【本当は】既女的韓国談義part255【極寒流】

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368可愛い奥様
【江戸時代】 遊女の一生
生まれては苦界 死しては投げ込み寺 苦界十年の女たちの世界

人買いに売られたりしてなりたくもないのに「遊女」となった女性たち、遊女の夢は
自分を外に連れ出してくれる伴侶を見つけることでした

一般的に幼い頃、売買された少女は禿(かむろ)からスタートします。一応年季は10
年です。10年働けば自由になると言われていましたが、これは表向きの話。

禿時代はただ飯食いとして年季のうちに入りません。15歳になると遊女としてデビュー。
それから25歳まで一日に5・6人の客をとり、10年間肉体を使って働くのです。遊女は、
持ち前の才能や美貌などによって、出世していきます。

が、遊女は仕事がら食生活も不規則で、健康面に不安を抱える人が多かった。また、
性病などの病気になる女性が数多くいたのです。当時、避妊具はあまり発達しておらず、
「みす紙」という薄い紙を丸め膣内に挿入する方法しかなかった。吉原には病気治療の
施設が大門の外にありましたが、再び見世に並べるようになった人は100人に一人か二
人だった。ほとんどの女性がそのまま死んでいくのです。その病気治療に行くことがで
きるのは高級遊女だけです。

死んだ後の女性はどうなるのか? 遊女は売られた者がほとんどのため、死体の引き取
り手がいません。そのため近くの寺に埋葬されるのです。それを「投げ込み寺」といい
ます。墓穴に投げ込んで終わりという簡単な葬式だったからです。投げ込み寺のひとつ、
浄閑寺の過去帳には18歳から20代前半の遊女の名が記入されているが、その数2万人と
ありました。(つづく)

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3653416.html
369可愛い奥様:2009/10/09(金) 20:56:35 ID:8Ou5NO9f0

>>368 からのつづき)

では、病気にもならず生きて吉原を出ることができた女性はどうなるのでしょうか。吉
原出の遊女たちは、年季を全うしても新たな借金がかさんでいた。茶屋側の巧妙なシス
テムにより、稼いでも稼いでも借金が減らないようになっていたからです。裸一貫で遊
女となった女性は、食べるもの・着るものにもお金がかかる。そして15歳でデビューす
るも、揚代は楼主のもの。年季を終え、吉原を出ても貯金などまったくないのです。さ
らに10年以上も故郷から離れていた遊女はいわば「厄介者」。故郷に帰ってもただ飯食
いが増えただけなのです。

さらに借金が残っている女性もいた。吉原で10年働いても、借金全てを返済できないの
である。その場合はどうなるのか。江戸時代、25歳は「年増」とされていた。そのため
岡場所に売られるのです。いずれにしても、遊女は足を洗えず、一生肉体を切り売りし
なければならなかった。商品価値がある時のみ、着せ替え人形のように色を売り続ける
女性たち。こうして遊女となった大半の遊女は、哀れな一生を送るのです。

http://okwave.jp/qa3636433.html
370可愛い奥様:2009/10/09(金) 21:02:44 ID:8Ou5NO9f0
[苦界へ身を売られた娘達]

不夜城と呼ばれ豪華絢爛な廓にて主役として働く遊女達は、一見華やかに見えますが、一人一人
はを見れば自ら好き好んで遊女に成ったものは皆無に等しく、農村出身者は冷害・風水害などの
天災地変にも拘らず、規定の年貢を厳しく取り立てる領主に年貢金を払うために、また都市出身
者は働き手の死亡や病気故に家族の生活を助ける為に身を売ったか、親の借金のかたとして取り
上げられ売られた者、同棲中の男に騙され売られた者、拐かされ女衒に売り飛ばされた者が大半
を占めていました。どのような理由であれ、吉原遊女は岡場所の女郎とは異なり、実質的には奉
公の形を執って、遊女屋と親(又は売主)との間にて年季証文をもって契約されていました。
 
吉原遊女の年季奉公は「苦界十年、二十七明け」と云われ、十七歳にして女郎として客を取り、
十年勤めて年季明けとなって「証文を巻く」(自由の身となる)のが原則でした。七・八歳の幼
女の頃に親の都合にて楼主や女衒(ぜげん)に売られ、吉原に禿として入った者は、十七歳まで
は飽くまでも見習であって、年季奉公の期間には算入されていません。
 
奉公時の身代金は年齢・容貌・経験などによって各段の差があり、時代によっても変動がありま
した。ただ、一本立ちして遊女となると、部屋の調度品などの調達は自弁であったので、上客が
付き買い揃えて呉れるか、小遣金を与えられない限り、遊女屋からの借金にて購う事になり、返
済方法として年季が増す仕組みになっていました。
 
遊女が自由の身になるのは、死亡して廓を出るか、身請けされて廓を出るか、年季が明けて出る
か三つの方法しかありませんでした。誰でもが望んだのが、年季明け前に馴染客や金持ちにより
身請けされる事で、この際の身請金は年季の残りの残金と身請け披露に必要な祝金、配り物の費
用、遊女個人の借金が加算されたので多額の費用を要しました。(つづく)

http://www.otakihogakki.com/news/yoshiwara37.htm 
371可愛い奥様:2009/10/09(金) 21:04:11 ID:8Ou5NO9f0

>>370 からのつづき)

身請をする場合には遊女の転売を阻止する手段として、身請人が数名の証人を立て、自分の妻と
なし、他の遊女屋に売らない事、また遊女の将来を保証する意味合いから、仮に離縁する際には
相応の金銭と家屋敷を与える事を明記した身請証文を遊女屋に出す定めになっていました。

遊女の実生活は客座敷での華麗な衣装を身に纏った姿とは程遠いもので、粗末な食事で重労働と
も云える接客にて労咳(現在の結核)を患う者が多く、良客が多くついている遊女の場合は遊女
屋の別邸に出養生させて貰えましたが、大部分の遊女は微熱を持ち、喀血をしながらも多くの客
を取らされ、身動きが出来なくなると裏手の日の当たらないじめじめした部屋の置かれ、ろくに
食事も与えられず死を待つばかりでした。

また、遊女の病気で恐いのは瘡(かさ・現在の梅毒)で、衛生思想の未徹底の当時梅毒に罹って
いる男性が多くおり、不特定多数の男性との交渉ゆえ、瘡持ちとも知らず交渉して罹患する者も
多くありました。当時の瘡に対する考えは現在のエイズに対する若者の考え方と類似し、自分の
みは罹る事はないと無防備な不特定多数との性交渉が蔓延をもたらしていました。抱え遊女が瘡
に罹患したと判ると遊女屋では旅篭女郎・岡場所などへ転売することが多々ありました。

遊女が重症になると労咳持ちと同様な仕儀となりました。病没した遊女達の亡骸は三ノ輪浄閑寺
に葬られましたが、棺桶などには入れられず、酷い店では腰巻一つにして粗莚に包み、埋葬した
そうです。劣悪な生活環境ゆえに年若くして亡くなる者が多く、寺では数百軒の遊女屋から数多
く出る亡骸を一人づつ墓を設ける事はせず、大きな墓穴を掘って次ぎから次ぎと投げ入れ、上か
ら土を掻けただけでした。ですから浄閑寺は別名投げ込み寺と呼ばれています。

http://www.otakihogakki.com/news/yoshiwara37.htm