雅子さまの10年 〜since1993〜夏の日の1993〜

このエントリーをはてなブックマークに追加
文藝春秋3月号
「皇室不適応宣言/離婚説」の全真相
雅子妃 その悲痛なる決意
ttp://tech.sub.jp/2006/02/post_372.html

   「医師団の見解」パッシング
 昨年から、雅子妃へのパッシング報道が相次いでいる。その多くは「適応障害」
でご静養中の雅子妃に対し、「ワガママ病」「皇太子妃としての自覚がない」と
批判するものだった。
●「今度は『皇室不適応宣言』なのか?雅子さま『誕生日の乱』」(週刊文春)
●「『宮中と官邸』を震撼させた 雅子さま『離婚説』」(週刊新潮)
●「雅子さま『2時間47分中座』天皇ご一家が夕食会で待ちぼうけ」(週刊文春)
●「雅子さま離婚タブーではない」(週刊朝日)
 いささか過熱気味のタイトルが付けられた記事は、今年に入っても後を絶たない。

 実は雅子妃は、平成十五年に長期静養に入られてから、文字を集中して
読むことは治療上好ましくない、と医師に指導されていた。ところが、
昨年秋ごろには、体調が良いときは新聞などをご覧になるまでに回復され
てきたという。そのため、こうした記事が、雅子妃の目に触れてしまった
のだ。「批判記事を読んだ妃殿下は大変なショックを受けられ、寝込んで
しまわれたといわれています」(東宮職員)
 問題は、単に雅子妃が受ける精神的ショックだけではない。こうした精
神的ショックが、「適応障害」治療そのものの妨げになりかねないことだ。
 長期ご静養に入られて三年目。ご体調は回復傾向にあるものの、未だに
行事を欠席せざるをえない不安定な状態だ。公務に完全に復帰されるには
まだ時間がかかるという。
 カメラにむかって微笑む雅子妃からは想像がつかないが、体調がすぐれ
ないときは別人″のようだという。
「ご体調の良いときと悪いときの波が激しく、悪いときは全身につよい倦
怠感があって力が入らないため、目覚めても起き上がれないといいます。
ご病気前はあれだけきちんと身の回りのお支度をされていた妃殿下が、お
化粧もお着替えになるのも億劫だというのは、よほどおつらいのでしょう。
 愛子さまとお過ごしの時も、立っているのがやっとという日があって、
壁に寄りかかるようにしながら愛子さまの様子を見守っていらっしゃいま
す。それでも、周囲に気を使われるご性格のせいか、つらい、と弱音は決
しておっしゃらずに微笑まれるのです。しかし、声はか細く、目に力がな
いご様子を見ておりますと、ご回復にはまだ時間がかかるかもしれないと
思いました」(雅子妃と会ったご学友)
 宮中祭祀を続けて欠席されているのも、その重要性は十分に理解してお
られるが、長時間に及ぶことと、暗所に恐怖感を抱かれるためだという。
 しかし、「適応障害」という病名が一般的ではないため、どうしても病
状の理解は得られにくい。またご病状の回復に伴って雅子妃の私的外出が
増える一方で、体調の急激な変化から行事を突然キャンセルされることも
重なり、宮内庁詰めの記者たちからは、医師団に正確な説明を求めたいと
いう要望が出されていた。
 ところが、この(医師団の見解)文書が、さらなる波紋を呼ぶことにな
ってしまった。「雅子さま『誕生日の乱』」(週刊文春05年12月22日号)
はこの文書を「皇室不適応宣言」と名づけ、(取りようによっては、雅子
さまが皇室という「環境」、にはっきり「NO」をつきつけた文書とも読
めるのである)と書いた。宮内庁幹部の「昨年五月の皇太子殿下の『人格
否定発言』以来のゴタゴタもようやく収まってきたところなのに、どうし
てまたひっくり返すようなことをなきるのでしょうか」というコメントも、
記事中に紹介されている。
 この医師団の見解文書に対しては、他にも同様の趣旨の記事が続出した。
 たしかに病名が「適応障育」であり、(医師団の見解)では「公務」や
「育児」などが例示されてはいるものの、原因が「環境によるストレス」
である以上、環境=皇室そのものに雅子妃が適応できないとする読み方も
ありうる。
 しかし、問題はこれらの記事において、(医師団の見解)は、皇太子ご
夫妻の意向が強く反映された内容で、お二人が周囲の反対を押し切って
「医師に出させた」、さらには「雅子妃が書かせた」という見方がされて
いることだ。雅子妃自身が、皇室に適応できないというメッセージをわざ
わざ国民に伝えている、というのだろうか。
 真相は違う。
 実は、医師団による説明は、雅子妃が長期静養に入られた後、平成十六
年の春からすでに検討されていた。しかし、その時点ではまだ雅子妃に
病名が告げられておらず、治療計画もさだまっていなかったため、秋に
予定されていた発表は延期されたのだった。
 だが、宮内記者会から、医師団による説明を求められており、また、
ご静養から二年が経過して、雅子妃のご体調は愛知万博に出席されるなど
徐々にではあるが回復傾向にあった。さらに、精神的な病がどれほど苦痛
を伴うものか理解を得たいといった三つの理由から、今回の発表となった
のだった。
 専門医のサポート体制の整ったいま、「不適応宣言」を望む意味はどこ
にもない。よりよい治療ができる環境を整えたい医師団が「詳しい説明を
出す必要がある」と判断して文書を作成し、それを皇太子ご夫妻が認めた
のである。

  1年半の治療体制の空白

 雅子妃は、平成五年に皇室に入られたときから、お世継ぎを求める声は
十分に自覚されていた。お世継ぎの重要性はもとより理解されていたが、
なかなか子宝に恵まれなかった。だが周囲は、必要以上に強い物言いで、
雅子妃の心を深く傷つけた。それは、皇太子妃としてだけではなく女性″
として不適格と絡印を押されたような痛みだったのではないか。
 それでもご夫妻は積極的に何度も妊娠検査を受けられ、平成十三年十二
月、待望の内親王殿下がご誕生された。雅子妃は会見で「生まれてきてく
れてありがとう、という気持ちになりました」と涙ぐまれ、皇太子がそっ
と肩に手を添えられた。
 しかし実のところ、ご出産後すぐに「第二子を」という話が持ちあがっ
ていた。お世継ぎをという周囲の希望は理解できても、産後すぐの雅子妃
は精神的に余裕がなく、さらに外国訪問や地方行啓を含めた多くのご公務
が続いたため、肉体的にも限界を感じられる状況にあった。愛子さまとゆ
っくり過ごす時間がとれぬうち母親″としての自信も失われ、ついには
ご自分の存在そのものにまで疑問を持ち始められた。そして、いつしか、
心の闇に陥っていったのだった。

「身体にどうしても力が入らない」
「怖い夢を見るので、夜なかなか眠れず朝起きられない」
「突然、涙が止まらないほど悲しくなってしまう」

 原因不明の症状を訴える雅子妃に、当時の主治医は内科が専門だったた
めか、
「気分転換に散歩でもすれば治りますよ」
「気にしないようにすれば眠れます」と慰めるだけだった。
 ようやく現在の精神科の医師を主治医として迎え入れることができたの
は、平成十六年五月、皇太子の「人格否定発言」の後だった。雅子妃への
専門的な治 いま振り返ってみれば、皇太子が批判をおそれず「人格否定
発言」をされた意味は、雅子妃のご病気の様子をいくら訴えても聞き入れ
てもらえなかったため、一刻もはやく、専門医による治療体制と宮内庁の
サポートを求めるお気持ちが大きかったのではないだろうか。
 今回の医師団の見解からも、治療を開始した当時の、ご容態の悪さがう
かがわれる。
(医師団は、この一年あまり治療に携わらせていただきましたが、妃殿下
がこれまでに直面されてきたストレスは、医師団の想像以上に強いもので
あったということをあらためて実感しております)
 皇太子の「人格否定発音」も、医師団の見解も、確かに皇室の伝統から
いえば前例がないことだろう。しかし皇太子の「治療体制作り」の訴えに
続き、今回は「治療への理解」を求めて、あえて医師団が発言したのだっ
た。
 たとえば、「離婚説」の発端となった記事には、こんな一節がある。
(あることをめぐって雅子妃がお怒りになり、東宮職の幹部に直接電話で、
私、皇太子妃を辞めます″と言って、一方的に電話を切ってしまうとい
う出来事があった。これを伝え聞いた宮内庁は、離婚″の問題を内々に
検討するようになったのです)「週刊新潮」(06年1月5日・12日号)
 記事では時期が特定されていないが、これはおそらく、今から三年前の、
まだ雅子妃がご静養に入られていないころの出来事がもとになっていると
思われる。
 繋留流産を経ての、待望のお子様誕生に、皇太子ご夫妻はこの上なくお
慶びだった。だが、ご出産前にも増して多くの公務をこなさねばならなか
ったうえ、産後の肥立ちもあり、雅子妃のご体調はすぐれなかった。そこ
で東官大夫と電話でお話しになり、公務についての再考をお願いされたと
いう話は、当時、取材を重ねていた私の耳にも届いていた。しかし、「皇
太子妃を辞めます」などという発言は今日に至るまで聞いたことがない。
今回の「離婚説」という記事を受けて、改めて取材した。
「あの頃の妃殿下は、育児と公務の両立にとても悩まれていました。妃殿
下は、ある一定の時期までは、母親としてなるべく子育てに取り組みたい
とお考えになっていました。また、公務が一回限りで終わってしまうよう
な継続性のないものが多く、お二人が主体的に関われるものではないこと
も、残念に思っておられました。そこであえて電話のなかで、公務の在り
方を検討していただけないかと伝えられたようです。しかし、決して『辞
めます』などとはおっしゃっていません。まだご病気というわけではなく、
ましてや愛子さまが生まれたばかりで、離婚″など、お考えになるはず
もないのです」(元女官)
 たしかに、雅子妃が本格的に体調を崩し、帯状疱疹で入院されたのは、
この翌年のことである。宮内庁も、この記事に対しては「皇太子妃を辞め
ます」などという電話は事実無根と、編集部に抗議を申し入れているとい
う。
 さまざまな報道で、なんらかのバイアスがかかる原因として、雅子妃に
関する情報が少なすぎること、また直接お人柄を理解する機会がないこと
も考えられる。
 雅子妃のご体調が悪くなった頃に東宮職の人事異動があり、いまやご静
養中の雅子妃しか知らず、以前の快活なご様子はわからないという幹部や
職員もいる。
 宮内記者会にしても、最近異動してきた記者は、雅子妃の会見を直接見
る機会がない。行事などの当日キャンセルが繰り返されるたびに、待機さ
せられたり情報の裏取りに駆け回らねばならず、不満が蓄積していったと
いうこともあろう。雅子妃の関係者にむかって「このままわがままが続け
ば、皇室を去らなくてはならない日が来るでしょう」と言い切る記者まで
いた。
 また、「離婚鋭」の記事が続出しているのは、皇室典範改正問題がから
んでいるという指摘もある。女系天皇容認か、否かという論議が盛んだが、
万が一、皇太子ご夫妻の離婚、さらに皇太子ご再婚で男子誕生となれば、
問題が一挙に解決すると考える人々がいるのだという。その真偽のほどは
わからないが、有識者会議が報告書をまとめた十一月以降に、バッシング
報道が激しくなってきたことも事実である。

 また、(東宮職医師団の見解)文書にもあったが、雅子妃は、遊ぶこと
や楽しむことを罪悪と感じる傾向があり、うまく気分転換ができないこと
があった。そこで、気晴らしやリラックスする方法を身につけることも、
課題として設定されている。
 乗馬をはじめ、スキー、テニス、スケートといった運動や、親族と会わ
れるなど私的外出は、単なる楽しみのためではなく今後の生活を潤滑にす
るための治療の一環として行われている側面がある。 雅子妃ご自身は、
公務を休んでいる状況での私的外出に抵抗を示されたが、医師のすすめに
従って取り組まれている。「昨年十二月二十四日丸の内のイルミネーショ
ン『ミレナリオ』を見に、ご家族でドライブに出かけたことが批判されま
したが、これも、御所という限られた空間だけでなく、外の環境や雑踏に
慣れるためのものでした。
 また、妃殿下は強い光にたいして恐怖感があり、公務のときも報道陣に
カメラのフラッシュを擦えていただく状況なので、あらためて光の美しき
を知り、慣れるという行動療法のトレーニングの一つでもあったのです。
これまでの『嫌だ』という記憶を、『良い』と感じられるよう塗り替える
ことが課題なのだそうです」(東宮職員) 幼年期の楽しい思い出を追体
験し、自信を回復することも、治療のひとつである。 雅子妃は、幼いこ
ろ恐竜が大好きだった。アメリカ生活でも、科学博物館に行くと恐竜の展
示物に夢中になり、恐竜図鑑を記するほど繰り返し読んだという。そこで、
私的外出先として、台東区の国立科学博物館の恐竜博が選ばれた。さらに
小学生のころ、将来の夢は「獣医になりたい」と書かれたほど動物好きだ
ったことから、馬や犬などと触れ合う動物介在療法も取り入れた。
 心の病気は、他人にはなかなか理解が難しく、完治するまでに時間がか
かるため、家族のサポートが非常に重要である。長引けば長引くほど周囲
も諦めてしまうという難しさがあるが、皇太子は常にあたたかく力強く支
えられている。愛子さまとの心の交流がしっかりとあることや、天皇皇后
両陛下が見守ってくださっていることも治療の大きな助けになっていると
いう。
 治療のひとつである「乗馬」も、美智子皇后が二年前に勧めてくださっ
たことがきっかけだった。
「雅子妃はとてもお喜びになって、皇居の馬場で乗馬をされたところ、
治療の効果がすぐに現れたのです」(東宮職員)
 医師団の判断から、現在は私的活動で活力を取り戻すことを最優先して
いるが、雅子妃本人は公務を休まれていることを大変気にされていること
や、一日も早く復帰したいという願いから、行動療法のなかに、多少無理
をされても「公務に慣れていく」というトレーニングが加えられた。
 昨年の愛知万博のご訪問は、その一環でもあった。太陽が照りつける夏
という季節はご病気の雅子妃にとっては大変な負担である。しかし、当日
になってまた取り止めれば関係者に申し訳ないという気持ちから、病をお
してご出席されたのだった。緊張して臨まれた久しぶりの公務を、「ぶす
っとして不機嫌そうだった」と報じたメディアもあった。しかし雅子妃に
とっては、大きな一歩だった。
 現在でも、午前と午後に及ぶ長い公務や、連日のご出席はなかなか難し
いという。午前中に発熱や嘔吐があっても点滴を受け出席されたことも
あるが、周囲に知らせることはできないため、その時々のご体調について
理解を得ることは容易ではない。
 今年、元旦の祝賀の儀と翌二日の一般参賀に連日で出席されたのも、
昨年は一般参賀だけだったことを考えれば、治療は効果をあげているとい
えるだろう。
 だが、歌会始の儀は長時間にわたるため、御歌は詠まれたが、前々から
欠席が決められていた。同じ日の午後に乗馬治療があったのだが、これを
「宮内庁が蒼くなった.雅子妃『皇居で乗馬』事件」(週刊ポスト06年2月
3日号)は、(宮内庁も慌てふためき、すぐに東宮職に確認の連絡を入れた
という。そして記者クラブ内でも、あからさまに『公務を欠席しておきな
がら、当日の午後、同じ皇居の中で乗馬はないだろう』と驚きの声が上が
ったという)と、批判した。
 実際は、二年前から毎週木曜日が乗馬治療の日と決められており、馬の
手配の都合があったため、予定どおり皇居の馬場に向かわれたのだった。
主治医にとっても、皇室の行事を考慮しながら治療計画をたてるべきか、
しかし行事を優先すると治療が遅れ、結局は復帰が遅れる、という選択の
難しさがある。
 一般人ならば、会社のストレスで障害になった場合、休職療養中に近所
を散歩しても、具合が悪ければ横になっていてもいい。しかし雅子妃の
場合は、いわば「会社」のなかで治療せねばならず、その様子は衆人の目
にさらされているようなものだ。公私の別が難しいなか、治療方法の選択
はいかにも難しい。

ttp://tech.sub.jp/2006/02/post_372.html
 もうひとつ、最近ご興味があることは「お手紙ごっこ」だ。すでに
平仮名は覚えて、お書きになれるという。愛子さまは、幼心にも
お母様を心配されているのか、雅子妃のお元気がないときの
「お手紙ごっこ」では、こんなことが書かれていたという。

「ママへ きょうは、なにがたのしかったですか」

 手紙には、花にとまった蜂の絵も描かれていたが、なぜか、
蜂は涙を流していたという。

 雅子妃は、どのようなお返事をお書きになられたのだろうか。

ttp://tech.sub.jp/2006/02/post_376.html