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そんじゃポチポチとあげましょうね。
7月21日から28日まで連載された、インタビューです。
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●1・拘束 −−牙むく「反日」・死を覚悟−−
4月7日午前11時ごろ、千歳市のボランティア高藤菜穂子さん(34)は、
イラク中部ファルージャ付近の迂回路沿いにあるガソリンスタンドで、
銃で武装した男たちにタクシーを止められた。前夜、ヨルダンの首都アンマンをたち、
7日午後にはバグダッドに到着する予定だった。札幌市のフリーライター今井紀明さん(19)、
東京在住のジャーナリスト郡山総一郎さん(32)が同行していた。
これが9日間にわたる人質事件の幕開けだった。
スパイ容疑をかけられたのです。タクシーが止まると、数十人の群衆に囲まれました。
私はその人たちが発する。何とも言いようのないものすごい力を身体に感じて、
座席で身動き一つできなくなっていました。
イラク戦争の終了後も戦火にさらされ続けた住民の怒り、憎しみ、悲しみ。
それが私に向かって襲いかかってきた、と考えていました。
「ヤーバーニ、ムーゼン(日本人は良くない)」。みんな敵意がむき出しです。
人垣の向こうからロケット砲を持った男も走ってきます。「もうだめだ」。その瞬間に死を覚悟しました。
タクシーを少し移動させられると郡山君、今井君が順番に降ろされ、ボディーチェックされました。
民衆が再び、じわじわとタクシーの周りに集まり始めます。武器を持っておらず。普通の住民のようでした。
「私はアメリカ人じゃない。スパイじゃない」。知っているアラビア語をつなぎ必死に訴えました。
だれも聞こうとしてくれませんでした。
>>19 続き
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悲しいのはイラクの人たちが「反日」に変わったことです。
以前は「どこの国の人より日本人が大好き」と言ってくれていたのです。
私たちはガソリンスタンドで近寄ってきた男の子に国籍を聞かれ、
「日本人」と答えた直後に拘束されました。日本人と確認の上で捕らえられたことがショックです。
反日感情の「芽」があることには気付いていました。今年1月、交流のため
バグダッドの小学校を訪問した時、女性教師に「あんたは人道援助をかたった
日本軍(自衛隊)のスパイだ」と小1時間も罵声を浴びせられました。
十日ほど前に夫を、イラク戦争終了直前には弟を殺されたと聞きました。
でも、それからわずか3ヶ月で、これほどまでになっているとは予想もしませんでした。
「おまえがスパイでないと証明出来る人間はいるか」。
別の車に乗り換えて倉庫のような一室に連れていかれると、英語を話す人が聞いてきました。
「ファルージャの総合病院に行ってよ」と言いました。医薬品を届けるために病院には何度も通い、
知り合いもいたからです。でも、米軍が道を封鎖していて行けないと言います。
私は嫌疑を晴らすため、ファルージャについて知っていることは全部話そうと考えていました。
(聞き手・黒田 理)
※
イラクで北海道の2人を含む日本人3人が人質となり、国中を震撼させた衝撃の事件から3ヶ月余り。
解放後、外部との接触を避けていた高藤さんが重い口を開き始めた。
子どもたちと路上から眺めたバグダッド。血にまみれたファルージャの病院。
自由を奪われ生と死を見つめ続けた日々。事件を振り返り、語ることは、
戦火のイラクで起きたこと1つひとつを問い直す営みともなった。
●2・ファルージャ −−医薬品を届けに病院へ・横暴な米兵が恐かった−−
高遠菜穂子さんは、昨年4月から延べ半年のイラク滞在中、中部ファルージャに通った。
フセイン元大統領派の拠点の1つとされ、戦後も米軍の攻撃を浴び続けた。
その惨状を知る数少ない日本人の一人だ。人質事件当時は、米軍が反米勢力掃討を目的に
一般市民を巻き込む猛爆を加え、武装勢力は激しく抵抗していた。
ファルージャに初めて行ったのはブッシュ米大統領が戦闘終結宣言した昨年5月1日でした。
総合病院には血だらけのイラク国旗が張られていました。床に薬の空瓶が転がり、
ゴム手袋も酸素ボンベもない。1人しかいない医者が血まみれになって、けが人を手当てしていました。
6月になると、戦闘状況が激しさを増しました。イラク人も武器を持ち出したのです。
私は現地に入れなくなった非政府組織(NGO)の代わりに、医薬品を届けたりしました。
ファルージャ行きに不安がなかったわけではありません。でも、
英語通訳をしている友人のカスム(26)が「ナホコは日本人だし、昼間なら大丈夫」と言うので、
車にアラビア語で「薬」などと書いて通いました。
欧米人は米軍などの占領軍と一緒だと見られて、襲撃される事件もありました。
日本人だから行けたのだと思います。
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昨年7月、日本のNGOの人たちを案内してファルージャの病院に医薬品を届け、
バグダッドに戻る途中でした。私たちの車を米軍の車両が追い抜いたかと思うと、
車両の上から米兵がこちらに銃口を向けました。
車を止めると、銃を水平に構えた米兵がやってきます。
「車から降りろ」と物凄いけんまくで怒鳴りつけられ、車を調べられました。
そんなこともあり、私はイラク人ではなく米兵を恐れていました。
ファルージャや隣町のラマディでは、米軍の家宅捜索が午前3時頃に始まり、
米兵はドアをけ破って入ってくると、子どもや女性も戸外に出したそうです。
よく耳にしたのは金品強奪や女性へのセクハラです。
ある住民は怒りでぶるぶると身を震わせながら言いました。
「米兵は妻の夫以外が触ってはならぬところを触った」
後でアブグレイブ刑務所における米兵のイラク人虐待が明るみになった時には
「やっと表に出たか」と思いました。
ファルージャには有名なケバブ(羊肉のくし焼き)店がありました。拘束初日、
尋問の最中にこの店を思い出しました。「大きくておいしくてさ。大好きだよ」と言ったら、
みんなぷっと笑いました。ああ、これで和んだかなと思いました。
緊張が少し緩み始めた時でした。突然、覆面をした3,4人の男がどどーっと、
すごい勢いで部屋に入ってきました。
●3・そこにある死 −−自爆を覚悟で戦う犯人・命ごいをする私は…複雑−−
高藤菜穂子さんたちは拘束初日、犯人側に脅されたところをビデオに撮られ、
中東のテレビ局がその映像を「自衛隊撤退」要求とともに全世界に流した。
日本では犯人側と示し合わせた「自作自演」だと中傷された。
だが、高藤さんが味わったのは紛れもなく「死の恐怖」だったという。
部屋に入ってきた男たちは脚の付いた大きな銃を持ち、たすきがけにした銃弾を
じゃらじゃら言わせていました。すごくいら立って、殺気だっている。すぐに目隠しをされました。
右隣に座らされた今井(紀明)君がけられる音、「いてっ」っと叫ぶ声が聞こえてきます。
「ノー・コイズミ」「ノー・コイズミ」。犯人たちがそう言え、と今井君に怒声を浴びせます。
「早く言っちゃえ。言っちゃえば終わる」と心の中で祈りました。
でも、今井君は恐ろしくて声が出なかったようです。
「ああ殺される」。頭にあったのはそれだけです。なぜビデオが回っているのか、
考える余裕などありませんでした。
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帰国後も、テレビであの場面が映ると恐ろしくなります。でも逃げられない。
私はあのビデオと一生付き合っていく、と覚悟を決めなければなりませんでした。
それによって、イラクの人たちの気持ちが初めて理解できたように思います。
以前、バグダッド滞在中に爆弾テロで人が死んだ現場で、ケバブ(羊肉のくし焼き)を
食べている人を見ました。死に鈍感になっていると違和感を感じました。
でも、今は考え方が変わりました。ずっと心から離れない恐怖があっても、
人は飲み食いせずにはいられない。笑わずにはいられない。今の私の状態と同じです。
拘束中、手りゅう弾を服のポケットにたくさん入れていた男が「今日死ぬ。アメリキ(米国人)も殺す」
と私に分かる簡単なアラビア語で話しました。私と同じくらいの年で、
奥さんが2人、小さな子どもも2人いると言います。
家族や知り合いが米軍の攻撃の犠牲になったと訴える人たちもいました。
彼らは死を覚悟して戦うまでに追いつめられていたのです。
私は首にかけていたアイヌのお守りイケマを外し、男の首にかけてあげました。
「サディーク(友達)」と言い添えて。正直なところ、彼に死なないでほしいという思いと、
命ごいする気持ちが半々くらいありました。
私はイラクにいる時は、どういう死に方をするか分からないと覚悟しているつもりでした。
だからイラクではいつも脈が速くなるんです。でも、これから戦場に行って死ぬ、
ファルージャを守るために命を懸けるという、この人の覚悟の強さは想像がつかなかった。
自爆覚悟の人に命ごいをする自分。複雑な気持ちでした。
●4・土漠 −−地平線まで何もない所・高価な料理 まるで疎開−−
イラク中部ファルージャで拘束された高藤菜穂子さんたちは3日目の4月9日、
車で土漠へと移動させられた。乾いて白茶けた地面が延々と砂漠のように広がる独特の風景。
方角はもちろん距離の感覚すらまひしてしまう。その土漠に囲まれた小さな集落で、
粗末な納屋のような建物に監禁され、8日目まで過ごすことになる。
「目隠しを取っていい」。移動中の車内で犯人グループの1人が言いました。
そこは土漠の真ん中で、かなたの地平線まで目の前には何もない。道もありません。
1日目のビデオ撮影後、英語を話す人が「明日かあさって解放する」と言ったことがあります。
私は「本当に?」と何度も念を押しました。それなのに、
どうしてこんなところに連れて来られたのだろう。とても不安になり、泣けてきました。
納屋のような建物は広さが十畳余りで、ござが敷いてありました。
泥で塗り固めた壁にヤモリがはっています。暗くて暑い。光が漏れてくるのは、
固く閉じられたドアの下の十センチほどのすき間からだけです。
でも、それまで拘束されていた部屋は真っ暗だったし、ひどく汚れていたので、ましでした。
拘束初日と2日目は、手りゅう弾や銃を持った人たちが入れ代わり立ち代わりやってきました。
それぞれが違うグループのようで、自分たちの活動について
同じ説明を何度も繰り返さなければなりませんでした。
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ここでは、老人と背の高い青年の2人がカラシニコフ銃を持って外で見張っているだけです。
青年はクフィーヤ(顔を覆った布)からのぞく目がすごく優しかった。
「それだけで救われるね。この人たちは事件のことは何も知らないんだよ」。
安堵感がこみあげ、郡山(総一郎)君、今井(紀明)君とそう話し合いました。
実にのどかで、外から聞こえてくるのは牛とニワトリの鳴き声、小鳥のさえずり、
そして老人たちのお祈りの声だけ。食事のたびにイラクの庶民には高価な鳥肉料理が出され、
1度だけですが、洗髪と洗濯を許してくれたこともありました。
「おれたち疎開させられているんじゃないか」。郡山君が言いだしました。
ここに移動する前は、すぐ近くで大きな爆発音が何度も聞こえ、
拘束場所の窓ガラスが震えたこともあります。
「鼓膜が破れるから、耳を手でふさぎ口を開けたほうがいい」。
自衛隊経験を持つ郡山君がそう教えてくれたものです。
「スパイ容疑」は晴れた。でも米軍のファルージャ攻撃が激しくなり、
解放するにも自由に移動が出来ない。それで、しばらく安全な場所に避難させたのではないか。
日本に戻って当時のファルージャ情勢を知り、私もそう思いました。
●5・不安 −−解放の約束 何度もほご・日本の家族がテレビに−−
高藤菜穂子さんたちは土漠の中の納屋のような建物で高価な食事を与えられ、
「客人」並みの扱いを受けた。解放、生還への希望が膨らんだ。
しかし、犯人側に解放の「約束」を何度もほごにされ、3人の心の中で再び不安が高まった。
「ファルージャ、ハラス(終わり)」。拘束から6日過ぎたころ、
1人の男が建物に入ってきて言いました。「ファルージャの戦闘が終わったので解放する」
という意味だと受け止めました。
ところが、その後も帰してくれる気配がありません。「またか」と思いました。
拘束3日目にも別の男が大きく手を3回振って、太陽が昇って沈むような動作をしました。
「3日待てということかな」と私たちは糠喜びしましたが、3日過ぎても何の連絡もなかったのです。
見捨てられたんじゃないか。忘れ去られたんじゃないか。私は不安とショックで、声が出なくなりました。
私たちは毎日、拘束時に奪われた荷物を返してくれと要求しました。
犯人たちは「荷物はある」と言うばかりで返してくれません。
8日目、ようやく荷物を渡すといわれて、車で納屋を出ました。クフィーヤ(顔を覆う布)をかぶせられ、
犯人グループと同じムジャヒディン(外国勢力に抵抗する聖戦士)の格好をさせられていました。
移動中の車から外を眺めていると、3人の少女が仲良く連れだって家から出てきたところです。
私たちの格好が目に入ると、びくっと体を震わせ後ずさりを始めました。
周囲の大人からはムジャヒディンは少女たちのために戦っていると聞かされていたことでしょう。
でも、自分たちの味方だろうが、多国軍だろうが、子どもは武器を持っている人が怖いのです。
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この時、強く思いました。「武器を持っての人道支援はありえない」と。
1人でも、一瞬でも、相手をおびえさせて人道支援は成り立ちません。
私たちは倉庫のような部屋に連れて行かれました。
そこへ家の主人とおぼしき人がテレビを運んできました。びっくりしました。
私たちの家族が泣いているニュース映像が映し出されたのです。
私たちのことが大事件になっているのを、この時初めて知りました。
私は泣き出しました。そして叫ぶように言いました。
「ファルージャに注目を集めたいのだろうけど、家族が泣いているじゃないか。
日本人はイラク人というのはみんなテロリストなんだと思ってしまうじゃないか」
同行してきた英語を話す男が、返す言葉がないという表情で黙って聞いていました。
●6・解放 −−「あれがサダム・タワー」・見なれた建物が見えた−−
高藤菜穂子さん、今井紀明さん、郡山総一郎さんの3人は、拘束9日目の4月15日、
バグダッドのモスクで解放された。その直前まで、荷物の返還などをめぐり
犯人グループと対話を重ねていた。
8日目、テレビを見せられた部屋で夕食をとっていると、男がどこからか
私たち3人のスーツケースやかばんを運んできました。でも、私のパソコンとデジカメがありません。
3人合わせて5千ドルの現金と、郡山君の3台のカメラも。
「あんたたちムジャヒディン(聖戦士)とか言っているけど、アリババ(盗賊)だ」。
私たちは怒りをぶつけました。
男はけんまくに押されて部屋を出て、どこかに荷物を探しに行ったようでした。
しかし、郡山君のカメラは結局、1台しか戻ってきません。
その夜、犯人グループの男2人が、部屋のテレビでジャッキー・チェンの映画を見て大声で笑っています。
私はそれが腹立たしくて、9日目の朝、「あんたたちは最低だ。さっさと荷物を探してきて」
と怒鳴りつけてしまいました。
英語を話す男が「無い物のリストを作れ。現金はかき集めて返す」と言ってきました。
彼らにとって5千ドルは大金です。でも、私は言い返しました。
「お金はイラクのために持ってきたんだ。かき集めているひまがあったら薬でも買いなさい」
「武器を買ったら承知しない」。そう念押しする私を、
彼らは「サラーム(平和)、サラーム」と必死になだめました。
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拘束中、英語を話す男とじっくり対話ができたのは良かった、と考えています。
武器を持って戦っても、同朋がどんどん死んでいく。彼らもそれは悲しいことだと言っていました。
ある時、私は「武器を持たないで平和を探す方法はないの」と問い掛けました。
「探したいけど、どうしていいか分からない」。そう彼は答えました。
そして「あなたとの対話は無駄ではなかった。『サディーク(友達)』になりたい」と。
再会の可能性などないのに、そう言ってくれて本当にうれしかった。
この日の昼近く、「解放する」と言われ、行き先を告げられないまま部屋を出て車で約30分走りました。
モスクで目隠しを取られた時は信じられませんでした。イラクで女性はモスクに入ることが許されないから。
日本大使館に向かう車から背の高いサダム・タワーが見えた時、
初めてバグダッドで解放されたんだと実感しました。
「今井君、あれがサダム・タワー。向かいにムハバラート(情報機関)があって、
劣化ウラン弾が落とされたんだよ」。私は興奮してしまい、
今井君に「落ち着いてよ」とたしなめられました。
見慣れた建物、交差点が次々と目に飛び込んできました。
●7・子どもたち −−心の中の空虚感、喪失感・怒りと悲しみで埋める−−
9日間の拘束の後、高藤菜穂子さんは当初の目的地・バグダッドにたどり着いた。
路上生活する子どもたちを体当たりで世話してきたまちだ。
解放の喜びは、再会を心待ちにしていた子どもたちへの思いを急速に高めていった。
子どもたちと出会ったのは昨年6月ごろです。十代半ばの彼らはシンナーで意識をもうろうとさせながら、
つまらない理由でけんかし、ナイフやガラスの破片で切り付けあっていました。
15,6人で十階建てビルの半地下に住みつき、近くの有名ホテルと同じ
「シェラトン」という名で呼んでいました。薄暗く、ごみだめのような場所でした。
私は子どもたちに冬服や寝具を届け、シンナーを吸わせないよう絵を描かせて気を紛らわせたりしました。
今年1月、子どもたちは大家に追い出されてしまいます。
ビルの軒先で眠り、破裂した水道管が洗面所兼キッチン。寒くて凍えていました。
そこで、月175ドルで子どものためにアパートの部屋を借り、毎日ホテルから通いました。
部屋で服を洗濯させ、シャワーを浴びさせました。
夕方になると、子どもたちは「帰りたくないよ」とこぼしていました。
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買い物に連れていった子どもが野菜を手にし、店員に殴られたことがあります。
「マダム、こいつらは泥棒だぞ」と。
子どもたちはイラク戦争で親を失ったり、孤児院から逃げ出したりしていました。
路上で自由を謳歌できると思ったのに、社会の風当たりは強かった。
どうして私がイラクの子の面倒を見るのか、よく聞かれます。
彼らにはインドの子どもほどの物質的貧しさはありません。心に空虚感、喪失感があって、
それを怒りと悲しみで埋めている。日本の子どもにどこか似ている気がするのです。
私も若いころ、いつも不満だらけで怒っていた記憶があります。
バグダッドの日本大使館で初めて、犯人が「自衛隊撤退」を要求し、
日本政府が拒否していたことを聞かされました。そして、私は耳を疑いました。
大使館の人が「いま自衛隊が撤退するのは体裁が良くないでしょう」と言ったのです。
「体裁のために自衛隊を出しているんですか。イラクの人のことを考えていないんですか」。
私はむきになって問い返していました。
私は自衛隊のマチ千歳で育ち、友人にも自衛官の妻がいる。
市民運動の人たちのように「自衛隊派兵反対」と主張する気はありません。
だけど、イラク人には相手が本気なのか、ただ体裁でものを言っているのか、
すぐ見分けがつくと思います。弱い立場に置かれた人は子どもと同じでそういう感覚が鋭いものです。
いくら「人道支援」といっても地元の人たちの理解は得られないでしょう。
●8・平和の道 −−怒りは怒りを呼ぶだけ・対話の重要さを再認識−−
高藤菜穂子さんは解放翌日の4月16日、バグダッドからアラブ首長国連邦のドバイへ出て、
18日に関西空港に降り立った。国内では、イラク訪問は無謀だったという「自己責任」批判や、
家族をも対象にした中傷が噴出していた。心身ともに疲れ果てた高藤さんは千歳市の自宅にこもり、
事件の意味を反すうした。
バグダッドに向かう前、郡山(総一郎)君が泊まっていたアンマンのクリフホテルに、
旅行者が旅先の情報を交換するノートがありました。
私はそこに「イラクに行くのは自己責任を持てる人に限ります」と書き残してきました。
私にとっての「自己責任」は「死んでも文句を言わない覚悟がある」という意味です。
過去の経験から、今回のイラク訪問にも命の保証は無いと考えていました。
バッシングには傷つきました。でも、戦後イラクの惨状を知らなければ、
私がイラクに行かなければならない、と考えた気持ちは分かってもらえないと思います。
なんでわざわざ危険な所に、と批判したい気にもなるでしょう。
>>33 続き
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私は今できれば北海道から沖縄まで回り、一人ひとりに謝りたい気持ちです。
私が巻き込まれた事件で、ある人はイラクに対し、ある人は米国に対し、
怒りの感情を増幅させることになってしまったと思うからです。
そして、1人でも多くの日本人にイラクの話を聞いてほしい。イラクで起きていることを知ってほしい。
怒りは怒りを呼ぶだけで、お互いを理解し合い平和を模索していくという、
問題解決の道にはつながらない。私はそう信じています。
昨年来のイラク滞在中、友人でラマディ出身の通訳カスム(26)とイラクの現状、
将来についてよく話し合いました。彼も人質事件の犯人と同じく
「武器を持って米軍と戦うのは当たり前だ」という考えの持ち主でした。
その彼が今年1月、「見てほしいんだ」と提案書を持ってきました。
非政府組織(NGO)や人権団体の活動拠点とするため、米軍に破壊されたラマディの建物を再建する。
資金は当の米軍に要請するとの内容でした。
私が「武器を持たずに平和を探せないか」と繰り返したことを受け止め、友人たちと話し合ったそうです。
その結果、米軍に報復するより街を再建しようという考え方が生まれてきたのです。
事件後、自宅で落ち込んでいた私は、彼に電子メールで
「この世から武器がなくなるのは簡単じゃないのかしら」と弱気を漏らしました。
「武器をなくすより、武器を取らない心を育てる方が簡単だよ」。返事を読んで涙が出ました。
私は今、対話の重要さをかみしめています。人質事件の犯人の中にさえ私との会話が
「無駄じゃなかった」と言ってくれた人がいた。日本とイラクの普通の市民が話し合える場があれば、
お互いを分かり合い、怒りの感情も反日感情も鎮めることができると思うのです。