ロベール・ブレッソンって

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88名無シネマさん
>>86
書評は2000年の一月下旬号に載っています。
木全公彦による短い書評です。

評者の気に食わない点は、ブレッソンのことを
「人気とも権威ともそして教養ともおよそ無縁な一人の映画作家」と
定義していること、などなど ですが、
確かに「『夢想家の四夜』日本未公開」などと記す人間の書いた
ブレッソン本なんて如何なものか、と私も思います。

書評の文末は「買ってはいけない映画本、読んではいけない映画本」でした。

私の家から自転車で3分のところに図書館があり、そこにこの本が
置いてあるのですが、今まで借りようと思ったことが無かったのは、
この書評が頭にあるからかも・・・一度借りてみたいようなみたくないような・・・

「アメリカン・ジゴロ」は蓮實氏がその年のベスト10に入れていました。
しかも3位。(反ハスミ君、出てこないでね)

蓮實氏は、まず間違いなくこのラストを見て、ブレッソンに堂々と言及してみせる
この若い映画作家に期待したのだと思いますが、残念ながらその後のシュレーダーの
仕事振りを見るにつけ、ブレッソンへの言及は野心的な振る舞いではなく、
ただ単に尊敬する映画作家の作品の一部を真似てみた、つまりパクリ以上の
ものではなかったと結論付けるしかありません。(「白い刻印」だけは良かったので
あまり悪く言いたくはないのですが…)

同じことをヌーヴェルヴァーグの映画作家がやったならば、それは映画史的に
自分の映画をどのように位置付けるかの意思表示となり、オマージュとなるのですが、
ポール・シュレーダーはどこまでそれに自覚的だったか疑わざるを得ません。

シネマトグラフの後継者に関しては、これは私の考えに過ぎませんが、
自分の手法を貫く厳格な態度はともかく手法的なものを受け継ぐことは
不可能ではないかと思います。

例えば、小津の(また小津かい、なんて言わないどくれ)あの作風は
真似たり影響を受けたりすることは出来ても手法を真似たらパロディにしか
ならないのと同様だと思います。周防正行や竹中直人が小津そっくりの場面を
作ったりしていますが、その点に関しては2人ともさすがに自覚的です。

アラン・カヴァリエの「テレーズ」が手法的・題材的にブレッソンを思わせましたが、
所詮あの厳格さには及ぶべくもなく、なまじっかブレッソンを思わせてしまうことが
作品的には大きなマイナスとなっていました。

アキ・カウリスマキの「マッチ工場の少女」は「少女ムシェット」を下敷きに
していると断言してよいと思いますが、ブレッソンへの言及が非常に聡明に
感じられたのは、今のところこの映画だけかもしれません。