「走れ イチロー」ってどうよ ★■★

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もうすぐ昼になうとする時間帯、映画館前で私はぽつねんとしていた。
繁華街から漏れ聞こえるざわめきが耳をつんざく。
開け放たれたままの入口の扉は、人の存在をかろうじて感じさせたが、
活気はまるでない。覚悟していたものの、現実はかくも厳しい。
係員と顔を合わせることさえ辛かった。
「走れイチロー」でよろしいですか、と訊かれて喉を詰まらせてしまう、
はいと答える声のなんと小さいことか。自意識過剰な自分を諌めた。
それでも一人くらいは先客がいるだろうと歩み入るが誰もいない、
河村隆一の気持ち悪い歌声が場内に響き渡り、足がすくんだ。
席について落ち着き、周囲に目を配る。やはり誰もいない。
正面出入口から差し込む光は微動だにせず、大胆に立ち上がってゆっくりと見回した、誰もいない。
この日この時間にこの映画を観ようと思った人間がこの街で私ひとりだと思えば、何か特別な儀式を迎える気分になるだろうと気を引き締めた。
上映開始を知らせるブザーが鳴ってようやく足音が聞こえてきたので一瞥すると、扉を閉めようとする係員だった。
光が断たれた。
広い、とてつもなく広い独房に、私は閉じ込められた。

二時間後、私は逃げた。恥ずかしかった。