皇室御一行様★part2109

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62可愛い奥様
避難所からhttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/5135/1298355698/773-774
1/2週刊誌レポ
週刊文春2011.8月11日・18日夏の特大号

重大事件の目撃者 私はそこにいた!決定版40人

平成21年/5年ぶりの宮中祭祀 雅子さまは無言で頷いた
特集記事の中の1/2頁程の記事
・’09年1月7日、雅子妃は5年3ヵ月ぶりに宮中祭祀を務めた。
宮中祭祀への雅子妃の思いを宮内庁関係者が語る。
「雅子妃はご静養直後から宮内庁幹部やベテラン宮内庁記者たちに『宮中祭祀をやりたがらない』と言われてきた。
しかし実際には10キロにもなる衣装を見に纏って長時間に及ぶ祭祀をするには、体調が十分に回復されていなかった。
この年はご名代拝礼が決まっていたため、両殿下と野村東宮大夫は何度も打合せをしていた。
他行事との兼ね合いもあり、無理のないスケジュールに調整されたそうだ。
それでも、雅子妃の体調を前日まで鑑みた上で、最終的な判断をすることになった。
そのため野村東宮大夫は東宮医師団と何度もやり取りをしたそうだ」
・野村氏が東宮大夫に就任した’06年頃の雅子妃は、お疲れになって寝込まれることが多かった。
末綱侍従(当時)と主治医の大野医師と共に、適応障害の性質上の難しさゆえ、宮内庁の中でやや孤立した東宮家の環境を整える必要があったという。
・「両陛下にご迷惑をおかけしてはならない状況で、雅子妃も野村東宮大夫も緊張の絶えない数日間だったそうだ。
野村東宮大夫が前日に雅子妃に体調を伺うと、毅然と前を向かれて頷かれたという。
その表情には何ものも寄せ付けない妃殿下としての存在感が漂っていたそうだ」(同前)
・祭祀を無事に終えた雅子妃は、疲れが残ったものの体調を崩すことはなかった。
その表情は実に穏やかだったという。
「最後までやり遂げられたことが大きな自信につながったのではないか。
立派に務められた妃殿下に、野村大夫は改めて敬服したそうだ」(同前)
・その野村大夫は今年7月5日、退任。
「5年3ヵ月に及んだ野村大夫の次代は、皇太子夫妻の試練の時でもあった。
野村大夫は雅子妃を幼少期から知っているだけに、側でみているだけで辛い時もあったといいます」(同前)
〆は、野村氏は皇太子夫妻からの強い要望で、今年12月までは参与として東宮家を支えていくという。
63可愛い奥様:2011/08/03(水) 15:47:56.60 ID:675y6At20
2/2同じく週刊文春

昭和34年/美智子皇后結婚5日前の「父娘のキャッチボール」
特集記事の中の1/2頁程の記事
・ご成婚と合わせ、週刊誌創刊ブームも起きた。前年に創刊された『女性自身』の初代編集長、黒崎氏(故人)はスクープ競争をこう語っていた。
・私たちの取材攻勢に閉口され、美智子さまの母上から一通の手紙が。
〈度々のおたずねでございましたが 先頃来の無理でとうとう床についております
折角のお申し出ながら どうかあしからず お引き取り願いあげ度く
お断りまでに一筆 かしこ 正田内〉
・美智子さまの家庭での様子をカメラに収めようと、正田家の庭に面した家の二階を借りて、
夜明けから日没までカメラマンを張り込ませた。今日もダメ、明日もムダかと疲労の色を濃くしていた時とうとう幸運に遭遇。
庭の木立の間から、美智子さまと父上に英三郎氏がキャッチボールをされている光景が。
・グローブを手にした父娘がにこやかに声をかけあっている、朝の寒い外気が和らぐような“絵”であった。
ご結婚5日前のことである。カメラマンがもっとよく撮ろうと身を乗り出したところで、通行人と近所の人に見つかりあたりは大騒ぎに。
押っ取り刀で警官が駆けつけ、フィルムだけはなんとか編集部に届いたが、担当者とカメラマンは連行され、さんざん油をしぼられた。
・トックリの黒いセーターにトレーニングパンツ姿、美智子さまの民間人としての最後の写真はもちろん誌面を飾り大きな反響を呼んだ。
〆は、あの頃、美智子さまの人気は大変なものだった。
なによりも、美智子さまの容姿、品、言葉づかいには凛とした美しさがあった。
それらは戦後の日本人に久しく欠落していたもので、そんな郷愁を満たしてくれるものが美智子さまにあったからではないだろうか。

詳細は皆様各自でご確認ください―レポ、以上です。