最近感心したこと。

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11可愛い奥様
585 名前:本当にあった怖い名無し 投稿日:2005/07/05(火) 02:04:11 ID:FIupOoZY0
雨の夜、自転車で駅に向かう途中、曲がり角に差し掛かると突然原付がぶつかってきました。
あまりの痛さに声も出せずにうずくまっていると、最初は大丈夫ですか?と声をかけてきていた運転手が
私の返事がなくて怖くなったのでしょうか、いきなり逃げ出しましたw
痛いのと悔しいので泣きながら家に戻ると(現場は家からほんの1qくらいのところでした)
何を思ったのか母親が家の外に飛び出していきました。
車のエンジンをかけ、そのまま車を走らせどこかへ行く母親を唖然と見送り
仕方がないので救急箱をあけて自分で手当てをしていると、しばらくして母親が戻ってきました。
どうしたの?と聞くと「犯人つかまえた!」というのです。
私はうずくまってて事故相手の顔も原付もどんなだか覚えてないのでそれは有り得ないよと笑っていましたが
すぐに交番のおまわりさんが来て事情を聞いてびっくり。

母は車で近所を徘徊、すると雨の中、夜なのに懐中電灯も持たずに原付を止めて車体を見ている男を発見。
娘をひいた犯人だと確信した母は車を降りて、どうかしましたか?と声をかけました。
すると男は「ちょっとこすっちゃったみたいで・・・」と言ったので
「ナンバー覚えましたよ。あなた人をひいたでしょう」というと
原付に飛び乗ろうとしたので押さえつけて肩にかけていたそいつのカバンを奪い携帯で110番したそうです。
なんていうかあまりにも無謀な母に驚きました。
身長も150pしかないくせに男の人につかみかかるなんて。
その後わたしの怪我を見てかわいそうだとわーわー泣き出した母は別人のようでした。

12可愛い奥様:2005/07/17(日) 01:21:08 ID:4vSwf+yQ
【情報】小泉内閣支持者の知能は低い スリード社 オフィスサンサーラ

◇ IQが低い?

昨日のメルマガで、「郵政民営化ってそうだったんだ通信」という折込チラシの不正契約疑惑
をお知らせいたしました。そのチラシの企画案の2ページ目を見ていただきたいのです。
(昨日サイトに載せた資料では、p.7です。)
http://www.tetsu-chan.com/05-0622yuusei_rijikai2.pdf

「B層にフォーカスした、徹底したラーニングプロモーションが
必要だと考える。」とあります。

表では、IQ(知能指数)が縦軸にとられています。
B層は、IQが低い層に位置づけられています。

B「小泉内閣支持基盤

  ・主婦層&子供を中心
  ・シルバー層

  具体的なことはわからないが、
  小泉総理のキャラクターを支持する層
  内閣閣僚を支持する層」

「スリード社」で簡単検索  「住民票 節税」で増税対策
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_logout.cgi?SESSION=22583
http://human5.2ch.net/test/read.cgi/ms/1119412117/l50

「国会からの手紙」第221号:郵政 >> 小泉内閣支持層はIQが低い?
http://www.tetsu-chan.com/tegami/221_gou.htm
13可愛い奥様:2005/07/17(日) 16:49:11 ID:c5oePzvK
クルマを運転している人で、信号待ちのときに、鼻くそをほじくっている人が多い。
14可愛い奥様:2005/07/17(日) 17:41:31 ID:YFH6vf9r
>>3
そういえば、チェゲバラの旅行記読んだら
南アメリカ北部では便器以外の床に拭いた紙を捨てるのが
習慣になってるって嘆いてた。
チリ人女性には不思議な性的魅力があるとも書いてて、
アニータを思い出した。
15可愛い奥様:2005/07/18(月) 11:26:11 ID:aYsPfHjm
ウンコの中に、ニンジンやトウモロコシがそのまま残っていること。
16可愛い奥様:2005/07/18(月) 16:08:08 ID:gPtNw+qn
便秘が続くと、オナラばっかりで、ミが出なくなること。
17可愛い奥様:2005/07/19(火) 21:16:38 ID:i4lCW41p
鬼女板にこんなに汚いスレがあったこと
18可愛い奥様:2005/07/19(火) 21:18:09 ID:5yLHwdAo
おかしいなあこんなはずじゃなかったのに・・・ま、いっか
19可愛い奥様:2005/07/19(火) 21:32:41 ID:iNsscT67
>>18>>1さん?

かわいそうに・・・
ま、いっかじゃないよ、諦めるなよw
20可愛い奥様:2005/07/19(火) 21:37:45 ID:qu9jdTMQ
>11は感心したというか感動しました。
「母は強し!」ですね。
自分も娘がいるので、同じことをすると思う。
ただし、11に出て来たお母さんの様な直感力には自信ないけど。
21可愛い奥様:2005/07/19(火) 22:43:37 ID:5yLHwdAo
応援ありがとう。>11みたいにイイの見つけたらすぐ貼ります。
22可愛い奥様:2005/07/20(水) 13:08:57 ID:c6KwgNcH
知人の娘が3歳で亡くなった。
ウイルスが脳に入ったかなんかの病気だったと思う。
入院して1週間だった。
娘が入院してる時、知人の奥さんが病院のベッドで寝ついた我が子を見て
缶コーヒーを買いに外に出ようとしたら、
寝ていたはずの娘が「おかーさーん」と呼んだ。
奥さんがあわててベッドの傍に戻ったら
「おかーさん、心配掛けてごめんね」
と3歳の子供とは思えない言葉を消え入るような声で言って、
小さな手で奥さんの手をきゅっと握ったらしい。
それが最後の言葉だったとか。
23可愛い奥様:2005/07/20(水) 13:16:57 ID:aP26vGDV
祖母が弱ってきて、寝たきりになった時、遊び盛りだった私は
見舞いにも行かなかった。
母から、もう何もわからなくなってしまって意識もない、いよいよだと
聞かされて、さすがに心苦しく思い顔見せに行くことに。

病室に入ると、やせ細った姿の祖母がいました。
母に「手にぎってあげなさい」といわれ、そっと握ると
意識のないはずの祖母が手を強く握り返してきて、目からは涙が・・・

握った手のぬくもりから、幼い頃手をつないでいろいろなところに
連れて行ってもらった記憶か蘇って号泣してしまいました。

祖母がなくなったあと、遺品の中からスケッチブックが。
まだ意識のあった頃に病室で書いたと思われるそれには
私や、孫たちの絵で埋まっていました。
24可愛い奥様:2005/07/20(水) 18:42:16 ID:nQsQeEJn
高校生の時に付き合ってた人がデートの別れ際に私の目の前に交通事故にあった。
私が救急車をよんで彼は「全然大丈夫だから」と言って救急車に乗り込んだ。
ほんとにその時は全く平気っぽくみえて私も安心していた。でもその夜に彼が死んだ。
なんにも感じなかったし、彼が死んだことを受け入れられなかった。
お葬式の日も私は全く悲しいとかそういう感情もなくて、彼が死んだことになにも感じなかった。
そんな自分を責めたりもしたけど、どうしても悲しくなかったし、泣くこともできなかった。
周りはすごく私に気を使ってくれたんだけど、そう言う風に気を使われるのも私にとっては
うっとおしいだけだった。
半年ぐらい経って友達と死んでしまった彼のことを話していると
なぜだか急に涙があふれてきて私は泣き崩れた。自分でもびっくりするぐらい涙が出て、
悲しいって感情は無いのにどうして涙だけが出るのかわからなかったけど、
彼氏が死んでから半年経ったその時私は初めて泣いた。
25可愛い奥様:2005/07/20(水) 19:58:44 ID:6j0GNBXj
ガンで3年前に亡くなった主人。
看病疲れでうとうとしてしまうと、必ず
自分の布団を私にかけてくれていた。
元気な時は口うるさくて頑固で、何をしてあげても
感謝の気持ちも何も表してくれなかった。
そんな主人の最後の言葉は
「いろいろありがとう。ひとりにして申し訳ない」
でした。
26可愛い奥様:2005/07/20(水) 21:02:01 ID:NzykDM4p
私は看護婦で病棟に勤務していたことがあります。
整形外科が主なので、まず死んでしまうことは稀で
みんな手術が終わると元気になって退院していくことが多かったのです。
しかし、そこは混合病棟で昨日まで元気に花の世話をしていた人が亡くなるということもありました。
また、小児科病棟に異動になった時には
小さな子供が病気と戦い、亡くなっていく姿に耐えられず私は看護婦をやめました。

今は、一人でも多くの人が病気で亡くならないよう予防の分野を広めようと
保健師をしています。
みなさん、『親と健康のありがたさは失って初めてわかる』って本当ですよ。
27可愛い奥様:2005/07/20(水) 21:45:48 ID:55e6UxEP
20歳の頃、一人暮らしをしていた私は遊びほうけていた。
たまに実家に帰ると、小学生の頃から飼っている老犬が気だるそうに顔を上げて
私の帰りをよろこんでくれた。 
尻尾をフリながら出迎えてくれていたが、繋がれた鎖はそのままで
散歩に行くことさえ俺は億劫になり、用事を済ませては、すぐに実家を後にした。

そんなことが1年くらい続き、21歳の誕生日に母から電話が入った。
誕生日のお祝いの電話と昨日、犬が死んだとの事の知らせだった。

なんだか不思議な運命を感じながら、しばしの間散歩に連れて行ってやれなかった
ことを悔やんで、泣いた。
28可愛い奥様:2005/07/21(木) 06:15:34 ID:X7EJ6I6o
私の祖母は今年の6月に死にました。
祖母は両親以上に私のことに気を使ってくれて、
家族の中では一番世話になったといってもいいくらいでした。
今年の4月、私は進学のため実家を離れることになりました。
そのとき祖母は癌でいつまで生きられるか解らなかったのですが
祖母は私が出発するとき見送りに来てくれました。
そして一ヵ月後ゴールデンウィークに家に帰りましたが、
もう祖母はほとんど寝たきりでほとんど話すことが出来ませんでした。
それからは祖母の様子を電話で聞いたりしましたが
状態はどんどん悪化していったようです。

そして6月のある日、この日も何気に家に電話しました。
いつもどおり母が出て祖母の様子を聞いたところ、
「今おばあちゃんと話せるけど代わる?」と言われました。
せっかく話せるなら話そうと思い祖母に代わってもらいました。
しかしいざ話すとなると何を行っていいのか解らず
「大丈夫?」としか言えませんでした。
すると弱々しい声で「大丈夫だよ。そっちはどうだい?」と返ってきました。
「こっちも大丈夫、元気でやっているから」とだけ言いそれ以上は何もいえませんでした。
まあどうせ夏休みに帰るからその時にもっと話そうと思っていました。
その翌日、普段電話などかけてこない父から電話がかかってきました。
嫌な予感がしていましたが、それが本当になってしまいました。
それは祖母が死んだと言う知らせでした。
そしてすぐに実家に帰り葬式がありました。
今でもあの電話をした時の事を思い出すと
最後に話せてよかったと思う反面、とても後悔しています。
話せるときに話しておけばよかったと。
29可愛い奥様:2005/07/21(木) 15:12:45 ID:yYaMZ6Xo
肺ガンで亡くなった母は、医師に自分だけに告知するようにして、家族には病名を
言わないようにと言ってたらしい。
父は「ポリープがある」としか聞いていなかった。
自分ひとり病名を抱えて、退院後もガッツポーズして見せたり運動したり元気だったけど
体は痩せていった。
退院したのにどうしてと思ったのに、なぜかそれを聞くことができなかった。

ある日とても一人で動けなくなったとき、タクシーで病院に行って初めて父が母のレントゲンを
見せてもらった。肺中にたくさんの癌・・・。
そして1ヶ月もしないうちに母は亡くなった。
遺品を整理していたら母の日記がでてきた。
家族のこれからの心配ばかり綴った日記。
もっと長生きしていろんなことしたいよ、と涙のあともあった。
健康に人一倍気遣っていたのにどうして自分が?と。
最後のページには「ずっと(自分を抜きにした)家族で
暮らせるといいね,お父さん」と記して終わっていた。
もしも病名を知っていたら、会社を辞めてでも一緒にいたのに。
どうして私は退院したからと安心して会社に行ってしまったんだろう。
一人で苦しんでいたかもしれないのに。
そんな私も結婚して家を離れたけど、週1回父の所へ顔をだす。
父は毎日、自分が食べるものと同じ物を朝と夜、母の仏前へ供えている。
30可愛い奥様:2005/07/21(木) 19:00:07 ID:ZPBPEZej
三つ下の妹がいました。体の弱かった妹は入退院を繰り返し、
そのたびに母が付き添うので、寂しくてたまりませんでした。
ある日、うちにいた妹に「妹なんていらない。犬の方がよかった。」
って言いました。「ワン!」って妹が言いました。半年後に妹は
この世からいなくなりました。どうしてあんなこといったんだろう。
ごめんね、お姉ちゃんがばかでした。
31可愛い奥様:2005/07/21(木) 20:59:31 ID:UPXVQlQH
昔付き合ってた彼が癌で他界したと聞きました。
現旦那に会うまで、一番忘れられなかった人です。
ちょっとした行き違いから別れることになって、いい思い出しか思い浮かばない人でした。
彼以外の人と結婚して子供にも恵まれ、
幸せに暮らしてた私の元に飛び込んできた悲報でした。
共通の知人からの電話で知ったのですが
私が結婚してることもあり一報を入れるのを悩んだようです。
でも、彼から私にメッセージがあるということで連絡をくれました。

後日知人と会い、彼が私宛に書いた手紙を受け取りました。
封筒には「○○○○様」と私の名前がフルネームで書いてありました。
他界する数日前に書いたものだということでした。
その手紙は思ったよりもしっかりした筆跡で綴ってありました。
「君と別れたこと、幸せにするという約束を果たせなかったことを
ずっと悔やんできました。
でも今やっと気持ちが落ち着き、君の幸せを心から喜べそうです。
旦那さんと末永く仲良く暮らしてください。
君と再会する日が少しでも遠い日であることを願っています。」
32可愛い奥様:2005/07/21(木) 21:56:21 ID:wPPjyh07
みなさん、それは感心した事なのか?
33可愛い奥様:2005/07/21(木) 22:32:50 ID:20QlFLkv
私が彼と最初に出会ったのは会社の懇談会でした。
ふとしたことから一緒に遊ぶようになり、付き合いはじめました。
私はもともと打たれ弱い性格だったので、彼にグチってしまうことが
多かったのです。
でも、彼はそんな私に嫌な顔一つせずに、優しい言葉をかけてくれたり、
励ましてくれていました。彼はグチ一つこぼさず、明るい人だったので、
「悩みがないなんていいねー。」なんて言ってしまったりすることもありました。

彼との別れは突然訪れます。彼が交通事故で亡くなったのです。
彼のお葬式に行っても、まったく実感が湧きませんでした。
お葬式の後、彼の両親から彼の携帯を渡されました。
何気なく携帯をいじっていると、送信されていない私宛のメールが
たくさんあるのに気付きました。
そのメールには仕事のグチや悩みごとなどがたくさん書いてありました。
その瞬間、私は彼の辛さに気付かなかった自分のくやしさや、無神経な言葉を言った
自分への後悔、常に私を気遣っていてくれた彼への感謝で涙が止まりませんでした。
あの日から1年以上になりますが、その携帯は大切にとってあります。
34可愛い奥様:2005/07/21(木) 23:06:32 ID:0jgg8EPi
ヤフーニュースのアクセスランキング今日の1位が
「劇団ひとりのやらしい連れ込みテクニック」だったこと。
大衆のニーズか。つられて読んでしまった。
35可愛い奥様:2005/07/22(金) 07:46:28 ID:4dJ4nVzY
父がガンで亡くなる何日か前のこと。姉から聞いた話だけど
父は
「コーラが飲みたいなあ。こうさ、シュワアッと酸がキいてるヤツでさ」
とコーラを欲しがったらしい。それを聞いていた母と姉は
一目散にコーラを買ってきて、自分で起き上がれない父をそっと起こして
ゆっくり飲ませたそうだ。
喉にはタンがいっぱいたまっているからか、なかなかうまく飲めなくて
コーラの炭酸ですこし喉も痛かったのか、顔をしかめたりしたけど
コップたった10分の一程度しか飲めなかったけれど
飲み終わった後に「はあ、うまい。コーラってこんなにうまかったっけ?」
ととてもうれしそうに笑ったそうだ。
親父は入院してそれまで、食べ物飲み物を欲しがったこと全然なかったから、
母も姉もうれしくなって、残りのコーラを二人で分けて乾杯したらしい。
36可愛い奥様:2005/07/22(金) 21:52:43 ID:dNXjaEmm
昔付き合ってた彼が癌で他界したと聞きました。
現旦那に会うまで、一番忘れられなかった人です。
ちょっとした行き違いから別れることになって、いい思い出しか思い浮かばない人でした。
彼以外の人と結婚して子供にも恵まれ、
幸せに暮らしてた私の元に飛び込んできた悲報でした。
共通の知人からの電話で知ったのですが
私が結婚してることもあり一報を入れるのを悩んだようです。
でも、彼から私にメッセージがあるということで連絡をくれました。

後日知人と会い、彼が私宛に書いた手紙を受け取りました。
封筒には「○○○○様」と私の名前がフルネームで書いてありました。
他界する数日前に書いたものだということでした。
その手紙は思ったよりもしっかりした筆跡で綴ってありました。
「君と別れたこと、幸せにするという約束を果たせなかったことを
ずっと悔やんできました。
でも今やっと気持ちが落ち着き、君の幸せを心から喜べそうです。
旦那さんと末永く仲良く暮らしてください。
君と再会する日が少しでも遠い日であることを願っています。」
37可愛い奥様:2005/07/22(金) 22:52:12 ID:8RwIYSf9
高校生の時、私はスーパーでバイトをしていました。
大きくはないけれど市内に店舗が6店ありお正月は
全店合同での新年会がありました。新年会も終盤に
なったころ、うちの店長から実は社長が手術で翌日
入院すると聞かされました。

次の日私は定期を買いに駅まで行き、偶然札幌の病院に行く
為、小さなバックを持った社長と店を抜け出して見送りにきたと
思われるエプロン姿の奥さんを見つけました。挨拶しようかどうか
迷ったけどアルバイトの私の事なんて覚えてないかなと思い声を
かけませんでした。そして数週間後、私はバイト先で社長の死を
知らされました。ガンだったそうです。。。旅行に行けば従業員
全員にお土産を、修学旅行には餞別やお年玉をくれる優しい社長
でした。バイト後、1度家まで送ってくれたこともありました。

あれから7年。後を継いだ息子さんは売上の悪かった店を次々
閉店し今では2店舗。私の働いていた店もなくなってしまいましたが
私はなぜあの時、ひとこと声をかけられなかったのだろうといまだに
悔やみます。
38可愛い奥様:2005/07/23(土) 10:36:36 ID:a5vKKyvr
妹の友だちだった。
幼い頃から脳の病気を患っていて、手術の繰り返しで四肢もまともに
機能しなくなってしまって、それでもがんばって歩いて学校に登校
していた。

小学生の頃、一度帰宅時間にその子と一緒になったことがあって、
友だちの姉として面識の会った私はなんとなく一緒に帰ることに
なった。
片足が麻痺していて歩くのにとても時間がかかるその子。
私はその日遊ぶ約束をしていて、正直早く帰りたくて仕方がなかった。
会話もあまりはずまなくて、その子の家まで送るべきだったのに、
「いいよ。私ひとりで帰れるよ」
と言うものだからそれに甘えて途中で別れた。

数年後、あの子が長くないと母に教えられて妹と見舞いに言った。
個室で、脳の病気のせいでその子とわからないくらい頭が肥大していて、人工呼吸器も苦しそうで意識は殆どないようだった。
その子の母はもの凄く冷静で、淡々とあと一週間かなとつぶやいてた。
母は号泣していたけど、私と妹はなんと言ったらいいかわからなくて、
ただ突っ立ってその子を見守っていた。

まだ15歳だったのに、そのまま死んでしまった。
その子の家に行ったら、まだ部屋がそのままになっていて、机に
飾られた写真、元気そうに笑ってる写真を見ていたら一緒に帰った
あの日のことを思い出した。
「おねえちゃんおねえちゃんって、**はひとりっこだからすごく
嬉しそうだったのよ」
そんなこと言われて、おうちまで送ってあげればよかったなと思ったら
涙が止まらなかった。

ごめんね。
39可愛い奥様:2005/07/23(土) 20:24:55 ID:6mJiE/lg
看護学生だった頃の話。
受け持った患者さんはずっと昔に家族と生き別れになった方で、
生活保護をうけながら1人で生活されている方でした。
面会にくる家族もなく、もう最終末期、今週一杯持つかという
状況でした。
ある日、検温に行き、何事もなく終え、部屋を出ようとすると
酸素マスクのしたで何か必死に言ってる。何回聞いてもうまく
聞き取れず、繰り返すこと10回近く。よく聞くと、「水」
と言っていて、吸い飲みから水を口に入れました。すると満足
され、目を閉じました。それを見て部屋を後にしようとすると
消えてしまいそうな声で「あぁ・・・・」と聞こえ、振り返ると
手招きしています。
また何かを必死で言っていますが、聞き取れず、「ごめんなさい、
もう一度おっしゃっていただけますか?」と言うと、酸素マスクを
外し、とぎれとぎれに、しかしその方にとって精一杯の声で
「あ・・・り・・・が・・・と・・・」
と私の手をとり、おっしゃいました。毎日悪くなっていく患者さん
をみるのが辛くて、実習に行きたくなくなってしまったり、正直
その患者さんを見るのが恐くなっていたので、そんな自分に情けなく
なり、思わず患者さんの横で泣いてしまいました。

その患者さん、翌々日の朝、私が病棟についてしばらくして
お亡くなりになりました。なくなる瞬間にもご家族の方は誰もおらず、
私と病棟スタッフが立ち会いました。

あの「ありがとう」は今まで聞いた「ありがとう」の中で、
最も重たいありがとうでした。私のほうがお礼を言いたい気持ちで
一杯です。
40可愛い奥様:2005/07/23(土) 22:03:06 ID:JMwtpV38
私の母は躁鬱病で入院していました。
ある日、母が入院していた病院から「お母さんおうちに戻られてます?」と電話がありました。
まだ退院は先だと思っていたので不安になって「帰ってませんが、うちの母病院にいないんですか?」と聞くと、
「こちらの手違いかもしれません。」とだけ言われました。

心配になって家で1人オロオロしていると、父からすぐ電話がありました。
私が「ママどうしたの?病院にいないって。」と言うと
「ママは今パパと一緒だから大丈夫だよ。」と父は言いました。

安心して家で待っていると、伯母が急にやってきて母が病院のそばで自殺したと告げました。
私は伯母に連れられて泣きながら既に葬儀場にいる父の元へ行きました。
父は確かに母と一緒でした。
電話で私が母の事を聞いたとき、あまりの悲しみに私にどう伝えていいか分からなかったようです。
この日生まれて初めて父が泣き崩れるのを見ました。
41可愛い奥様:2005/07/24(日) 13:46:56 ID:5gp3cykv
幼い頃、隣家に住んでいたおじさんが、夕方に近所をぐるりと
散歩するのが日課で、帰り道などによくすれ違って軽く挨拶
をしていました。

しかし、いつのまにかそのおじさんの姿が見えなくなって、たいして気にも
止めていなかったのですが、ある日突然母におじさんが亡くなった
ことを知らされました。

隣の家に挨拶に行きました。大きい人だったから大きなお棺に窮屈
そうに入って、目を閉じてしんとしているおじさんを見て、あの
外を散歩していた人と同一人物だとはとても思えなくて、子供だった
私はひどく混乱しました。

その日以来、あたりまえですが外を歩いてもおじさんがいないんです。
あたりまえのように存在していた人が消えてしまったこと
が、いなくなってしまったことがひしひしとわかって、
このとき初めて死というものを知ったような気がします。
42可愛い奥様:2005/07/24(日) 16:12:41 ID:ZPvj9nRX
高校生の頃のことです
叔母が入院したので、母と一緒にお見舞いに。
その病院は私の姉が入院していた病院で、
姉は白血病のため、4歳で亡くなっていました。
まだ私が生まれる前の出来事で、
ほとんど姉の事は聞くことも無かったため、母に
「この病院にお姉ちゃん入院していたんだよね」と話しかけました。
「来たついでに入院していた病室見て行こうか」と母は言いだし、
姉がいた病室前に行きました。

そこはすでに病室では無く、風呂場になっていて、母も
「ここもずいぶん変わったなあ・・・」と感慨深そうに
「ここに病室があって、ここにお店があって、お菓子を買った。」と
当時の院内の様子をいろいろと話しだしました。
それまで姉のことをほとんど口にしなかった母としては珍しいことです。
「それで、最後はなんでお姉ちゃん死んでしまったの?」
なんとなく姉の最後の様子を聞きたくなっただけなのですが、
母から返って来た言葉は
「お金が続かなかったんよ・・・」
それまで懐かしそうに病院の説明をしていた口調とは
うって変わった、重い一言でした

裕福ではない我が家では長期の治療費、
特にひきりなしに続く輸血代金の捻出は相当厳しく、
金の切れ目が、我が娘のこの世との切れ目とさせてしまった無念さが
それきり無言になってしまった母の背中からにじみ出ていました。
そして、なぜ姉の事は口にしなかったのかも。。。

どうしても女の子が欲しかったからもう一人生んだ。それがお前だ。
元気に育ってくれたし、これからも元気でいたらそれだけでいい。
といってくれるお母さん、いつも親不孝者してごめんなさい。
43可愛い奥様:2005/07/24(日) 21:55:44 ID:q6/QS7Hw
私は小さい時から中耳炎で、しょっちゅう耳が痛くなって治療のために耳鼻科に行っていました。
小学校に入ると私が耳鼻科に行くために学校を休んだり早退したりすると
クラスの子に「病気でもないのに、授業を受けたくないから仮病を使っているんだ」と
散々からかわれて辛い思いをしていました。
うちの母は片耳が難聴で聴こえないんですが、おばあちゃん(母方の)がそれを気にしていつも
「ごめんね、お母さんの耳が悪いから○○ちゃんの耳も悪くなってしまって」と私に謝るのです。
小学3年生のある日、おばあちゃんが急にうちに遊びに来て「これから巣鴨に行こう」と言い出しました。
当時は子供すぎて巣鴨に何があるなんて知らなくて、ただおばあちゃんと出かけるのが嬉しくてついて行きました。
巣鴨に着くとおばあちゃんは長い行列に並んで
「ここはとげぬき地蔵様があるんだよ、お地蔵様の自分の体の悪いところを洗うと
身代わりになって治してくれるの」と言いました。
私たちの順番になるとおばあちゃんはシワシワになった手でタワシを持ってお地蔵様の左耳を
ゴシゴシと擦りながら「○○ちゃんの耳がよくなりますように」と一生懸命洗ってくれました。
帰りにおばあちゃんは「あんみつ食べて行こうか」と言って一緒にあんみつを食べました。
おばあちゃんは6年ほど前に亡くなったんですが、おかげで今では中耳炎も良くなり、
ここ5年は中耳炎で耳鼻科に行ったことが一度もないくらいになりました。
おばあちゃん、中耳炎良くなってきたよありがとう。
44可愛い奥様:2005/07/24(日) 23:52:51 ID:Acsu/Lkl
なんでこんな流れ?w
いい話多いからいいけど。
45可愛い奥様:2005/07/24(日) 23:56:24 ID:nzkp+B6l
そういうスレのニーズがあったのか。
46可愛い奥様:2005/07/25(月) 07:37:55 ID:sCh2fnnE
一昨年死んだじぃちゃん。
脳梗塞で倒れて、左脳をやられたので利き手が使えない、言語障害があるなど
結構重度だったけど、何年か入院した後は自宅療養。
新聞読んだり、こっちの言うこともわかってたし、倒れる前のじぃちゃんと
なんら変わりなく私は接してた。
でもやはり歳とともにどんどん弱っていった。(その間20年)
もう危ないと言われ、ちょうどゴールデンウィークだったので会いに行った。
ほとんど意識があるかないか、口から水分も取れなくなってきたので
明日になったらいつも来てくれている訪問看護の方に電話して
点滴にしてもらおう、って言ってたその日。
自発呼吸を補助する酸素マスクと、喉にからまったタンの音が絶えずしていたのに
ふと聞こえなくなった。あわててじぃちゃんのところに行ったらすでに呼吸停止。
ばぁちゃんは医者に電話を掛けてたが、連休中、通じない。
その場にいた私と母はもうパニックで、じぃちゃんに呼びかけたり
体をさすったり脈を計ったり…「ばぁちゃん!救急車!救急車!」
って叫んだんだけど
いつも穏和なばぁちゃんが「黙りなさい!救急車呼んだところでどうなるの!」
と怒鳴った。みるみる紫色になり、口を数回パクパクして最後にフーっと息を吐き
じぃちゃんは死んだ。
ばぁちゃんはもう助からないってわかってたんだ。医者に電話したのも
死亡確認とかそういうのの為で、医者が到着するまで
死後硬直が始まる前に、手を組ませたり、あごひもを結んだりしてた。
そしてひげを剃りながら「おじいさん、よくがんばったね。楽になったでしょ。
よかったねぇ、よかったねぇ」と話しかけてた。
その時初めて涙が出た。死に際にじぃちゃんのそばにいず、電話をかけてたのも
きっと見たくなかったんだろう。死にゆくじぃちゃんを。
私もあんなに取り乱さないで、もっとじぃちゃんをゆっくり送り出せばよかった。
それをちょっと後悔している。
47可愛い奥様:2005/07/25(月) 20:01:47 ID:d8HxkLIe
私が23歳の頃、就職1年目の冬、私の誕生日の日のこと。
職場の人たちが「誕生パーティーをしてあげる!」というので、家に、「今日は遅くなるよ。
ゴハンいらないから。」と電話を入れたら、父が「今日はみなさんに断って、早く帰ってきなさい。」
と言う。「だってもう会場とってもらったみたいだし、悪いから行く。」と私が言うと、いつもは
温厚な父が、「とにかく今日は帰ってきなさい、誕生日の用意もしてあるから。」とねばる。
「???」と思いながら、職場のみんなに詫びを入れて帰宅した。
家にはその春から肋膜炎で療養中の母と、電話に出た父。食卓にはスーパーで売ってるような
鶏肉のもも肉のローストしたみたいなやつとショートケーキ3つ。
「なんでわざわざ帰らせたの!私だってみんなの手前、申し訳なかったよ!」と言ってしまった。
父は何か言ったと思うが、覚えていない。母が、「ごめんね。明日でもよかったね。」と涙ぐんだ。
私は言い過ぎたな、と思った。でもあやまれず、もくもくと冷えた鶏肉とケーキを食べて部屋に戻った。
その2ヶ月後、母の容態が急変し入院した。仕事帰りに病院に行くと、父がいた。廊下の隅で、「実は
お母さんは春からガンの末期だとわかっていたんだよ。隠していてごめんね。」とつぶやいた。
呆然として家に帰ったあと、母の部屋の引き出しの日記を読んだ。あの誕生日の日のページに
「○子に迷惑をかけてしまった。」とあった。
ワーッと声を出して泣いた。何時間も「ごめんね。」といいながら泣いた。夜が明ける頃には
涙が出なくなった。すごい耳鳴りがした。
4,5日して母は死んだ。仕事をやめて、看病していた父も数年前に死んだ。
父が準備したささやかな誕生日パーティーをどうして感謝できなかったのか。
母にとっては最後だったのに、、、。
父も数年後に死んだ。こんな情けない自分でも、がんばって生きている。
48可愛い奥様:2005/07/25(月) 21:25:44 ID:pQAq64oZ
一週間ほど旅行に行って帰ってくると猫がいなかった。
親に聞くと、私が旅行に出た日にいなくなったそうだ。
心配していると次の日、帰ってきた。
でも、ぐったりしていて、病気だという事はすぐに分かった。
獣医に連れていくと保っているのが不思議だ、でももう保って
1日くらいだと言われ、ショックで泣き崩れた。
そしたら猫が苦しいだろうに、私の手を舐めて小さく「ニャー」
と鳴いた。
その日から、猫は1週間、生きた。
苦しそうでミルクもスポイドでしか飲めなくて、何もしてあげら
れない自分が悔しくて涙が出た。
なのに、私が泣くと猫のほうが、手を舐めて私を慰めてくれた。
最後は、私の膝の上で、ちょっとだけ苦しそうに鳴いて逝った。

病気になっていた事、気付いてあげられなくてごめんね。
旅行に行って、一番苦しい時に私を捜してたのにいなくてごめんね。
無理矢理頑張らせて、1週間も長く苦しませてごめんね。
みんなに言われたよ。
「あんたに会いたかったから、帰ってくるの待ってたんだよ。
あんたと、少しでも長く一緒にいたかったんだよ」
って。そうだね、きっとそうだったんだね。
苦しかったののに、私ばかり泣いてごめんね。
私のそばにいてくれてありがとうね。
今も、あなたが大好きです。
49可愛い奥様:2005/07/26(火) 00:23:45 ID:6F0yl8If
今日も良い話をありがとう。
50可愛い奥様:2005/07/26(火) 08:10:32 ID:EH9VMjkZ
立て続けに読んで朝から号泣・゚・(ノД`)・゚・
51可愛い奥様:2005/07/26(火) 08:21:42 ID:URahaR97
私が中学3年生のとき、お母さんは家族に見守られて亡くなりました。
私は静かに泣いていました。
数日後、病室の整理の時家族当ての手紙が発見されました。
父・兄・私宛にそれぞれ1枚ずつあり、私宛には
『○○は今も勉強嫌いで遊んでばっかりかな?遊ぶのはすごくいい事。○○は友達も
たくさんいて元気で活発ですごくいい子。でもやるべき事はちゃんとやれる人間になりなさい。
その年でかわいらしい髪型をしているあなたはきっとおしゃれさんになると思うな。
お母さんも服が大好きでした。あなたはどんな服が好きかな。できれば今風の格好じゃなくて
女の子らしいトラッドなお洒落さんでいて欲しいな。これからも自分を信じて強く生きてね。』

今私はお母さんの手紙どおりの生き方ができていると思っています。
大好きなお母さんが生きていればって思うけど、それでも前向きに生きていける
つよい自分になれるようがんばっています。お母さんも天国で強く、元気に
頑張ってね。
52可愛い奥様:2005/07/26(火) 21:46:33 ID:Ly4Ja63k
私の母は私が8歳の頃に死んだ。リンパ癌だった。12月に亡くなった。
10月の運動会では私と兄がリレーの選手だったから見に来てくれた。でも、母の体は
痩せ細り1人では立っていられないほどだった。前々から母は入退院を繰り返していて、
病気だという事は父から聞いていた。でも、軽い病気と信じていた。
母も私や兄を心配させないために元気そうに装っていた。
運動会が終わって、すぐに母はまた入院した。
それから何回もお見舞いに行った。日に日に母は弱っていく。もともと細い体
が、もっと細くなり、骨と皮だけのようになってしまった。
家に帰っても、父は仕事でいないし兄はまだ帰っていなくって鍵っ子だった私。
いつも明るく装っていたけれど、ほんとはとっても寂しかった。
そんな生活が続いたある日。学校に行こうとしたら病院から電話があった。
3人で急いで病院に行った。そこには母がベッドで寝ていて、なぜか機械も外されていた。
初めて父が泣き崩れた姿を見た。それがなぜだか私には、すぐに分からなかった。
『お母さん。どうしたの?』声をかけても返事がない。すると、父に抱き寄せられ
『お母さんは天国に行ったんだよ。お母さんは今まで苦しかったんだ。
でももう苦しまずに過ごせるんだよ。一緒にさよならしようね。』やっと、母が
死んだということがわかって涙が溢れた。
その後お葬式の時は、友達が来ていて照れ笑いしていたけれど、だんだん
悲しみが増してきた。そして今。もう私は30歳になりました。
お母さん、私の姿見えますか?
辛い事も悲しい事も今まで乗り越えてきた私だから何があっても大丈夫。
心配しないでこれからもずっと見守っていてね。
これからも元気で頑張るよ!
53可愛い奥様:2005/07/27(水) 20:32:30 ID:gOsdejmJ
よいしょっと。
54可愛い奥様:2005/07/27(水) 20:55:06 ID:PU07CrCg
どこが感心した事やねん
55可愛い奥様:2005/07/27(水) 21:10:18 ID:FMEEnuqN
おばあちゃんが風邪をこじらせて入院したと親から電話があり、
今度の休みにお見舞いに行けと言われたけど
彼氏と約束があったので、その次の週に行くことにした。
そしたらその間に脳出血を起こしてしまい
私がお見舞いに行った時にはすでに意識がなく、
もう回復する事はないと言われた。
あの時、すぐに行ってれば、最後に何か話せたのに・・・
おばあちゃん、ごめんなさい。
56可愛い奥様:2005/07/27(水) 22:07:30 ID:h2O65NNc
丁度、一年前にうちで飼っていた犬が寿命で逝きました。
その日友人と学校帰りに寄る所があったので帰りが少し遅くなり発車する前の人気の無い電車の中で携帯を持っていなかった私は
友人から携帯を借り、「今から5時電で帰るから」と母に連絡をしました。
母はその事に返事をした後すぐに「ロロ(うちの飼い犬の名前)が死んだよ」と言ったのです。
「うそっ」あまりにいきなりなことだったので信じられませんでした。

母の話によると、その日の昼にロロは息を引き取ったそうです。
動物の葬式をしてくれるお寺の御住職さんは「私は40年ここで住職をしてますが、18年も生きた犬は初めてです」
と言っていたそうです。
携帯を切った後、思わず私は友人に「ロロが死んだって…」と言ってしまいました。
言わずにはいれなかったのだと、今になって思います。
携帯で聞いた事を私は友人に全て話しました。
話しているうちに涙が出ていました。友人は
「18年も一緒ってことは小さい頃から飼っていたんだからそれはつらいね」と言いました。
慰めや優しい言葉よりも、当たり前の事を言ってくれた友人には感謝しています。

しばらくして、家族とロロの墓参りに行きました。
墓参りと言っても、ペット霊園ではなく、動物専用の共同の一つのお墓なので、お墓の周りには色々な花やペットフードが
たくさん供えてありました。
お墓の両脇に犬と猫の石像が立っているのですが、犬の石像を見た時、私は驚きました。その石像はロロにそっくりでした。
大きさも同じ位でした。「この石像、ロロにそっくりだね」と私が母に言うと、母は「そうでしょ」と言いました。
帰る時に私はその犬の石像の頭を撫でてから帰りました。

またロロに会いに行こうと思っています。
57可愛い奥様:2005/07/28(木) 08:36:54 ID:V/bF1/pz
ウチの母の同僚の話。
働かない夫と別れ、母一人子一人で細々と生活していたが息子が白血病に。
母子家庭で医療費はかからないものの、何とか重病の息子を助けようと
夜も寝ないで働き、仕事がないときは病院で息子に付きっきりだった。
笑顔を浮かべるのがやっとの、やせ細った息子の体は、薬の副作用で
黄色くむくんでいた。
衰弱が著しく、「もはや回復は不可能」と医者に言われ母親は黙って
病室の息子の手を握っていた。
すると息子はそっと目を開け「お母さんごめんね。親孝行できなくて。
でも、僕が死んだらそんなに働かなくてももういいんだよ。」
そう言った。
数日後、息子は11歳で亡くなった。
その子のお葬式の後
「生きててくれてありがとう」
そう母親に言われた。
58可愛い奥様:2005/07/28(木) 22:26:34 ID:x4apAJoK
バイト先の店長の話です。
店長は在日中国人でレストランバーを経営しています。
顔は怖いけどいつも明るく、子どもをそのまま大人にしたような
ひとでした。
そんな店長の父親が1ヶ月の入院の後、癌でなくなりました。
店長は末っ子で父親にとても可愛がられていたようでした。その話をよく聞いて
いたのできっと店長は物凄い悲しみに打ちひしがれているのだろうと
思っていました。
しかし店長は3日後には店に出勤してきました。
いつも通りの明るい店長でした。気丈に振舞っているのだと思いました。
それから一ヶ月が過ぎた頃私は店長に尋ねました。
「僕もいい年になってきたけど、絶対親の死なんて受け入れられそうに
ないです。年齢なんか関係ないのかも知れないですけど・・・。店長は
凄いですよね。いつも通りに明るく振舞って」
すると店長がいつもとは違う少し悲しそうな顔で言いました。
「親父の葬式時に俺はずっとビデオを撮ってたんだ。葬式の様子や
きてくれた人達を。そしたら親戚の1人が俺に言ってきたんだ。「お前、
自分の父親の葬式なのによくビデオなんかまわせるな」って。確かに
おかしいのしれないけど、なんか実感がなくて。涙も出なかった。
でもいつか、もっと時間が経って、そのビデオをゆっくり見ることが
出来たら、俺は1人で泣きたい」
私はそれを聞いて「あぁ、この人は男だな」と思いました。
59可愛い奥様:2005/07/29(金) 08:46:47 ID:tSrlUakx
大好きだった友達が、交通事故で死んだ。
彼に会いに行く途中だった。
知り合いの車に乗せてもらっていく途中、運転していた知り合いが
事故を起こし、彼女だけ車から投げ出されて死んだ。
即死だった。
突然の死で、通夜も葬式も全然実感がなく、ボケ〜っとしているうちに
終わった。
葬式の帰り道、桜が満開でものすごくきれいだった。
東京に住んでいた彼女は4月早々に花見を済ませ、
彼女と一緒に花見に行った友人は、彼女が桜を見ながら
彼の話を楽しそうに語り、彼から来るメールを気にしていたと言う。
「彼女はもう桜を見ることが無いんだな」と思った瞬間、
号泣してしまった。
あれから4年、桜を見るたびに彼女のことを思い出し、胸が苦しくなる。
60可愛い奥様:2005/07/30(土) 09:36:52 ID:9a3bJwns
高速道路の料金所に勤める人が、ラジオに投稿した話より

料金所のブースで待機していると、1台の軽ワゴン車が
入って来た。運転しているのは70過ぎのお爺さんで、
助手席には誰かの遺影と思われる写真が。幸いなことに、
後続車が途切れていたので、私は思い切って、
『失礼ですが、どなたのお写真ですか?』
と尋ねてみた。すると、そのお爺さんは答えられた。
『ワシの家内ですわ! 長患いの末、77歳のワシを
 残して、72歳で逝きましたんや! 入院中から、
 “元気になったら、京都や琵琶湖に行きたいわ!”
 なんて言うてましたんやけど、あかんかってな…
 それで、49日も済んだし、今から京都と琵琶湖に
 連れて行ってやりますねん!』
僅か20秒足らずの出来事であったが、私は大きく心を
打たれた。私は今年63歳になり、妻は還暦を迎えるが、
これからも2人で手を取り合って生きて行こうと思う。

この話を聞きながら、自分は不覚にも目頭が熱くなった。
今から13年前、自分を婚約者が肝臓ガンで亡くした。
元気であれば今年38歳、中学生か小学校高学年前後の
子供の母親になっていた筈である。自分は今年40歳に
なるが、今だ独りである。彼女の死後、何度も見合いの
話は来たのだが、全て断って来た。好きになった女性も
何人か居た。しかし、結婚まで話が進んだことは無い。
未練がましいと言われれば、そうかも知れないのだが、
最期まで自分のことを愛し続けてくれていた彼女のため、
自分は独りを貫き続けている。そんな自分であるから、
そのお爺さんの気持ちは痛いほど分かる。

桜の花が散り、初夏の気配が感じられるようになる頃、
彼女の38回目の誕生がやって来る。
61可愛い奥様:2005/07/30(土) 17:36:06 ID:0EaUyCgD
伯父がホスピスに入って数ヶ月後のことでした。
お見舞いに行っていた父から「ハンバーガー買っていってやる、何がいい?」と電話がかかってきました。
うちの父はハンバーガーとか嫌いなのに急にそんなことを言うなんておかしいなと思いました。
そして父がハンバーガーを買ってきて
「これ伯父さんから“子供たちにハンバーガーでも買ってやれ、ハンバーガーならSちゃんも好きだろう”ってお金くれたから」
私は泣きながらそのハンバーガーを食べました。
それからすぐ3日後、伯父は亡くなりました。
小さい頃から伯父に迷惑をかけてばかりいた私。
伯父の「ありがとう」という言葉は一生忘れません。
私も伯父に心からありがとうと言いたいです。
そしてこれからも天国から見守っていてください。
62可愛い奥様:2005/07/31(日) 11:46:58 ID:wo4UOItP
友達が、20代前半で第二子を妊娠中→検査で子宮ガン発見。
若いとガンの進行が早いこと、絶対に母体が無事では済まないこと、
お腹の赤ちゃんにも転移する可能性が高いことなどを告げられていたのに、
彼女は「子供を殺すことは出来ない」と、産んだ。
産後、全身にガンが転移した状態で、手術すら出来なかった。

命がけで産んだ赤ちゃんも、すでにガンが転移していた。
赤ちゃんは小さな体で何回も大手術をうけたけど、ダメだった。
たった半年も生きることは出来なかった。

やせ細って、意識も朦朧としている中、彼女はベッドの上で毎日毎日、
「赤ちゃんはどう?」「淋しがってない?」と周囲に聞いていた。
お見舞いに行った友達は、赤ちゃんがすでに亡くなっていることを知っていたので、
「もう赤ちゃんに会ってくれた?可愛いい?私も早く会いたい」と言われるたびに、
涙をこらえるのが必死だった。

ドラマでこういうシチュエーションの時、「私の命はどうなってもいいんです」
なんて言って、出産して、運がよければ母子ともに無事。
悪くても母親が死んで「あなた(子供)を助けるために、お母さんは・・・」
なんてことが多い。現実は全然違うんだと言うことを思い知らされた。
何一つ良い事はなかった。この事が無かったら、向井亜紀さんのように
子供を諦めたケースを「結局自分の命の方が大切なんだな」なんて
冷たい目で見てしまったかもしれない。

命がけで産んだ我が子の苦しみも、死も、何も知ることなく
死んでしまった彼女。残された3歳のお兄ちゃん。
何が正しいことなのか、わかりません。
今でも思い出すと辛くて悔しくて泣いてしまう話です。
63可愛い奥様:2005/08/01(月) 07:43:08 ID:F/ZW+NAW
今から12年前、当時私には彼氏がいました。
クールで口数が少ないけどかっこいい同級生の彼のことが好きになって
私から熱烈にアタックして付き合うことになったんです。
付き合うことになったのはいいけど、
彼は私が憧れてたような愛情表現がなかったんです。
ぶっきらぼうだしいつまで経っても名字で呼び捨てだし…。
ただ、私と二人で喋ってる時はほかの人には見せないような
とても優しい目で真っ直ぐ私を見てくれてました。
それでも私は不安になってました。もしかしたら女としてではなく、
自分の姉妹を見るような感覚なのかなって。
思い切って彼に気持ちを確かめようと思ってた矢先、
彼は車に轢かれて突然亡くなってしまいました。
手を繋いだこともなく、彼のぬくもりを知らないまま
私の目の前から突然去って行きました。
押しつぶされそうな悲しさをこらえながら彼のお葬式に出席しました。
お葬式が終わり、泣きはらした目で会場に背を向けた時に、
彼のお母さんに呼び止められました。お母さんも泣きはらした目をしてました。
「これ…中身読んじゃったの…。ごめんね。あなた宛の手紙だったの…」
そういって封の開いた封筒を渡されました。
ふらふらと家に帰り、もらった封筒の中身から紙を取り出しました。
彼の字を見た途端、その場にへたり込んで大声で泣いてしまいました。
その手紙には

『○○へ 面と向かってでは どうしても照れくさくて言えないから
手紙で勘弁して欲しい。
○○のこと一番大切に思ってる。
誰よりも幸せでいてほしい人だと思ってる。 □□より』

と書いてありました。
彼は私の不安な気持ちをちゃんと察してくれてたんです。
しばらくは小さい子供の頃に戻ったように泣き狂いました。
64可愛い奥様:2005/08/02(火) 07:44:52 ID:pPD1XBvF
大好きなおじいちゃんがいた
本当に大好きで、私のこともすごくかわいがってくれた
でも、私が小学二年生の時に癌でなくなってしまった
最初おじいちゃんが病院からはこばれてきたとき、なんでかわからなかった
なぜか、うちで療養するのだろう と思っていた
でも、いつまでも目覚めないおじいちゃんと しんみりとした親戚をみていると
わかってしまった
でも私は泣かなかった
通夜のせきで、お父さんが泣いていた
おじいちゃんを霊柩車ではこぶ光景を見たとき、初めて
おじいちゃんとの記憶が頭のなかにあふれた
お母さんの服で涙をふいてごまかしていた
ブランコをこぐ私 おもちゃをたくさんかってくれたおじいちゃん
昔、近所の公園に夜おにいちゃんといこうとした私を
おじいちゃんが危ないからととめた でも私はいってしまった
おじいちゃんの気持ちを考えていなかった
入院中にだって、あまり顔をださなかった
でも、今の歳になってつらくなる 大好きだったのに 大好きだったよおじいちゃん