秋篠宮様・紀子様と親王様・内親王様大好きスレ28章-2
143 :
可愛い奥様:
秋篠宮さま 江森啓治
家族の思い出
昭和天皇のお手伝い
「『ヒオウギアヤメ』という家内の印(秋篠宮さまのはツガ)をなんで
印としたのかというと、昭和天皇が、『ヒオウギアヤメ』と、その変種で
那須に分布する『ナスヒオウギアヤメ』が、どういう関係にあるのか、
『ナスヒオウギアヤメ』の由来や起源を知りたいという話を、家族で
会食している時に食卓でされました。昭和天皇が、なにかよい方法はないかと、
私に聞かれた。それでは、私が進化生物学研究所の近藤典生理事長(故人)に
相談してみましょうということで、そのプロジェクトが始まりました。
中間報告が進化研からくると、そのたびに私が昭和天皇に報告していました。
私がイギリスに行っている間は、私の父がかわりに報告していたと思います。
八七年の終わりか八八年の初めから、昭和天皇の具合が悪化するまでずっと
続けられました。最終結論は出てなかったと思います。
144 :
可愛い奥様:2011/08/10(水) 15:03:40.12 ID:fpPSy4oRO
悠仁様はお印のとおりまっすぐに成長なさっています。
八百万の神様を漠然と信じる大らかな日本が私は大好きです。
曾祖母が言った「神様は見てますよ」を思い出します。
145 :
可愛い奥様:2011/08/10(水) 15:19:38.31 ID:3mmuaNVr0
私もその『ヒオウギアヤメ』のことをよく知らなかったのですけれど、そういうことで
昭和天皇が最後に興味を持たれたことの手伝いをした。それでやっぱり自分に
とって大変な記念でしたから、家内の印が「『ヒオウギアヤメ』になったのです。
これは、私が両親と話をしたことによるものです(印は天皇陛下が決めて、
お与えになる)」
当時、皇太子ご一家は週に一回、皇居内の吹上御所を訪れ、天皇・皇后両陛下と
食事をされていた。その折、ナスヒオウギアヤメのご研究についての話が
出たという。この話は、鶏の調査でインドネシアを訪ねた時、宮さまが仲間に
話されていた。進化生物学研究所によると、研究の狙いというのは、日本には
ヒオウギアヤメの仲間としてナスヒオウギアヤメとキリガミネヒオウギアヤメが
自生している。これらは形態がよく似ていて、相互の区別が難しい。そこで
細胞学の立場からと色素成分の分析の観点から、植物種の識別やそれらの類縁・系統を
解明しようと始められたという。これ以上に宮さまが昭和天皇の研究の手伝いを
したことはないという。それは昭和天皇の研究対象が主に無脊椎動物であり、
宮さまは脊椎動物であるという違いによるものらしい。
146 :
可愛い奥様:2011/08/10(水) 15:36:28.68 ID:3mmuaNVr0
祖父のようで祖父でないような…
「昭和天皇からの影響は、生物のことに関してはまったくないと思う。
皇族のあり方とか、皇室の伝統とかの話も、あまりしたことがない。
大分、前のことなのでよく憶えていないが、私たちが学校の話をしたりとか、
普段の生活の話をしたりということが多かったように思う。どちらかというと
昭和天皇は聞き役だった。ご自分の学校時代の話をされることも、たまに
あったように記憶している。それと、印象に残っていることとして、吹上御所から、
帰る前に、昭和天皇が、『ヒガンバナが綺麗に咲いているから、それを
見に行こうか』というので、昭和天皇もこちらの帰る道筋の途中まで行かれて、
一緒にヒガンバナを見たこと、そして吹上御所の庭を散歩中に、シメジが
生えているからというので案内して下さったことがあった。昭和天皇は、私たちには
とても優しかった。兄妹の中で、誰がいちばんかわいがられたというのは、
わからないが、私は怒られたということは一度もなかった」
147 :
可愛い奥様:2011/08/10(水) 15:53:14.60 ID:3mmuaNVr0
宮さまの昭和天皇への思い出はいろいろあるようだ。特に親しい人に語られた
ところによると、いちばん印象に残っていることはやはり最後のお別れの場面だという。
一九八九年一月七日、宮さまは朝四時ぐらいに連絡を受け、着替えをして
赤坂御所から吹上御所の御寝所に行かれた。そして宮さまは、昭和天皇の
枕元のすぐ近くにいらっしゃったという。付近にはお別れしたい大勢の人達が
いた。「いちばん印象に残っているのは、ピーッと鳴った時でした(心臓が
停止された時)。最後にお話をしたのは、八八年の十一月でしょうか。十二月の
時にはもう話ができなかったですから。あいさつをして『いかがですか』
みたいなことをたずねました。日によってご容体に違いがあったような記憶も
あるのです。結局、私にとっては祖父に当たるわけですよね。
ただ、私は
昭和天皇というのが、別の世界にいる人のようなとらえ方をしておりました。
自分でそうしていたのかもしれないですけれども同じ家族という感じでは、
接してなかったです。これは皇居という堀に囲まれた地理的要因が
大きかったのかもしれない」
148 :
可愛い奥様:2011/08/10(水) 16:11:18.82 ID:3mmuaNVr0
宮さまは、昭和天皇を「おじじさま」、「陛下」と呼ばれた。
昭和天皇は、「あやちゃん」であった。(宮さまの幼少時の称号の礼宮に
ちなむ)。皇太子さまのことは「ひろちゃん」、紀宮さまは「のりちゃん」
だった。宮さまは、とても親愛の情を込めて昭和天皇について語られる。
また、宮さまが外国訪問されるというと昭和天皇は
「じゃあ、親善に努めるように」と必ずアドバイスされた。「昭和天皇は
一九〇一年のお生れで、そうしますと、終戦の時は四十歳半ばでいらっしゃいました。
戦前、戦中、戦後と昭和天皇の経験された事柄の重さは、はかり知れないものが
あると思われますが、殿下は今、三十二歳。殿下もお年を重ねるにつれて
そういった昭和天皇のご苦労にいろいろと思いをいたされますでしょうか」と
私は、思い切って聞いてみたことがある。それは、暑い夏の日だった。静かな
宮家の中にいてもセミの鳴く声がうるさいほど聞こえてきた。
「とにかく私なんか、幸せな時代に育っていますから。随分、違うと思います。
ご苦労話を、昭和天皇から直接、聞くという機会はなかったです。そういう話を
あえて昭和天皇はされなかったのかもしれません。こちらから聞けばなにか
あったかもしれないのですが、むしろ、私は父からそういう話を聞いたことが
ありました」宮さまはこのように答えられた。