大阪人が嫌いな奥様part2

このエントリーをはてなブックマークに追加
150可愛い奥様
11歳、12歳の「丁稚」は子供と呼ばれ、住み込みで徹底した「企業内教育」を施される。
習字にそろばん、証文や帳簿のつけ方などを約5年間、先輩から教えられる。
その間に、商売に不向きだったり、体力的に続かなかったり、という丁稚は店から消えていく。

同期が5人いるとすると、20歳ぐらいで「手代」になれるのは1人か2人です。
また30歳の手前になると、「手代」から「上座」になれるかどうか、
さらに30代半ばになると「上座」から「組頭」と呼ばれる管理職になれるかどうか、 ふるいにかけられます。
ピラミッド型の人事は現代の企業と同じですが、

丁稚と平手代は一種の試用期間で、いつでも解雇できました。
そのうえで出世の階段ごとに解雇か雇用更新か選別されていったんですね。
そうやって江戸の大店は無駄な人件費コストを背負わないようにしつつ、
競争力をつけようと努力していた。

ttp://jinjibu.jp/GuestIntvw.php?act=dtl&id=3
151可愛い奥様:2007/06/25(月) 23:43:16 ID:+Mxnlw1L0
<12歳、丁稚生活の第一歩<どうぞ立派な商人に>

心斎橋筋の小間物屋に雇われた。時まさに明治四十四年十月中旬。丁稚生活の第一歩をふみ出した。
ところが困った事には、自分より一年上の先輩が居って、自分が余りにもよく働き主人の気受けがよい為、
気を悪くしてことごとにいぢ悪くいぢめる。

六時に起きて、自分が助手で芋の皮をむいていもがゆを焚く。いも熊と言う問屋でくず芋を買って来るのだ。
名前を六造とつけてくれた。何故親が付けてくれた本名を呼んでくれないのかと情けなく思った。

朝食が終ると女中のする仕事をさせられた。九時過ぎると二階より主人夫妻が起きて来られた。店へ出る。
朝の内は御客さんが少い。午後になると人通りも多くなり客も多い。主人と番頭さんがお客さんの相手となり、
自分は使いに走ったり商品の出し入れをした。夜は客が遅くまで続く。店を締めるのが夜の一時になる。
夜中一時過ぎて寝床に横になり、トロトロと寝たと思ったら「起きや」と隠居に起される。

少年の自分には五時間位では寝不足でつらい。夜十時過ぎるとコクリコクリと居眠りをする事がある。

ボンボン(大阪の商家では息子さんの事をボンボンと呼ぶ)が自分の顔に墨を塗る。
心斎橋筋大宝寺町の西南の角にやき芋屋があった。そこへやき芋を買いにやらされる。
やれ嬉しや、やき芋が食べられると勇躍心斎橋通りの十時、人通りの多い通りを大きな顔をして歩くと
通行人が皆自分の顔をみて笑って居る。帰って鏡をみるといたずらにしてはあまりにひどい、

いかに年少の丁稚だとて人格を無視してはづかしめるにも程がある。熱い涙がホホを伝う。居ねむりするのは悪い。

併し十二才の少年に五時間位より睡眠時間をあたへぬ方が無理ではないか。
親が知ったらこのはづかしめをどんなに悲しむだらうか。武士の娘に生れた母親は、丁稚に出る時別れの言葉に、
どうぞ御主人大切に立派な商人になってお呉れ、どうぞ間違った事をしたり曲った心を持つて
人に後指を指されるやうな者になつてくれるなと。自分は子供心に、心斎橋の人通りの多いところで皆に笑われた、
併し自分が悪いので無いと心で反問した。http://www.mazroc.co.jp/legend/kutouzidai3.htm