元旦、スリーはハッピーゴー リッキーといっしょにラストライブを行なった。
141 :
名盤さん :03/05/31 07:18 ID:FzwgRLK8
The High-Back Chairs スリーが終わったあと、ジェフとジェフ・ターナーはさらに二つ、セネター・ フラクスとワンダラマを一緒にやった。ジェフがアングラ一徹からポップ・ロッ クシーン寄りに方向を変えたのがよくわかる音のバンドだった。ジェフはさらに、 ハイバックチェアズというバンドをはじめる。グラフィックデザイン関係の友人 でディスコードのジャケでも何枚か関わっていたピーター、元ベルベットモンキー ズで写真家のチャールズ・ステック、ジム・スペルマンというラインナップだっ た。 ハイバックチェアズはディスコードのほかのバンドから浮いていた。シーンが 政治的な方向性を強めた時期でもあった。ジェフとイアンは、このバンドをディ スコードからリリースしてよいかどうかについて何度も話し合った。イアンは、 ディスコードの音を期待して買った人がとまどうというだけでなく、アングラパ ンクの中に置かれたのではバンドにとっても不利益だということを問題にした。 ジェフは、そもそもディスコードはDCのコミュニティーが生み出した音楽を記録 することが目的のレーベルで、それならハイバックチェアズもとうぜんそこに含ま れるべきだと感じていた。それになにしろレーベルのオーナーの一人である自分 が、リリースしたいと言っているのだ。このような趣味の不一致は、さらにジェ フが、ディスコードにとっては無意味でも自分が気に入った音楽をリリースする ための別のレーベル、アダルトスイムをつくるところまで行った。 ハイバックチェアズはもっぱらDCで演奏し、ヴェロシティーガールにフルタイム で参加したジムに変わってチャールズ・ベニントンが加わった。1992年の8月、 ジェフもバンドを辞め、このバンドを最後にパフォーマンスからは公式に引退し た。ハイバックチェアズはドラムが替った後しばらくして解散した。
142 :
かわうそ :03/05/31 10:04 ID:LslDkhij
ライツとQ¬Uのブート手に入れたり
143 :
名盤さん :03/05/31 10:07 ID:5nr9RBDd
>かわうそくん どこで?! カッコイイ?
144 :
バンダナ :03/05/31 14:44 ID:d6MeO7rn
3をこの間買って聴いたんですが、80年代後期DIS〜物してはかなり聴きやすい バンドだと思いましたね。音の感じが、最近のポップなエモ・バンドに近い気が しますね。もうちょっと聴きこんでみれば、上手くレビュー出来るんですけどね…。
145 :
かわうそ :03/05/31 15:14 ID:LslDkhij
>>143 共有ソフト
そらもう言うまでもなくカコイイYO
146 :
かわうそ :03/05/31 17:44 ID:LslDkhij
Oxesの新譜バリヤバイ!
147 :
名盤さん :03/05/31 18:49 ID:U966VAet
>>136 俺持ってるけど読んでないんだよね。
おもしろいですか?
148 :
名盤さん :03/06/01 03:31 ID:Kd/BuKCT
Red C 1981年の初め、スイスからDCに移ってきたばかりのトーマスは、パイプをふか しながらMストリートを歩いていて、DCパンクロッカーの一群にぶつかった。ワシ ントンポストがパンクシーンを記事にするためインタビューをやっていたのだ。 ここで出会ったのが、メリーランド州に入った郊外のポトマック出身のエリック ・L。エリックはドラム、トマスはバンドを探しているところだったので、レオ、 トーニとでレッドCを結成することになった。レオはライブ二、三回でピートと 交代。ピートは、ガバメントイシューのジョンと、謎のバンド、ザ・スタッブを やっているという噂だった。 レッドCという名前は、DCで人気のエチオピア料理店「紅海」に由来するらし いが、別の説もある。バンド側は真相を明かさないままだった。バンドの音楽へ のアプローチはユニークで、当時のほとんどのバンドとは異なった音作りだった。 わずか6回か7回のライブの後解散するが、その間にヒットエンドランスタジ オでデモを録音し、そのうちの3曲がフレクスユアヘッドコンピに収録されてい る。もっと曲数の多い地下室録音の別のデモもあったらしいが、80年代の半ばトー ニが肺炎で死んでから、テープ類の行方はわからなくなっている。
149 :
名盤さん :03/06/01 03:32 ID:Kd/BuKCT
Beefeater レッドC解散後、ドラムのトーマスはDCを出てジョージア州のサヴァナ美大に 進学。しかしズボンの上に下着を着て大学の公式行事に出たために退学になり、1983 年にDCに戻り、ディスコードハウスに転がり込むことになった。アイアンクロス のサーブが出たばかりで空いていた部屋だ。トーマスが持ち込んだ菜食主義とユ ニークな音楽論や音源は、ディスコードハウスの住人だけでなくシーン全体に知 れわたった。ほどなくそのような音楽論はバンドとして実践されることになる。 ビーフイーターの初ライブは1984年夏フードフォーソートだが、このバンドの 出現とその政治的主張は、一部の乱暴な客にとどまらず伝統派のパンクスの多く にとっても気に障るものだった。ファンクとジャスの要素を混ぜた演奏に、政治 的主張と精神性を前面に出したトーマスの詞が歌われた。ビーフイーターのとん がったアプローチとライツオブスプリングの激しさの取り合わせが、その後何年 にもわたってワシントンの音楽に、反発も含め、影響を与え続けることになる。 ビーフイーターの曲ノーモアアパルトヘイトは、南アフリカ大使館前で行なわ れたパンク・パーカッション・プロテストのきっかけになった。これらの活動を 中心として「革命の夏」の間のDCパンクシーンは政治的な展開をみせる。 初期のドラマーにはブルース・テイラーとマーク・トゥーチェア・シェルハー スがいる。「トゥーチェア」は、dcスペースでの狂乱ギグで椅子を2脚壊したこ とにちなんでいる。
150 :
名盤さん :03/06/01 03:33 ID:Kd/BuKCT
Fidelity Jones ビーフイーターをたたんでから、トーマスとダグは次のプロジェクトのアイデ ア作りに熱中する。最初の計画ではパンクシーンの外からミュージシャンを招い てもっと幅のあるサウンドにしよう、というものだった。しかし、数人のミュー ジシャンとセッションを重ねてみてぶつかったのは、音楽のやり方や期待する報 酬の落差だった。パンク・コミュニティーの中ならほぼ共通の基本的な美学や倫 理があってあたりまえのように思っていることがあるが、それが通用しないミュー ジシャンとの作業はやる気を挫くということを学ぶ結果になった。 ポジティブフォース・ハウスが生まれると、トーマスとダグは最初の住人とな り、入居するとさっそく、同じく住人だったマライア・ジョーンズとジェリーの 二人とバンドをはじめる。ポジティブフォースDCは、パンク活動家グループで、 毎週土曜日の集会にハウスを使っていた。グループの活動は、寄付ライブと抗議 行動などの組織で、ステートオブザユニオンの寄付コンピもグループの企画だっ た。このコンピに収録のフィデリティ・ジョーンズの曲は、オリジナルラインナッ プでの唯一の音源で、録音の後すぐマライアは辞めてホーリーローラーズにドラ ムで参加した。 代わってラインナップに加わったアンディーは長年DCのアンダーグランドで活 動してきたミュージシャンで、それまで参加したバンドにはいわくつきのホワイ トボーイやオンビヨンドジブラなどがある。フィデリティージョーンズは、パン クのカバーする音楽的領域を押し広げたが、当時はまだ受け入れる人は少なかっ た。彼らが最初に思い描いた幅のある音は、最終的に実現されたといっていいか もしれない。
151 :
名盤さん :03/06/01 03:39 ID:Kd/BuKCT
マイナースレットのファーストデモテープってEUではもう発売か。 どこか入荷してます?
152 :
152 :03/06/01 19:26 ID:mIBwp+yP
>>かわうそ oxes新作出たん?
153 :
名盤さん :03/06/01 19:44 ID:Kehhy8w2
154 :
名盤さん :03/06/01 21:06 ID:Kd/BuKCT
初期バンド6連発。ちと汗臭い。 まずはThe Teen Idles このレーベルをはじめたバンド。ワシントンDCのウドロー・ウィルスン高校の 裏口からパンクロックが入り込んだのは70年代の終わりのことで、79年の春には 4人の生徒がスリンキーズというバンドを組んでいた。初ライブの後、ボーカル のマーク・サリバンは大学へ行ってしまった。代わりに、ウィルスン高生でちょ っと名の知れたパンクスだったネイサンをバンドに招いた。このラインナップが ティーンアイドルズとなる。 やがて彼らはもうひとつのワシントンのバンド、バッドブレインズと知り合う。 1980年当時世界最高だったかもしれないバンドだ。バッドブレインズは「ノー」 という返事を嫌った。これは若いDCのパンクスに大いに影響する。ティーンアイ ドルズのメンバーやファンの多くは18才未満で、バーでのライブだと見たいバン ドでも見られなかった。だから、演奏できる場所を探したり、年齢制限の厳しい クラブに実力行使することになった。このような実力行使やライブ自体のエネル ギーのために、クラブから出入り禁止を食うことも多かったが、それがまた楽し かった。 その年の夏、ティーンアイドルズとそのローディー(帰省中のマークと、「5 人目のアイドル」ヘンリー・ガーフィールド。後のロリンズ)はグレイハウンド バスに乗りカリフォルニアへ旅立ち、2回のライブを行なった。サンフランシス コのMabuhay Gardensというクラブで、18歳未満のライブ参加者の手にXをつけて 酒を販売しないようにする、というやり方をはじめて知り、DCにそのアイデアを 持ち帰って、キッズがクラブでのライブに入場できるように交渉した。解散のと きまでにバンドで貯めた600ドルを使って、自分たちの音楽の記録として8曲7イ ンチをリリースした。ジャケ写のX印をした両手は、当時15才だったイアンの弟 アレックのものだ。これがディスコードの初リリースとなる。
155 :
名盤さん :03/06/01 21:07 ID:Kd/BuKCT
The Untouchables もうひとつのウィルスン高バンドで、ティーンアイドルズとも親しい。1979年 の12月、両バンドは地下室で初ライブを行なう。アンタッチャブルズのカオティッ クなパフォーマンスは伝説である。ライブ後、呼吸亢進と意識不明でアレックが 担ぎ出される、ということもよくあった。1980年春、ヒットエンドランという小 さな地下スタジオで両バンドは最初のデモを録音したが、このテープは街中に出 回った。夏の終わりにリッチが進学のためにワシントンを去り、その結果バンド はドラムと練習場所をなくした。 当時のパンクスの溜まり場だったファーストフードのロイ・ロジャースの前に 座り込んで、そろそろ幕を引くかと腹を決めかけていたところで、ドラムを叩い たことのないダニー・イングラムがやってもいいよと言ってくれた。ダニーはレ コード屋で働いていて、ジョージタウン高で結成されたばかりのエクストーツと いうバンドと話をつけ、バンドが練習に使っていた親の家の地下室をアンタッチ ャブルズにも使わせてもらうことになった。 アンタッチャブルズは、DCでは何回かライブをやっているが、遠征はヴァージ ニア州ノーフォークに行っただけで、このときはティーンアイドルズと一緒だっ た。バンドとして登場した最後は、1981年はじめの9:30クラブでのマイナースレッ ト/ステイトオブアラート/ブラックマーケットボーイのライブで、このときは メンバーがいきなりステージに上がって器材をのっとり、シャム69のイフザキッ ズアーユナイテッドをやりだした。演奏は、電源が抜かれるまで続いた。
156 :
名盤さん :03/06/01 21:08 ID:Kd/BuKCT
State of Alert ヘンリーはティーンアイドルズのローディーだったが、最初からバンドでやり たかったのはみえみえだった。ティーンアイドルズの練習で歌ったこともあるし、 イアン、アンタッチャブルズのエディー、バッドブレインズのHRを従えて即興 バンドを組んだこともある。エクストーツが解散し、ボーカルのライル・プレス ラーがイアン、ジェフと組んで後にマイナースレットになるバンドを始めると、 残ったメンバーはヘンリーと組んでステイトオブアラートをはじめる。両バンド のデビューは1980年の12月のハウスパーティーで、アンタッチャブルズ、ブラッ クマーケットボーイズ、バッドブレインズと一緒だった。 ステイトオブアラートはパンクの攻撃性を一段と高めた。これは、当時の若い DCパンクシーンのキッズの雰囲気の反映でもあった。1981年の前半になると、バ ンドもキッズもクラブから締め出され、ほかの場所でライブをやろうとすると警 察がやってくる、ということもよくあった。ステイトオブアラートとマイナース レットはちょっとしたライバル関係にあった。お互いに元バンドメイトだという のもあるが、ヘンリーとイアンがもともと仲がよかったからだ。バイト先も同じ ジョージタウン映画館とハーゲンダッツで、どちらが夜勤になるかによってどち らがライブをやるかが決まるということも多かった。 ティーンアイドルズがレコードを出したときに、回収できた金で次のDCのバン ドをリリースする、というきまりにした。しかし、ステートオブアラートはそれ まで待つ気はなく、ヘンリーは自分の金で10曲7インチのノーポリシーを出した。 81年の6月、乱闘に終わったフィラデルフィアでのブラックフラッグのライブの オープニングがステートオブアラートの最後のライブだった。数日後、ヘンリー はバスに乗り、ブラックフラッグと再会する。今度はメンバーとして。
157 :
名盤さん :03/06/01 21:08 ID:Kd/BuKCT
Minor Threat ジョーディーがティーンアイドルズを辞めると、イアンとジェフは新しいバン ドではイアンがベースからボーカルにまわることに決めた。二人は、エクストー ツのボーカルで、ギターに替わりたがっていたライルと練習を始める。ライルは もう一人、ジョージタウン高のブライアンを紹介する。ブライアンはギターが弾 けるだけでなくマーシャルのギターアンプを持っていた!80年11月にブライアン がベースで加わり、ひと月後にライブデビューする。 マイナースレットとステイトオブアラートは、DCの新手のキッズやバンドの一 部で、ドラッグにもアルコールにも手をつけないものが多かった。歌詞ではっき りそう歌ったバンドもあり、マイナースレットの曲名ストレートエッジは、ドラッ グやアルコールに依存しないライフスタイルを指す言葉として広まることになる。 定期的にライブを行い、ファンも多かったが、81年の夏にはライルの大学進学 のため解散する。しかし、6ヵ月後、ライルは大学になじめず、やり残し感に悩 まされて大学を辞めて戻る。マイナースレットは82年4月に復活してDCのパンク スをあっと言わせた。秋にはスティーブがベースとして加わり、ブライアンがギ ターに回って、83年6月まで5人編成でレコーディングとツアーを続けた。 その年の夏、4人になって数回のライブを行なうが、バンドはうまく行ってい なかった。音楽の方向性について意見が合わず、練習時間のほとんどが言い合い で終わるということもよくあった。バンドとしてのやって行きかたや、ほかのレー ベルからのオファーをどうするかについても意見が分かれた。にっちもさっちも いかなくなって、4人は解散するのがみんなにとっていちばんよいということで 同意した。
158 :
名盤さん :03/06/01 21:09 ID:Kd/BuKCT
Deadline 1981年にはDCのシーンはまだ小さく、見知らぬほかのパンクスに出会うという だけで大事件だった。このような「パンクス発見」がその後10年以上も続く友達 と知り合いのネットワークの最初の糸口になることもしばしばあった。ウィルス ン高の近くでパンクスを見かけたけれど、ウィルスンの生徒でも、もうひとつの パンク高ジョージタウンの生徒でもないらしい、という情報があり、調べてみた らどうやらゴンザガ高の生徒らしい、というのでみんなが驚いた。ゴンザガとい えばカトリック系の男子校で、アンチパンクス、つまり、金曜の夜のロイロジャー スの駐車場でパンクスがちょっかいを出してくる連中の巣窟、ということになっ ていたからだ。 案の定、レイ、クリスチャン、テリーの3人のゴンザガ高生は学校で辛い思い をしているようだったが、それだけでなく、ウィルスンの聴講生だったブレンダ ンとバンドをやっていることもわかった。最初はギャングリーンとかユースコー テジーパトロールと名のっていたこのバンドでブレンダンはボーカルを担当して いた。このラインナップでしばらく演奏し、マンションのバルコニーで3曲のラ イブをやったこともある。レイが参加してブレンダンがドラムに回ったところで デッドラインと名前が変わった。 初ライブは1981年の10月で、バンドとしては1年も続かなかったが、熱烈なファ ンがついた。特に、DOD(死の舞踏)というワイルドスタイル派の一派がその中心 となった。この頃にはバンドが解散すると直ちにメンバーをリシャッフルして新 しいバンドを結成というのがDCシーンの伝統ともいえる状態になっていたが、デッ ドラインの場合も同様である。ドラムのブレンダン、ボーカルに回ったテリーに、 DODからマイク・フェロウズとギー・ピショトーがベースとギターで加わって、イ ンサレクションとなる。
159 :
名盤さん :03/06/01 21:10 ID:Kd/BuKCT
The Faith DCシーンでは、たくさんのバンドが同時に解散して、種蒔きの時期を迎えるこ とが何度かあったが、その最初が1981年の秋だった。ステイトオブアラート、マ イナースレット、レッドC、アンタッチャブルズといったところがみなばらばら になり、その結果、パンクミュージシャンたちがバンドを組み替えることになっ た。ステイトオブアラートのマイクとアイヴァー(末期にサイモンに代わってド ラム)は、アンタッチャブルズのアレックと組んで新しいバンドを作り、ウィル スン高の禿のクリスをベースに加えた。クリスはパンクシーンに入って2、3か 月というところで、スキンヘッドにした最初のパンクスの一人だったので、禿と いうニックネームを頂戴していた。バンドはザ・フェイスと名のったが、単にフェ イスと呼ばれることが多かった。最初のライブは81年11月のH.B.ウッドローン高 校だった。 ウッドローンはポトマック川の川向こう、バージニア州アーリントンのオルタ ナ(民活)公立高校だが、なぜかDC初期のパンクのライブの拠点になっていた。 バレンタインデーのダンスパーティーをティーンアイドルズとアンタッチャブル ズが粉砕したのがはじまりで、DOA、SS デコントロール、マイナースレットとい ったところがライブをやっている。 アンタッチャブルズのエディーも1983年、セカンドギターで参加した。初期の DCバンドといえばマイナースレットとよく言われるが、地元でいちばん親しまれ ていたのがフェイスで、ラストライブは悲しい日となった。
160 :
名盤さん :03/06/03 07:06 ID:w4XAvFFu
Iron Cross サーブ・グレイ(用無しサーブと呼ばれたこともある)はDCパンクのライブの 常連だった。いつもボルチモアからパンクスの団体でやってきて、バンドをやっ ていると吹いていた。Cell 19という名だといっていたが誰もライブを見た者は無 い。1981年にDCに移り住んだ頃にはすっかりOi!風味になっていた。Oi!はイギリ スから入ってきた服装と音楽のスタイルで、スキンヘッドファッションと深く関 わっていた。当時のDCシーンではパンクスとスキンズは区別されていなかったし、 スキンヘッド運動の政治的側面は、ナショナリストであれレイシストであれ、ま だ登場していなかった。 サーブは、イアンとジェフ、アンタッチャブルズのリッチとエディーと並ぶ、 ディスコードハウスの最初の住人だった。1981年の初めにサーブはジョージタウ ン高のダンティとマークに出会いアイアンクロスを結成する。二人はパンクルー インズ、アウトサイダーズ、ブロークンクロスといったバンドを以前からやって いた。シンシア・コノリーやクリス・ハケット(フレクスユアヘッドのコンピで 実際に演奏)などベースは次々と代わったが、ステイトオブアラートが解散する とすぐ、ウェンデルで行くようになった。(コンピのクレジットはウェンデル) ディスコードのフレクスユアヘッド・コンピ収録の3曲のほかは、自前のスキ ンフリント・レーベルからシングルを2枚出しただけだが、アメリカ初のOi!バン ドというのは画期的だ。
161 :
名盤さん :03/06/03 07:06 ID:w4XAvFFu
アイアンクロスをやめた後、ダンティとマークはジェフ・ターナーやスティー ブとグレイマターを結成する。ジェフは中学時代のバンドメイトで、スティーブ はアイアンクロスのローディーをやってくれた友達だ。グレイマターの初ライブ は、DCのデュポンサークルに近いレストラン、フードフォーソートだ。当時はヘ ルスフードと称していた数少ないベジタリアン料理の店で、カウンターカルチャー の拠点のひとつだった。ほとんど毎晩音楽の演奏された。フォークとブルースが 主体だが、パンクのライブもあった。店のオーナーのボビーは、ダンティの親父 で、ダンティとマークは以前のバンドの頃からここで演奏していた。 グレイマターの最初のレコードのタイトルもフードフォーソートで、最初はDC の新しいレーベルR&B(オーナー、リッチとバートの頭文字)からのリリースだが、 ディスコードが5年後に再発した。マークが学校のためにバンドをやめるときは、 日曜日の午後、フードフォーソートの屋上で演奏した。みんなコネチカット・ア ヴェニューの中央分離帯で見物していたが、警察に止められた。禿のクリスの弟 ジョン・カーシュテンをギターに数回ライブをやった後、バンドは解散する。 2枚目のテイキットバックはディスコード1986年のリリース。90年にマークが バンドを再結成してアルバムをリリース、ツアーも行なった。
162 :
名盤さん :03/06/03 07:08 ID:w4XAvFFu
Gray Matter ↑
163 :
かわうそ :03/06/03 10:32 ID:Ct192TMj
>>152 出たみたいよ
Oxxxesっていう微妙なタイトルだけど
164 :
名盤さん :03/06/03 14:29 ID:4Zp9/h9I
手が空いたので Youth Brigade ティーンアイドルズとアンタッチャブルズの解散後、ネイサンとダニーが作っ たバンド。ロスアンジェルスの同名のバンドと混同しないこと。ギターとベース はいろいろやってみたあと、アンタッチャブルズのバートがベース、ギターはト ミーに落ち着いた。初ライブはフードフォーソートというレストラン。9:30クラ ブで行なわれたブラックフラッグの最初のイーストコースト公演では、マイナー スレットとともにオープニング。 その夏、ユースブリゲードとティーンアイドルズは、DCパンクスの一団を引き 連れて全米ツアーを試みる。トミーの親のヴァン、イアンのプリマスダスター、 ブライアンのママのヴォルヴォワゴンに分乗し、中西部までは行けた。オハイオ の若いパンクバンド(タッチアンドゴー・オーナー、ラスクの高校時代のバンド) ネクロスと数回のライブを行なった後、トミーの親がヴァンを返せと行ってきた ので、ツアーは打ち切り。 解散に当たってリリースしたEPがポシブル。タイトルは、最初のディスコード の広告のリリース予定表の表現「ユーズブリゲードのEP、出るかも(ポシブル) に当てつけた冗談。
165 :
名盤さん :03/06/03 14:35 ID:4Zp9/h9I
ツアーに出たのはユースブリゲードとマイナースレットでした。 誤字誤植スマソ
166 :
名盤さん :03/06/03 15:05 ID:FgziNxdU
ちょっとちょっとこのID惜しい
167 :
名盤さん :03/06/03 23:11 ID:11fvjOpW
長寿バンド。情報密度はバンドの寿命に反比例。 Government Issue ガバメントイシュー(GI)のデビューは1980年12月、dc スペースでのアンハー ドミュージックフェスだった。ドラムが体調を崩してライブに出られないので 「サブスティテューツ(取替え)」と名のってフェスの二晩をゲストのドラムで しのいだ。出演バンドのほとんどがモンキーズのステッピンストーンのカバーで 競ったが、GI(サブスティテューツ)の10秒カバーが最高だった。ボーカルのジ ョン・スタッブの名は、ティーンアイドルズのギグに現れた頃にやっていると吹 いていたバンド、ザ・スタッブにちなんでいる。もうひとりのジョン、ブライア ン・ゲイ、マークと組んで最初のGIを結成したのは1980年秋のことだった。 2回目のライブではメンバー揃って出たが、警察がきて中止になった。出だし が多難だったわりにGIは10年近くも続いた。ただ、サブスティテューツという名 前はバンドの未来を暗示していたようで、1989年に解散するまでにトム・ライル、 ブライアン・ベイカー、J.ロビンスなど10人以上が入れ替わり立ち替わりバン ドを出入りし、原メンバーで最後まで残ったのはジョンだけだった。イアンとイ ンナーイアーで録音した10曲7インチは、最初のラインナップによるものだ。ま た、 GIは、別のレーベルからもリリースした最初のディスコードのバンド。メイ カネフォット7インチは、1982年早々に新しい地元のレーベル、ファウンテンノ ブユースから出た。
168 :
名盤さん :03/06/03 23:11 ID:11fvjOpW
Scream バージニア州ベイリーズクロスロード(BXR)はDCを出て5、6キロというところ だが、それでも別世界と言ってよかった。このバージニアの郊外が急に名を上げ たのは、スクリームの結成による。スクリームハウスの地下でパンクのライブが 開かれるようになり、演奏場所探しに苦労していたDCのバンドは、BXRに詣でるよ うになった。 スクリームは、DCのバンドのほとんどがそうだったように、バッドブレインズ から大きく影響されていたが、ミュージシャンとしての腕は一目置かれていて、 またロックンロールのセンスも抜群だった。1982年、インナーイアー・スタジオ で、イアンやエディーとのコープロデュースになるスティルスクリーミングをレ コーディングした。ディスコードとしては初のアルバムリリースになる。その後 さらにアルバム4枚(RASレコードからも1枚、ノーモアセンサーシップ)をリリー ス、90年代はじめまで数回の全米ツアーや欧州ツアーを含むライブ活動を続けた。 ラインナップの変更は少ない。セカンドギターとしてハーリー・デビッドソン が加わり、ドラムのケントに代わって、アーリントンの若いバンド、ミッション ・インポシブル、デイン・ブラメージのデイブ・グロールが引き継いだ。デイブ は数年間スクリーム・ティームにいた後、ニルヴァーナ、フーファイターズで演 奏を続けた。 おそらくディスコードのバンドとしてははじめて、スクリームがレーベルから 受け取った著作権料らしきもの(それまでは、すべての収入をレーベルが回収。) は、ツアーのヴァンの修理代とツアー関連の電話代の援助だった。
169 :
名盤さん :03/06/03 23:12 ID:11fvjOpW
Dag Nasty マイナースレット解散後、ブライアンはさまざまなバンドやプロジェクトで活 動した。グレン・ダンジグがサムヘインを始動したときに加わり、ザ・ミートメ ンにも籍をおいたが、やがて自分のバンドの準備にはいる。まず、メリーランド 州ベテズダのパンクスでウィゴットノーセンセイション(WGNS)のメンバーと知り 合いだったコリンとロジャーと組み、ボーカルには新人のショーン・ブラウンを 迎えてダグナスティーを結成。最初からたいへんタイトで息のあったバンドだっ た。 「革命の夏」の中核にいたバンド(ライツオブスプリング、エンブレイス、ビー フイーター)とほぼ同時期の活動であるが、ダグナスティーは独自に活動し、ほ どなくツアーとレコーディングに入った。1985年の暮れにショーンが辞めて、替 わりにボストンの重鎮DYSのデイブがボーカルに加わった。彼が在籍していたのは 一年に満たないが、ダグナスティーの代表作とされることの多いアルバム、キャ ナイセイの録音はこの時期である。デイブは86年の秋、進学のため辞め、ツアー を目前にしたバンドをパニックに陥れた。シルバースプリング出身のパンクス、 ピーター・コートナーに白羽の矢が立ったが、本人も驚く人選だった。 このツアーの後、最後の曲と目されたマンゴーセッションズ(別名ダグナスティー ラスティー)を録音。12月にブライアンはバンドを解散してロスアンジェルスに 向かうが、1年後には舞い戻り、ロジャーに代えてディセンダンツのダグ・キャ リオンの参加でダグナスティーを再結成する。新しいラインナップでレコーディ ングしたアルバム、ウィガウトアトデンコウズはディスコードから1987年のリリー ス。その後すぐバンドはディスコードを離れるが、その後も1、2年ライブ活動 を続けた。
170 :
名盤さん :03/06/03 23:13 ID:11fvjOpW
小ネタ The Snakes マイケルとサイモンはジョージタウンの幼な馴染みで二人がほかのバンド(エ クストーツ、ステイトオブアラート、フェイス)で活動をはじめる前から続けて いるスネイクスというバンドがあった。ぽこぽこと曲を作り、できたものはほと んど自宅で録音していた。ジョークバンドと称してサイドプロジェクトを組み、 パンクやDCハードコアのアグレッシブでシリアスな雰囲気とは一線を画した音楽 をやる、というのはDCのミュージシャンの伝統になっていた。しかし、グループ ハウスや自宅での録音でも、形になっていたから、友達同士で交換され、中には 評判になるものもあった。 スネイクスを(パナソニックのカセットではなく)インナーイアーで録音しよ うとしたそもそもの動機は、曲を記録に残したいというだけのことだったが、仕 上がりがあまりによかったため、リリースしたらどうか、という話に発展してし まった。ジェフは断固リリースしたいという意向だったが、イアンはそもそも内 輪のジョークだったものをリリースすることでレーベルの本業の評価に響かない かという点を問題にした。結局、ディスコードではなくディスカード(捨て札) レコードのリリースということにして、冗談であることをあらかじめほのめかす、 ということになった。結果からいえば、イアンの意見もジェフの意見もある程度 は正しかった。ジョークにウケて面白がった人もたくさんいたが、真にウケてこ んなものを出すのはけしからんという人もいた。 スネイクスは一度だけ9:30クラブで内輪のライブをやり、このときはブレンダ ンとギーがサポートで参加した。二人はさらにイアンとインナーイアーでレコー ディングし、これらの中から選んでジェフのサイドレーベル、アダルトスイムか らリリースしたアルバムがハッピーである。
171 :
名盤さん :03/06/03 23:15 ID:11fvjOpW
マイケル・ハンプトンって、ブライアン・ベーカーと8歳のときバンド組んだ相手だ。 みんな幼馴染か。
172 :
名盤さん :03/06/04 13:20 ID:gv+yV1Vk
昼飯後 Grand Union ライル・プレスラーの1981年9月ノースウェスタン大学への進学でマイナース レットが解散になると、ほかのメンバーはすぐに次のバンド探しをはじめた。ブ ライアンはガバメントイシューのギターで落ち着いたが、イアンとジェフは、ディ スコードハウスの住人だったエディー、ユースブリゲードでギターを弾いたこと がある地元のパンクス、ジョン・フォールズとバンドを組むことになった。 バンドの練習は、ほかの多くのバンドと同様にディスコードハウスの地下で、 バンド名は近所の八百屋グランドユニオンから取った。イアンは、辞書で見つけ たスキューボールドという名前のほうがいいと言い出した。ジェフはグランドユ ニオンで譲らなかった。決着がつかないまま、バンドは二つの名前をもつことに なった。 スキューボールドでのライブは一度も無い。たぶん、練習のとき一度見ていた ことのあるレッドCのエリックとトーニだけが目撃者である。しかし、実はディ スコードハウスのテーマソング、ロズリン・レンジャーズ(ボックス3枚目収録) をレコーディングしたのと同じセッションで、スキューボールドは無題3曲をレ コーディングしていた。このレコーディングのあと練習は止まり、ジョンが抜け る。そのうちイアンがボーカルからベースに回って、82年のはじめにスリーピー スで何回か練習したが、このプロジェクトは、マイナースレットの復活により立 ち消えとなった。 スキューボールドの3曲は、テープの形で流出して国内に出回り、マイナース レットのブートだという誤解も生まれた。5年後、ディスコードは50枚記念リリー スとしてこのセッションを世に出した。
173 :
名盤さん :03/06/04 13:23 ID:gv+yV1Vk
>>120 は訂正。4つのバンドというのはきっとスリンキーズを入れて
グランドユニオンとスキューボールドは1つに数えるんだろう。
パイボールドも辞書で調べて決めたバンド名かも。
174 :
名盤さん :03/06/04 19:28 ID:gv+yV1Vk
初期バンド終わり。 Artificial Peace 1981年の夏の終わり、ジャネル・ブルックスはメリーランド州ポトマックの実 家の地下室を会場にライブを企画し始めた。出演バンドは5、6バンドといった ところで、機材はもちよりで使い回し、ほとんどの曲は1分前後なので、バンド のセットはどれもあっという間に終わった。真ん中に柱のある絨毯張りの娯楽室 で、演奏の間はみんなで踊り、バンド交替になるとほかの部屋や庭でうろうろし て待った。ライブのときジャネルの親がどこでどうしていたのかは誰も知らない が、親はかまわないようだった。 9月のそんなライブで、アソールトアンドバッタリー、マイナースレット、レッ ドCの3バンドが一度に解散することになった。その頃のパンクシーンではもの ごとはすばやく進み、バンドは現れては消えていくものだったから、3週間後の 次のジャネルのパーティーで、レッドCのピートがアソールトアンドバッタリー のマイク、ロブ、スティーブと新しいバンドで登場しても、誰も驚かなかった。 マイクのバスドラにはピースサインが逆さに描かれ、バンド名はアーティフィ シャル・ピースといった。手堅い演奏で速かったので、たちまち人気が出て初期 バンドの中では有数のファンがついた。DCバンドの中では早くから遠征でライブ をやるようになったバンドのひとつだが、そういうときはDCではなくメリーラン ド側の隣町ベテズダのバンドだという断りを入れるのが常だった。イアンのプロ デュースでインナーイアーで19曲デモを録音し、そのうちの3曲がフレクスユア イアーコンピに収録。このほかエグザイルドというバンドとのスプリットをファ ウンテンノブユースからリリース。
175 :
名盤さん :03/06/04 19:29 ID:gv+yV1Vk
Marginal Man 1982年夏のアーティフィシャルピースのラストライブの後、ピート、スティー ブ、マークの3人は地下室に戻り、ケニーとアンダーを加えて新しいバンドを組 んだ。パンクシーンは新バンドの話題で持ちきりだった。アーティフィシャルピー スが人気バンドだったこともあるが、練習を目にして新バンドの音にぶっ飛んだ という話が広まったからだ。 マージナルマンは、ツインギターになった最初のDCパンクバンドの一つで、初 ライブは、1983年1月2日、555コンサートと題する9:30クラブのライブだった。 555というのは、マージナルマンだけでなく、マイナースレットとフェイスもファ イブピースのラインナップになったばかりだったからで、ちょっとしたカミング アウト・パーティーになった。チケットは発売即ソールドアウトという盛況で、 公演が追加された。ワシントンへやってくるツアーバンドよりも地元のバンドの ほうが関心が高く動員も多い、ということを印象付けるできごとだった。 当時のバンドのほとんどはまだ年少で金もなく、ヴァンを手に入れて何週間も 何ヶ月もツアーで回るということはできなかったが、アングラパンクのツアーネッ トワークが姿を見せ始めていて、よそでどんなことが起きているかを見たいとい う欲求は高まっていた。マイナースレット、ガバメントイシュー、スクリームを 除けば、マージナルマンは、初期DCバンドの中で全米ツアーを行なった数少ない バンドの一つ。
176 :
名盤さん :03/06/04 19:33 ID:gv+yV1Vk
177 :
名盤さん :03/06/05 00:52 ID:d8mjufGs
Q and not Uたのんます
178 :
名盤さん :03/06/05 01:51 ID:UPdbadl/
Soulside 1985年になると、イアンの妹アマンダとエディーの弟イーライがはじめたレー ベル、サミッチレコードを中心に、若手のパンクシーンが生まれつつあった。最 初のリリースが7インチEPサンクスで、アーリントンの若手ミッションインポシ ブルと、ウィルスン高出身の新しいバンド、ランチミートだった。 ランチミートのボーカルのボビーは、イアンとジェフの最初のバンド、スリン キーズのボーカルだったマークの弟。初代ベースのクリス・トムスンはボビーの 隣、ドラムのアレクシスとギターのスコットもご近所の友達だった。ソウルサイ ドに名前を変えた理由は定かでないが、おそらくランチミートではやろうとして いる音楽に合わないような気がしたのだろう。四人とも大学に進学して休暇だけ の活動だったので、スケジュールは間が空いたが、それでも1986年にはレコーディ ングしてサミッチからアルバムを出した。 クリスは1987年に辞め、ボビーの親友のジョニーが代わりに入った。ソウルサ イドはイアンやイーライとインナーイアーで何度かレコーディングし、定期的に ツアーも行なった。1989年、バンドは、ローディー兼サウンドエンジニアのイー ライを伴って三か月の欧州ツアーを行い、その最後にオランダでホットボディグ ラムを録音した。帰国後ボビーが辞めて、その後1年余りして残った3人とイー ライがガールズアゲンストボーイズを結成、その後10年以上も同じメンバーで活 動を続けている。
179 :
名盤さん :03/06/05 01:52 ID:UPdbadl/
Fire Party エイミー、ケイト、ナタリーの3人が後にファイアパーティーの結成のきっか けとなる会話を交わしたのも、ガーフィールドストリートハウスだった。三人と もバンドがやりたくて、地元のインピーセズというバンドでドラムをやっていた ニッキーに紹介されると、さっそく曲を作って練習をはじめた。1980年代の終わ りごろまでにDCアングラパンクは何十というバンドを生み出してきたが、女性ミュー ジシャンは数えるほどしかいなかった。これは、DCパンクシーンの男女比を考え ても不釣り合いだった。シーンの活動家には女性も多かった。この不均衡につい ては、シーンの上層部でもしばしば議論になっていた。 ファイアパーティーのメンバーも当然この点に無関心ではなかったが、メンバー にとっては一緒にバンドを続けることが最優先で、当時はそれだけで注目される ことになった「女性バンド」というレッテルは願い下げだった。作品だけで勝負 したいというのがバンドの意向だったが、ラインナップの目新しさにばかり目が 行くのは、特にアメリカでは避けられないことだった。幸い、バンドは数回の欧 州ツアーに出かけ、誰が演奏しているかよりも音楽そのものに関心のある聴衆に 出会うことができた。 エイミーはバンドの傍ら、1982年以来のディスコードの仕事を続け、通信販売 の責任者だった。だから、レーベル初の女性ボーカルという役回りにはうってつ けだった。90年代末に、ディスコードは2枚の12インチEPとロンドンのラジオ番 組ピールセッションのライブを収録したCDをリリースした。
180 :
名盤さん :03/06/05 01:54 ID:UPdbadl/
SoulsideとGvsBの関係についてはかなりいい加減な記述になっている。
このへんについて正確なのは
ttp://www.southern.com/southern/band/GIRLS/biog.html あとJade Tree のGvsBのバイオも参照。
>>136 のAkashic Booksって、GvsBの関係者だね。ブルックリンだし。
>>177 お気づきかと思いますが、このバンドヒストリー、実はバンドにかこつけて
レーベルヒストリーを書いている、というような内容。まあ、このへんから後の
バンドだとどこかに必ずバンドのバイオはあるわけですし。
だからQ and not U やっちゃうと連載終了になってしまうわけです。
90年代半ば以降のバンドだと、地元シーンのレーベルとして今までやってきた
建前と、様変わりして大きくなったインディーシーンで普通のレーベルとして評
価される、ということのハザマで戸惑ってる感じが滲み出てます。
それを受けての結論は、だから、「もうやめようかなと思ったけどQ and not Uが
あまりにすばらしかったのでとりあえずそれに全力で、進退問題は棚上げ」
めでたしめでたし、かな?
なんとなく翻訳アップやめたくなってる言い訳。
迷いがあることを含めて率直に語ってるところがますますレスペクトなんですけ
ど。
>>180 >地元シーンのレーベルとして今までやってきた建前と、
>様変わりして大きくなったインディーシーンで普通の
>レーベルとして評価される、ということのハザマで
>戸惑ってる感じが滲み出てます。
こいうことで戸惑ってるというのが、またディスコードらしい気がしますね。
何はともあれ、お疲れ様です。
182 :
名盤さん :03/06/06 03:44 ID:QNbu7oln
>>翻訳氏 お疲れーです。
183 :
名盤さん :03/06/07 22:08 ID:gaO7v4Qx
落ちそうな悪感
184 :
名盤さん :03/06/08 12:08 ID:+wmgulX9
濃い。濃すぎるぜ。
185 :
名盤さん :03/06/09 09:38 ID:8h+qpXZH
おい、おまいら! このレーベルのバンドを気に入ってる順に並べて教えてくらさい!
186 :
ブラックフラッグ原理主義者 :03/06/09 14:40 ID:RXDCjyl6
何が無くとも SOA
187 :
名盤さん :03/06/09 21:38 ID:vflVt3KE
今の気分。hardcoreでは 1.void 2.scream 3.minor threat post hardcoreでは 1.embrace 2.hoover 3.fugazi なんか有名なのばっかになってしまった。ごめんなさい
188 :
名盤さん :03/06/09 23:34 ID:0pLDq4IJ
>>187 ありがとうございまつ! さっそくアマゾンでお買い物です!
189 :
名盤さん :03/06/10 18:22 ID:7F7B9wQ1
ゴイステのボーカルvoidのTシャツライブで着てたらシーね
190 :
名盤さん :03/06/10 22:32 ID:9zcto310
ていうかゴイステ聴いてるヤシがvoidを聴くの? ゴイステには悪い印象ないけど、聴いてる奴がなー・・・
191 :
名盤さん :03/06/11 00:09 ID:nmirc8eS
聴いてる奴が悪い奴なのか?俺のまわりのやつはみんな別に ふつうに気のいい奴ばっかだったけど
このスレでゴイステの話がでるとは思わなかった。 いい若いバンドだったと思うよ。ラストシングル好きだった。
193 :
名盤さん :03/06/13 03:03 ID:9O8jfFTz
Dance of Days 読み始めた。おもれえ。実録DCパンク。めちゃリアル。 バッドブレインズのライブ、HR前1メートルで見てたヘンリー・ロリンズが 押し倒されて顔面めがけて歌われた思い出話とか。 ディスコード関係だと、校庭で自家製爆弾の実験やってるジェフ高校一年から 話がはじまる。外交官の坊ちゃんで転校多くて目立ちたかったんだそうな。
194 :
名盤さん :03/06/13 03:07 ID:9O8jfFTz
イアンマッケイとヘンリーロリンズはスケボー友達だったらしい。 肩まで届く長髪で。
195 :
名盤さん :03/06/13 17:52 ID:LoZ2+eWq
Dance of Daysってのメチャクチャ読みたい! 日本語訳のは出てないんだよね?予定とかないのかな?
196 :
名盤さん :03/06/15 05:14 ID:6REtKj0W
MINOR THREAT:FIRST DEMO TAPE 8曲 9分1秒 以上。
197 :
ブラックフラッグ原理主義者 :03/06/15 13:28 ID:JcUxl4cR
>>196 んーそれだったら値段高くてもいから
ライブ音源とかと一緒にいれて欲しかった
で、かっこいい?
198 :
名盤さん :03/06/15 15:07 ID:wZy5/s12
最高。 TEEN IDLESの荒さが少し残ってる所が。 ユニオンで890円(税別)とお安いのでぜひ。
199 :
名盤さん :03/06/15 21:37 ID:JN6UvcK9
LUNGFISHってどんな感じ? どうもあの鳥のジャケを見て気になってるんだが。
200 :
バンダナ :03/06/16 23:28 ID:vhpHHN9N
>翻訳氏 遅ればせながら、お疲れ様でした。 それと、一つ聴きたい事があるのですが、BOXセットのDC ON THE MAPって誤ページないですかね? この間中古でBOXセット買ったのですが、RITES OF SPRINGSのページが2ページ(内容、写真一緒…)あったり EMBRACEの写真がFAITHになってたり、これは僕だけ外れくじ引いた感じでしょうか? そんで、BOXセット3枚聴いて良いと思ったバンドは80年代物・持ってる音源抜かして、THE NATION OF ULYSSES、 SHUDDER TO THINK、SLANT 6、FARAQUETが良かったですね。特にFARAQUETはイイ!欲しい! あと、FUGAZIの"the argument"も買って聴いてるんですが、これでFUGAZIの良さが解ってきた感じ しますね。"end hit"は、通して聴けなかったんですけど、こっちは全曲通して聴けるしあまり変調に ならない曲が多いんで、聴きやすいと思いました。ってかイアンの声はメロディ取ってる方が合うなっと 最近思います。