週刊女性4/28号に記事がありましたので、抜粋。全文は本誌でご確認下さい。
タイトル 短期集中連載「バッシング? 宮中戦争?'93.10.20『失われた声』の真相」
(導入)
59歳の誕生日に発表された美智子さまの所感(宮内記者会の質問への文書回答)
『どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います(中略)
しかし事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない
社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が繰り返し許される社会で
あって欲しくはありません。』'93.10.20
('93のいわゆる「失声症事件」について振り返る)
所感が発表された当日、祝賀行事出席のため、今上・紀宮様と共に赤坂御所で待機中、
皇后さまが倒れる。すぐに意識回復、軽い昼食も取られたという。
侍医の診断では、「特段別状はない。ただ、努力しても言葉が出ない様子で体調
を見守っている」'85ごろから貧血やめまいが持病のようになっていた。(当時の
宮内庁担当記者)夜には「23日からの香川・徳島国体には予定どおりご出席」と発表。
21日午後、精密検査の結果「器質的な異常は認められない。しかし、なんらかの
強い悲しみを受けたとき 、一時的に言葉を発せられなくなることはありうる」
(金沢一郎・現皇室医務主管)
精密検査後も"四国訪問"の予定に変更は無かったが、宮内庁に抗議の電話が殺到
したこともあり22日夕、藤森昭一・宮内庁長官が赤坂御所で訪問中止を進言。
説得は6時間ちかくにおよび、深夜12時前になって美智子さまが意思表示され、
中止が決定(当時の宮内庁担当記者)
当時、皇室の内外では美智子さまへの様々な非難が、一部の雑誌メディアでも報道。
皇太子妃時代、美智子さま関連の報道は、ほとんどが「礼賛」記事。それが皇室内
で孤立状態だった美智子さまには、ある意味で大きな支えになっていたのも事実。
「新聞・テレビはもちろん、雑誌の記事もすべて目を通されていた。事実と違ったり、
批判的なものもあって、たいへん気になさる。」(元・東宮侍従の浜尾実さんが、
のちに語る)
(“遠い存在”になったという指摘)
「事実と違う非難や報道もあったと思う。ただ、あの時の皇后非難の背景には、
両陛下の平成流への戸惑いや反発があった。昭和天皇は側近を信頼して、よきに
はからえ式だったけれど、両陛下はなにごとにも自分たちの意向をはっきりと
示される〜そんな不満の声が当時、宮内庁内にあった」(旧宮家関係者)
両陛下の平成流への不満を決定的にしたのは前年の、両陛下中国訪問だったと言わ
れている。
当初用意されたお言葉の草案は昭和天皇訪米時の言葉を踏襲した『永きにわたる
歴史において不幸な時期がありました』だったが、陛下の手が加わり、最終的に
『わが国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました』という
一歩踏み込んだ表現になったと言われている。
こうしたことから本来は皇室崇拝の念が強いはずの右翼・保守勢力の一部に両陛下
への強い不満が鬱積していた。その不満が美智子さま非難という形で爆発する契機に
なったのが、皇太子ご夫妻の婚約後の一連の経緯。
'93.1月、皇太子夫妻の婚約が皇室会議で正式決定。その夜、赤坂御所で夕食会。
雅子様ご家族のほか、秋篠宮ご夫妻、常陸宮ご夫妻、陛下の姉妹・池田厚子さん夫妻
、島津貴子夫妻、美智子さまの実家・正田家、紀子さまの実家・川嶋家。
高松宮・三笠宮家などの皇族は招かれなかった。招かれなかった皇族は納采の儀の
日取りも婚約も、マスコミ報道で初めて知るという事態だったという。
三笠宮崇仁さまが代表して宮内庁に抗議し、納采の儀は翌月に変更に。
「昭和の時代、高松宮妃などは""美智子妃いじめ"の中心ともいわれ、その仕返し?
なんて声さえあった。また寛仁殿下は、たいへんな怒りようだったそうです(略」
(旧宮家関係者)
非難の嵐はそんな皇室内の確執も大きな一因。“事実でない”と指摘されることも
含めて、さまざまな噂や情報が皇室や宮内庁内から流出することにもなった。
だが美智子さまへの非難やバッシング報道は一部の皇族・保守勢力の不満の爆発だ
けではなかったのも事実。東宮侍従浜尾さんも、諌言を雑誌に寄稿。
朝日新聞の元・皇室記者、岸田秀夫さんは「即位の礼で天皇陛下は高御座に上り、
美智子さまが御帳台に上られたときから何らかの"変身"をなさったのではないか。」
と当時、厳しい指摘もしていた。
平成になって、おふたりが何か遠い存在になったと感じる人も少なくなかった。
ローマ法王との会見についての質問に、事前に提出された質問ではないとの理由から、
お答えにならないことも。
皇太子妃時代には毎年恒例になっていた単独(誕生日)会見が、なぜか平成になってから
は中止に。宮内庁「皇太后さまも、皇后時代にはなさらなかった」
そもそも香淳皇后は皇太子妃のときにも会見はされていない。
(「ぜいたくでは」と言う批判)
そんなことから皇后になられてからの美智子さまの格式主義に疑問の声も少なくなかった。
両陛下は平成皇室のあり方の一つとして、外国王室とのプライベートな交流を考えていた。
これはヨーロッパ訪問などの際、公式日程外に王室の離宮(別荘)などで過ごされた体験から
の発想だったと言われる。
この年の12月、両陛下は赤坂御所から皇居新御所に引越しされたが、ここには外国の
賓客をもてなす宿泊施設(迎賓棟)も造られていた。総工費56億円で「ふつうならその
2〜3倍はかかる」(建築関係者)と言う豪華なもの。バブル崩壊後の不況期でもあり
「ちょっと贅沢すぎないか」「宮殿や迎賓館もある。プライベートなもてなしのため
というなら、新御所に招かれない国や相手はどうなるのか。“一視同仁”の皇室の伝統に
反しはしないか」と厳しい批判の声も。(のちに宮内庁は「迎賓棟という施設はない」と否定)
10月の国体は中止になったが、11月の愛媛・高知県訪問。
宮内庁が失声症からの回復を発表したのは12月11日。
事件から3年後、宮内庁長官に就任した鎌倉節・新宮内庁長官は「戦後半世紀をへた今、
これからの皇室は海外ではなく、もっと国内に目を向けていただきたい」と強く進言。
それは両陛下の“外国王室との公私にわたる積極的な交流”構想の頓挫でもあった。
そしてこのことがのちに、雅子さまの悲劇を招く遠因にもなった。
長くて申し訳ありません。略し様がありませんでしたorz
感想としては、やはり大半が無記名の伝聞形式か、という感じです。
話半分で読みましたが(導入)部の言葉、「批判の許されない社会であっては
なりませんが、事実に基づかない批判が繰り返し許される社会であって欲しくは
ありません。」と発する事が出来た美智子さまはお強いなーと思いました。
今現在、雅子さまが置かれている環境と近いながらも、こうしてきちんと発言された
勇気は素晴らしいと思います。
ただ、体調が良くない時・お休みになるべき時はお休みいただきたいな、と思います。
失声症になられた頃を存じ上げなかったので、ただただ驚くばかりで、その中でも、
非難の背景がそういった変革への抵抗もあったというのは、何とも言い難いです。
また、ここに書かれている事が本当だとするならば、なぜ、皇太子ご夫妻のご婚約後
のお招きがうまく行かなかったのか、本当に残念でなりません。
これが上手く行っていたなら、雅子さまの心理的ご負担も違ったのではと感じます。
鎌倉節・宮内庁長官の「これからの皇室は海外ではなく、もっと国内に目を向けて
いただきたい」と強く進言された事も、宮内庁長官が皇室を操っている(言い方に
語弊があればすみません、他に適した言葉が思い当たりません)様にも思われます。
全体的に、皇室・宮内庁からの情報・噂というのが問題なのかな、と感じました。