秋篠宮様・紀子様と親王様・内親王様大好きスレ22章

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308可愛い奥様

335 名前:名無し草[sage] 投稿日:2010/06/30(水) 14:02:25

高円宮邸の改修費用20億円というのは
ドス子wiki(imo33)のでっち上げだよ!

これ見るとわかる。

http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/kunaicho/pdf/gaisanif-h22.pdf
         

ドス子・・・「ドス子の事件簿」というサイト。

アンチ東宮で秋篠宮信者のサイトで
酷い皇太子ご一家叩きのサイトのことです。
309可愛い奥様:2010/06/30(水) 16:06:09 ID:ljZW9xYZ0
このスレって病気な方々の集会所だったのね。
スレタイからは想像出来ませんでしたわ。
310可愛い奥様:2010/06/30(水) 16:06:54 ID:ljZW9xYZ0
ああ、妄想の激しい病んだ人を相手してしまいましたね。失礼しました。いきなり決め付けて「おまえ」ですものね。ほんとに怖いわ。
311可愛い奥様:2010/06/30(水) 16:07:49 ID:ljZW9xYZ0
>>306
他人が窺い知るのはその程度でも、改正原戸籍を取れば金吉氏の父が誰で母が誰かはっきりわかり、場合によっては父と母の生年もわかります。
明治30年代まで生きた金吉氏なら100%分かる。

明治19年式戸籍
ttp://www.keizu.org/koseki_1886.html

宮内庁は必ず調査している筈ですから、金吉氏のその先の系図をきれいな形で発表できる筈なのに、なぜか金吉氏止まり。
一宮妃の紀子様が高祖父までわかっているのに、皇太子妃雅子様の高祖父不明。
なぜでしょうか?
発表できないとしか考えられません。
312可愛い奥様:2010/06/30(水) 16:08:54 ID:ljZW9xYZ0
いずれにせよ、戸籍のある明治時代にあって、親と兄弟をごまかせると思っている程度の人が、
雅子様を士族の出だと言い張っていることが明白になりましたね。
313可愛い奥様:2010/06/30(水) 16:09:37 ID:ljZW9xYZ0
小和田匡利(道蔵)が金吉氏の父なのか兄なのか不明。
殆どの日本人は改正原戸籍があるので、こういうことはあり得ません。
314可愛い奥様:2010/06/30(水) 16:10:52 ID:ljZW9xYZ0
>>306
あの系図では小和田道助の弟が勝治、兵五郎になっていますが、別の系図では、小和田道助の子供になっています。

小和田新九郎と小和田新六匡安と小和田匡春(道助)(1858年64歳で死亡)
が、兄弟であることには間違いない。新六の息子が小和田郡蔵。匡春(道助)の息子
が勝治であることも間違いない。勝治の弟が兵五郎であることも間違いなし。
小和田兵五郎の息子が小和田匡利(道蔵)であることも間違いないのである

それ故、14才父親説があり、「「一説に小和田金吉は小和田道蔵匡利の三男と伝えるも年代齟齬して審かならず、
仮に小和田兵五郎の三男の系に継ぐ。おそらくは別流ならん歟」と言われるのです。

いずれにせよ宮内は金吉氏の先祖を明らかに出来るはずなのに、明らかにしない。
315可愛い奥様:2010/06/30(水) 16:11:33 ID:ljZW9xYZ0
系図自体確実なものではなく、こういうものがあるという程度です。

これはWikiの記述ですが、

小和田恆の先祖は江戸時代、越後村上藩(現・新潟県村上市)の下級武士だったとされる。
村上市に残る記録にも小和田姓の藩士の名が散見される。
しかし、それら小和田姓の藩士と恒の父祖とのつながりは不明な点が多く、明確ではない。

神一行の著書『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 399頁に
「さて、その雅子妃の実家の小和田家であるが、そのルーツは現在の新潟県村上市を治めていた村上藩内藤家五万石の下級武士だったようだ。
代々、下横目(目付)、奥方付きお庭番などの役職につき、柔術“制剛流”の達人の家柄だったというが、
はっきりした系譜は曽祖父にあたる金吉からしかわかっていない」とある。

なぜか詳細が発表されないので、先祖不詳が通説になっています。
繰り返しますが、金吉氏の先祖は親族ならいとも簡単に分かります。
316可愛い奥様:2010/06/30(水) 16:12:44 ID:ljZW9xYZ0
>>302

毎日グラフ 1993.1.31
新潟県・村上市 慶祝ムード  小和田家のルーツ・系譜に論議わく

 恒さん夫妻は87年11月22日、毅夫さん夫妻とともに、郷土資料館を訪ねている。当
時の館長、前田健さんは「士族の血を引く人物らしいエピソード」として、その模様を日
記にこう書き残している。

「お父様(毅夫さんのこと)は足がお悪いとのことで車に残られ、お母様と奥様と恒さん
をご案内した。おしゃぎり(村上市の祭りで使われる山車)の説明を終えて、二階へ階
段をのぼられる時、恒さんはお母様をおんぶされてのぼられたのには敬服した。なかな
かの人だと思った」

 小和田家と同じ村上藩士の子孫で、郷土史研究家の村上城跡保存育英会の竹沢盛
夫理事長(77)も、小和田家のルーツ探しに追われる日々だ。竹沢さん自身、雅子さん
の父方の曽祖父、金吉さん以前の祖先がつかめていない。

「ご婚約は同じ士族の子孫として大変喜ばしいこと。下級武士であったために小和田家
のルーツは記録が少ないが、これで系譜を解きあかす興味が増えた」
 といきいきとした表情で語った。


小和田恒さんは、戸籍を見て誰が先祖なのか、教えてあげればいいのにw
317可愛い奥様:2010/06/30(水) 16:17:05 ID:ljZW9xYZ0
あら!こんなソースを発見しましたよ。

雅子様の曾祖父である海軍大将山屋他人の奥さん、つまり雅子様の曾祖母に当たる貞子という女性は、
鶴岡八幡宮の宮司を勤めた丹羽房忠の娘。

 雅子様の高祖父がれっきとした神職であったことの証拠

http://books.google.com/books?id=2NmdrPZwD-MC&pg=PA1901&dq=%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E4%B8%8E%E4%B8%89%E9%83%8E&as_brr=3&hl=ja&sig=ACfU3U1OcTy4QZ4eY47LytgVNNxVBO0N4g

 明治35年07月05日 柴崎宮司退任し、丹羽与三郎、宮司に任ぜられる[職員録]
 明治35年07月11日 新任丹羽与三郎宮司、国弊中社寒川神社宮司より着任す[庶務回議録・職員録]
 大正元年01月15日 丹羽宮司より薙刀(銘備州長船祐定)の奉納あり
 大正05年02月14日 天機奉伺のため、丹羽宮司、葉山御用邸へ参向す[社務所日誌]
 大正05年05月09日 丹羽宮司没す(七十六歳)[社務所日誌]

http://www.newgenji.co.jp/cgi-bin/sieta.pl?CID=1&sm=s&gf=author&gk=%81%96%8C%FB%8AG%81F%8F%D1%91%9C%8E%CA%90%5E%94%FC%81%40%92O%89H%96%5B%92%89%81i%92O%89H%97%5E%8EO%98Y%96%5B%92%89%81j&ff=0&of=1

 丹羽房忠翁歌集
 〔丹羽与三郎房忠、鎌倉宮・鶴岡八幡宮・寒川神社等の宮司を歴任、皇太子妃雅子殿下の実家小和田家の祖〕
 *口絵:肖像写真美 丹羽房忠(丹羽与三郎房忠)/(宮田六左衛門刻)/(昭和3年跋)発行/\23,500
 刊記なし 昭和3年阪正臣跋 和装 原題箋 四つ綴 表紙極少経年ヤケ 本文極少経年ヤケシミ