【長崎】佐世保市スポーツクラブ発砲事件

このエントリーをはてなブックマークに追加
294可愛い奥様
1868年6月7日(慶応4年閏4月17日)、太政官達が示され、捕縛された信徒の流罪が示された。
5月20日、木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物114名を津和野、萩、福山へ
移送することを決定した。
以降、1870年(明治3年)まで続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。
彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、
氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなど
その過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕時代以上であった。

各国公使は、事の次第を本国に告げ、日本政府に繰り返し抗議を行なった。さらに翌年、
岩倉具視以下岩倉使節団一行が、訪問先のアメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、
英女王ビクトリア、デンマーク王クリスチャン9世らに、禁教政策を激しく非難され、
明治政府のキリスト教弾圧が不平等条約改正の最大のネックであることを思い知らされる
ことになった。
欧米各国では新聞がこぞってこの悪辣な暴挙を非難し世論も硬化していたため、
当時の駐米少弁務使森有礼は『日本宗教自由論』をあらわして禁教政策の継続の
難しさを訴え、西本願寺僧侶島地黙雷らもこれにならった。

しかしかつて尊皇攘夷運動の活動家であった政府内の保守派は「神道が国教である
(神道国教化)以上、異国の宗教を排除するのは当然である」、「キリスト教を解禁しても
直ちに欧米が条約改正には応じるとは思えない」とキリスト教への凄まじい憎悪を
露わにして禁教令撤廃に強硬に反対し、また長年キリスト教を『邪宗門』として
信じ込んできた一般民衆の間にもキリスト教への恐怖から解禁に反対する声も
上がったため、日本政府は一切解禁しようとしなかった。
なお、仏教界には廃仏毀釈などで神道とその庇護者である明治政府との関係が
悪化していたため、『共通の敵』であるキリスト教への敵対心を利用して関係を
改善しようという動きも存在していた。

1873年(明治6年)2月24日、欧米各国の執拗な干渉の末、遂に日本政府はキリスト教
禁制の高札の撤去と、信徒の釈放を行わされることを余儀なくされた。