神秘主義的映画のスレ

このエントリーをはてなブックマークに追加
85
えー、イエスが神殿の中で神を侮辱したとしてひっ捕まり、十字架につけるために引き渡された後の場面です。

それから、総督の兵士達はイエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
そして、イエスの着ている物を剥ぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、
その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭を
叩きつづけた。このようにイエスを侮辱した挙句、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いていった。
「マタイによる福音書27−27(日本聖書教会発行の新共同訳より)」

この後に待っているのが、有名なゴルゴダの丘でのイエスの死です。
「事実」という言い方が不味かった、と思うのは、事実ではなく、行動、言動、といった
行為だけを描いていて、心理状態を殆ど描かないという意味です。例えばシナリオのト書きのように。
ま、この場面なんか特にそうなんだけど。
つまり、この場面で見るとイエスは非常に痛ましい。痛ましいが、「痛いよう、辛いよう」なんて
簡単に人の感情に訴えかけるような文章、台詞はない。宗教にあらねばならない”品位”を、
聖書作者が意図したのかもしれないし、それは漏れにはよく分からないのだけれども。
で、感傷を感じるのは読者であって、聖書に感傷は書かれない(いや、この後に続くペトロのくだりなんかは別だが)。
上記のくだりを引用したのは、『バルタザール』作品自体にじかに共通する場面だと感じたからです。
漏れは生来聖書に縁はなかったので、初めブレッソンの映画に見られるイジメの感覚、これが凡そ不可解なものと
感じられた。
聖書を初めて読んだときも、あまりに文章がシンプルなんで感動もへったくれもなく、ただただ退屈だった。
けど再読してみると、主題や手法、その他色々な意味でブレッソンに通ずる部分があるな、と。
そういうことを言いたかった訳です。だからクリスチャンの意見を聞きたいんだけどなあ。